日記

2024/12/07

初めて英語圏に住んで、当然のようにコミュニケーションには苦戦しているのだが、問題のひとつは私の声にあることに気がついた。こちらの人はみなデフォルトで声がでかく、そうでないにせよズシッと通る声をしている。長年の口呼吸に加え、バンドのボーカルで喉をだめにした私とは、鉄器と銅器ぐらいの違いがある。彼らが持っているもののうち、羨ましいなぁと思うもののひとつはあの声量だ。もうひとつはヒゲだ。

2024/11/02

『Why It's OK to Love Bad Movies』で、マシュー・ストロールはクソみたいにひどい映画に時間を割くことを擁護している。この人のTwitterをフォローしているので分かるのだが、桁違いな数の映画を見ているシネフィルであり、そこはぐうの音も出ないのだが、本の議論にはそんなに説得されていない(まだ読みかけだが)。

ストロールによれば、一般的には駄作と評価されている映画のなかにも、良い鑑賞経験をアフォードする「good-bad movie」がある。この時点で、本書は駄作一般の擁護ではなく、一部の駄作、それもある意味では良作にほかならない駄作を擁護するものになってしまっている。それでいいんかというのは素朴思うところだが、とにかく、ストロールの定義するgood-bad movieはこうだ。



『プラン9』は支離滅裂で、批評家連中に酷評されているが、だからこそ支離滅裂さの美的経験という良い鑑賞をアフォードする。最終的な良さに関して、ストロールは意図主義に明確に反対している。作者が真面目になにかをやろうとして、それにどうしようもなく失敗しているとしても、その産物は鑑賞者にとって面白おかしいものでありうる。それ自体は飲み込める話だが、ストロールは最終的良さの客観的基準についてほとんど教えてくれない。それが、単なる個人の好き嫌いであっていいわけはないだろう。ストロールはむしろ、具体的な駄作映画を取り上げ、その鑑賞がなぜ面白いのか分析することにページを割いている。そこにあるのは哲学的論証ではなく批評だ。それが成功するとしても、結局のところ一部の作品をめぐってメインストリームや批評家連中は間違っているというだけの話なのであり、駄作扱いされているそれらは実は駄作ではないという結論になるだけだ。これはちょっと期待外れである。メインストリームや批評家は基本的に正しく、それらは正真正銘の駄作なのだが、それにもかかわらず、だからこそ愛すべき理由があるという議論を提示するべきところではないのか。

私にはもうひとつ懸念がある。上で定義されるようなgood-bad movieを、いわゆる前衛的な映画より優先すべき理由がなにもないのだ。高尚で難解なポストモダン映画は、既存の規範を破りつつも、批評家たちに高く評価されており、慣習破りゆえに良い経験をアフォードする。どれも支離滅裂さの美的経験をアフォードするとしたら、なぜ『エル・トポ』や『ざくろの色』の支離滅裂さではなく、『プラン9』の支離滅裂さに時間を割くのか。結局のところ、ストロールが指摘するようなgood-bad movieの見返りは、good-good movieで容易に代替できるような見返りだろうという気がするのだ。この問題は、映画の「最終的な良し悪し」に関してストロールが経験主義にコミットしているところに由来する。

と言いつつも、駄作に時間を割くなんらかの理由を認めている点では、私はストロールに同意している。私の提案はこうだ。ストロールに反し、一部の駄作は実は良い経験を与えるから鑑賞に値するのではない。むしろ、それは徹底的にひどい経験を与えるからこそ、経験に値するのだ。一般的に、極端に振り切れたものに好奇心を抱くのは自然である。極端に感動的なもの、かっこいいもの、グロいもの、支離滅裂なもの、下品なものは、いずれもその極端さによって私の関心を引く。ひどすぎる映画は、ある意味ではひどくないから私の関心を引くのではなく、とことんひどいから私の関心を引くのだ。あまりにもできの悪い映画は、その想像を絶する失敗によって一種の崇高さを獲得しているとすら言えるかもしれない。実は価値ある鑑賞をアフォードするという説明は、その崇高な失敗に対する冒涜であるようにすら思われる。それらはほんとうに、救いようもなく、ダメダメなのだ。だからこそ、極端なものを求める私たちの関心に合致する。

2024/10/18

バンクーバーは北米の西海岸らしくリベラルでオープンな気性の人が多く、また、そうであることをかなり推奨されている。それを実感するのが、各地で先住民(ファースト・ネーションズ)への配慮を見聞きするときだ。UBCの構成員はメールの署名にUBCがマスキーム族から借りた土地であることを明記しがちだし、映画館では上映の前に先住民からのメッセージが流れる(美術館や映画館に先住民割引があることも多い)。

罪の意識、というのは西洋文化において敵の意識に変わる連帯のための道具なのかもしれない。食べてはいけないリンゴを食べたとか、聖なるイエスを十字架にかけたとか、そういうやらかしを共有しているからこそ謙虚にもなれるというものだ。罪の意識を欠いた集団は、敵の意識によって連帯するしかない。中国という国が長らくそうであり、現在のイスラエルが倒錯的にもそうであるように。

植民地主義への反省が一種のパフォーマンスとなっていることに薄ら寒さがないわけではないが、こういう冷笑的な態度をも乗り越えて和解のかたちを模索しているところは素直に尊敬できる。いずれにしても、ここではかなり難しいことが試みられているのだ。

2024/09/25

東京国際映画祭のラインナップが発表されたばかりだが、こちらは明日からバンクーバー国際映画祭が始まる。私はアーロン・シンバーグ「A Different Man」、マシュー・ランキン「Universal Language」、ジャック・オーディアール「Emilia Pérez」をおさえている。ちょっと出遅れてしまったので、はじめひとつしかチケットを予約できていなかったが、こまめにサイトをチェックしていたらキャンセル空きが出て残りふたつも滑り込めた。とくに、クロージング作品の「Emilia Pérez」を見に行けるというのは、お祭りという観点から見てだいぶうれしい。今年のカンヌでパルムドールを取ったショーン・ベイカー「Anora」についてはまだ粘っているところだ。

チケットはひとつ約20ドルで、こっちで普通のシネコンに行くよりやや高いが、物価を考えると日本よりお得感がある。コーヒー、ビール、映画と、私の好きなコンテンツがどれも良心的な価格でアベイラブルというのは大変ありがたいが、これにはもっともらしい理由がある。(1)私が基本的には西洋かぶれで、(2)日本では舶来品が割高で、(3)こちらでは適正料金になっている、というわけだ。なんというか、輸入品としてのみ愛好していた諸カルチャーに、本場で触れられることには新鮮なおどろきがある。

バンクーバーに来ておひとり時間が倍増したので、VIFFでなくてもタガが外れたように映画を見ている。学部1年の春みたいだ。孤独に対するセルフケアとして、私が知っているものの筆頭が映画鑑賞なのだろう。

2024/09/18

天気が良かったので、朝から支度をしてブロードウェイ駅まで出かけてきた。Elysian Coffeeでナイトロのコールドブリューを飲む。これがたいそう美味かった。窒素ガスを加えたナイトロはビールで有名(レフトハンドのMilk Stoutとか)だが、コーヒーもあるというのはこっちに来るまで知らなかった。クリーミーな口当たりで、苦みが抑えられ、甘みと酸味が際立っている感じがする。ダウンタウンにTimbertrainという、ナイトロで有名な別のコーヒー屋もあるので近い内に行くつもりだ。

天気が良い日は屋外で作業するのにハマっている。今日はElysianから歩いてチャールソン公園までやってきた。フォールス川をまたいでダウンタウン南端と向き合った、大きな公園だ。開放的なドッグランがあり(こちらのドッグランは広いので、フェンスすらないことが多い)、小籔と丘と遊具がある。歩道沿いにベンチがいくつもあるので、そのひとつでPeacocke (2021)の美的価値論を読んでいた。水辺なので、日陰だとちょっと寒いが、日向はフィールグッドだった。川をまたいだ向こう側には高層ビル群が立ち並んでいるが、さらに向こうの山々が見えるよう、景観保存のあれがあるらしい。ビルの隙間に山頂が気持ち程度見えているだけなので、これで美的に満足できる人がいるというのは信じがたいのだが。

午後、歩いて駅の反対側に移動し、33 Acres Brewingのタップルームに立ち寄った。日本でもよく見かける、黒い丸や太極図のラベルが目立つビール屋だ。洒落た雰囲気の店内で、IPAとチップスを添えてさらに2時間ほど作業した。大きいテーブルがあり、平日昼間はかなり空いていたので、ビール屋で作業というのはけっこうありかもしれない。NirvanaというIPAは無難によかったが、7.0度を24oz(約700ml)というのはちょっと肝臓に来た。こっちに来てから家では飲酒しないようになったので、ややアルコールに弱くなっている気がする。返すべきメールを返し、推敲すべきドラフトを推敲するなどした。

49mlのアルコールにいくらかやられた頭で、No Frillsに立ち寄り食料品を買った。万物が高いバンクーバーにしては、噂通り、お買い得商品の多いスーパーだ。いろいろ買ったが、4.5kgというバカみたいな量のじゃがいもが5ドルだったのを見て、後先考えずに買った。海外に行くとみんな芋を食い出すというのはこういうことか。

後先考えずに買ったので、帰り道で腕がおしまいになった。夜はミネストローネスープを作って飲んだが、じゃがいもは1個/4.5kgしか使わなかった。

2024/09/09

バンクーバーに降り立ち12日が経過した。日々いろんなことを学んでいる。

昨日、Airbnbの仮住まいから定住するシェアハウスに越してきた。昨日今日とあちこちに買い出しに行っている。あれもこれも(とくに外食が)白目剥くぐらい高いが、IKEAは良心的な価格で胸にじーんと来た。ハロウィンに向けてか、まだ日本では流通していない👻のマグカップがあったので、値段も見ずに即決した。

しかし、家でコーヒーを飲むことは少なそうだ。カナダにはTim Hortonsという、スタバを凌ぐ人気のコーヒーチェーン店があるのだが、そこでそこそこ美味くて熱いホットコーヒーが2ドル以下で売っているからだ。しかも、うちから徒歩4分の位置にあるティミーは24時間営業ときた。

UBCには手続きで一回顔を出した。巨大なキャンパスだ。モダンできれいだが、日吉以来、三田、駒場とクラシカルなキャンパスにばかり通っていたのでなんだかそわそわする。あちこちに入れるIDが発行されたらまたゆっくり見に行くつもりだ。裏にヌーディストビーチがあるらしい。

今期は授業には出ないので、実のところUBCに行く必要性もそんなにはない。今学期の後半(UBCは実質4学期制みたいな感じ)にはDomの芸術哲学の授業があるので、それは聴講しようと思っている。ところで、まだサイトにニュースが出ていないが、今月のMothersill LectureでJames Shelleyが来るらしい。Domもそうだが、自分にとっての哲学的スターたちがこの距離にいるというのはいまだに実感がない。Domと三人で絶対に写真を取ってもらおうと心に決めている。

2024/08/01

これは私がかなり確信を持っていることだが、たいていの動物の求愛行動において、求愛される側が経験するのは美ではなく恐怖である。クジャクの羽根についている模様が目の表象ではないとは信じがたいし、あの多数の目を差し向けられることから恐怖が生じないとは信じがたい。イレギュラーなサイズやデザインや動きに腰が抜けて動けなくなる、というのはごく自然な説明であるように思われる。求愛される側の動物が、人間とまったく同じ意味において美的経験をしていることが判明したら、私はびっくりするだろう。

2024/07/29

美は十分条件さえ得られればよく、醜は必要条件さえ得られればよい、という思いつきを得た。一般的に言って、「これなしにはポジティブなものにならない」とか、「これがあると即ネガティブなものになる」といった話をしてもむなしいだけだろう。

2024/07/02

私は、いわゆる直面原理(美的判断はfirst-handな経験ベースじゃなきゃダメ)に反対している。見たり聞いたりしていない絵画や音楽について美的判断をくだせるし、その判断がふつうに正しい場面もある。この直観をなかなか共有してもらえない場面があるので、ここにいくらかまとめておこう。(一部を除いて、私はShelley (2023)の考えを共有している。)

まず、十分に精巧な複製や写真を通して美的判断を下せることは、誰も否定すべきではない。first-hand経験じゃなきゃダメというので、居合わせなきゃダメというのを意味するならば、録音された音楽の美的性格について私はなにも判断できていないことになる。これは信じがたい帰結であり、現に私は録音を通して音楽作品の質や意味について判断できている(そして幸運にもその一部は作品について真である)。

直面原理は、複製へのアクセスを直面としてカウントし、戦線を撤退すべきである。言葉による作品記述を通して、美的判断を行うのはどうか。この場合も、事情は複製を通した美的判断とあまり変わらないように思われる。イヴ・クラインのモノクローム絵画について、サイズ、塗られている色を十分に細かく伝えられたら、たとえ写真すら見たことがなかったとしても、私にはそれが落ち着いていて瞑想的だと判断できる。より複雑な作品の場合、より詳細な記述が必要になることは言うまでもないが、記述を通した美的判断が原理的に不可能になると考えるべき理由はない。小説や映画の場合、あらすじの記述を通してどんな美的性格を持った作品なのか(喜劇的なのか悲劇的なのか)判断でき、その判断が正しい場合もある、というのはよりもっともらしい。

〈非美的性質の記述がいくら詳細でも、そこから美的性格を結論することはできない〉というシブリーの非推論性テーゼは誇張されている。細い曲線が、優美かもしれないし弱々しいかもしれないのはその通りだが、これは与えられている記述が粗いことを示しているに過ぎない。たしかに、演繹的に結論できるような一般原理はないかもしれない。それでも、詳細な記述は美的性格についてのアブダクションを行うのに十分かもしれないし、そうやって導かれた結論は作品について正しいかもしれない。シブリーは、それが原理的に無理だというだけの根拠を欠いている。

直面原理は複製や記述ベースの美的判断が可能であることは認めつつ、そんな仕方でくだされた判断は不確かで信用ならないものにしかなりえず、作品について偽である見込みが高いと言いはるかもしれない。しかし、直面さえすれば確かで信用でき、作品について真である見込みが高い判断をくだせると考えるべき理由がない。不注意でなにかを見落としたり、考えが及ばない可能性はfirst-handな経験にも伴う。むしろ、十分な複製や記述を通した経験のほうが、自分でコントロールできる要素が多い分、ゆっくりじっくり精査することができるだろう。

直面原理は、さらに戦線を撤退し、詳細な記述を読むこともまた直面としてカウントするべきだろう。このすでにかなり譲歩的な直面原理ですら、私は間違っていると思う。信頼できる筋から「グランド・キャニオンは壮大だ」と伝えられた私は、それが信頼できる相手である限りで、言われたことを信じない理由を持たない。私は、外国や海底や宇宙や体内や過去にある見たこともない事物について、人に伝えられた事柄の多くを信じており、それは私の知識の一部を形成している。私は会ったこともないが織田信長という人物の気性や行いについて知っており、同様に、行ったこともないがグランド・キャニオンの壮大さについて知っている(ことごとく全面的に知っているわけではない、というのはどちらもそうだ)。

芸術作品や観光地についておすすめされるとき、私がそのおすすめに従って作品や観光地にアクセスするとしたら、それは伝達された美的判断を共有して自分の知識の一部としたからにほかならない。そうでないとしたら、つまりそれが美しい絵画であったり風景であることを私自身がまだ信じていないのだとしたら、私がなにに動機づけられてアクセスしようとするのか理解できない。まとめると、証言を通した美的判断すら可能なので、直面原理はいよいよ疑わしい。

最後に、直面抜きの美的判断は、直面に伴うより肝心で楽しい美的経験を欠いているので、不毛だと言われるかもしれない(グエンとかナナイの路線)。不毛かどうかともかく、証言ベースの美的判断が楽しい美的経験を欠いていること自体は否定するまでもない。それはもう当初の問題(first-handな経験ベースじゃなきゃ美的判断はできないのか)とは無関係である。

私のなかでは、直面原理の否定は倍速鑑賞の肯定とある程度繋がっている(2022/05/22などを参照)。美的判断は程度問題であり、倍速で見たからといって、美的判断の主体として不適格になるわけではない。倍速で見ようが見まいが、作品について正しいことを言えるかもしれないし、間違ったことを言うかもしれない。楽しみが減る、というのはこの際認めることにしよう(前は、変にここを守ろうとしていた節がある)。

直面原理の肯定も、倍速鑑賞の否定も、根底には「ちゃんとした鑑賞」をめぐるマウントがいくらか含まれているように思う。これは分からないでもない。私だって、『『百年の孤独』を代わりに読む』なんて読んでいる暇があったら、いいから『百年の孤独』を読めと言いたくなる。もっとも、『『百年の孤独』を代わりに読む』は『百年の孤独』の解説書みたいな性格のものでもないだが。これは、『『百年の孤独』を代わりに読む』に直面することなく知ったことだ。

2024/06/04

美術品にトマト投げつけたりスプレー吹きかける類の環境活動家にはみんなこりごり飽きているのだが、当人たちが全く飽きておらず、瓜二つの風貌に瓜二つの形相を浮かべた連中の写真がタイムラインに流れてくるたび、ようやるわと感心の念を抱くようになった。

あのデカデカと命令文をプリントしたアホらしいTシャツで人前に出られるというだけでたいした胆力と言うべきだが、あの演技掛かった口上を淀みも恥じらいなく披露できる度胸は、少なくとも私にはない。あの手のキマっている人間の表情、とりわけ口元には、なかなかすごみがある。

一般的に、人間や人間の文化よりも動物や自然環境のほうが重要だ、と述べる人にはなにか屈折した心理を感じてしまう。カジュアルに、「犬や猫が幸せなら人間は絶滅してもいい」と考えている人は、一定数いるのだろう。ジョークとしての笑どころもいまいち分からないが、みじめな幼少期を過ごしたという以外に、本気でそう信じるに至る道筋も分からない。

そういえば、ようやくリニューアルオープンした横浜美術館でやっているトリエンナーレも、行かずじまいになりそうだ。巷のレポートでは政治的なあれこれを訴えかける類の作品だらけなので、行かなくて正解だろう。破壊者も破壊者なら、創作者も創作者なわけだ。これはなかなか皮肉が効いている。

2024/04/30

渋谷はやることなすこと醜悪な街で、その近年の集大成がSHIBUYA TSUTAYAのリニューアルである。もともと、渋コレやら渋谷遺産やら、間接的な文化破壊に余念がなかったが、ついにレンタルをまるごとやめてしまった。かくゆう私もここ数年は買い支え(借り支え?)をしていなかったわけなので文句を言う立場にはないのだが、それにしたってあんまりではないか。聞くところによると、新SHIBUYA TSUTAYAはシェアオフィスやらカフェやら、席を時間貸しする類のフロアが下から上までびっしり詰まっているらしいので、いよいよ本格的にレンタル席屋さんへとかじを切ったらしい。金のない田舎者は地べた以外に座る場所もない、それが現在の渋谷である。

2024/04/18

寡聞にして知らなかったが、日常美学の方面では、「ネガティブ美学[negative aesthetics]」を提唱する人たちがいるんだとか。SEPをつまみ読みした感じ、Katya MandokiとArnold Berleantの本がそれぞれ美的にネガティブなものにちょっと触れているといった程度で、とても運動といえるような盛り上がりは見せていないものの、ちゃんと注目している人がいるというのはいいことだ。

SEPの著者であるYuriko Saitoは、「ネガティブ美学」における重要ポイントを次のようにまとめている。美しいものの経験は、私たちを実生活から切り離し、観照[contemplation]のうちに置く。カントが、美的判断の第一の契機として無関心性を取り上げたように、美の経験は、伝統的にこういう「うっとり経験」として語られてきた。一方、美的に悪いものの経験はそうではない。 

個人レベルでは、シミのついたシャツを洗濯してアイロンをかけたり、ワインをこぼして汚れたカーペットをきれいにしたり、リビングルームの壁を塗り替えたり、室内で魚を調理した後には窓を開けて新鮮な空気を取り入れたり、ゲストルームを片付けたり、見やすくするために書類を整えたりする[…]コミュニティーのレベルでは、目障りな廃墟のような建造物が取り壊されたり、改装されたり、汚らしい地域が清掃されたり、工場の悪臭や乱雑な看板を排除するための条例が作られたりする。 

美的にネガティブなものは、私たちにいろいろやらせる。美しいものは、ただうっとり見ていればいいのだが、醜いものはどうにかしなければならない。ポジティブな美的経験は悩み事からの解放感を伴うが、ネガティブな美的経験は悩み事そのものである。この非対称性こそが、美的にネガティブなものを興味深く、しかし扱いにくい主題としている。

ざっと見た感じ、美的にネガティブなものについて語っている人たちは、基本的にみんな経験主義者だ。つまり、不快感ありきで、ネガティブなものは行為や創造性を駆り立てる。これは、いつか反論を組んでみたい見解だ。

2024/02/22

『哀れなるものたち』を見てきた。だいぶと気に入ったのだが、ちょっと検索しただけでも解釈違いがあちこちに見られて、むずむずを楽しめる。私と異なる解釈(およびそのもとでの評価)をしているレビューには、以下が含まれる。

2024/01/31

博士論文の公開審査会。半分以上が英語でのやり取りという、だいぶとしんどい戦いだったが、どうにか論文を守り切れたらしい。これで、4月からDr. Senを名乗れるようになった。長年取り組んできたことが一段落ついたと言えば感慨深いが、やるべきだったことを終え、次にやるべきことに向かうだけとも言える。

2023/12/27

ひとまず博論を終えたので美的価値論に着手しているが、2022/02/21の日記にも書いた通り、この主題について書かれた文章たちを必ずしもいい気分で読めていない自分がいる。快楽主義の検討など哲学哲学したところはよいのだが、どの書き手もここぞというときにオープンマインドネスや多様性や個性や人とのつながりの大切さについて、道徳の教科書じみた文体に落ち込んでしまう。自分がそういう段落をひねり出すところを想像するだけでうげっとするので、あんまり向いていないんじゃないかという気すらしてくる。

