美的なもの[the aesthetic]をめぐる探求は、美学という学問のコアをなしている一般的な価値、経験、判断、態度ではなく、美的な価値、経験、判断、態度とはなにか。それらは、倫理的、経済的、実践的な価値や経験とどう異なり、どうオーバーラップするのか。美的価値は、アイテムが快楽を与えるという観点から説明されうるのか。

美的価値、とりわけその社会的側面がなにによって基礎づけられるのかに関心があります。

鑑賞者は芸術作品を知覚し、解釈し、評価する。批評[criticism]は、芸術鑑賞におけるさまざまな判断を伝達する行為として理解できる。批評とはなにを目的とした、どのような営みなのか。芸術作品のカテゴリー(ジャンル、形式、様式、メディアなど)は、その批評にどう影響するのか。芸術作品の正しい意味や価値は定められるのか。作者の意図はどこまで/どれだけ関与的なのか。

現在は、批評におけるカテゴリーの役割を主な研究対象としています。とりわけ、「ジャンル」というメタカテゴリーの定義、「正しいカテゴリー」の社会依存性、調整ゲームとしての批評実践、カテゴリー規範に対する逆張りなどについて書いています。

絵画、写真、スケッチ、版画といった広く「画像[picture]」と呼ばれるメディアはなにかを描いており、われわれはその表面上のデザインに目を向けることで、描かれるなにかにアクセスすることができる。とりわけ、画像が画像特有の仕方で持つ内容は、言語のそれとは異質であるように思われる。このような事態はいかにして成り立っているのか。画像がなにかを描く[depict]とはどういうことか。

これまで主に、描写と作者の意図の関係について取り組んできました。①描写は指示機能と述定機能に分けられ、②指示は作者の意図を含む文脈によって左右されるが、③描写の指示機能は述定機能に依存した二次的なものであり、④述定機能は文脈的基盤よりも、人間が持つ再認能力のような自然的基盤に依存すると考えています。

描写を行う画像メディア(絵画、スケッチ、写真、グラフ)ごとに質的な違いはあるのか。絵画のような手製の画像とは異なり、機械的なプロセスを経て生成される写真的画像には、独自の性格があるように思われる。ケンダル・ウォルトン[Kendall Walton]によれば、写真は「透明」であり、鏡や望遠鏡や眼鏡と同じように「それを通して、文字通り、対象を見ることができる」ような画像である。ロジャー・スクルートン[Roger Scruton]によれば、事物の見た目を因果的に捉えるだけの写真的画像は、表象としての芸術性を持ち得ない。写真をめぐるこれらの言説は、どこまで/どれだけ妥当なのか。

修士論文では、写真の透明性に関するウォルトンの前提、すなわち写真が透明であることは擁護可能だが、その帰結、すなわち写真には特別な情動喚起能力(あるいは認識論的特権)があることは透明性からは導けないと論じました。

分析美学[Analytic aesthetics]とは、分析哲学の流れを汲んだ、現代の英語圏において主流の美学研究である。1950〜60年代に批評の哲学、芸術の定義、美的なものなどについて論じたモンロー・ビアズリー、フランク・シブリー、ジョージ・ディッキーらを源泉とし、明瞭な論証と相互批判を通した洗練を学統の特徴とする。

とりわけ、モンロー・ビアズリーの仕事に関心があります。ビアズリーはその生涯を通して、ひとつの一貫した美学体系を擁護した哲学者であり、現代美学のデフォルトとなる主張を数多く展開してきました。なかでも、批評的理由づけに関してビアズリーの採用する一般主義が、どこまで擁護可能なのかに関心があります。

美学や芸術哲学といったアカデミックな研究だけでなく、それらを応用(したりしなかったり)することでポピュラー音楽や映画についての批評も書いています。とりわけ、ホラージャンルのホラー性、物語における綻び、インターネット・ミーム、スローシネマの系譜などに関心があります。