しかし、段々とやりたいことも明確にもなってきた。ポスドクではネガティブな美的価値について考えようと思っている。

2023/11/20

一日中自転車で駆け回り、どうにか博士論文を提出した。

10時に駒場へ行き、体裁について質問する。ここ数ヶ月、ろくに運動していなかったので、松見坂に登ってくところで心臓ちぎれるかと思った。「Categorizing Art (芸術をカテゴライズする) 銭 清弘」という情報を背表紙にも載せる必要があるのだが、横文字をどうすればいいのかガイドラインに書いてないのだ情報さえそれならなんでもいい、とのことだったので、ピューッと淡島通りを駆け抜け、三茶のアクセアへ。背表紙は、データさえあればやってくれるとのことだったので、Wi-Fiのあるコメダ珈琲に移動し、もろもろ作り、Web入稿する。エビカツパンでかすぎて胃袋ちぎれるかと思った。隣席のカップルの女性の方が、「知り合いの東大生男子2人中2人が女装しているので、東大生男子はみな女装する」という無理な一般化を試みていた。隣に反例がいるぞ。

一旦帰宅し、製本を待つ。麻雀MJで連勝したので、運気が高まっていることを感じる。完成即回収できるように、告げられた時間の30分前には世田谷公園で日向ぼっこをしていた。店頭に赴き、受け取ろうとしたところで先方のちょいミス(背表紙から私の名前が抜けていた)があり、裁断して綴じなおすことに。最終日でもないし、明日駒場に出直すかな、と思っていたが、自転車をかっとばしてギリギリ間に合うぐらいのタイミングで仕上がった。ピューッと淡島通りを駆け抜け、駒場についたのが15:58。教務課の方には「うっ」という顔をさせてしまったが、どうにか受理してもらえた。修論ですら、なんかの書類不備で二度ぐらい修正依頼があったのを思い出せば、一発クリアはなかなかすごいことだ。

やれやれということで、生協でベッカーの『アート・ワールド』と、澤田直『フェルナンド・ペソア伝』を買ってきた。前者は博論でまったく触れなかったが、審査でなんか言われそうなので手に取った。序文を読んだだけだが、あんまり組織化されていないようなだらだら文体で、しんどそうな本だった。後者は単純にペソアが好きなので、そしてようやく研究と関係ない本を読む余裕を手に入れたので。こちらも序文を読んだだけだが、はるかに絡みやすそうな本だった。

駒場からの帰り道、電話しながら大号泣している男性とすれ違った。人間があんなに悲しみ、苦しんでいるのを見たのはひさびさだったので、ちょっと面食らった。今日はゴキゲンだが、いつか私もあのレベルの悲しみに突き落とされる日が来るのだろうか。まぁ、赤の他人である私にできることはなにもないし、少なくとも今日の私はゴキゲンなので、酒屋で高いクラフトビールを買って帰宅した。

2023/11/08

勉強会での思いつきで、芸術作品かどうかは程度問題ではないか(つまり、より芸術なのである、より芸術ではないというのが意味を成すのではないか)という話を振ったが、案外いい線いっているかもしれない。少なくとも、artisticという形容詞にmoreやlessをつけるのはそんなに違和感がないし、どれぐらいartisticかというのと独立に端的にbeing an artという性質はないと考えることで、細々とした問題がいろいろ解消されるような気がしている。

とりわけ、クラスター説を採用した場合には、このことは自然に認められるはずだ。F1, ..., Fnというリストになにが入るのか、そのうち何個以上を満たせば十分芸術になるのかはともかく、この特徴づけはより多くの性質を満たしたより芸術らしい芸術と、一部だけを満たしたより芸術らしくない芸術があることを示唆している。美しいし、知的に挑戦的だし、創造的な作品は、ただ美しいだけの作品よりも、より芸術なのだ。制度説を採用した場合にも、制度的な確立度合いや規模は明らかに程度を認めるものだし、したがって芸術かどうかも程度問題になるはずだろう。

念のため、これは「芸術である」の記述的用法であって評価的用法ではない。より芸術であるものが良い作品であるとは限らないし、より芸術でない作品が悪い芸術であるとは限らない。機能には、いくつ持つかという観点だけでなく、うまく果たせるかという観点があり、良さに関連しそうなのは主に後者だからだ。

だからなんだ、というのが、いまのところ唯一の障壁だ。

2023/11/05

だいぶ前にDVDを仕入れて、たっぷり熟成させた『アンダーグラウンド 完全版』に着手した。5時間あるので、一日1話見ていくつもりだったが一気見してしまった。3時間版でも、私がこれまでFilmarksで満点をつけてきた映画のひとつだ。いい映画は長ければその分さらに良い。したがって、5時間版も満点である。証明おわり。

関係ないが、長い映画と言えば、先日Amazon Primeに『サタンタンゴ』がやってきたというのではてブがちょっと盛り上がっていた。長い映画好きとしてはうれしいニュースだ。4時間を超えてくる映画は、一日をそれに費やすぐらいの覚悟がないと気持ち的に着手できない(3時間半だとそんなことない)ので、見たものはどれも思い出深い。

博論の仕上げ作業に飽き飽きとしていたので、良い気分転換になった。

2023/10/31

デイミアン・チャゼルの『バビロン』がNetflixに来ていたので見た。私の嫌いなタイプの映画ばかり作る監督だと思っていたので、ふつうに好みの映画だったのはちょっと意外だった。

感想はFilmarksに書いたので関係ない話をするが、「映画愛」というのは考えてみればけっこう興味深い主題だ。絵や小説の愛好家が絵画愛や文学愛をこれ見よがしに掲げることは、相対的に少ないような気がする(音楽愛、というのは考えることすらなかなか難しい)。フェリーニやゴダールに典型的だが、映画というものを礼賛せずにはいられないこってりとしたオタクが多いのだ。それは、映画が比較的若いメディウムであり、いまだに弁護を要するからか。集団制作や集団鑑賞の一体感に由来するのか。はたまた、暗闇でスクリーンを見上げるという、畏怖の身体動作に由来するのか。映画好きは、映画という抽象的な存在者をたしかに認めており、そこに崇高さを見出している点で、独特な集団だと思う。

映画を肯定することのなかには、たいてい、人生を肯定することが含まれている。同じ物語芸術でも、演劇や小説にこのような側面はあまりないような気がする。胸糞の悪いバッドエンドをいくつも見てきたはずなのに、総体として映画というものを考えたときに、こってりとしたオタクたちはかなりのオプティミストになる。いや、真のペシミストには2〜3時間座って映画を見ることなど難しいのかもしれない。

2023/10/17

霜降り明星の二人が好きでYouTubeやラジオを追っているが、今日の粗品の動画はなかなか考えさせられた。キンプリの件で届いた誹謗中傷に応えていくという、粗品がたまにやっているタイプの動画だが、誹謗中傷がほんとうに度を越していておぞましかった。こんなのまでお笑いにパッケージングできているのはひとえに粗品の力量と言うべきだが、こうでもしないと一人では抱えきれないほど負の言葉を押し付けられる立場というのはさすがに気の毒だ。私は粗品に近い方のおちゃらけたメンタリティであり、あれこれおちょくりたくなる性分なのだが、揶揄という言語行為がもはやまったく許容されないインターネットになりつつあるように思う。

DMを送っているジャニーズファンは、少なからず10代の子供なのだろう。相手がどれだけ邪悪でも、「死ね」とか「殺す」といった言葉を投げつけないようになることが、大人になることの一部であると思わずにはいられない。これはどちら落ち度があるかや、ことの発端がどちらなのかとは関係がない。人はいつか死ぬということを忘れている間だけ生きていられる。死を思い出させること以上に邪悪な、言葉をつかった暴力というのは、私にはちょっと思いつかない。

2023/10/15

実家に凱旋するたびコツコツとピアノを練習しつづけ、そこそこ上達してきた。ショパンの前奏曲第4番と、サティのグノシエンヌ第1番は通しで弾けるようになった。いまはジムノペディ第1番と月の光を練習している。後者の、16分のところはキャパシティを超えているので、とりあえずその前までマスターしようと思っている。ピアノは練習すりゃ上達するし、上達すりゃ目標が達成されるので、精神衛生上うれしいな。

2023/10/06

Normativity』おおむね読み終えた。最終章によれば、ought文(指令態)は、否定的な評価的性質であり、「種Kとしての欠陥である[defective]」から分析できる。すなわち、「xはVすべきだ」は、「Vしないと、xの属するKに照らして欠陥のあるメンバーになる」であり、欠陥は回避されるべきだからこそ、「xはVすべき」は真である。したがって、トースターはパンを焼けるべきであり、パンを焼けないならば欠陥トースターになってしまい、人は他人を助けるべきであり、助けないならば欠陥人間になってしまう(それぞれ、しかるべき状況下で)。

欠陥のあるメンバーのいるタイプのKかつそれらのみが指令生成種[directive-generating kind]であり、トースターや人間はこの意味で指令生成種だが、小石や雲はそうではないとされる。欠陥を抱えたメンバーであることは、種が機能種である場合には機能を果たせないメンバーであることに相当するが、ほかにもいくつかパターンがある。ビーフステーキトマトは、成熟時には大きく美味しいものであるべきであり、そうでなければ欠陥のあるビーフステーキトマトである。トラは、五体満足で健康であるべきであり、そうでなければ欠陥のあるトラである。

まだ十分には理解できていないが、たいそう面白い本だった。ポスドクの研究では、重要な参考文献のひとつになりそうだ。

2023/09/21

博論執筆のクールダウンとしてJudith Jarvis Thomson『Normativity』(2008)を読んでいるが、めーっちゃくちゃ楽しい本だ。主題も文体も私の好みど真ん中で、絶対にこういう本を書きたいと思わされる。

メタ倫理学の本だが、Thomsonは倫理学が道徳哲学に尽きるものではないことを強調している。この本の主題は、「Aは良い」「AはVすべきだ」といった評価的・規範的言明の分析であり、善い行いや義務に関連したそれらに限られない。moralには興味ないが、metaethicsには興味あるという私みたいな人にはかなりおすすめの一冊だ。(Analysis短くまとまった要約論文もあるので、これだけでも中心的なアイデアはつかめる。)

まだ2章まで読んだだけだが、Thomsonの主張はわかりやすく、ミニマルだが挑発的なものだ。すなわち、端的なbeing goodないしgoodnessという性質は存在しない。「このトースターは良い」という文は、良さという性質の帰属ではないのだ。Thomsonの見解はおおむねPeter Geachによるattributive/predicativeな形容詞の区別に乗っかったものであり、goodが限定的形容詞であることに依拠している。「(端的に)good」という性質は存在せず、存在するのは「なんらかの種や観点に照らしてgood」といった性質たちだけなのだ。「トースターとして良い」とは、トースターとしての機能をうまく果たせている(つまりうまくトーストできる)ということであり、同様のモデル、模範、パラダイムは、さまざまな種や観点と結びついている。後半では、当為[ought]まわりも、この「〜として良い」性質で還元できることを示すつもりらしい。

Thomsonは節を小刻みに分けており、話をかなり追いやすい。反復や対句が多用されていて、小難しい英語表現はことごとく排除されている。出てくる例もトースターやテニス選手や小石といったアイテムたちばかりで、哲学の本を読んでいるとは思えないドライブ感がある。論理が自分で自分を語っているというか、著者が透明というか、AIが書いているような文体だ。あんまり褒めている感じがしないかもしれないが、私はずっとこういう透明な文体にあこがれている。本書の元になった講演はYouTubeで聞けるが、喋りの感じも書き方に似ていて小気味よい。かなり大げさにアクセントをつけてくれる喋り方なので、リスニングにも良い。読んでないが、Judith Jarvis Thomsonと言えば、中絶の権利についての応用哲学と、トロッコ問題の刷新で有名な人だ。いやはや多才で驚く。

ところで、まったく同じ主題を、もう少し美学寄りにやっていたのがSibleyだ。SibleyもGeachの区別にハマっていて、「美しい」が限定的か述定的かというトピックについて書いていた。なんで知っているかと言うと、私の訳している章だからだ。Geachの検討に関しては、SibleyはThomsonよりもだいぶ踏み込んでいたと思うのだが、残念ながらThomsonには見つけてもらえなかったようだ。後期Sibleyのアイデアは、博論が終わったらちゃんと検討しようと思っているネタのひとつだ。

2023/09/16

ちいかわはもう長いこと島セイレーン編をやっているが、いつのまにかこうワンピースみたいな構成が当たり前になってしまった。つまり、大きなクエストとそれに沿った起承転結から成る物語構成だ。この感じを見るに、物語を作ることは、物語に抗うことよりはるかに容易なのだろうと再確認させられる。なんか小さくてかわいいやつの1ページ完結漫画を作り続けることは、相当難しいらしい。

好き好きなのだろうが、私は栗まんじゅうが丁寧なつまみで日本酒をきゅっとやるのが見たいだけなので、当面のあいだ物語クエストが優先されるのは残念だ。初心を忘れたと非難するのは容易だが、物語に抗うことのしんどさは私もよく分かっているので、非難はフェアではないだろう

2023/08/31

大学でバンドをやっていたころ、ライブ本番でも楽譜見てるメンバーにあきれていたのだが、考えてみれば、あれは責めるようなことではなくて、カルチャーの違いだったのかもしれない。特にホーンの人たちはほとんどが吹奏楽部あがりだったのだが、そっちの方面では本番でも楽譜を見ながらやるのが当たり前なのだろう。軽音楽部あがりのわれわれとは、そのふるまいの構成するダサさが、ほとんど共有できなかったのも無理はない。

しかし、やっているのがファンクだという事実は、私の側の美的プロファイルをより正当なものとして支持するだろう。James Brownがカンペで歌詞を見ていたり、Maceo Parkerが楽譜台を置いていたら、私ならengageする気をだいぶ削がれるだろう。結局のところ、音楽ライブをただ耳になにかを届ける事業として理解しているのがお門違いなのだ。

人前で演奏する曲ぐらい暗譜してこいという私のこの反感は、原稿読み上げ型の学会発表への反感とも通底している。結局のところ、それらはライブであるとはどういうことか、すなわち人前に立ち、人の時間を使ってパフォーマンスするとはどういうことかを、あんまりよく分かっていないんじゃないかと思ってしまう。

2023/08/14

博論一日5000字チャレンジ、14日目。7/31時点の分量から5万7000字ほど増えた。このペースでいけば、月末にはきっかり20万字に到達するだろう。よくやっているほうだ非常勤の成績評価をやったり、シンプルに遊んでいて執筆していない日があるわりには。この2週間でだいぶと視力が落ちた気がする。

建築のメタファーは、日に日にもっともらしくなっている。私は、片っ端からほころびを直し、母家から離れた位置に塔を立てまくり、外壁に装飾を施し、設備の冗長性を確保する(いまやほとんどすべての部屋にはトイレがついている。助かる!)。そしてなにより、それがひとつの目的に沿って建てられたひとつの建築物なのだと、自分に言い聞かせている。

少なくとも、思っていたほど苦行ではないのは救いだ。たっぷり丁寧に書くというモードは私にとってあまり馴染みのないものなので、いつもと違う認知的リソースを動員している実感がある。なんというか、私はギタリストなのだが、次のライブはベースでよろしくということで、急ピッチで練習している気分だ。それは慣れないが、根本的に異質なわけではなく、楽なわけではないが、日々ちょっとした発見があって楽しい。

2023/08/02

博論を書いている。そりゃそうなのだが、今月はちょっと無茶することになりそうだ。先日中間発表をして、内容はともかくスケジュールおよび分量に関していろいろと無理があることが発覚した。私のようなスケジュール、つまり7月に中間発表をして翌年3月にはどうにか学位が欲しい、というのは異例らしい。中間発表というプロセスは、最速では3年次の7月にやることになっている。私は4年目の7月に中間発表をしたのでややこしいが、仮に3年目の7月に中間発表をしたのに「ふつう」は翌年3月に間に合わないということであれば、研究室の想定している「ふつう」によれば、3年で博士課程を修了することは不可能だということになる。まぁ、平均や最頻値の話なのだとすれば、3年で駒場表象を出る人は聞いたことがないので、記述的には「ふつう」そうなのかもしれない。しかし、原理的にもその修了計画をサポートする体制が研究室側になく、誰もそれをどうにかしようとしていないのは問題だろう。

まぁ、そこは指導教員に頑張ってもらうとして、私がどうにかしなければならないのは分量の問題だ。私の知る限り、現代美学の博論はこみこみで4〜50,000ワード(日本語で10万字程度)が妥当なところであり[例1-Cross 2017][例2-Xhignesse 2017][例3-Kubala 2018][例4-Dyke 2019]、研究室が指定している20〜24万字(本文のみ)はばかげている。ばかげていても明記されたルールなら従うが、私は英語で書こうとしており、ややこしいことに英語の分量については「指導教員に指示を仰ぐ」としか書かれていないのだ。先日の中間発表のあとでようやく、オフィシャルに求められる分量を伝えられたのだが、8〜100,000ワードとのことだ。適当にピックアップした例だが、あの分厚いConventionでも7万ワード、How to Do Things with Wordsは4万ワードちょっとだ。同じ批評の哲学で書かれたOn Criticismは6万ワードである。ゆうても仕方がない(そして交渉も決裂した)ので、私は8月中に手持ちの素材を倍増させなければならないことになった。

ということで、一日5,000字チャレンジをしている。毎日日本語で5,000字書けばある程度筆が詰まっても今月中に+10万字は見込めるし、それを英訳すればざっと40,000ワードといったところだ。手元の素材と足して、今月中に指定の分量に到達するには、それぐらいのことをしなければならない。ネタのつもりでやり始めたのだが、いまのところ3日連続でこれを達成している。今後どうなるかは分からない。

そして、そうまでして提出できたものを、「英語だし分量も多いので、すぐには審査会はできない」などと言われたら私はどうにかなってしまうかもしれない。

2023/07/22

ずいぶん久々に、居酒屋らしいところで飲み会らしいことをした。寿司も食べられてハッピー。ウニの軍艦+卵黄という学びがあった。

2023/07/16

数年ぶりの対面開催となった哲学若手研究者フォーラムに行ってきた。ばちばちに暑くて、夏を感じた。そんなにたくさん聞いたわけではないが、聞いたものだけ手短に感想をまとめておく。

松井大騎「美的経験をマッピングする:事前期待と認知的マスタリングにフォーカスして
美的経験についてのサーベイ寄りな発表。図がちょっと難しすぎたが、興味関心の矛先や、源河さんと差別化したいポイントはよく分かった。今後の展望のところについては、期待の地平なんかより芸術のカテゴリーやろう!とポジション・トークをしかけたが、ぐっとこらえた。

伊藤迅亮「美的自己の〈安定〉と〈逸脱〉
関心の近いトピックだったのと、伊藤さんの丁寧さが合わさって、すっと入ってくる発表だった。スライドがだいぶしっくりくるのは、私もこういうスライドを作るからだ(デザイン面でも学びがある)。美的生活に安定と逸脱のふたつ側面があるという結論は直観的に飲み込めるし、美的価値論に落とし込んだ場合の帰結もいろいろありそうなので、論文化が楽しみだ。

村山正碩「自己を表現し、理解し、再解釈すること:アンリ・マティスの場合
村山さんらしさの感じられるトピックと文体でのマティス論。アーギュメントとしてコメントするのは野暮な気がしたので、シャーマン論でお返ししてみた。私はうっすらずっとロマン主義的な芸術観を毛嫌いしていたが、村山さんの仕事のおかげで、割とその面白みが分かってきたような気がする。

岡田進之介「フィクションにおける作者の自己」
こちらも岡田さんらしさの感じられる内容だった。岡田さんの論文には「問題の導入、説1、説2、それらへのコメント」というフォーマットがあり、参照文献も少なめにまとめる傾向があるように思う。なんというか、author-dateよりはnotes and bibliographyっぽい雰囲気を感じる。問題の解決として「内在する読者」を使うというのはよさそうだし、もっとシャープに擁護していけそうだと感じた。

松井晴香「隠喩という特等席:非認知主義を擁護する」
競合する立場AとBがあり、Bを修正しつつ擁護する、という私の好きなタイプの分析哲学だった。非認知主義のディフェンスはもう少し固められるように思ったが、方向性としては説得的なものだった。スライド1枚あたりの情報量がかなり適切だったのもこなれていて、真似していかなければと思わされた(私は詰めすぎるので)。

今井慧「デフォルメにおける見えるものと見えないもの:抽象的描写における見立て基と見立て先の緊張」
フィクショナルキャラクターについての高田松永論争の検討。フィクショナルワールドというかっちり一貫した世界から出発するのではなく、もっと浅瀬のデザインや分離した内容から描写という現象を見ていく、という方針はかなり共有できるものだった。自説のポイント、とりわけPキャラクタを重視する松永さんの方針とどう差別化していきたいのかが、やや見えにくかったように思う。お話したところ、結構表象っぽい関心もある方で、なんだかM1のときの自分を見ているかのようだった。

自分の発表「批評が鑑賞をガイドするとはどういうことか」は、自分では穏当で退屈なものだと思っていたが、どうやらそうでもなく、あれもこれも「批評」になってしまうのではないかという意見をたくさんもらえて、応答しがいがあった。自分ではこのゆるめの線引きこそ感じよいと思っているので、ちゃんと擁護すればそれなりにシャープなアーギュメントとしてまとめられそうだ。作品のキャプション、美術館の音声ガイド、芸術家の伝記、キュレーション、レイアウト、楽譜の解釈など、「批評と呼べそで呼べなそでやっぱり呼べそなもの」がいっぱい引き出せたので、感謝感謝です。

発表以外のところでは、ふだんなかなか肉体で会えない皆さんと交流できて、たいへん楽しかった。ドビュッシーとねぎしを布教してきた。

2023/07/10

M1のとき、批評再生塾の説明会を聞きに五反田のゲンロンまで行ってきたことがある。そういう時期もあった、というわけだ。結果的には、身内ノリでじゃれ合っている感じがいたたまれなくて途中で帰った。自転車で来たので、すぐ帰れた。私のこの「仲良くやれそうかどうかセンサー」に私は絶大な信頼を持っている。同塾の講師には立派な人たちもいたが、後に炎上して灰になった人もいればリテラルに刺された人もいて、ほんとうに関わり合いにならなくてよかったと思う。受講OBらの立ちふるまいについては、説明会の数日後に東の先輩が拗ねて募集停止だと言い出すぐらいだったので、そういうことだろう。

あのとき私がもうちょっと違うパーソナリティを持っていたとすれば、今はもっと表象文化論っぽい文章を書いていて、分析美学のアンチになっていた可能性もないではない。そういう意味では、ひとつの分かれ目だったような気がする。

週末は、哲学若手研究者フォーラムで〈批評とはなにか〉をテーマとした発表をする予定だ。なんの気なしに調べていたら、批評再生塾でもこの問いをテーマにした課題が出されていたらしい。私が述べるだろうことは、私が述べただろうこととは、ぜんぜんまったく違うはずだ。

2023/07/02

ゼルダの新しいやつと、ファイアーエムブレムの新しいやつは、どちらも「旧作に出てきたキャラクターたちを召喚し、使役する」というソシャゲ的システムを採用していて、心底しょうもないと思っている。FEはヒーローズの時点でこれをやっていたのですでに見限っていたが、ゼルダまでこれをやりだしたのはかなりがっかりした。

つまりは、コンテンツというのはいまやキャラクターorientedで消費されているという、いつもの話だ。ひとつの、完結した全体を持つ作品ではなく、過去に人気を博したキャラクターを切り貼りしたフランケンシュタインのほうが好まれるというのはあんまりだ。それは、新しいものを作るという仕事の放棄であるし、過去作への敬意を欠いている。

言われなきゃ分からんというのがとても信じられんのだが、物語とキャラクター有機的に結びついている。

2023/06/25

夕刻から野良猫ウォッチングという豊かな遊びをしていたら、はからずもアライグマに遭遇した。しかも3匹の子連れで、計4匹だ。動物園においてでさえこの量のアライグマは見たことがない。4匹と同時に目があったときには、可愛さよりも危なさが頭をよぎった。きゃつらがぼのぼののアライグマくんぐらい獰猛で、ガチンコファイトになった場合には、私は一方的にボコられるだろう。

2023/06/16

クラフトビール(高い)の消費を減らそうと思ってワインを飲み始めた。コノスルの安い白ワインだ。ワインはかなり苦手意識があったのだが、ネルソンソーヴィンのホップを使ったビール(白ワインっぽいとされる)が割に好みで、「これ白ワインもいけるんじゃないか」と思って飲み始めたらかなりいけたわけだ。ペアリングはもっと複雑かと思っていたが、冷製パスタでも麻婆豆腐でもよさげな感じだった。ここ数年で味覚が確実に変容してきているので、この調子で赤ワインまでいろいろ試してみたい。

それと、最近はアーモンド効果にハマっていて、毎日飲んでいる。

2023/06/11

実家の犬の葬儀に行ってきた。ちょっと前からご飯を食べなくなり、6月3日の夜中に亡くなった。

オスのミニチュアダックスフンドで、18歳7ヶ月だったつねに一家のアイドルで、火葬されて出てきた骨まで可愛かった。実家近くの海に面したペット霊園にお願いしたのだが、ほんとうにプロの仕事で感心しっぱなしだった。犬にとってどうだったかは知るすべもないが、人間にとってはかなりよかった。

犬の名前はシュワという。アーノルド・シュワルツェネッガーからとって、母がつけた。

2023/06/05

TOKYOBIKE 26をずっと使っているので、そのレビューだ。(先日の分析美学オフ会で、どうなのかという話が一瞬だけあったので)

買ったのは一人暮らしを始めた学部3年の2016年で、アパートから三田キャンパスまでの4〜5kmを往復する足として手に入れたのだった。「その距離なら、この自転車であっという間だ」という趣旨のことを店員さんが言っていて、頼もしかった記憶がある。駒場に移ってからも、ほぼ同距離を移動するのに使っている。なんとなく片道30分以内の移動でしか使わないが、これは私の気力の問題であり、ぜんぜんもっとポテンシャルのある自転車だ。現在の使用頻度は週3〜4日といったところ。

選んだのは今はなきモスグリーンだ(TOKYOBIKE MONOならまだある)。あの年はやたら深緑にハマっていて、同じ色のセーターやニット帽やMA-1も身につけていた。マットな色合いで、今でも気に入っている。関係ないが、『魔女の宅急便』でトンボが乗っていた自転車に似ており、なおかつ私はオレンジのボーダーTシャツもたまに着ていた(そして言うまでもなくメガネをかけている)ので、仲間内ではいくらなんでもトンボすぎると話題だった。

ママチャリっぽくなく、かといってゴテゴテのスポーツバイクでもない自転車を探すと、必ず候補に入るだろうブランドだ。見た目から選ぶような自転車なので、当然、乗り物としてのスペックはいくらか劣ることになる。比較するほど他の自転車に乗ったこともないが、確かに車輪は細いので、整備されていない道を通るときなんかはいくらか頼りない感じがある。逆に、整備された道でも246のような大きめの車道を走るにはひょろくて怖い(ガッツリ装備して乗るような自転車でもないので)。とはいえ、細いからこそ走り出しはかなり軽快で、小回りもきく。8段ギアはかなり具合がよくて、坂道でも3ギアの座り漕ぎで済むことが多い。スピードはあまり出ないが、命知らずが求めるようなスピードは出ない、というだけだ。

総合的に見ればかなり満足しており、なにより、欠点を補って余りあるぐらいに見た目がよい。フレームの細さがおおよそ均一なところに、Helvetica的なサンセリフの美学がある。ブランドが語るストーリーもたいそう洒落ていて、しゃらくさいと思ってしまう自分もいるが、結局こういうのが大好きなのだ。バスケットなし、泥除けなし、小ぶりなベルとライトにしたので、かなりミニマルにまとまった。BIANCHIがいくら乗り物として優れていてもこうはなれない。駐輪場でも、TOKYOBIKEはすぐ気づくぐらいにアイコニックだ。

7年間で4回ぐらいメンテナンスに出し、2〜3度パンクし、サドルが破れ、バルブが劣化し、ワイヤーやらチューブやらを交換したりと、それなりに維持費がかかったが、今でも現役バリバリで使えている。ところで、私が買ったときは¥70,000ちょいだったが、いまでは10万手前なのがかなりネックだろう。10万出すほどの自転車なのかと言われれば、ちょっと言葉に詰まるかもしれない。

2023/06/04

代々木公園でやっているベトナムフェスティバルに行ってきた。揚げ春巻きと牛肉のフォーを食べ、333ビールとソルトコーヒーを飲んだ。インスタント麺を2袋と、鶏皮スナックを5袋買ってきた。ドッグランで人ん家の犬をひとしきり見て、帰宅。

2023/05/30

前に書いた「スローシネマ、アピチャッポン、マジックリアリズム」を読んでくれた方が、スローシネマで卒論を書かれたそうなので、遅ればせながら拝読した。音楽ジャンルであるところのアンビエントの一般的特徴(「アンビエント性」)をまとめ、それとスローシネマの構造的類似を指摘する論文で、やりたいことのはっきりした良い卒論だと思う。『サクリファイス』の映像分析もついている。

最近、シュレイダーの「タルコフスキーリング」がまた少しバズっているが、『聖なる映画』の簡単な紹介もついているので頼もしい。バズっているほうのツイートはお世辞にもinformativeとは言い難いので、みんな上の卒論を読めばいいと思う。

スローシネマというカテゴリーをかなり一般的に特徴づけようとしていて、個人的にはかなり共感できるスタンスだった。映画研究に限らず、ちょっとでも表象文化論のほうに近づこうものなら「一般理論はいいから具体個別的なものを見よ」という圧をそれなりに受けるが、ある種の知的好奇心は物事の一般化に向かわずにはいられないのだ。私が書いたマジックリアリズム卒論と、Vaporwave卒論もそうだった(上の方の卒論のほうがはるかに立派なものだが)。

著者の見立てでは、シュレイダーと私と著者はスローシネマ研究の方法論を共有している。スローシネマの映画群に対し、シュレイダーが「超越的スタイル」という切り口、私がマジックリアリズムという切り口でもってアプローチしたように、著者はアンビエントという切り口からアプローチする。あまり考えたことはなかったが、こういうアプローチになにか名前を付けるとしたら〈カテゴリーの挟み撃ち〉というのがよいかもしれない。あるカテゴリーとその事例ばかり見ていても分からない重要な特徴が、別のカテゴリーを持ってくることで浮き彫りになるかもしれない。もちろん、個別作品においてカテゴリー同士がぶつかりあい、有機的に昇華されていく様もみどころになる。

当面、批評の仕事はできそうにないが、博論が落ち着いたらまた映画や音楽について書きたいなと思ってきた。

そういえば日記はわりと飽きてきたので毎日更新をやめた。

2023/05/26

哲学若手の準備を進めている。対面の学会発表はすごく久々なので楽しみだ。

大枠は批評の特徴づけだが、美的経験論にもちょっと絡む話なので、いろいろと自分の考えが整理されてきた。基本的には、私はartisticな価値なり従事を広く、aestheticなそれらを狭く取りたい派なのだろう。

ところで、ステッカー『分析美学入門』の関連する章も読み返しているが、やっぱりこの本ぜんぜん入門的ではない。2000年代前後にホットだった議論に対する、ステッカー自身のアーギュメントをそれぞれ展開した論文集のような趣すらある。ふつうに難しい本だ。

2023/05/25

長めの注を40も50も平気でつけるような書き手がそこそこいるが、注で述べている議論を見落としても非難を免除してもらえるぐらいでなければしんどい。原則として、注には読まれなくてもかまわない事柄以外書かないでほしい。

海外のジャーナルの投稿規定を見ると、たいていは「長すぎる注はやめて」という指示がある。「長すぎる」の基準がよく分からないが、そう指示されているジャーナルにも注がドカンドカンと付いているような論文が収録されていたりする。どういうこっちゃ。

2023/05/24

スターバックスリザーブロースタリーに行ってきた。ふだん好き好んでスタバに行くタイプではないのだが、コーヒー好きとしてはふつうに楽しい施設だった。システムが分かりにくかったが、提供しているメニューが各階で違うようで(1階がオーソドックスなコーヒー、2階はお茶、3階はコーヒーカクテルなど)、任意の階で先に席を取ったら、また階を移動して目当ての商品を買ってくる感じになっている。サラミとチーズのちょっとしたピザと、オリーブオイルの入ったラテ、ここ限定の豆を使ったアイスコーヒー、エスプレッソマティーニをいただいた。エスプレッソマティーニはいつかどこかで飲んでみたかったカクテルなのでラッキーだ。想像以上でも以下でもなかったが。

2023/05/23

苦痛アートの芸術的価値をカバーするために、①芸術がアフォードする快楽は(セックス・ドラッグ・ロックンロールのそれとは異なる)特殊な快楽*であり、②苦痛アートも快楽*を与える、というムーヴがなされがちだが、それでいいんかなぁと思わないでもない。ごくごくふつうに、芸術にはヘドニックなタイプでない価値がある、ではまずいのか。美的価値はともかく芸術的価値についての快楽主義はにっちもさっちも行かないだろうと思うのだが、現代でもそれなりに人気なので不思議だ。

2023/05/22

どの活動がなにゆえ「芸術」なのか?」という記事を書いた。おおむねXhignesse (2020)のまとめだ。とても重要な論文で、今後何年も読まれていくだろう1本なので、早々に紹介できてよかった。

それはそうと、この手の記事を書くと「自分の考えでは芸術とは〜〜だ」という反応をたくさんもらう。ぜんぜん構わないし、各々が一家言持っているのは望ましいことですらあるのだが、それにしたって特に正当化されていない信念を持っている人がたくさんいるんだなぁと思わされる。それらの持論は、本当に、しかじかだと思っているだけなのだ。ちゃんと勉強しかしこくなることの一部には、そういうただ思っているだけのテーゼを軽々と表明しなくなることも含まれている。と私は思う。

2023/05/21

カフェ・ド・ランブルとカフェーパウリスタをはしごしたので、銀座の珈琲事情にすっかり精通した。前者はさすがに美味かったが、ちと高すぎたのと、極小のキャパをはるかに超えた繁盛ぶりであまりfeel goodではなかった。後者は気取らない感じの店内でゆったりできたが、効用逓減の法則に従って、前者ほどにはコーヒーを楽しめなかった。リピートするなら後者だな。

その前に築地で海鮮丼も食べたし、その後は皇居外苑を散歩してからの分析美学オフ会に出てきたので、東京の右側でずいぶん活動した。

2023/05/20

James Grantの「A Sensible Experientialism?」を読みはじめたが、面白そうな論文だ。Grant自身は経験主義が好きではないらしいが、それでも反経験主義は失敗しているとして、擁護可能な形式での経験主義を組み立てようとしている。

まず、芸術的価値についての経験主義と美的価値についての経験主義を区別し、自身は芸術的利点[the artistic merit]についての経験主義だけ洗練させるとする。この辺はしばしば混同されているので、強調に値するだろう。私とおなじく、Noûsのほうのゴロデイスキーには反対するが、Philosophy and Phenomenological Researchのほうのゴロデイスキーにはオープンな立場っぽい。

Grantが主に対処しているのは、循環だという反論と、苦痛アートを説明できないという反論だ。経験主義は〈作品経験に最終価値があるので、芸術的利点がある〉と言いたいのだが、〈作品経験に最終価値があるのは、芸術的利点があるおかげだ〉と言ってしまうと循環になる。これに対処するために、Grantはおおむね美的価値の個体説に似たアイデアを組み込んでいる。つまり、芸術作品にはそもそも美しさや想像性や表出性といった特徴があり、それらゆえに(経験独立な)最終価値がある。しかし、これらは(自然物など)芸術作品でなくても持ちうる最終価値であり、問題となっているartistic meritではない。〈作品経験に最終価値があるのは、美しさなどの最終価値の経験であるおかげだ〉と言えば、〈作品経験に最終価値があるので、芸術的利点がある〉とは循環しない。つまり、グラウンディングの順序としては「①作品には美しさなどの特徴がある」→「②作品には最終価値がある」→「③作品経験には最終価値がある」→「④作品には芸術的利点がある」というわけだ。③→④のところの経験主義を維持するために、①②のところに美的価値についての個体説を組み込んだような説明だ。

苦痛アートの芸術的利点は、経験主義からは説明しがたいとされてきた。《ゲルニカ》を見ることはショッキングで痛ましく、そういったネガティブな経験をアフォードする作品になぜ芸術的利点があるのか、経験主義からは答えられないというわけだ。Grantの用意する経験主義は、大胆にも快楽主義を手放すことで、経験主義を維持している。つまり、大きな快楽を伴うがゆえに作品経験が持つ最終価値が、芸術的利点をグラウンドするのではない。むしろ、作品が持つ(美しさなどの)最終価値を経験しているがゆえに作品経験が持つほうの最終価値が、芸術的利点をグラウンドするのだ。経験の最終価値がなんでもかんでも作品の芸術的利点を決定するのではない。快楽が付随的であり、その大小が芸術的利点を左右するわけではない点について、Grantは積極的に認めている。

結果として提示されているsensibleな経験主義は、個体説を組み込んで快楽主義を手放したものであり、キメラ感は否めない。とくに、個体説を噛ませるならもはや「③作品経験には最終価値がある」というステップをわざわざ入れるまでもなく、「②作品には最終価値がある」→「④作品には芸術的利点がある」でよさそうだし、そもそも芸術的利点などというdistinctiveなカテゴリーはない(Lopes)ので、①②で話を済ませてもよさそうなものだ。もう少し読み進めて考えてみる。

2023/05/19

立て続けに英語発表を見ているが、ぜーんぜんついて行けてないので、英語頑張らねばという気持ちになった。

2023/05/18

少年向け漫画やアニメにおいては、〈最強〉を目指すことが内在的価値であり、読者はそれを共有している前提で話が進む。海賊王、火影、ポケモンマスターになりたい・ならなくちゃという熱意に対して、なぜその肩書を欲しているのかと問うのは野暮だ。

だからこそ、ルフィはただ海賊王になりたいのではなく、海賊王になってやりたいことがある(1060話参照)と公言したときにはしびれた。内在的価値だと前提されていた〈海賊王になること〉が実は手段に過ぎず、夢の果てはその先にある(なにかはまだ明かされていないが)、と。主人公であるにもかかわらずずっとミステリアスな存在だったルフィが、人物として一気に立体化した場面だ。と同時に、ルフィも読者も大人になったんだなぁという感慨も覚えた。

2023/05/17

渋谷までチャリを飛ばし、ヒューマントラストで『ゴダールのマリア』を見た。スクリーンでゴダールを見たのは、学部のいつぞやに見た『ウィークエンド』以来だ。『ゴダールのマリア』は残念ながらたいした映画ではなかったが。

ヒューマントラストシネマ渋谷のある建物は、エスカレーターで登ろうとすると、開けた窓に向かって突っ込んでいくかたちになり、前方に壁も足場が見えないためひやひやする。高所恐怖症にはけっこうきつい構造だ。次回はちゃんと覚えといて、回避できればと思う。

2023/05/16

NoûsのほうのGorodeisky (2021a)を読んでいるが、「芸術作品の芸術作品としての価値は、美的快楽をmeritすることから構成される」という主張は、前半部分を「美的価値は〜」に変えればそのままPhilosophy and Phenomenological ResearchのほうのGorodeisky (2021b)になる。美的快楽の説明もmeritの説明もかぶってるし、短期間でこんなにも似ている論文を出すのはずるくないかと思わないでもない。

上の説明から明らかなように、ゴロデイスキーにおいて「芸術作品の芸術作品としての価値」=「美的価値」だ。両方とも、ある特別な情動的快楽経験であるところの美的快楽のmeritingから構成される。この説明は、20世紀後半の議論史において芸術の価値と美的価値の分離進められてきたことを踏まえると、かなり反動的なものだ。aestheticというのを留保なしに芸術と結びつける論者は今日まれだと思うのだが、ゴロデイスキーはその一人である。芸術の価値論と美的価値論で似通った論文を書くぐらいだったら、なぜこの結びつけが擁護できるのかについて一本を書いてほしいところだ。なんなら、ゴロデイスキーが贔屓にしているカントも、美的な趣味判断の話をそのまま芸術関与には適用しなかったはずだが、その辺はどう解釈しているのだろうか。

2023/05/15

自炊した。今日のメニューは、豚バラとピーマンをオイスターソースで炒めたやつと、もりもりの豚汁。

2023/05/14

論文の読み方を試しにちょっと変えてみた。原則として、1段落につき箇条書き1つ分しかメモしないことにする。普段はかなり丁寧めに内容を写しているので時間がかかっていたが、これでかなりスピーディーに読み通せるようになった。ディテールについては、もう一周読み直すときに押さえればよいのかもしれない。もちろん、これはちゃんとパラグラフ・ライティングをしてくれている文章相手にしかできない。

2023/05/13

「閑話休題」というフレーズを一度も使ったことがない。私は決して脱線せず、注を使うからだ。

2023/05/12

申請書に袋だたかれ論文を読めない日が続いている。「勉強がいやで部屋の掃除が捗る」みたいなやつが、私(たち)の場合は勉強以外のことを強いられているときに生じる。今日は懲りずに生えてきたドクダミをぶっこ抜いた。隣人たちはもう諦めているようで、すっかりジャングルと化していた。もう白い花も咲き始める頃で、キモさが倍増する。

2023/05/11

雨予報を過小評価したことにより、雷雨のなか非常勤先に閉じ込められた。待っていても止む気配がないので、弱まったタイミングを見計らってどうにかこうにか駅までたどり着く。途中の東横線がタイプ一致の10まんボルトをうけて完全にダウンしていたので、田園都市線で池尻大橋までのぼり、そこから歩いて帰った。気持ちを上向きにするためにも池尻でうまいラーメンを食べて帰ろうとしたのだが、現金を持ってなかったため断念、かなり気持ちが下向きになった。が、池尻から家までの約25分の徒歩ルートはそんなに嫌いじゃないし、雨もやんでいたので多少のなぐさめにはなった。

2023/05/10

でかめのやらかしDAYだったが、やらかしていることに気づいて挽回できたという意味では、ラッキーDAYでもあった。

2023/05/09

Colin Lyasが回想するところでは、コーネル大学に新設されたばかりの哲学科にやってきた大学院生たちに、フランク・シブリーは「私たちは大きな期待を背負っているのであり、それに応えないわけにはいかない」と述べたという。私には、「死ぬ気でやれ」とは違って、ポジティブなメッセージのように響く。もとのツイートも、「期待しているので、死ぬ気でやれ」だったら反感はもう少し控えめだっただろう。マインドセットを叩き込むのは一緒でも、理由があるかないかはけっこうな違いだ。

期待されるのはいいことだし、期待に応えようとするのは美しいことだ。誰かにとって、誇れるような存在になることは、人生において内在的に良いことのひとつだと思う。過度な期待がプレッシャーになるケースは山程あるし、気負わず気楽にやろうというメッセージも気分がよいものだが、それはそれこれはこれだ。

2023/05/08

『猫のゆりかご』を読み終えた。ヴォネガットを読むたび、なにかを書く気になった最初の熱意を思い出す。あれもこれも、こういう文章を書きたかったのがはじまりなのだ。

まともに取り合うな、全て嘘だ、というのが作中に出てくる宗教カルト・ボコノン教の教義であり、小説全体がそのムードに覆われている。ボコノンの教えは徹底的に否定的であり、自己否定すら歓迎する。無害な嘘を生きる拠り所にせよというテーゼですら、まともに取り合うべきかどうか判然としないのだ。この小説にはたくさんの「メッセージ」が込められているのだが、どのメッセージも字面通りには受け取れず、だからといって皮肉っているととるわけにもいかない。テーゼばかりが浮遊していて、どこにも着地しないような物語だ。だからこそ、終盤の大惨事には特別なカタルシスがある。

2023/05/07

ザーザー降りの雨で、昼過ぎまで惰眠を貪った。簡単に支度し、家の近くのカフェをはしごした。

2023/05/06

恋人とみなとみらいを散策してきた。ハンマーヘッドでうまい飯を食い、山下公園をぶらーっと下って中華街の悟空茶荘で茶をしばいた。夕方から、マリーンアンドウォークでやっている野外上映で『恋する惑星』を見た。

表明するほどでもないが、哲学なんぞは死ぬ気でやるには及ばない派だ。なんにせよ私が死ぬ気でやる義理はないし、そういうレトリックは下品でみっともないので、平気で使うような指導者からは距離をとる。ただ、そういうレトリックに動機づけられる人がいるのもわかる。

2023/05/05

トリュフォー『アメリカの夜』を見た。良かった。

2023/05/04

今日のひらめき:〈批評とはなにか〉は実質〈鑑賞とはなにか〉である。というのも、批評が鑑賞のガイドにあるというのはおよそ全員認めていて、しかし、「鑑賞」というのでどういうengagementを指しているのかバラバラだからこそ、それを促す批評家がやること・やれること・やるべきことについても論争が生じる。美的性質の知覚こそが鑑賞だと思われていたころは、批評も推論や論証じゃありえないとされてきたし、キャロルのように芸術カテゴリーに照らした達成を理解することこそ鑑賞なのだと言う人は、批評についても認知的なモデルをとる。ということで、批評のモデルは鑑賞のモデルからうまく整理できるのだが、言うまでもなく、「鑑賞」は「批評」以上にやっかいな用語である。

2023/05/03

〈美大生には小さい頃に頭を強く打った経験のある人が多い〉という言説をはじめて聞いたが、統計的真偽はだれも気にしていなくて、字面だけで独り歩きできる説得力を持っているのがやたらと気味が悪い。世の中にはこういう「それっぽい」テーゼがたくさんあるもんだ。

私は1歳のときに椅子から落ちて、中国東北地域の暖房設備として知られている暖气なる鉄の塊に額を打ち付けたことがある。これがなんらかの因果的働きをして、本来だったら外資系投資銀行でバリキャリしていたはずの私から、哲学をやるような私へと変容したのいうのは、物語としては面白い。いかにもカート・ヴォネガットがふざけて書きそうな小ボケだ。しかし、そういう因果関係をサイエンスとしてほんとうに信じ込むのは、「芸術/哲学という奇特なことをやっているスペシャルな私」という自意識が垣間見えて、(頭を打ちつけるのとは違う意味で)ちょっとイタいだろう。

2023/05/02

もっと悪意を持って生きていたころは『ラ・ラ・ランド』のあら探しをするのにIMAXに課金していたりもしたが、大衆が好むようなものの悪口を書いて玄人を気取るのは卒業したので、マリオの映画ははなから観に行くつもりがない。ごくふつうの意味において映画の趣味が良い(つまり、大衆的な映画よりもシリアスな映画を選好する)批評家は、マーベルとかRRRとかマリオとかその類を適切にカテゴライズして、そっと脇に置くだけの判断力を発揮すべきではないか。私はどちらかというと貶す批評に理解も関心もあるほうだが、それはそうと、短い人生の一部を割いてまでやる価値のある酷評とそうでない酷評の区別はあるだろうし、不老不死でもなければそういうのは気にして生きたほうがいいのだ。

まぁ、大衆が大衆向けのものを与えられていかにも大衆のような喜び方をしているのを見ると、自分を含めた人間というものの気高さについて大いにショックを与えられるので、一言二言小言を言いたくなる気持ちもわからないではない。

2023/05/01

LE SSERAFIMの新曲「UNFORGIVEN (feat. Nile Rodgers)」が出たが、まじでどこにNile Rodgersがいるのか分からなくて界隈が騒然としている。Chicらしいカッティングがないどころか、ギターらしき音すらほとんど聞こえない曲だ多分、コーラスっぽいエフェクターをかけた低音弦のベンベンがそれなのだが、フレーズも音色もほとんどシンセだ。当然チャカポコとカッティングをしてくれるだろうという期待自体が、こちらの勝手な期待だったと言えばそれだけのことかもしれない。にしたって、feat. Nile Rodgersであることに付加価値を見出す人には刺さらず、見いださない人にとっては無意味なコラボをして、どういうつもりなのかが分からない。トラック自体はいつものLE SSERAFIMといった感じで、わるくないが置きにいったなという印象を受ける。

2023/04/30

ちゃん読に向けてLopes (2018)のレジュメを切った。私の平均的な読書スピードからして、この本の1章分(18ページ前後)を倒すのにおおよそぴったり1日かかる。

価値論を一通り勉強してきたおかげで、ロペスの議論にも乗れてきた。

2023/04/29

数年ぶりに屋外開催となった目黒マルシェを散策してきた。風がめちゃ強くて、小物を展示するのも一苦労な様子だった。目黒通りには、アンティークというかナチュラルというか、キナリノ的な雰囲気がある。それは中目黒とはずいぶん違う、私がより馴染んでいるほうの目黒らしさだ。夜は中目黒まで山を降りてラーメンを食べたが、まぁこちらの目黒はこちらで馴染んではいる。

2023/04/28

アメリカ英語かイギリス英語で「."」か「".」かが違うみたいなの、話し合ってどっちかに統一せえと思う。どっちでもいいだろう。なにを賭けて戦っているんだ。

2023/04/27

海外の哲学者の間で、「What people think philosophers look like / What we actually look like」というキャプションで、ヒュームなどの肖像画と自分の(いくらかふざけた)自撮りを並べてツイートするミームがほんのちょっと流行っている。Daisy Dixonが最初にツイートし、ミソジニーな有象無象にこっぴどく誹謗中傷されたのをきっかけに、カウンター的な意味合いでみんな乗っかっているようだ。

こういうちょっとしたネタツイートはなんの気なしにしてしまうものなのだが、おそらく当初はちょっとした自虐も絡めたジョークだったのが、いつのまにかレイシストたちを相手に退くに退けなくなり、ダイバーシティという理念を背負って戦わされている感がある。言うまでもなく、こういうのに噛み付いて人格否定マウントをかましてくる連中は救いようもないのだが、そういう類をさらに煽ろうとして展開されている上述のミームも、それはそれで共感性羞恥が刺激される。正味な話、ヒュームがこういう見た目であなたがそういう見た目なのだからといって、一体なんなのか。笑わせようとしているのか。笑ってほしいのだとすれば、それは自分の見た目タイプに対するセルフ差別を含んでいないと言えるのか。笑わせようとしているのでなければ、一体なにがしたいのか。

自分の顔写真を、公的に品定めされるような場所にわざわざアップするのは、その主体がオタクのおっさんでなくともメンタルの不調を察してしまう。そんなことしないほうがいいし、しなくていいのだ。

2023/04/26

なんだかすごく食欲がない。食べることに対する気味の悪さがちょっと勝っているような日だ。最近山形のだしばかり食べていて、食が細くなってしまったか。

2023/04/25

『推しの子』はそのノリに十全についていけるような漫画ではないが、アニメ主題歌としてYOASOBIが持ってきた「アイドル」には素直に感動したし、漫画自体の株もぐっと上げられたように感じる。開始0秒でK-POPにしか聞こえない歌いまわしに、「可愛くてごめん」的なぷりっぷりの世界観、『推しの子』という作品にしてこの主題歌以外ありえないだろうと思わせる説得力。YOASOBIは小説に対するイメージソングからキャリアを始めただけあって、この手の主題歌を手掛けるのが大の得意とは知っていたが、「アイドル」はちょっとした偉業だ。『チェンソーマン』に対する米津玄師の「KICK BACK」も偉業だったが、最近のアニメ主題歌は標題音楽としてできがよすぎる。

2023/04/24

今年もベランダのドクダミが生えてきた(戦歴)。またしてもその触手で我が家の室外機を付け狙っているので、距離的に近いやつから順に引っこ抜いて日陰に叩きつけておいた。簡単なことのように思われるが、臭くて汚い雑草なのでゴム手袋をつけてやるほかないし、植え込みをいじりすぎると名もなき多足の住民たちが地より這い上がってくるので、精神的にはけっこうダメージのある仕事だ。

もともと海派で山は苦手なのだが、植物を根本的にきもいと思っていることを自覚しつつある。あんな、生きているのか死んでいるのかも分からない物体が、知らずしらずのうちにこっそり呼吸しているというのは、なんだか根源的な恐怖を喚起するようなところがある。それは、一見すると明らかに私ではないものと私が、実は本質においては同種の存在なのかもしれないという、実存的な恐怖だ。あるいは、来世はほんとうに植物になってしまうかもしれない、という内容を持った恐怖でもある。その点、私は石が好きだ。石には植物にはない沈黙があり、決して私と同種の存在ではないという安心感のもとで眺めることができる。どう転んだって、私の来世が石であるはずはなさそうだし、万にひとつそうなった場合には、私はもはや「私」ではない端的な石になるはずなので、そこに恐怖はない。植物は、私が「私」であることを維持したまま植物になってしまう可能性を、容易に想像させる。もしかすると、私が引っこ抜き日陰に叩きつけているドクダミは、ボルヘス的因果を経てそこにたどり着いた私自身であるかもしれない。

2023/04/23

私を含め、哲学者(正確には哲学者になりがちなあるタイプの人種)というのは不愉快な「XはFである」を突きつけられたときに、「XはFではない」と返すかわりに「〈XはFである〉と述べることはGである」と言いたくなる。メタに立って相手の矮小さを際立たせるというか、相手と同じ土俵では戦ってあげないことが、煽りとして一番有効であると考えているかのようだ。

ムキになって1階で戦うことは場合によってはたしかにみっともないのだが、戦いになりそうと見るや2階に登ってマウントするのは、それはそれで不誠実だろうと思うことがある。そういう戦略は一見すると物分りがよく理知的なようでいて、つまるところみっともなくダサい状態を回避しようとする、頑固なプライドのあらわれではないか。その人はその人でムキになって2階に登っているのだが、自分はムキになっていないことを装っている分、1階でキレ回す人にはない独特なわるさがある。一般的に「私は知的にマッチョなので、そんなこと言われても痛くも痒くもない」的なことを言う人は、本性としてはすごくプライドが高くて、沸点が浅いんだろうと思ってしまう。私自身、「私は知的にマッチョ〜」的なことをたまに言う人だし、本性としてはすごくプライドが高くて、沸点が浅い

少なくとも、人間がそうやってメタ的に意地を張ってしまうことはある程度仕方がないだろうとは思っている。みっともないときには、みっともなくあるほかないのだ。これは、2階の人への3階からのマウントである。

2023/04/22

ビアズリーの「What Are Critics For?」(1978)という論文を読んだ。批評家の狙い・果たす役割について分析したもので、ビアズリーはおおまかにふたつの批評家観を導入し、一方を擁護する。(1)消費者組合としての批評モデルによれば、批評家は限られたリソースのなかでどの作品を選んで鑑賞すべきか、プラクティカルな指針を与える存在であり、理由とセットで判断(ここでは価値判断、評決のこと)を伝達することによって、これを行う。批評家はいわば、消費者に奉仕する存在である。他方、(2)広報係としての批評モデルによれば、批評家は難解で理解し難い作品の分析・注釈を行うことで、作品がちゃんと消費者に理解され堪能されることを手助けする存在であり、奉仕の相手は生産者、つまり芸術家ないし芸術という事業そのものである。あまりこういう区別は見たことがないのでなるほどなと思った。私としては(1)をコンサルタント、(2)をプロモーターと呼ぶのがよいように思う。

大きな対立点は、前者では批評家は理由づけられた評価を下すのが主要な仕事であり、後者はそうではないという点だ。芸術事業というものをより盛んにするためには、基本的になんでもかんでも褒めて、好きになってもらう必要があり、客観的に評価することは目的にそぐわない。ビアズリーは前者、消費者組合としての批評モデルを好んでいて、広報係としての批評モデルが語る役割はどれも二次的だ、という方針で論じている。

言うまでもなく、「理由づけられた評価」が中心だという点はキャロルがそのままごっそり引き継いだ主張なのだが、ビアズリーのわりと独特なところは、評価の提示によって作品を選ぶ手助けをところまで、肝心な仕事としてカウントしている点だ。キャロルはあまりそういったpractical adviceの役割にまでコミットしていないというか、批評家自身のreasonableな評価を受け手に信じてもらうところまでが仕事で、その先で受け手がなにをするかは知らん、というモデルのように思われる。ビアズリーのほうが利他的で、キャロルのほうが利己的だ。

どちらに軍配が上がるかと言うと、私はキャロルだと思う。ビアズリーに限らず広く実践説と呼べるような、「批評家は鑑賞者になにかやってもらおうとしている」な見解は、批評実践にピッタリ合致しているようには思われない。単純に意図だけを問題にするとしても、作品に(特定の仕方で)アクセスしてもらおうという意図を持っている批評家ばかりではないように思う。他方、自分の言っていることを合理的なものとして信じてもらおうとしていない批評家は、私にはちょっと想像できない。この点、批評家のモデルはコンサルタントでもプロモーターでもなく、やはりアナリシストではないかと思う。もちろん、この話題はどこのどの「批評実践」をデータとしているかでだいぶ直観がブレるので、むずかしいところではある。作品の推薦を目的に書かれているような批評を、私がほとんど読んだことないだけかもしれない。

まだ読めていないが、James Grantの『The Critical Imagination』(2013)がこの辺の話題をうまくまとめてくれているっぽいので、次の課題図書にしようと思っている。

2023/04/21

ポケモンSVをやる機会には恵まれていないが、新たに導入されたらしい「古来の姿」「未来の姿」がどちらも強く装飾的なのは面白いと思う。古来ポケモンは呪術的なボディペイントを思わせる彩色を持っており、未来ポケモンはメカニックなガジェット感で盛られている。結果的に、現代ポケモンであるところのプリンやバンギラスのほうが、ミニマルでモダンな感じになっている。

初期のキャラクターデザインは質素だが、時代が進むごとにより派手で刺激的になっていく、というのは一般的な現象だ(遊戯王もデュエルマスターズもそうだろう)。そこにはハードの制約もあるだろうし、より目新しいものを提示しようとする商業的な努力も伺えるのだが、それだけではないような気もする。つまり、古代や未来のマキシマリズムに比べたら、現代こそもっとも非装飾的でミニマルな時代なのだ、というのは一定真理を捉えているように思えてならない。それは歴史的な事実についての真理ではなく、想像力についての真理だ。私たちはどうしても、現代のファッションや建築や生き物をシンプルで退屈なものとして捉え、古代や未来のそれらを装飾的で過剰なものとして想像してしまうのだろう。想像上の文化史において、私たちはつねにより過剰なものからより過剰なものへと向かう、最も質素な現在にいる。そうやって後ろだけでなく前からの過剰さにも抵抗する精神性として、「モダン」であることを捉え直すのはけっこう面白いかもしれない。

2023/04/20

対面での非常勤、2週目。もう慣れた。初めてと2回目とではだいぶと勝手が違うものだ。けっこうかかるなと思っていた移動も、『Mothership Connection』を聞きながら『猫のゆりかご』でも読んでたらあっという間だ。ファンク聞いてカート・ヴォネガット読んでいると、ほんと学部時代から好きなものを擦りつづけるばかりの大人になってしまった感があるのだが、それはそれで別の話だ。

夏にはまだちょっと早いが、山形のだしをつくった。あれこれ切り刻んで混ぜ合わせるだけなのだが、今年はぶんぶんチョッパーもあるので一層らくちんだった。それにしても、私のぶんぶんチョッパーはまだ買ってから半年ぐらいのはずなのに、もうプラスチック部分が割れに割れている。ごまかしごまかし使っているが、ぶんぶんした勢いで大破して手を切る恐れもあるので、悩ましいところだ。

2023/04/19

休日はなにをするかという質問に「寝る」で返す人、コミュニケーション下手すぎだろと前から思っていたのだが、ことによるとこれは質問がよくなくて、「休(むためにあてがわれた)日はなにをする(ことによって最大限の休息を得ようとしているの)か」ととられているのかもしれない。そりゃ私だって、休むための日だったら寝るのが一番だと思う。しかし、質問者が効果的な休息の手段を知りたがっており、「寝る」という自明な答えをありがたがる場面はきわめて限定的なので、デフォではやはりhobbyを聞かれているのだととるのが、いわゆる〈空気が読める〉ということだろう。

しかし、寝ることがhobbyなのだというような人も世の中にはいる。私は、あんまり寝ることをアクティビティとして楽しむタイプの人間ではない。寝れないというわけでも寝たくないというわけでもないし、夜はふつうの人よりは寝ているほうだ。ただ、寝ることがhobbyなのだというようなタイプの人間ではないのだ。

関連して言うと、エナジードリンクの類も決して飲まない。あの手の飲み物は本当に気味が悪いと思っていて、なにか根本的に思い違いをしている人が作り、思い違いをしている人が飲んでいるものだとぐらいに考えている。コーヒーも、カフェイン摂取の必要性に迫られて飲むことはほとんどない。総じて、眠りというのはこちらの自由意志の埒外にあり、hobbyとしてコンテンツ的に理解できるようなものではないんじゃないか。眠りは、来て、去り、また来るような、私ですらない誰かの瞬きである。

2023/04/18

『RRR』は見ていないので、『バーフバリ』がしょうもなかったことからの帰納的一般化によりおそらくしょうもないだろう、というぐらいしか言うことがないのだが、暴力的な映画だとは思いもよらなかったというのはさすがに白々しいように思う。最低限のあらすじや予告編、あるいはポスターだけでも見ればわかるように、屈強な男たちが武器を持って傷つけあう話なのであって、キャラクターの怪我や死についてはある程度心構えを持って見るべきだろう(というか意識的にそうせずとも、サブパーソナルにそういう鑑賞の用意が整うはずだろう)。

もっとも、『RRR』をめぐる熱狂はマーベルをめぐるそれと一緒で、傍から見ても度を越していてきついところは確かにある。「なにも考えず映画館に走れ!」的な口コミ、★5.0つけなきゃ不感症みたいな煽りは、不誠実だし幼稚だろう。映画というのはどうしてもサーカスの子孫なので、そういうポピュリズム的な熱狂と相性のよいところがある。そういう勢いに乗せられて、ろくに下調べせず見に行ったのは行った側の落度だが、いくらか気の毒ではある。

2023/04/17

アウトラインだけ用意していたフィクション論文をがーっと文章化し、英訳までするという怒涛の進捗を見せた。楽しいのでずっとやっていられる。想像的没入とか崇高さとか、関連する論点もたくさん見えてきたが、いかんせん4000ワードがリミットなので欲張らずミニマルにまとめようと思う。

2023/04/16

28歳になった。14歳の二倍だ。実家に帰って老犬を揉み、バーベキューとケーキをバク食いした。それから1時間ぐらいピアノを練習して、「月の光」の冒頭あたりだけ弾けるようになった。はじめて楽譜で見たが、拍子が思ってた感じとだいぶ違った。ずっと、小節の頭じゃないところを頭だと思って聞いていたみたいだ。28歳になって最初の発見だ。

主に大学で作業するときの休憩時間にフレッシュネスバーガーで読み進めていた『ガラスの街』も読み終えた。ド直球に面白い小説で、ちまちま読むのが歯がゆかった(細切れに読むのも、それはそれでよかったが)。『幽霊たち』とはかなりテイストが似ていて、どちらも「私」というもののもろさを主題としている。『ガラスの街』のクインは最初の最初から、確固とした「私」を持つことに怯えているペソア的な人物であり、ニューヨークという雑踏のなかで透明になることを肯定的に価値づけていている。もっとリアリスト寄りだった『幽霊たち』のブルーに比べると、クインはかなり倒錯的な人物のように思われる。彼のアイデンティティを脅かすようなトラブルがゆるやかに、しかし確実に降りかかるのだが、ある意味で彼がそれを望んでいることは明らかだ。これは受難の物語だが、成就の物語でもある。なんだか、私の人生までこうなってしまうのではないかという、不気味さと期待が入り混じった気分を喚起される、パワフルな小説だ。

2023/04/15

この2日ぐらいですっかりエレクトリック・マイルスが好きになった。ファンク、とくに長時間同じフレーズをしつこく演奏するタイプのファンクが大好きなので、美的プロファイルとしては入り込みやすいほうなのは確かだ。『Bitches Brew』もよいが、『In A Silent Way』がかなりはまっている。しかしこう、いたってミニマルな音楽として始動したフュージョンが、なぜああいう技術ひけらかしのマキシマリズムに陥ったのか不思議だ。ピロピロと戦隊モノヒーローみたいな音楽を奏でるフュージョンは、ほんとうに好きになれないジャンルのひとつだ。

ついでに言えば、ヒップホップも長年挑戦しつつ一向に好きになれないジャンルだ。こちらはファンキーかつミニマルでもあるので、なぜハマれないのか自分でもよく分からない。バンド演奏が好きというのは少なからずあるが、あの手のやんちゃさが嫌いというのに尽きるのだろう。

2023/04/14

そういえば、むかし東京都美術館でフェルメール《真珠の耳飾りの少女》を見たときに、あの少女と同じ格好をしたミッフィーのぬいぐるみストラップを買ったのをふと思い出した。高校のロッカーに吊るしていた記憶があるのだが、あれどこ行ったのだろう。

2023/04/13

2年目にして初出勤で非常勤先にやってきた。80人弱の実体を前に喋るのは数年ぶりなので最初はだいぶ緊張したが、後半はゾーンに入ったのでどうにかなった。女子大というのもあって(?)基本的にはみんな静かに聞いてくれているのだが、静かすぎてちょっとカルチャーショックだった。一般教養の講義ってこんな背筋を伸ばして聞くものだったっけか。

講義前に首にぶらさげていた教員証をなくしてだいぶ焦った(風に飛ばされて背中側にひっくり返っていただけ)のと、帰りにMacの充電ケーブルを忘れていってしまった(AV機器の上に置きっぱなし)のと、出勤簿をつける必要があるのを後で知ったのと、いつも着ているシャツの袖ががっつりほつれたのを除けば、初回の動きとしてはなんとか及第点だろう。

2023/04/12

数年ごしの唐揚げチャレンジ。片栗粉があんまり残っていなかったので、小麦粉とパン粉と雑にブレンドした。衣があまり定着しなかったようで、揚げているさなかボロボロ落ち、最終的には素揚げした味付け鶏みたいなのができた。うまかった。キャベツも一玉買ってきたので、あしたザワークラウトを漬けようと思う。

2023/04/11

〈信じる上で困ったり迷ったり惑うことは不快であり、そうした経験を与えてくる事物にはネガティブな価値があると言いたくなるが、想像する上で迷子になることは不快ではなく、むしろ快である〉というアイデアをここ数ヶ月こねくり回している。支離滅裂な学術論文に対しては、不快感を覚えたり、回避しようとするのが適切であるが、支離滅裂なフィクション作品に対しては必ずしもそうじゃない、という非対称性がある。みたいな話を、『Analysis』論文では書こうとしている。

しかし、「想像において迷子になる」経験のポジティブさについて、どう論証すればいいのかまだ決定打が得られていない。私としては、ドノソやピンチョンを読んだりするときに、スムーズな想像を妨げられるがゆえの快があるのは自明だぐらいに思っている。快でなくても、そこにはおそらくは、変容的な経験、日常生活の異化、整合性や合理性の領域からの解放感といった、好ましい認知的・情動的状態をもたらすという道具的価値があるのだろう。また、一般的に、フィクションが喚起する情動は、たとえそれが現実においては不快であったとしても、フィクション経験において快でありうる。悲劇とかホラーのパラドクスは、想像的迷子に関しても成り立つかもしれない。

これらの点は私が主張したいことをある程度サポートしてくれると信じているが、最終的には論証とは違うなんらかの経路を通して受け入れてもらうほかないだろうと、なんとなく予想している。これはたぶん、山口尚さんが述べるところの「物事を新たな相のもとで見られるようにする」類の論文になるのだろう。あるいは、シブリーの知覚的証明を、フィクション作品一般に対して行うものとも言えるかもしれない。なんにせよ、あまり意識的に書いたことがない類の論文なので、楽しいし、学びが多い。

2023/04/10

歯科検診に行ってきた。よく磨けているとお褒めいただき、なんの問題もなかったので、話のネタもない。

大学にも行ってきた。4月なのかなんなのか、やたらと人が多くてbadだ。院生作業室もまれに見る混雑具合で、駿台の自習室かと思った(まぁ、隣空く程度には空いているが)。ぽつりぽつり独り言を言うタイプの狂人が同空間に紛れ込んでいて、総合的にはぜんぜんダメな環境だったので、早めに帰った。あの手の狂人どこにでもいるのだが、こちらからできることはなにもない。

批評の理由づけに関する、Gorodeisky (2022)を読んでいる。ゴロデイスキーは、前に読んだ美的価値のVMP論文で言っていたところの「美的快楽」をこちらでは「鑑賞=堪能[appreciation]」と呼んで、批評とはappreciationの報告であり、同じようにappreciateしてもらうことが狙いなのだとする。批評家は自分がどういう認知的・情動的appreciationをしたのかの報告をしている、というのはまぁ分かる話だが、同じようにappreciateしてもらうことを狙いとして、理由づけられた批評文を書いているというのはあまりピンときていない。VMP論文でも触れていたが、ゴロデイスキーはオススメ[recommendation]という観点から美的・批評的コミュニケーションを見ているっぽくて、かつ、オススメは好きなものを好きになってもらう営みとしてざっくり理解しているらしい。解釈や文脈づけのような作業も、このappreciationの伝達という中心的・一次的目的に従属しているとする。「批評は好き嫌いの問題じゃない」というキャロルの立場とはシャープに対立している気がする。全部読んでからもうちょっと考えてみる。

2023/04/09

早めの誕生日祝いで、恋人と中華のコースを食べてきた。看板メニューのよだれ鶏がかなりうまく、揚げワンタン、肉団子あたりも気に入った。池尻大橋の空中庭園を見た後、三茶まで入念に散歩し、Sanityで欲しかったビールまで手に入れた。空中庭園には、めっちゃ平べったい犬もいた。景気よく28歳に突入できそうだ。

「ミュシャは二流の画家で、芸術ではない」について、「芸術である」には分類適用法と評価的用法がね……などと専門家ぶりたかったが、啓蒙する義理もないので、そっと胸のうちにしまった。

2023/04/08

中目黒のメキシカンでバク食いした。すごくビールに合う面々で、脳みそに直接ぶっささる快があった。今年の夏はもっとメキシカンを食べようと思う。

2023/04/07

ちゃん読。Being for Beautyを読み進めている。標準化美的快楽主義の批判をする第4章だ。快楽主義では、説明できないとされることがいろいろあるのだが、結構面白く読めたのは美的個性の問題だ。快楽主義では、コミットメントせず、より大きな快楽を与えてくれるものを選び続けるほうが合理的なのだが、実際の美的生活では、自分のスタイルに一貫したものを選ぶ理由がしばしばある。普段からコンサバな格好をしているひとは、いくらおしゃれでも、ちゃらい靴よりコンサバな靴を選ぶ理由がある。そして、これはより大きな美的快楽を与えてくれるほうを選ぶはずだ、と予想する快楽主義に反している、というわけだ。

いくつか応答は考えられるが、まずそうやって付与される理由は別に美的な理由じゃないんじゃないか、というのがあり、ロペスも触れている。自分の人としての一貫性を保とうとするのは、たとえそれが美的嗜好の一貫性だとしても、ものの美しさに突き動かされてなにかするのとは、ちょっと違う現象のように思われる。後者において理由を与えるのはアイテムだが、前者において理由を与えているのは自分のアイデンティティだ。両方まとめて「美的理由」のラベルで指し示すには、なんらか説明が必要だろう。

第二に、考え方によっては、美的個性を優先することこそが自分の快楽を最大化する、という説明だってできそうだ。つまり、そこだけ見たときにどのアイテムが大きな美的快楽を与えてくれそうかという選好ではなく、それに加えて自分のスタイルまで考慮してどれがより大きな快楽を得られそうか、というのが気にすべき美的選好なのではないか。選好をローカルにとるか、すべてを考慮した場合のものとしてとるかは、『経済学の哲学入門』がそういう話を扱っていた。むずかしくて挫折したが。

Being for Beautyも博論に直接かかわる本ではないのだが、ポスドクでは美的価値と美的経験をやろうと思っているので、勉強会を軸に貯金しておくのはいいことかもしれない。学振書類などを書くと、はやくその内容でやりたいモチベーションが高まるのだが、実際やり始めるのは一年後とかなので歯がゆい。

2023/04/06

今日もせっせと自分の論文を英訳した。面倒なので日本語で投げようと思っていたやつだが、グラマリーの元を取るためにも自分にむち打って訳した。国際ジャーナルに投げるほど新規性のある内容ではないので、国内ジャーナルに投げることになるだろう。昔からよくわかっていないのだが、国内ジャーナルの英語論文とはつまりはなんなのだろうか。それは、誰が査読していて、どれだけオーセンティックな業績になり、どんなメリットとデメリットがあるのか、いまいちよくわかっていない(日本人の読者に対してフレンドリーでないのはもちろんデメリットだろう)。もし通れば、リサーチマップかどこかに日本語版をあげるのもありだな。

海外学振もおおむね終わったので、これさえ投げれば3月〜4月のタスク進捗としては上々だ。すごく久々に、「やることやったので、新しいことでもやるか」的なフェイズに入れる。4月〜5月のタスクはいまのところこんな感じ。

2023/04/05

すがすがしいまでの倫理学レベルゼロでこれまでやってきたのだが、『メタ倫理学入門』を読んでLopes (2018)の分からなかったところがするする分かりつつある。なんで早く読まなかったの。ロペスに限らず、「美学って、結構倫理学の後追いなんだな」という発見もあった。

美学もやらなきゃいけないが、博論が落ち着いたらちゃんとAreas of Specializationを意識した勉強もしなきゃな、と思わされた。

2023/04/04

4年ちょい前に塾で小論文を教えていた子がひさびさに遊びに来ていたのだが、大学に進学していまは美学を学んでいるらしいと聞き、だいぶエモかった。受験小論文のレクチャーそっちのけであれこれ喋ったのが、思いもよらぬかたちで人様の進路選択に影響していたらしい。すごいことだし、身が引き締まる思いだ。大学院もぜひということで悪魔のいざないをしておいた。

2023/04/03

駒場に来た。新歓でわいわいしている。休学で在学期間が延び、学生証の期限が切れたので学務課に行ったのだが、言わずとも新しい学生証を用意してくれていてその場で交換できた。博論を進め、フレッシュネスで塩レモンチキンバーガー×2を食べた。今日も時間をずらして16時頃にいったのだが、近くでなんかイベントでもやっているのか外国の人がたくさんいて大混雑だった。20時に駒場を出て、帰宅。セブンで買ったサッポロの「シン・レモンサワー」がけっこう美味しくて、レモンサワーvibesが刺激されたので23時過ぎにスーパーへ行き材料を買ってきた。自分で作ったやつは、まぁ、そこそこだった。

2023/04/02

私の名前の漢字(清弘)は私が自分で選んで付けたものなのだが、部分的にせよ、自分の名前を自分で決められたのは気分がいい。それは、強いられて始まってしまうものとしての人生を、いくらか飼いならせたような安心感を与えてくれる。誰しも、生きている間に一度ぐらいは、自分の戸籍上の名前を好きに変更するチャンスを与えられるべきではないか。与えられた名前で生きていかなければならないのは、いくつかの観点から見れば、与えられた見た目や能力で生きていかなければならないことよりも悲惨ではないか。

2023/04/01

東京都美術館でエゴン・シーレ展を見てきた。私が美術の講義で教えているカテゴリーで言えば、「歪曲」の画家だ。代表作の《死と乙女》は陰気臭くて好みじゃないが、今回来ていた別の代表作《ほおずきの実のある自画像》はかなりかっこいい。人体を描いている一連の作品はどれもtheエゴン・シーレといった感じだったが、風景画《モルダウ河畔のクルマウ(小さな街IV)》までエゴン・シーレっぽい筆致だったのは面白かった。美術館は楽しいが、運動不足がたたって腰がおしまいを迎えた。

2023/03/31

もうちょっと攻撃的なパーソナリティを持っていたら、「なぜあなたはランクづけに興味がないふりをするのか」という発表をしていただろう。ランクづけは楽しい。世界で最も美しい顔ベスト100だとか、最も偉大なギタリスト100とか、最強最高最優秀が気になるほうが自然であって、そんなランキングに意味はないし気にするのはしょうもないと斜に構えるのには、なんらかこじれた動機が見え隠れする。個別のランキングをばかげているとかしょうもないとか不正確だと言うのは理にかなっているが、一般的にランキングは面白くないなんていう主張が、どう正当化されるのか私にはわかりかねる。YouTubeやらTikTokのサムネイルを見れば、私たちがいかにランクづけに飢えているかは自ずと明らかだろう。

ランキングは失礼だ、という主張ならよく分かる。しかしそれでいくとあらゆる批評や好き嫌いは多かれ少なかれ失礼なので、順位をつけることがとりわけ失礼な感じもしない。

2023/03/30

鎌倉に行ってきた。天気よし。いくつか懐かしのスポット(オクシモロン、報国寺、鶴岡八幡宮、イワタコーヒー店)をめぐったのと、未知のスポット(豆柴カフェ)をめぐった。夕方に行った由比ヶ浜も、日没直後にすごく青くなってきれいだった。

2023/03/29

岩盤浴に行ってきた。行きの送迎バスがわれわれ直前で満員になり力強く出鼻をくじかれたが、うまいこと立て直してHAPPYな一日を過ごした。帰りに食べた油そばもかなり美味しかった。

2023/03/28

最近仕入れたY1000を飲んでいるが、とくに効果は実感していない。ここ数年はもともとよく寝れている方だし、悪夢や悪夢に準ずる夢ならもともとよく見るほうだ。

2023/03/27

舌に口内炎×2ができた。

2023/03/26

学振をおおむね書けたので、読みたいものを読んでいる。健康と同じで、妨げられてはじめてふだんの豊かさを実感する、みたいなところがある。

2023/03/25

美的性格[aesthetic character]という語は、シブリーやビアズリー、あるいは現代の論者がそれぞれ異なる目的において使っている。慎重に議論を進めているときのシブリーは、美的概念(優美である、けばけばしい)によって指示される、非美的な基礎特徴以上・美的価値未満の項目を意図して「美的性格」と言ったりする(シブリーがより好んでいる「美的質」はどうしても価値含みっぽく見えるため?)。美的性格は必ずしも価値含みではなく(美的価値を構成しているわけではなく)、優美だから良い場合も優美だから悪い場合もある。しかし、いまだに理解しきれていない議論として、シブリーは各美的性格と結びついた、デフォルトの価値があるとも考えているっぽい(General Criteria and Reasons in Aesthetics)。優美であることは、それだけ取れば価値的にネガティブではなくポジティブである。こういう仕方で、美的性格には価値の極性があるのをどうもシブリーは認めているっぽい。この極性は、個別の場面である美的性格を持つことがある価値を持つことを含意する、というほど強いものでないのは明らかだ。しかし、だとすれば統計的結びつきなのか、概念的結びつきなのか、傾向性なのかなんなのかわからない。結局、個別の場面でオーバーオールな価値づけがなされるなら、美的質ごとに極性があるという事実はそんなに重要じゃないし、そのことでもってシブリーが一般主義を擁護できるわけでもない、という批判をTsu (2019)で読んだ。

ビアズリーになってくると、「美的性格」はアイテムではなく美的経験が担うものになり、経験を美的なものにしているような一連の現象学的特徴を指すものになる(無関心性とかそういうやつ)。ビアズリーはもっと素直に、そういった美的性格が経験を価値あるものにしていると考えている気がする。

結局、美的性格はアイテムが持つのか経験が持つのか、価値中立なのか価値含みなのか、その辺が統一されていないし今後もされる見込みはなさそうなので、危ういといえば危うい語だ。しかしだからこそ、美的なものを美的たらしめているなんらかの要素を雑に指示したいときには便利なアンブレラタームだ。

2023/03/24

ホットドッグに飽きてきた。

2023/03/23

PhilPeopleに登録することは、あらゆる哲学者に強くおすすめできる。なにがいいって、自分が普段から追っている哲学者たちをフォローしておけば、彼彼女らがLikeした最新の論文や論文ドラフトがフィードに流れてくるので、文献収集がめちゃくちゃ捗るのだ。

一点だけうざすぎる点を挙げると、東大のアドレスで登録しているせいで、リンクをクリックするたび「あなたの大学はサブスクリプション登録してくれてませんね?ライブラリアンに頼んでください!」的なメッセージが表示されて数十秒待たされる点だ。常勤の研究者ならともかく、いち院生にどうしろというのだ。

2023/03/22

大学の院生作業室にこもって、おらおらと学振書類を書き進めた。この恒例チャレンジも今年で5回目なので、もういまさらとやかく言っても仕方がないのだが、「研究方法」という欄を見るたび、哲学には読んで考えて書く以外に方法もなにもないだろうと思ってしまう。基本的には、この手の助成金はやはり理系向きであって、(実証的でない)文系はそれを形式的に模倣して書くことになるのだろう。

今年はじめて書いている海外学振には、ここ数年のDCや国内PDにはある「なりたい研究者像」がない。実際、あれでどう将来性を見極めるのか私にはさっぱりわからないので、ないのは大変ありがたい。就活面接もそうだが、夢や目標をうまく語れることと、当人の能力・将来性にどれだけ相関があるのか、私にはさっぱりわからない。それはそうと、学振というのはコスモポリタンな研究者というより、なんだかんだ本国のあれやこれに貢献する研究者の養成が目的なのだろうと認識していたのだが、それで言うと、これから海外に出ていこうとしている研究者に対してこそ「なりたい研究者像」を尋ねるべきなのではないか、とは思う。もちろん、その目的なのだとしたらそうするべきじゃない?という以上のものではない。

2023/03/21

自転車の後輪が頻繁にぺちゃぺちゃになるのを騙し騙し使っていたが、どうにもならなくなってきたので修理に出したら見事にパンクしていた。穴の空いたチューブも見せてもらったが、性格が悪いので、「交換したあとでぶった切ったやつを見せられても分からんな」とか思っていた。

2023/03/20

論文を提出。遠く遠く羽ばたいてくれ。遠ければ遠いほどよい。

2023/03/19

短い研究人生のなかで、当たり前のようにauthor-date式しかやったことがなかったのだが、出そうとしているジャーナルが脚注に文献を書かせるスタイルを指定していて頭がフリーズした。単純にやったことがないので困った部分もあるが、美的に見て圧倒的にauthor-date式推しので困った。ちゃんと内容をもった注と文献を載せるだけの注がごちゃまぜになるの、気にならないのだろうか。

それと、PhilPapersがそれで出力するというので、当たり前のようにAPAでしか文献表を作ったことがなかったのだが、今回はシカゴを求められている。この機にいい加減ちゃんと勉強しようという気持ちになった。私(およびPhilPapersの)のAPAは、given nameのイニシャライズもしないし、厳密にはAPAもどきのなんかしらだ。

2023/03/18

最近のマイブームはホットドッグだ。ピクルス、たまねぎ、レモン汁、マスタードはあらかじめ混ぜ合わせて瓶詰めしており、コッペパンとソーセージを焼いてケチャップとマヨネーズをかければ、あっという間に完成する。ホットサンドよりも、−30%ぐらい楽ちんだ。

2023/03/17

ちょっと自分では解決できなさそうな問題として、知覚の叙実性テーゼと錯覚可能性はどう折り合いがつくのかがわからなくなった。知覚の内容が叙実的[factive]だというのはよく読むし、そうなのだとばかり思っていた。つまり、正常で適切な知覚が「xはFである」を表象するなら、世界側の事実として現にxはFである。知覚は実在に対して透明であり、実在に反する内容を帰属する場合には知覚が正常・適切に働いておらず、誤った判断をしてしまっていることになる。他方で、ミュラーリヤー錯視を見るときのように、私たちはときに錯覚をする。知覚は「2本の線の長さは異なる」を表象するが、それは図像に関する世界側の事実と合致しない。知覚がなされる状況は異常とも不適切とも言えないので、そうなると知覚経験の内容は誤ったものでありうるということになる。結局のところ、知覚の内容は不可謬なのか可謬なのかが分からない。

カテゴリー絡みで種性質の知覚について読んでいるが、知覚の哲学についての基本的な背景がまだ掴みきれていないので、源河さんの本とか読み直したほうがよさそうだな。

2023/03/16

AI翻訳がどんどん精度を高めて肉体の翻訳家や通訳が不要になるに至るのは、どう考えても社会的に良いことだと思うし、さっさとそうなってくれと思う。任意の職種Xがテクノロジーのせいで廃業になることの悲劇的側面ばかり語られがちだが、他の食い扶持を探せばいいのにとしか思わない。書かれたものや話されたものがタイムラグや誤解なしに言語の壁を超えられるなんて、みんなもっと素直に喜ぶべきだろう。

2023/03/15

博論を本にするとしてどんな装丁にしようかと妄想したりするのだが、現段階でいくつか希望はある。まず、なるべくソフトカバーにしたい。ライカンの『言語哲学』みたいな、あのぼこぼこした表紙が好みだ。そう、それで『言語哲学』と同様、横書きだとうれしい。提出する博論はこのままいけば英語になるので、その雰囲気を残した本にしたい。ふつうに、私は縦書きより横書きの本のほうが書き込みやすくて好きだ。注は脚注に限る。

表紙デザインはぼんやりとしたイメージだが、エレクトロニカとかIDMのアルバム・ジャケットっぽい、黒×シルバーのパターンを取り入れたい。Joy Divisionの『Unknown Pleasures』みたいなやつだ。ele-kingが出しているdefinitiveシリーズみたいに、上1/3ぐらいにタイトル、その下に正方形でパターンを入れるのもいいかもしれない。やっぱり『分析美学基本論文集』のイメージが強くて、分析美学のイメージカラーといえばシルバーな気はしている。なんにせよ、具象的な写真やらイラストは入れずにミニマルにしたい。

2023/03/14

ツイートもしたが、今日はWimsatt & Beardsleyのものだとされているツーショットがウィムザットでもビアズリーでもない可能性に気づいた。「意図の誤謬」を紹介するサイトでたびたび見かけるのですっかりそうなのだと思ってしまった。

結構入念にリサーチして、後年のウィムザットやビアズリーの写真をたくさん見つけてきたのだが、残念ながらこの話題に興味のある日本人は多くて3人ぐらいしかいないので、ツイートが伸びることはなかった。大陸哲学者のスター性に比べたら分析哲学者は引っ込み思案というか、みんなあまり写真を撮られるのが好きじゃなさそうに思われる。シブリーの写真はいまだに一枚も知らない。オックスフォードかランカスターには記録があるのだろうか。

2023/03/13

ところで、あらゆるメンズ靴のなかでローファーがもっとも見栄えがいいと思っているのだが、革靴とスニーカーとで履き心地が1:3ぐらいならまだしも、体感では1:30ぐらい違うので、足をいたわる限りスニーカーを履くことになる。しかし、中敷きとかがアレンジされていて履きやすいローファーよりも、トラディショナルで硬いローファーのほうに惹かれてしまうのは、つまりそういうことなのだろう。

2023/03/12

風景一般に興味がないと思っていたが、そうではなく、眺望というものにあまり興味がないのに気がついた。遠くから見られた街や自然環境は色や形に抽象化されていて、同じデザインのなにかでぱっと代替可能な気がしてくる(写真でいいじゃん、とも思う)。遠くから種Kのxを見ることは、種Kとして見ることになりづらいのではないか。シブリーの区別で言えば、attributiveな美的判断ではなくpredicativeなそれになりやすい気がする。そして、predicativeな美的判断はあまりにありふれているので、そんなに特別感がない。タワマンに住んでいてベランダからの景観に毎日満足できる人は私からすると不思議だし、それは「飽きないのかな?」というのとは別の次元の不思議さだ。

2023/03/11

はじめて美学会に出てきた。河合さんの発表は面白かったし、ひさびさに肉体の知人たちと交流できたのもよかった。

2023/03/10

今週はもりもり作業した。だんだんと修論書いてた頃の追い込みを思い出してきた気がする。自宅でも作業できるタイプなのだが、着替えて外に出るということが部分的には達成感を構成しているような気がする。この、「感」だけあって実質的な達成がないことにすごく警戒心があったのだが、達成感があることはもっとやろうという好循環をもたらしてくれるので、なかなか馬鹿にはできないことに最近気づいた。

2023/03/09

Stokes (2014)の芸術鑑賞における認知的侵入の論文を読み終えたが、たいへん立派な論文だった。相変わらず大学に入るとDeepLが使えなくなる時間帯があるのだが、英文直読みでもサラサラ入ってくる一本だ。前に、Stokesに反対して知覚学習を推すRansom (2022)を紹介したが、改めてそちらの立派さも分かる。この辺の認知科学とか読んでいる人は、整ったクリアな文体で書いてくれるので、とてもありがたい。(ナナイもそうだ)

2023/03/08

日本の現代のコンテンツに総じて興味がないという話を2022/12/28でしたが、日本で生きていると日本国産のものを消費せよという圧はそれなりに感じることがある。圧というか、輸入には手間暇がかかるので、流通しているコンテンツのほとんどがまずもって国産であることは当たり前といえば当たり前だ。最近は、クラフトビールでもこれを実感している。その辺のビールバーで繋がれているビールは、10タップあるとして7〜8ぐらいの割合で国内ビールであることがかなり多い。これは、芯から西洋かぶれの私にとってはかなり残念なことだ。(アンテナアメリカはオアシスだ。)

いまのところ飲んだことのある国内ブリュワリーのビールが単純にあまり好みではない、というのもある。クラフトビールに入門した人は、誰もが一度はヘイジーIPAにハマると聞くが、私はあれが相対的に言ってそれほど好みではない。フルーティすぎるとジュースを飲んでいる気分になるし、お金かけてまでジュースが飲みたいわけではないのだ。

2023/03/07

フランク・シブリーの文章は、文単位では読みやすいのに、論文全体としてかなりとっ散らかっていて、適切な段落分けもなければ、親切な節分けもないことが多い。2ページぐらいなら当たり前のように改行なしでべらべらと語ってくる。思えば、オースティンもこんな感じの文章を書いていたので、あの頃のオックスフォードの人たちはこういうスタイルだったのだろうか。どちらも、推敲された論文というよりまさにいま講義で語っているようなライブ感のある文章だ。

訳していてとりわけ気になるのは、とくに逆接でもない場面でシブリーが頻繁に「But」を使うところだ。それは、シブリーが話をつなげるときの基本的なリズムなのだろう。「でも」とか「いや」で話し始めるのは日本語でもあるが、それに近い気がする。

2023/03/06

現代美学の論文、「認知科学や形而上学や社会存在論やらのアレやコレを使って美学的問題に取り組んでみました」系のものがかなり多いと思うし、私のカテゴリー制度論もそれなのだが、これは分野としては良し悪しだと思う。学際的であるのは間違いなく分析美学の楽しいところであり、対外的に誇れるところなのだが、問題に取り組むナラデハのツールがないのだとしたらちょっと残念だろう。美学という分野は問いだけあって、しかもそれは分野の最初期にはほぼ出揃っていて、あとはその時代ごとのやり方でこね回すだけだと思わないでもない。なんなら哲学は一般的にそうなので、そんなに嘆かわしいことでもないのかもしれない。

2023/03/05

油そばを作って食べた。ライフハック:茹でているときに溶け出した小麦粉でトロトロブニュブニュ麺になってしまうのを回避するためには、別のお湯を用意してさっとすすぐのが吉だ。

2023/03/04

現代美学を読めば読むほどシブリーえらいと思うし、シブリーを読めば読むほどカントえらいと思う。

2023/03/03

どかんと買い出しに行ってきたが、計算してみればそんなに何食も食べれる感じでもなかった。おかしいな?

それにしたって精肉がほんとうに高い。自炊するからには一食500円ぐらいに収めることが望ましいのだが、鶏もも肉1枚でもう500円を超える。焼いたもも1枚でランチというわけにもいかず、米に即席スープにサラダにドレッシングまでかけたら、なんだかんだ1000円ぐらい行っているのではないか。いろいろ考え出すと、定食屋行ったほうが確実にうまいし楽だし安上がりな可能性すらある。自炊は趣味だ。

2023/03/02

久々に表象の研究室で先輩方に会えたので、ほんのちょっとだけ雑談した。なんかハンス・ベルメールに関する博論本で読書会をされているらしい。

去年度はまる一年、表象の講義に出ていなかった(必要な単位はもう取り終えてしまった)ので、知り合いともすっかり疎遠だ。もともと、私の代は異様に付き合いがわるい。修士のころはまだ半年に一度ぐらい飲み会をしていた記憶があるが、博士になってからはもうさっぱりで、誰がどこでなにをやっているのか、生死含めてほとんど不明だ。先輩方、後輩方はそれぞれ同人誌なんかもやっていて、はたから見ると随分仲がよさげな印象だ。私の代だけ専門の分散が大きい、みたいなこともあるのだろうか。私の代だけみんなカッコつけてて馴れ合いをよしとしない、みたいなところはいくらかありそうだ。私自身、表象から見れば専門は外れ値であり、カッコつけてて馴れ合おうとしていないので、その辺におおいに貢献している。

一般的に言って、学部を出てから友達らしい友達はほとんどできていない。ここで言う「友達」とは、タメ口で話し、1対1で休日を過ごせたり、飲みに行ってちょっとプライベートな話ができる、通常は同年代の相手を指す。学部のふつうに仲のよい友達との距離感に標準化すれば、大学院に入って以後一人も友達ができていない、と言っても過言ではない。それは別に良いことでも悪いことでもないし、大人になるというのは少なからず友達ができなくなることだというぐらいに考えている。

2023/03/01

博論のウォルトン検討章が地獄のように迷走してきていて、毎日数千字書いては数千字消すようなのを繰り返している。手に負えなさ、無力さと向き合うのはたいへん苦しいのだが、すっきり書き上げたときの感動もひとしおであるはずなので、どうにかこうにか突破したい。この博論を書き上げたら、もう当分はウォルトンを読まなくて済む研究をしたい。

2023/02/28

今日は現代文を教えていて、國分功一郎「贅沢を取り戻す」を読んだ。トレンドに踊らされて「消費」を続けるうちは終わりがなくむなしいだけで、ちゃんと設定された上限を超えて「浪費する」=「贅沢する」ことの豊かさを取り戻さなければならない、といった趣旨の短文だ。本当にうまいものを贅沢して食べることは満足を与えるが、「新しい」ことだけに誘惑されて「行ったことがある」店を増やそうとハシゴしても満足はない。大量生産・消費・投棄に問題があるとすれば、それは(しばしば的外れに批判されるように)われわれが贅沢しているせいではなく、われわれが贅沢(そして満足)できなくなってしまったせいなのだ。

消費社会論のさわりをロジカルに導入していてわかりやすい文章だが、ではどうやって「贅沢を取り戻す」のか。筆者の提案はちゃんと「楽しむ」能力を身につけることである。うまい肉の良し悪しが分かってこそ、贅沢な肉をちゃんと楽しんで満足することができる。広い意味での教養があってこそ、消費し続けるだけの悪循環から抜け出せるかもしれない、というわけだ。

最後に出てくるこの「楽しむ」が狭い意味で使われていることは、学生にとってやや難しいポイントかもしれない。トレンディなアクティヴィティに参加することにも快楽はあるだろうが、それはいわば低位のものであり、筆者が問題にしているような「楽しむ」ことではない。明らかに筆者は上位かつ狭い意味での楽しみと、広い意味かつ雑多な楽しみを区別しているのだが、前者の弁別的特徴がなんなのかは語られていない。上等な肉を食べる楽しみは、トレンディなカフェに行く楽しみと、楽しみにおいてなにが違うのか。なぜ前者のほうが上位だと言えるのか。もちろん、毎度おなじみの「なぜわれわれは低俗な楽しみを捨てて理想的鑑賞者にならなければならないのか」という問いはここでも立ち現れてくる。なんらか別の意味でいくらかの楽しみがなければ、そもそもなぜ消費するのか。功利主義的に見れば、浪費よりも消費のほうが最適戦略であるかもしれないではないか。

もちろん、中高生はこれらの問いにまで踏み込む必要はなく、むしろ「現代文では、消費社会はしばしばシス側のキャラクターであり、デフォルトでは批判的に言及される」というパターンを覚えておいたほうが点につながる。

2023/02/27

虫はキモいので、目の届く範囲から駆逐してほしい、というピュアでプリミティブな感性があるので、飢えて死ぬおそれがない限りは昆虫食に参入することはないだろう。環境負荷の高い肉食を続けることがいかにSDGsに反しているとしても、私は虫を食べるぐらいだったら環境破壊に貢献したほうがマシだ。

とはいえ、エビやカニが食べられてコオロギが食べられないのはおかしい、という理屈には一定のもっともらしさがある(シャコはキモいので私は食べないが)。慣れの問題ではあるので、未来の人類は喜々として昆虫をバリバリ食べているのかもしれない。しかし、いまここにいる私がそれに慣れる日が来るとは、とても思えないし、慣れるとしたらそれは間違いなく変容的経験なので、重要な意味においてもはや私ではない。

一応の譲歩として、以下の条件を満たす虫なら考えてやらんこともない。①見た目が甲殻類っぽく、エビやカニからのグラデーションで理解可能なもの。②日常生活で目にする虫じゃないことから、不潔感や危険性に無頓着でいられるものサソリの唐揚げなら学部生のとき野毛の珍獣屋で食べたが、わりと平気だったのは①②を満たしているからだろう。

2023/02/26

今日は早起きしてあちこち出かけた。カフェで食べたモーニングは浅煎りなコーヒーが好みじゃなかったが、雰囲気はゆるくてよかった。家でティラミス食べて一休みした後、ブリトーとタコスを食べに行った。最近はメキシカンが気になっているので、家でもタコスパーティをやりたい。再度家で小休憩した後、中目黒に出てシーシャ屋へ。おしゃんかつお高いところで、よく行っているシーシャ屋の倍ぐらいした。わりとひっきりなしに客が出入りしていたので、さすが中目黒みんなリッチだなぁと思った。酸辣湯麺を食べて帰宅。

2023/02/25

日記を長く続けるコツは、書く内容にこだわらないこと、書かれたものの面白さや一貫性や真偽や量や質を気にしないこと、自分を責めないこと、書くタイミングにこだわらないこと、数日忙しくて書けなかったら後で適当にでっち上げること、文章によって個性を表出しようという欲望を捨てること(意図しようがしまいが個性は表出されるのだから)、自尊心を保てる最低限度さえクリアしていれば推敲せずさっさと筆を置くこと、コツやらノウハウやらを一切信用せず自分のやりやすいやり方でやること、「希望もなく絶望もなく、毎日ちょっとずつ書く」ことだ。あと、日記をつける自分自身へのなんらかの効用を多少期待しつつも期待しすぎないことも入れていい。具体的な効用としては、論文やそれに準ずる文章ばかり読み書きしていると活字に飽きるので、日記は気分転換によい。そんなもんだ。私は日記にそれ以上の効用も哲学も期待していない。

2023/02/24

シブリーの醜さ論文、読んできた。一日で醜さについて学んだことをまとめよう。

シブリーのメインとなる主張は、美と醜が論理的に非対称という点だ。「xは美しいKだ」は限定用法だけでなく述定用法でも使えるが、「xは醜いKだ」はふつう限定用法でしか使えない。形容詞の述定用法/限定用法というのは、ギーチ由来区別をシブリーなりに解釈したテクニカルな区別だが、ざっくり言えば、端的に美しい(醜い)のかカテゴリー相対的に美しい(醜い)のか、の区別に相当する。世の中には、端的に美しい色や形を持ったものもあるが、カテゴリーKとしての美の理想を踏まえて美しいと判断されるものもある。「xは美しい顔だ」は顔カテゴリーとしての理想を踏まえた限定用法になりがちだが、小石には美の理想がないため「xは美しい小石だ」はカテゴリー独立な述定用法となる(ふつうはその色や形が端的に美しい)、などなど。しかし、「xは醜いKだ」は、なんらかのカテゴリーに照らして使われるだけで、カテゴリー独立にそれ自体で醜いことはない。シブリーが長々と検討するのは、いま風に言えば、「醜い」という美的性質はなんらかの歪曲[deformity]という性質によってグラウンディングされる、という考えだ(醜さは歪曲を前提とするが、歪曲していれば必ず醜いというわけではない)。deformedであるためには標準となるformがなければならないため、「醜い」という形容詞は本質的に限定的となる。あるカテゴリーKにとって美しくも醜くもないプレーンな状態をゼロ地点として、プラス方向の果てに美の極みが、マイナス方向の果てに醜の極みがあり、Kの個別の事例はそのどこかにマッピングされる、というイメージだ。

なにかが醜いと言われる場面をケース分けしているのも面白い。私なりに再構成すると、次のようなケースたちを取り上げている。



最後の最後でちらっとしている話も面白かった。シブリーは、醜さと嫌悪感[disgust]の結びつきが偶然的なものだと考えているっぽい。醜いからといって嫌悪感を覚えるとは限らない。とくに、大人は見た目にいちいち情動的には反応しない。子供はセントバーナードが悲しんでいると思ってなぐさめようとするかもしれないが、大人がそうしようとするのはばかげている。見た目がいかに醜く、病気や汚れを思わせるとしても、具体的な恐れがないと分かっている限りで、大人は嫌悪感を覚えることなくただ「醜い」と判断することができる。

こちらの主張については、態度適合分析のように「醜さは嫌悪感をmeritする」みたいな方向から論じる余地があるように思う。実際に、この辺のアプローチからシブリーに応答しようとしている論文としてDoran (2022)を見つけたので、手が空いたら読んでみてもいいかもしれない。醜さ美学、私が無知なだけで、ふつうにけっこう積み重ねのあるトピックっぽい。

2023/02/23

ポジティブな美的経験・美的快楽の特徴づけは盛んなのに、ネガティブな美的経験・美的不快の特徴づけはあんまり見たことがないのに気がする。醜い、ダサい、けばけばしいなど否定的価値の存在は、味気ない、つまらない、単調など肯定的価値の欠如とは異なるだろうし、異なる現象学的性格があってもおかしくない。ふつうに面白い問いなのに、なぜ誰も書いていないのだろう。

なんて思ってたが、シブリーが「醜さについての覚書」という論文を書いていたのを思い出した。明日読もう。

2023/02/22

今日は自分の論文が大きく間違っている点を一箇所見つけた。悩ましいが、言えてないことを言えた気になって発表する恥をかくよりはマシなので、謙虚に対処していくほかない。残念ながら、論文を書き続けていると言えてないことを言えた気になってしまうことは多々あるし、そのまま発表してしまうこともある。謙虚になれるだけなって、かくしかない恥はかくしかない。

2023/02/21

〈普遍的かつ絶対的に客観的な価値判断でなければ、単なる主観的な好き嫌いだ〉という二者択一にたいていの問題が根ざしている。かっちりした事実としての良し悪しが世界側に成り立っており、批評家はそれを検出するだけだとしたら、批評家はよほどつまらん仕事に従事していることになるだろう。そんなことはないし、そんなことはないのだ。

それはそうと、この種の問いは批評に限らず普遍的(!)らしく、なんらかの主題において誰もが一度は考えたことのあるものではないかと思う。そして、私の観察では、フォークな論者は以下いずれかの立場に集約する。



典型的には、2が1をマウントし、3は2をマウントする、という仕方で展開されていく。2は無敵のメタ理論を自認するため、3にさえマウントを返すが、たいていは3の話をろくに聞いていない。哲学をはじめた1日目から、私の論敵はずっと2だ。

2023/02/20

今日も今日とて駒場で作業をし、フレッシュネスバーガーを食べた。塩レモンチキンバーガー+別のバーガーなにか、という注文が定番化してきたが、今のところ塩レモンチキンバーガーに勝るオルタナティブには出会えていない。塩レモンチキンバーガーうまい。これでいいし、これがいい。そろそろ塩レモンチキンバーガー×2になりそうだ。

2023/02/19

「{任意の社会的身分}失格」という表現、もっと広く使えるはずなのに、「教師失格」でばかり使われている気がする。「失格」の例文を調べても、たいてい「教師として失格だ」が出てくる。そして、それは教師という資格を実際に失う場面というよりもむしろ、なんらかの果たすべき責務を果たしていないことから、教師として不適格だという意味合いで使われることがほとんどだ。本当なら、責務を果たしていない教師も依然として教師ではありうる(し、そういう教師はいくらでもいる)ことを考えれば、「教師失格」はやはり、「あいつから教師という身分を剥奪せよ」というword-to-worldな言語行為なのだろう。医師免許を剥奪された「医者失格」や、出場権を剥奪された「選手失格」とは、方向性が違うのだ。

さて、それでなぜ教師ばかり失格になるのかと言うと、教師という社会的身分に求められる責務の範囲が、その他の社会的身分よりもずっと広いから、というのが理にかなった説明だろう。教育に携わる者には高いモラルが求められる。教師という身分を得るためにはしかじかの要件をクリアしなければならない、というフォーマルな制度とは別に、人格者でない教師を「教師失格」とするインフォーマルな慣習があるのだ。毒杯をあおることを拒否していたとしたらソクラテスは「教師失格」だっただろう。

なぜ教師ばかりこんな脆弱性を抱えているのか。なぜ他の社会的身分であれば許容される程度の不祥事で、すぐ「教師失格」になるのか。不倫したって医者は医者だが、教師は「教師失格」だ。おそらく、教育を通して、知識だけでなく人格もまた複製されてしまう、という観念が根強いからだろう。教育は常に人格の複製となる。ダメな人格は複製してはならない。よって、教師はダメな人格であってはならない、というわけだ。

このような事情が与えられたとして、教師や学生はどうすればいいのか。第一に、例の人格まで複製されてしまうという観念は努力できる範囲で多少はゆるめていくべきだろう。職務以外のところで多少クズな医者を次々に糾弾していったら、困るのは私たちだ。教師についても同様ではないかと思うのだが、「人としてのある程度のアンチモラルを許容する」というのは昨今ますます難しくなっている。インフォーマルに「○○失格」となる範囲がどんどん拡大しているのだ。よって第二に、人工知能が教育を担う未来を、学生は期待し、教師は怯えるしかないのかもしれない。

2023/02/18

今年も恵比寿映像祭に行ってきた。「だからなんだってんだよ」な作品が多くてむかついたが、休日の過ごし方としては良くも悪くもなかった。3階〜地下1階の順に見たが、地下1階にはごくふつうの丁寧な写真作品があって、「こういうのでいいんだよ」となった。杉浦邦恵のフォトグラムと、山沢栄子の抽象画っぽい写真がよかった。

3階ではコミッション・プロジェクトと称してコンペ的なものを開催していたが、一人ずつ長文のステートメントを書かされていて気の毒になった。長々とポエムを綴る能力がなければ現代アートの作家にはなれないのか。ばかばかしいのでまともに読んでいないが、読もうが読むまいが、作品がどれだけシリアスなものなのかは見りゃ分かるので差し支えなかった。形式主義者たちを駆り立ててきたのも、こういうしゃらくささに違いない、と思わされる。

2023/02/17

ちょっと前までのちいかわ散髪編がかなり好きだった[1][2][3][4]。災難続きのちいかわの表情がいい。「なっちゃったの!!!?散切り頭!!!」という導入もスピード感があったし、相変わらずハチワレのワード選びが独特でよい。乱切りではあるが散切りではないだろう、というツッコミ待ちか。育ちが悪いというか、シャキシャキとハサミ鳴らしてしまうハチワレも解釈一致だ。トングもカチカチ鳴らすタイプなんだろうな。散髪は理解不能者うさぎに任せるより、「シャギー入れよっかァ」とか言ってくるハチワレに任せたほうがよっぽど怖い。うさぎ、ナイフのように舌なめずりしといて、ふつうに散髪上手なのもベタな流れだ。最終的に鎧さんに切ってもらって比率が変わっちゃうのも、いいオチだった。絵が下手な人が書いたちいかわみたいになっちゃった。

2023/02/16

コツコツ読み進めていたKeren Gorodeisky「On Liking Aesthetic Value」(2019)を読み終えた。来週のなん読でちゃんと検討会をやっていただくが、ずいぶんごつい論文だった。分量としては20ページほどだが、議論としては修士論文1本ぐらいの厚みがある。ゴロデイスキーはあまりチャリタブルな書き手ではないというか、ちょっと大先生風というか、玄人向けの文章を書く人な印象を受けた。「ご存知あれのことです、はい」みたいな流し方をしてしまう箇所がいくらかあって、ご存知でない私にはしんどい。とくに、メタ倫理の方面から話をごっそり援用してくるので、その導入まで含めて論文1本ではやはり厳しいのだろう。言っていることはかなり面白く不思議なので、著作の単位で読んでみたい理論だ。

言っていることは面白いのだが、私としては最終的には不思議が勝った。シンプルなテーゼで言えば、〈美的に価値あるものは、価値があるからこそ私たちに利益をもたらすのであって、私たちに利益をもたらすからこそ価値を持つのではない〉ということを主張している。ゴロデイスキーはこの点で、(キャロルの信念説やロペスの実践説も検討しているが、)美的快楽主義へのカウンターをとりわけ意図している。では、実際に生きている生身の私たちが享受する一切の利益とは独立に、対象が価値を持っているとはどういうことなのか。曰く、美的価値があるとは美的快楽に値するということだ。美的価値のあるものに対しては、美的快楽(ないし好きだ!という気持ち)で反応することが、規範的に適切である。美的価値は美的快楽をmeritしcall forしdeserveする。ただし、美的価値が美的価値としてやることは美的快楽がそれにフィットした反応だと定めるところまでなので、実際に誰かが美的快楽を感じる必要すらない。

美的快楽を持ち出すことは美的価値であることを説明する(美的問い)のだが、価値の規範性の源泉(規範的問い)については最後まで保留したあげく、原始主義をとっている。比較としては、「徳の高い人には価値がある(=尊敬に値する)」「ウェルビーイングな人生には価値がある(=送るに値する)」のと同じ並びに「優美なものには価値がある(=美的快楽に値する)」があるわけだ。

かなり実在論的な世界観であり、言ってしまえば、どれだけ好むべき対象なのかが対象側で勝手に決まっている、というわけだ。そんなことないだろう、と思ってしまう。存在論的に手前にあるのは、生身の私たちが好んだり嫌ったり快楽や不快を感じるという利益の経験のほうであって、対象にしかじかの程度の価値があることは、経験の平均や総和や傾向性や能力の観点から帰属される、というのが少なくとも自然な考え方だろう。そういう、ごく自然な快楽主義的直観にシャープに対抗し、順序を逆転させようとする点は面白いのだが、とどのつまりなんでそんなことが言えるのかは分からなかったので、いやはや不思議だ。

2023/02/15

中華街で父母とご飯を食べた。平日なのにものっそい人がいて、みんな串にいちごを刺したなんかしらを食べていた。中華街に限らず、食べ歩きというのがあまり得意ではない。路上で立ったまま、落とさないよう気を使いながら、みるみるうちに冷えていく任意のxを食べるのは、普通に考えてそんなにfeel goodではないだろう。おそらく食べ歩きが好きな人でさえそれらの欠点は認めるのだが、私が根本的に共有できていないのは、お祭り感のお祭り感ゆえのありがたみ、なのだろう。

2023/02/14

最近はじめてゲーム実況で見て、『ゼルダの伝説 ブレス オブ ザ ワイルド』のすごさを知った。ふつうの人なら5年前に知ったことだ。オープンワールドのゲームどころか、最近のゲームをなにひとつできていないので、博論を提出できたらゲームやろうという意志を固めた。

2023/02/13

プロフィール写真というのは個性を表明する場面の典型だが、Twitterでここ数年使っている雀ちゃんにはなんのメッセージ性も込めていない。もう少し前まではobakewebっぽいポップなおばけのアイコンを使っていたのだが、いまやobake要素はなにもない。ちなみに、バナーの花と合わせて葛飾北斎の《芙蓉に雀》からトリミングしてきたものだ。雀はけっこうかわいいと思うが、特別思い入れのある生物でもない。なんか美的にちょうどよかったので使っている。結果的に、形式主義者という個性は多少押し出せているのかもしれない。

2023/02/12

今日は家にこもって、立て続けに『バーフバリ』の前編後編を見た。約5時間見ていたわけだが、きついからやめようとはならないあたり、少なくとも注意のキャッチについてはすごく入念にデザインされた作品だ。たしかに、体感時間は短かった。内容としては、中国なら毎週1本は公開しているレベルのドンチャン映画で、とくに大騒ぎするような傑作ではない。金がかかっており、派手であることは、良いこととは別問題だ。面白かったら『RRR』も見に行こうかと思っていたが、この調子じゃ私には楽しめないだろう。

アクション映画というカテゴリーは、カテゴリーに対する反省的視点が欠けており、何年経ったって同じことをやり続けているので熱心に見ようとは思えない。アクション映画ゆえに好きなアクション映画はひとつもない(もちろん『インセプション』みたいなのは好きだがアクション映画ゆえにではない)。正味な話、ワイヤーに吊られた役者がジャンプし、剣と剣がバチバチゆうて、血しぶきが飛び交うからといってなんだというのだ。とはいえ、アクションシーンの美的経験がハーモニーではなくグルーヴであることは理解している。要は「分かる」かどうかではなく「乗れる」かどうかの問題なので、あまり悪く言っても仕方がないのだろう。謙虚さを発揮してもしかたがないのだが、not for meというやつだ。

ということで、最終的に「ぜんぜん好きじゃない」と判断するような映画に対して約5時間費やしたわけだが、いつも通り損した気持ちはまるでない。面白い映画はもうたくさん見てきたので、いまや面白くない・好きになれない映画を見ることすら好きなのだ。「ぜんぜん好きじゃない」という判断を形成することは、私にとって一種の快楽と言ってもいいかもしれない。このメンタリティは共有してもらえたりもらえなかったりする。

2023/02/11

早めのバレンタインということで、中目黒まで繰り出してパフェを食べた。雰囲気のよいお店で、おいしいピスタチオのなんかおしいいやつもおいしかった。私がその空間で唯一の男性だったが、私はそういうアウェイなのは(私以外が差し支えないという前提のもとで)ぜんぜん差し支えないのだ。天気のよい日で、街にも人が多かった。考えてみれば、中目黒とも長い付き合いだ。駒場に通うようになってからは通学路の途中だし、特に今のアパートに移ってからは徒歩で行けるので、最寄りよりも一段階ハイソなものを求めて頻繁に出向いている。なんてったって地価の高いところなので、狂人がいなくてfeel goodな街だ。

それはそうと、昨日ぐらいから左側の頭頂部を触るとほのかにピリつく。左耳との喉の左側もやや痛く、昨日は左目もやたら腫れていた。いつぞやの帯状疱疹に限りなく近い症状なのだが、いやはやまさかな。一年以内に再発するのはたいそう稀で、同じ側に再発するのもたいそう稀らしい。にわかには信じがたいが、もし帯状疱疹にほかならないのだとしたら、医療の発展のためにも入念に検査してもらおうと思う。そうでないにこしたことはないのだが。

2023/02/10

なんとなくローマン・インガルデンの美学についてつまみ読みしていた。まったく信頼に値するまとめではないが、ポイントは以下のあたりっぽい。



現代なら、絶対に社会存在論をやっていたと思われる人だ。観念論と実在論を調停するのを大きな哲学的プロジェクトとして持っていたらしく、その辺は軽く読んだだけでも伺える。社会的なものは自然的事実に依存するし人の志向的態度にも依存する、という仕方で両立させたいっぽい。

初期ビアズリーにも現象学的美学の性格がふんだんにあるのだが、インガルデンを読んでいたのかは定かではない。少なくとも、「現象学的に客観的な場への提示」みたいなしゃらくさい枠を用意しているのは、美的対象という枠を用意するインガルデンの方針とかなり似ている。「ビアズリーはなぜインガルデンを読んでいないふりをするのか?」という発表があったら絶対に聞きたい。

2023/02/09

気づかない間に、DeepLのデスクトップ版が文字サイズ変更に対応していた。家ではモニターのでかいiMacを使っているので、DeepLのフォントが小さいのにずっと悩まされてきたが、これで一安心だ。

今日は生活を整えるための日にした。そろそろ外食を控えなければ(健康面でも財政面でも)やばい気がしてきたので。スーパーに買い出しに行き、いつもの麻婆豆腐と、鍋にたっぷりのミネストローネを作った。なんやかんや3時間ぐらい台所に立っていた気がする。

美的なこだわりを持つことの利点?」という記事を投稿した。美的にオープンマインドであることと、なにかに美的コミットメントを行うことは、期待値においてほぼイーブンなので、どちらを心がけるべきとも言えないですよ、という趣旨の文章だ。いつもと趣向を変えてかわいいアイキャッチを用意したのに、Twitterの不具合だかなんだかで表示されてなくて損している。

2023/02/08

約半年ぶりに、雨のなか自転車をこいで帰宅した。その前後はわりとfeel goodな一日なので、それほど悲観すべきことではない。

今日も大学で作業した。生活にメリハリが出るのでよいと思う。少しずつ、完全防寒装備では汗をかくような季節になってきた。今日はフレッシュネスで、塩レモンチキンバーガーとクラシックアボカドバーガーを食べた。考えてみれば、ちょこんとしたフレンチフライスにクラッシュアイスだらけのコーラはそんなに腹持ちがよくないので、バーガーをふたつ食べたほうがよいのだ。

2023/02/07

芸術哲学者なるもの、芸術の定義はひとつぐらい持っていてもよいと思わないでもないのだが、あいにくどれが芸術でどれがそうでないのか振り分けることにそこまで関心を持ったことはない。その他の場面では制度主義的な理論を好んでいるつもりなのだが、芸術の制度的定義がうまく行っているともあまり思えない。アートワールド内には細々とした課題やそれを解決する制度(ルールの体系)があるが、芸術を芸術たらしめる創造制度としてでっかいアートワールド制度があるというのはミスリーディングだとするBuekens & Smit (2018)の診断は、今ではわりと説得的に読める。芸術実践というのが、あるひとつの(ないしいくつかの)コア課題を、みんなでどうにか解決しようというものとはあまり思えない。芸術作品なんていうのは作りたい人が勝手に作り、芸術とみなしたい人が勝手にみなせばよいので、車線選びのようにはコーディネーションの要素がないのだ。

批評の理論、鑑賞の理論は、芸術の理論なしでも展開できる。批評・鑑賞されるものは芸術作品だけではないからだ。そして、(少なくとも私の観察では)批評・鑑賞はコーディネーション問題を伴いうるため、ルールや制度を伴いうる。私の芸術哲学は、その辺の話さえできればオッケーだ。

2023/02/06

大学で自習していた。途中で、青い作業衣を着た清掃の方々が20名ほどなだれ込んできて壮観だった。いや、ごくありふれた景色ではあるのだが、なぜか私には異化された景色として飛び込んできた。あとなぜか、「あの子たち、どこからやって来たの?」という『タレンタイム』にあるなんでもないセリフを思い出した。

2023/02/05

Gorodeisky (2019)を読み進めている。「値する[merit]」というアイデアはまだいまいち分かっていないが、バックグラウンドが価値論のFitting Attitude Analysisにあるというのは分かった。ざっくり見たところでは、スキャンロン以降盛り上がっている反目的論のいち形態であり、「Xという価値があるならYという態度をとるのが適切(Yという態度をとる理由がある)」として、価値を態度形成への理由付与性から説明する戦略っぽい。最近のメタ倫理を使って美的価値を説明しよう、という方針はLopesらと共有しているらしい。ますます、美学の外で勉強しなければならないことが増えていくな。

2023/02/04

NotionのAIアシスタントが使えるようになったのでポチポチしてみたが、いまのところまったく話にならない。出してくる情報はことごとくデタラメで、要約は要約になっておらず、統語論だけ守って似たような文を次から次へと生成しているだけだ。こんなのが最先端の執筆ツールであり、未来のインフラなのだというのは、誇張もいいところだ。

思うに、われわれは人ならざるものが文章を次から次へと生み出していくのを見て感心しているだけであり、文章の中身なんて誰も読んで役立てていないのだろう。少なくともいまのところ、それは生産的なツールなどではなく戯れのおもちゃに過ぎない。

2023/02/03

さくっと『幽霊たち』を呼んだ。ヴォネガットやブローティガンにハマっていたころに一度読んだきりの小説で、あまりオースターの面白みをわかっていなかったが、再読は結構楽しかった。『ガラスの街』も積んでいたはずなので、読んでみようと思う。

2023/02/02

最近は映画を見る比重を落として、小説を読むようになった。読書歴は映画鑑賞歴よりも長いのだが、1本にかかる時間が違うので、あまり量読めていない。そのうち読みたいなという古典もたくさんあるのだが、そのうちがなかなかやってこないまま年をとって、読まないまま死ぬのはいたたまれない。

学部の頃、高校からの友人が「『カラマーゾフの兄弟』は中高に読む機会がなきゃもう読まない」と言っており、なるほどなと思った。幸運にも、私は中学のころに読む機会を得たが、それというのも私がこじれていたおかげだ。そして、この点に関して、私はオープンマインドであることよりも、スノッブであることのベネフィットを支持せざるをえない。東野圭吾なんぞより俺はドストエフスキーを読むんだ、みたいなこじらせがなかったら、出会っていなかった作品がたくさんある。ある意味で、スノッブとはある口を閉じることによって別の口を開くという、オープンマインドのいち形態なのかもしれない。

2023/02/01

気分転換を兼ねて、大学の院生自習室にやってきた。家の外なのでマスク付けておきたいのがネックだが、それも含めてシャキっとするので、サクサクとBeing for Beautyを読み進めた。ところで、リクエストオーバーなのか、大学内のWi-FiではDeepLが使えなくなっていた。なんてこったい。仕方がないのでみらい翻訳でお茶を濁したのだが、DeepLとはまたちょっと違うなまりがあって、ちょっとやりにくかった。

夕方ごろにお腹が空いたのでキャンパス近くを調べる。いまさら知ったが、めちゃ近くにフレッシュネスバーガーの1号店があるとのことで行ってきた。めちゃ小さなコテージのような店舗でちょっとびっくり。なんでも、かつては演劇の稽古小屋だったらしい。しかし、慣れてみれば秘密基地みたいで可愛げがあるし、一人でも入りやすい雰囲気だ。そして、塩レモンチキンバーガーは文句なしにうまい。PayPay使えるし、ふつうにまた行きたいなと思わせる食事処だった。なんなら明日も行くかもしれない。

2023/01/31

価値があるとは一連の行為に理由を与えることであり、なぜ価値があるのかという問いはなぜ一連の行為に理由を与えるのかという問い(規範的問い)に置き換えられるというのは頭では分かっているのだが、「アイテムの価値に関する事実が、私が美的に見てφすべきだという命題に重みを与えるのはなぜか」とまでパラフレーズされてしまうと、いまだにきついものがある。モネの《睡蓮》は崇高なので見に行きたい、ぐらいのことを、「モネの《睡蓮》が崇高であるという価値事実は、私がそれを見に行くべきだという命題に重みを与える」までややこしくした本は、専門家でもなければあまり読む気にはなれないだろう。

美的価値に関するイージー・アプローチがあってほしいと常々思っている。それがどういうかたちになるのかは見えていないのだが。

2023/01/30

近くの水道工事で、はじめて断水というものを経験した。23:00から6:00まで。風呂は早めに済ませ、飲水は汲んでおけばよいのだが、トイレが問題だ。寝る前に近所の公園のトイレに行ったが、たいそう寒かった。

最近は、日中は近所の建て替え工事、夜間は水道工事とで、QOLが著しく損なわれている。まぁ、そういうものなので、おとなしく耳栓をして暮らしている。とりあえず、次に物件を選ぶとしたら、二車線以上の道路に面しているところは避けようと思っている。

2023/01/29

前期に引き続き、美術の学生たちには批評文のレポートを課している。

なにを主題に書いてくるのかは毎度気になるのだが、女子大というのもあってアニメ、マンガ、ゲーム、ジャニーズがかなり多い。ONE PIECEと鬼滅の刃の人気はやはり強い。

批評文と感想文に本質的な違いはないというのが持論だが、それでもやや的を外した文章を出してくる学生はいる。とりわけ、ビブリオバトル的な「紹介」に徹するものがたまにあって、採点に悩んでいる。Wikipediaから持ってきたような、あらすじと制作陣のプロファイルを書き連ねるだけで紙面の多くを費やしてしまう。実際、ここのステップアップは結構難しいところだと思う。「調べてきた結果、こうらしいです」だけでなく「私はこれについてこう思います」が必要なのだが、私が物申したる!という気概ないし自信は、どこでどう養えるのだろうか。(もちろん、このレポート課題もそれを養う一歩になれば幸いではあるのだが。)

ちなみに、総合的な文章力は学年にまったく比例しない。どちらかというと、初年度で真面目にやらなきゃという意識がある程度ある分(?)、一年生のほうがまともなものを書いてくる。

2023/01/28

今日開けたRevisionのDR. Lupulin 3x IPAが、合法なのか疑うレベルで強烈だった。度数が11.3%にIBUが133なので、数値からしてやばすぎる。見た目はビールだが、舌と喉はウイスキーとして認識している。もう当分このレベルでパンチの効いたビールを飲むことはなさそうだし、正直もうしばらくIPA飲みたくないなという気持ちにさせられた。いや、本当にうまくて見事なビールなのだけど、こちらとしても多少気合いを入れて望まなければならないので、ちょっとしたハードルだ。ふつうに疲れた。

それはそれとして、最近はたくさん水を飲んでいる。具体的には、一日に2.5Lぐらいは飲んでいる。すごく当たり前のことにずいぶん遅れて気づくことが多いのだが、サーバーにどばっと注いでおけばいちいちキッチンまでいかなくてもよいことにも最近気づいた。

2023/01/27

数年ぶりにジム・ジャームッシュの『ナイト・オン・ザ・プラネット』を見に行った。今なら鼻息荒く★5.0つけるほどの映画ではないが、シンプルにいい映画だ。『コーヒー&シガレッツ』が極端な例だが、ジム・ジャームッシュの面白みの7〜8割は会話の面白みだ。笑える会話なら笑える映画になるし、悲しい会話なら悲しい映画になる。バランスがよいタイプではないので、すべるときは盛大にすべる。『オンリー・ラヴァーズ・レフト・アライヴ』なんかはすべりすぎていて見事だった。

『ナイト・オン・ザ・プラネット』はオムニバス映画だが、2つめのニューヨークの話が好きだ。どう考えても、悲しい会話や考えさせられる会話よりも笑える会話のほうが聞いてられるので。

2023/01/26

Nguyen (2019)は、鑑賞においては最終的にする判断よりも、プロセスにあたる美的関与[engagement]そのものが肝心だという話をしている。それ自体はかなりもっともらしいと思うし、味わうプロセスをすっ飛ばして作品の意味や価値だけ把握できても意味がない、というのは誰だって認めるだろう。

グエンは自律性の要求、すなわち〈美的判断は他人に頼らず、自分の能力と経験に基づいてなされるべきだ〉という規範の出どこについて説明したがっているのだが、そのために上述の直感を持ち出すだけでは説明にならない。美的関与のなにがどう肝心なのか、というピースが欠けているのだ。快楽主義から見れば、判断ではなく従事が肝心なのは、言わずもがな後者のほうが楽しいからだ。グエンと同じような路線をとっているNanay (2019)は、美的判断よりも美的経験のほうが楽しいというのをはっきり認めていたと思うが、グエンはその辺をゴニョっとごまかしている感がある。美的関与がうれしいのは、それが自律性の発揮になるからだ、という循環的な説明にすら見えてくる。

また、これはずっと気になっているが、美的関与が肝心なんですよという主張は「美的価値」に関するものではないだろうと思う。意義ある関与をアフォードする能力をアイテムが持っているなら、それは美的価値を持っていると言えそうだが、グエンはこの線で論じたいわけでもなさそうだ。アイテムの価値ではなく、そのアイテムに関与する経験の価値まで美的価値だと言ってしまうのは、他の文献と話が噛み合わなくなるのでやめてほしい。両方美的価値なのだとしたら、美しいものは鑑賞すべきだし、美しいものを鑑賞している人も鑑賞すべきだということになるだろう。

2023/01/25


それからぼくは哲学を読みはじめました。

それで哲学は何を教えてくれたのじゃ、死父が尋ねた。

ぼくが哲学の才能をもっていないということを教えてくれました、トマスがいった、ででででででも──

でも何じゃ?でもぼくは誰しも少しは哲学をもっているべきだと思います、トマスはいった。助けになりますからね、少しは。助けになりますよ。いいもんです。音楽のほぼ半分くらいのよさがあるんです。

────ドナルド・バーセルミ『死父』柳瀬尚紀訳

2023/01/24

Amy Kind「Fiction and the Cultivation of Imagination」(2022)を読み進めている。ここ数年、フィクションからなにかを学ぶことについていろいろ書いている人だ。

Kindは、少なくとも共感的想像力の養成については、現実よりもフィクションからうまく学べることを主張している。つまり、他人の立場に立ち、その人の感情に寄り添うスキルを高めるには、現実世界でわちゃわちゃするよりも、たくさん文学作品(など)を読んだほうがよい練習になる、とのことだ。根拠はおおきくふたつ。第一に、現実よりもフィクションのほうが、想像を行うための多様な素材を提示してくれる。正確にアンナ・カレーニナみたいな状況に置かれた人とは、現実ではなかなか出会えない。第二に、現実とは違い、フィクションにはこう想像してみたまえというロードマップが豊富にある。他者の心についての記述や、内的独白、反応の詳細な記述など、想像のためのユーザーズガイドがあるので、練習しやすいというわけだ。実際、「フィクションに触れれば想像力が養われる」という主張は、すごくありふれている。

Kindの言っていることはよく分かるのだが、その主張は「小説ばっかり読んでいても、現実の人間について本当に理解したことにはならない」というもうひとつのフォークな考えとは依然緊張関係にあると思う。もちろん、こういうことを言っている人の動機のうち、①教養のない自分を正当化したい、②相手の教養を否定したい、といった部分は割り引かなければならない。とはいえ、割り引いた後でも、フィクションに触れるだけでは現実における想像能力の養成にならない、という考えは一定理にかなっていると思う。

フィクションから学んだことは多い。フィクションに触れる時間は現実に触れる時間とトレードオフなので、相対的に見て現実から学んだことは少ない、とも言える。そして、親しい友人たちから見て、私はそんなに共感的想像が得意なタイプではない。思うに、Kindの議論においてカバーできていないのは、キャラクターへの共感的想像と、生身の人間へのそれの間にあるひとつの非対称性だ(ほかにもいろいろあると思うが)。すなわち、前者には安全圏からの俯瞰と整理が許されるのに対し、後者には現場でのスピードとアドリブが求められるのだ。例えるなら、フィクションを通して養成される共感的想像力は、楽譜通りに曲を演奏する能力であり、他方現実において求められるそれは、うまいアドリブソロをとる能力であり、それらは似つつも肝心な点において異質なのだ。後者ができて前者ができない人はあまりいないのに対し、前者ができても後者はできないという人はたくさんいる。フライトシミュレーターは、操縦におけるスピードやアドリブの練習になるようデザインされうるが、想像におけるスピードやアドリブの練習になるような文学作品は、あまり思いつかない。残念ながら、現実においては、然るべきタイミングで然るべき共感的想像を実行できなかったとしたら、後から時間をかけてできたって仕方がないのだ。

2023/01/23

最近美的にembraceできるようになったアイテムのひとつに、フィルムカメラ風のフィルターをかけてくれるアプリがある。もともとそんなに強く拒絶していたわけではないが、なんとなく使っていなかった。しかし、昨今のフィルム代高騰から、もはや本物のフィルム写真を嗜む余裕はなくなったため、こうしてジェネリックに走ったというわけだ。しかし、ジェネリックというには質感がかなりよくて、これでええんやんという気持ちにさせられる。

一応、あんなにも写真の透明性について読み書きしていた身としては、この営みについてもいろいろと考えさせられる。フィルターをかけた写真は、まずウォルトン的な透明性を減らすことになる。ディテールが潰れるので、写真を通して文字通り見ることのできるリアリティが減るのだ。それよりも肝心な変化として、フィルムカメラ風のフィルターは、メタ的な仕方で透明性を無効にしているような気がする。それは、撮影された時点や撮影に用いた手段について撹乱を含んでおり、写真のインデックス性やら自動性に強く挑戦しているのだ。普通にデジタル写真を加工するのではなく、フィルムカメラ風に加工することには、ならではのわるさがあるのだろう。

もっとも、all things consideredに選択するわれわれは、そういったわるさにもかかわらず、上述の事情からそれを選択することもある。すくなくとも、オートハーフを手放しDazzカメラを携えた自分は、写真家よりも画家に近づいたなというメンタリティはいくらかある。

2023/01/22

「○○を✕✕すること。それは〜〜」という言い回しがきしょい、という話をしたいのだが、どう考えても人の言い回しにケチつける人間のほうがきしょい。そして、自分のきしょさを自覚しているのはきしょいので、こうやってきしょさの無限後退が成立する。

ところで、「ダサい」と「きしょい」はなにが違うんだろう。この問いを持つことはおそらくきしょいが、あまりダサくはない気がする。「〈ダサい〉と〈きしょい〉はなにが違うのか」というブログを書いたり学会発表をするのは、ダサいしきしょい気がする。きしょくないがダサい例はぱっとは思い浮かばない。きしょいには生理的に受け付けないというニュアンスがあり、ダサいには文化社会的に受け入れられないというニュアンスがありそう。あと、他人への攻撃としてきしょいはダサいよりもダメージが大きい気がする。後者は修正可能なわるさだが、前者は根本的な解決が望めないからだろうか。ダサさを是正するためにはマッチョを目指す必要があると思うが、きしょさを是正するためにはなにを目指せばいいのか分からない。関西の人ですら、悪意なくいじりとして用いるのはまれで、本当に拒絶したいときに「きしょい」を用いているイメージがある。

ところで、関東の人だったら「きしょい」のかわりに「きもい」を用いるはずだが、この語はすっかり廃れたなという印象がある。私が中学生ぐらいのころにみんな好んで使っていた記憶があるが、なんにせよ感じの良い述語ではなかったので、廃れるのは望ましいことだ。大人になりたければ、生理的な嫌悪感などというのはぐっとこらえて然るべきなのだ。

2023/01/21

普段からあまり量食べてない気がしたので、夜中に冷凍チャーハンとエッグ&ソーセージ、作り置きのきんぴらごぼうをむしゃむしゃと食べた生きていて、「お腹空いたな……」という時間が「お腹いっぱいだ……」という時間よりも多いのは、根本的にあまりいいことではないと思う。ついでに白湯を飲みまくったせいで、この日の夜は誇張なしに10回はトイレで目覚めた。

2023/01/20

なぜ私はTikTokをやらないのか。哲学系ティックトッカーなんて競合も少ないだろうし、面白おかしく阿呆な感じに仕立て上げれば、ちゃんとしたコンテンツになるだろう。ことによると、話題になって仕事につながるかもしれない。Twitterが日に日に面白くなくなっている現状を鑑みると、生存戦略からしてわれわれはTikTokをはじめるべきなのだ。

ではなぜTikTokをやらないかというと、これはもう合理的選択の問題ではなくコミットメントの問題だろう。界隈全体を下に見ており、そこに染まることを忌避しているからこそ、距離を取ろうとしているのだ。ああはなりたくない、というのは人間にとって自然な態度タイプのひとつだ。ああなったほうがベネフィットが大きいか、みたいな考慮はそこでは働いていない。もちろん、セルフブランディングなどを踏まえると、ああなることが長期的には損だという合理的考慮も働いているが、そんな将来のことを正確に予測できるわけではないので、「目先の利益に飛び込まない」ことはやはりコミットメントの問題だと思う。

コミットメントにまつわる悲劇には少なくとも、不適切なコミットメントをしたがゆえの悲劇と、適切にコミットメントしないがゆえの悲劇が含まれる。こだわったせいでバカを見るのも悲劇だし、こだわりがないせいで足をすくわれるのも悲劇だ。どうせ死ぬなら、これが俺のやり方だ!と突っ走って崖から落ちたほうが格好いい。そして、男の子はみんな格好いいほうに転がってしまう。

2023/01/19

父の務めていた大学が、キャンパス再編で4月から大幅リニューアルなのをいまさら知った。父が通っていたキャンパスと、それとは別に実家から歩いて10分ぐらいのところにあるキャンパスから、文系学部をごっそり移してしまうらしい。どちらもお世辞にも夢のキャンパスライフ!と言えるようなウキウキする立地ではなかったのだが、移転先は結構な都会で、学生としてはかなりハッピーだろう。

将来的には私が実家を譲り受け、近場のキャンパスで働けばよかろう、という父の計画は破綻したが、私としてはもう一歩ハイソな街で働きたいと思っていたところなので結果オーライだ。

2023/01/18

かつて、一日を終えた生物たちには心身を回復させるさまざまな休息手段があった。ある時ある場所のある個体Sが、新たな手段を持ち込んだ。それは、意識をシャットダウンして、数時間のあいだ死んだようにじっとするという気味のわるい手段だった。仲間たちはそんなことをやりだしたSのことをすごく心配したが、試しにやってみると一日の疲れがきれいさっぱりとれるではないか。睡眠はこうしておおいにバズり、やがてほとんどの生物が当たり前のようにやる営みとなっていった。かつて存在したその他の手段はことごとく淘汰され、忘れ去れられていった。

睡眠が生物の生活に取り入れられたシナリオはおそらくこんなものではない(し、ことによると寝ている状態こそがデフォであり、覚醒のほうこそ後から取り入れられたのかもしれない)が、仮にそうだったとしよう。バラエティ豊かだったころ、生物にとっての休息生活とは、選択の自由、愛着と冒険、能動性や自律性の発揮、創意工夫や達成、仲間との共同作業の場であった。それがいまでは、睡眠という画一化された手段に取って代わられた。睡眠は強制であり、選択の余地はなく、個人主義的であり孤独である。みんなそれを最善だとみなし、みんなそれを欲し、やらなければ文字通り死ぬようになった。問いは、〈手段が睡眠へと画一化されたことで、生物たちの休息生活からなにか大事なものが失われてしまったのか?〉である。

失われていない、というのがさしあたり私の直感だ。睡眠の発明によって、休息という課題は史上最善のかたちで解決されている。よりベターな手段が新たに発明される(例えば、一週間に1分だけカプセルに入るなど)のでない限り、私たちはおとなしく眠り、眠り、眠りまくればそれでよいのだ。かつてのエキスパートも凡人も、今となってはとにかく寝りゃいい。なんてシンプルで、豊かなのだろう。

もちろん、このシナリオは例の「ネハマスの悪夢」へのカウンターとして意図している。たびたび書いているが、「ネハマスの悪夢」はおおきくふたつの点でずるい。ひとつは、多様性なんてなんぼあってもいい、というリベラルな価値観にフリーライドしている点だ。理想的鑑賞者説の行く末はなんて反リベラルなんだろう!みたいな印象操作のつもりが少しでもあるなら、本当にアンフェアで許せない。冷静になって認めるべきこととして、画一化は画一化というだけで批判されるいわれはないし、多様性は多様性というだけで褒められるものでもない。もうひとつのずるい点は、未来を想像することの困難と、未来に関する漠然とした不安にフリーライドしている点だ。現在と極端に異なる未来は、誰にとっても不安であり、その形態にかかわらず「なんか嫌」だと思わせてしまう。そういうものだ。睡眠をとるかわりに一週間に1分だけカプセルに入るのが「なんか嫌」なのは、部分的には、未来への恐怖に由来した嫌悪感なのだ。

2023/01/17

ChatGPTをちょっと触ったが、「それについての考え方は人それぞれです」的なカードを初手で切ってくるのですごくきしょい。きしょいのだが、食ってるデータの多くがまさにそれなのだと考えるとぞっとするまである。

2023/01/16

ちゃん読で読み進めているBeing for Beautyも本題に入ってきた。第2章では、「評価」「行為」「理由」「価値」など、基本的な概念がきびきびと規定される。価値は理由付与性から説明しよう、というScanlon以降人気のアプローチが全面的に導入されて、美的価値の規範性までどばーっと話が進む。

もうひとつ飲み込めていないのは、美的価値は実践的規範性を持ち、編集やら収集やらさまざまな行為をする「べき」だというのに考慮事項として加算される、という枠組みにおける「鑑賞」の位置だ。鑑賞もまた価値によって促される行為のひとつであり、美的に良いものなので鑑賞する理由がある、といった順序で説明がなされる。鑑賞がそういう位置づけなのだとすれば、美的価値によって促される行為はほかにもいろいろあるので、とりわけ鑑賞が重要ではない、というのも腑に落ちる。が、個人的には(伝統的に問題とされてきたような)「鑑賞」は価値の後じゃなくて前にあるものだろう、と思う。

ロペスの考えでは、価値のまえにあるものはevaluationであり、xは美しいとかけばけばしいと心に思い浮かべることだ。これは信念のような命題的態度でもよいし、知覚的な状態でも情動的な状態でもよい。ロペス曰く、「鑑賞」は評価を踏まえた上でのそれ以上のなにかである。詳細にそこを論じている章を読むまではわからないが、ものの価値をestimateするプロセスはふつうに鑑賞ではないか、という感覚がある。価値や意味を見定め、見いだされた価値や意味を堪能し、堪能するなかでさらなる価値や意味を見出す、というダイナミックな関与を、通常ならば知覚を通して行うことが鑑賞であり、美的なものを巡ってはコアになる部分ではないか。なので、私は美的評価が大事だという点についてはロペスに賛成だが、鑑賞の位置づけは、評価が出力した価値によって開始されるものではなく、評価の前にあるプロセス、あるいは評価を包含するようなプロセスとして理解すべきではないかと思っている。

ちょっとややこしいのは、おそらく英語でappreciationと言うと、すでに見いだされている価値を堪能するというニュアンスがより強くて、ゼロから価値を見出すというニュアンスがほとんどないのかもしれない。実際のところ、日本語の「鑑賞」のニュアンスも正確にはわからない。ことによると、私はevaluationが大事だと言っているだけで、とくに鑑賞やappreciationを擁護する動機はなく、ロペスとも対立点はないのかもしれない。

2023/01/15

天気が悪くてうねうねしてたら一日終わったが、夕方から楽しくビールを飲んだのでハッピー。

2023/01/14

ビアズリーが論文集に書き下ろしている「Critical Evaluation」を読んでいる。

ビアズリーの考えでは、「批評」とは(1)良し悪しの語り+(2)良し悪しの理由となる特徴の指摘をセットで行う活動のことだ。美的批評[aesthetic criticism]とは、美的観点から美的価値(美的な良し悪し)を問題にするような批評であり、美術批評[art criticism]とは、芸術作品を対象とした美的批評である。美的観点から見て気にされる美的価値とは、ビアズリーとしてはもちろん、美的経験(美的な性格を持った経験)をアフォードする能力ゆえに持つ価値のことだ。要は「理由に基づいた批評」観なので、いかにキャロルがビアズリーの影響下にあったのかがよく分かる。(ただし、キャロルの場合「美術批評」として許容する価値は美的なそれに限られない、というのが相違点になるか)

ビアズリーによれば、批評的判断の本質とは美的価値の推定[estimate]である。曰く、批評的判断は、①価値の予測[predictions]ではないし、②tendencyについて語っているだけではないし、③verdictほど拘束的ではなく、④作品理解の補助となるのは副次的効果であり、⑤単にpersonalな承認のことでもないし、⑥真理値を欠いた言明でもない。結構ページを割いて直面原理を叩いているのは意外だった。複製を見て批評的判断をするのがアリなら、証言をもとに価値をうんぬん述べるのも批評的判断だろう(なんらか情報を利用して判断していることに変わりないだろう)、という趣旨は、多少ポイントを外している気がしなくもないが、まぁ、わからなくもない。

ついでながら、序盤に出てくる〈美学的探求の主要なベネフィットは、批評の改善[improvement]だ〉というテーゼは、まさにビアズリーが言いそうなことではあるが、実際に言われているのを見ると「言うねぇ」という感がある。

2023/01/13

Anthony Crossの論文「Aesthetic Commitments and Aesthetic Obligations」を読んだ。家族を顧みず、タヒチに移住したゴーギャンは、絵画の道を極めることにコミットしていた。同様に、美的生活においてはあちこちで美的コミットメントがなされている。Crossによれば、一般的にコミットメントとは、①Xをやったるぞという意図と、②①の意図を維持するぞという高階の意図を含む。美的コミットメントはそのうち、個人が、自分自身に対して行う、能動的コミットメントの一種だとされる。パンクに生きるぞ!というコミットメントは、自分に対する誓約であり、それに反してしまうと罪悪感や自責の念を覚えることが適切になる。

将来的に欲求や状況が変化しても、Xをやり続けることができるようにするのが、コミットメントの役割だとされる。Crossによれば、コミットメントは美的選択と、それによって形成される自らの美的アイデンティティを時間的に固定してくれる。将来もこれを鑑賞するぞ!という決意を固めておくことは、誘惑だらけの美的領域を乗り切るための手段となる。また(これはEvnineのジャンル論でも引かれていた話だが)、そうやってコミットメントを行うことは、不確かな時間というものを飼いならすことに繋がる。Scheffler (2010)が論じたルーティンと同じように、生活にパターンを作ることで、自らの将来がコントロールできている感覚を得られてうれしいのだ。

さらに、Crossはこの美的コミットメントを使って、美的義務の存在と基礎づけを説明できると考えている。Crossが美的規範性の標準図式と呼ぶものによれば、①世界には美的価値を持つ対象が存在し、②美的価値は、対象に対して特定の仕方で反応(鑑賞や創造、価値について信念形成、情動的経験など)をする理由を与える。Lopes (2018)らも採用しているこの標準図式では、しかし、こうしたほうがよいという弱い理由と規範性は説明できるが、こうしなければならない・すべきだという強い理由と規範性は説明できない。義務があるというのは、単にそうする理由があるという以上の、強い規範性があるのだ。対象Xがいかに美しいとしても、それはせいぜい見たほうがよいだけであり、見るべきだとまでは言えない。なので、美的義務は存在しないという立場も有力なのだが、Crossによれば、美的義務とはむしろ自分自身への美的コミットメントによって基礎づけられるものだ。自分自身でやったるぞ!と誓ったからにはやらなければならない、という類の義務が美的領域にもあるのだ。

スノッブの話にも転用できる、よいアイデアだと思う。いわゆる「こだわり」を持つことは、それなりのベネフィットと違反した場合のコストがあるはずで、その辺についての理解が深まった。Crossも述べるように、美的領域は戯れと選択の自由の領域だとみなされがちだが、こういった美的こだわりにも正当な居場所を認めることが大事だろう。オープンマインドが大事!と言っているだけでは、この辺を取りこぼしてしまう。

2023/01/12

一年ぶりの副鼻腔炎がやってきたので、ちびちびと葛根湯加川芎辛夷を飲んでいる。前回も、えぐい鼻詰まりのあとにこやつがやってきたわけだが、今回も順序がまったく一緒だ。今回は、正月に実家で犬を吸引したのが良くなかったのだろう。

この手の病気が再発するたび、前に発症した自分との時間的連続性を意識させられる。なんらうれしいことではないので、アイデンティティが脅かされるとしても、年中健康でいたい。

2023/01/11

受験生にプレッシャーとどう付き合えばよいのか質問されたが、うまいこと答えかねた。大学受験は私にとって泣いたり吐いたりするような出来事ではなかったし、中学受験のことはよく覚えていないからだ。私がいまやっていること(哲学)は、それ以前にも多少のバックグラウンドがあったとはいえ、大学4年のときからはじめたことだ。途中で進路変更してもどうにかなるというのが私の経験則であり、だからこそ、受験という一ステップ自体は生き死がかかった大げさなものではない、とどうしても思ってしまう。もちろん、そんなこと言っても当事者の受験生には的外れなのは分かっているから、言わない。

もう一つの経験則として、全力で努力して手に入れようとするほどのものはたいてい手に入らず、肩の力抜いても手に入る範囲のものだけが手に入ると思っている。高3の私にとって東大文二は前者だったし、慶應経済は後者だった。なので、嘘でも「全力で努力して夢を叶えよう!」的なことが言えないのが悩ましい。

2023/01/10

季節外れだが冷製パスタを作って食べた。細麺はディチェコのようなブロンズダイスよりもテフロンダイスのほうがよいと聞いてママーを買ってきたのだが、目一杯茹でても冷水でしめるとカッチコチになるので、勝手が分からずにいる。こないだ作ったボンゴレはママーでよかったのだが、冷製パスタを作るときはやっぱりディチェコのほうが好みかもしれない。

2023/01/09

寝不足だったのでめっちゃ寝た。

2023/01/08

東北5日目。もう東北ではないが、那須塩原駅からシャトルバスで那須どうぶつ王国まで向かう。旅の最後にモフと触れ合おうというわけだ。

冬期のため、一部エリアが利用不可だったが、それにしたって見どころの多い動物園だった。まずビーバーにドハマリする。もともとカワウソが好きだったのだが、ビーバーはそれのぼてっとしたバージョンで、ニンジンをぽりぽり食べているのがキュートだった。アザラシに餌をやったし、マヌルネコやスナネコなどレアなモフも見れた。最後に入った犬猫ふれあいコーナーでは、私の正面にピタリとやってきて撫でさせてくれるゴールデンレトリーバーがいて、best friend forever感がすごかった。絶対にでかい犬と暮らすぞ、という決意を固めた。時間ギリギリだったのでバスまでダッシュ。どうにか乗れて、割と早く那須塩原駅まで着いたので、一本早い新幹線めがけてダッシュ。よう走ったが、夜にも走ることになる。

再びの仙台に上陸し、牛タンROUND2。今度は駅からちょっと離れたところにある旨味太助でいただく。こちらは、昨日より薄めの炭火焼きで、香ばしい系の牛タンだった。近くの味太助とは分家騒動でバチバチらしく、台北の林華泰茶行vs林華泰茶行を思い出した。

仙台はアーケード街になっていて、縦もでかいアーケードだし、横に曲がってもでかいアーケードが待っている。帰りの新幹線までさくっと時間を潰そうと立ち寄ったCafe青山文庫で、フード&リカーファイトすることになる。コーヒーフロートが、爽まるごと載せたぐらいのサイズ感でびっくりした。

買いたいお土産もあったので、仙台駅まで最後のダッシュ。無事に買えて新幹線にも間に合った。オラオラと東京まで帰還。家までたどり着き、シャワーを浴びて、寝る。

2023/01/07

東北4日目。地元のソウルフードと言われる福田パンのコッペパンを食べるところからスタート。クッキーバニラ×コーヒーと、グラタンコロッケをいただいた。食べてられるフードだが、寒空の北上川を望みながら食べたので、温もりがあったらもっとうまかっただろうなと思う。

もう少し空き時間があったので、宮沢賢治『注文の多い料理店』を出版したらしい光原社がやっているカフェ、可否館で茶をしばいた。近くの雑貨店の屋根に猫ちゃんがやってきた。

盛楼閣で盛岡冷麺ROUND2。こちらはもっとコシのある太麺に、酸っぱめの味付けだった。なんだかんだギリギリになったので、早足で盛岡駅へ。仙台経由で松島まで向かう。

松島駅から結構歩かされるもので、島が望めるところまで着いたのが15時前ぐらいだった。観光船の最終便をなんとかキャッチしたので、乗船。着いたのが遅かったので窓際の席は取れなかったが、考えてみれば左側の席から右側の景観は見えづらく、逆もまた然りなので、真ん中の席でよかった。島の紹介アナウンスはやたらと「男性的」「女性的」という形容を多用していたが、今の御時世そんなんで怒られないのか、と私ですら思った。

急ぎ足で松島を散策。途中でやったおみくじは、私も恋人も小吉だった。ついでに、酒屋でBlack Tideのビールも買えてホクホク。暗くなってきたので、でかいせんべいを片手に松島駅までプチダッシュ。今回の旅は総じて、片手に土産物、片手にスーツケースでダッシュすることが多かったので、はたから見ればまごうことなき観光客だっただろう。

どうにか松島から仙台まで戻ってこれたので、目指すは牛タン。駅ナカのたんや善治郎は込み具合が常識的で、30分ぐらいで入れた。さすがに抜群にうまい。大好きなねぎしでさえ、さすがにチェーン店だな……と虚しくなる旨さだった。ところで仙台はほんとうにでかい。新宿と東京を兼ねているぐらいのでかさで、さすがは地方中核都市といった趣だった。そういえば一昨日やった秋田犬のガチャガチャが回し足りなくて、仙台のカプセルトイ店をあちこち回ったのだが、見つからなかった。もう少し地方中枢都市としての自覚を持ってほしい。

それはともかく、さっさと仙台を出て、お次は那須塩原駅へと向かう。真っ暗闇のどちゃくそローカル風景で、仙台からの落差がすごい。畑としか言いようがない畑を突っ切って、16分ほど歩いたところにある宿、NORTH INNへと向かう。NORTH INNはごくごく簡素なビジネスホテルで、そんなにテンションは上がらなかったが、使ってみれば最低限なんでも揃っているし、こころなしかベッドがかなり寝心地よかった。シャワーを浴びて、歯磨きして、寝る。

2023/01/06

東北3日目。湯めぐりバスで乳頭温泉郷をまわる。混浴露天風呂はもっとハードルが高いと思っていたが、いざ行ってみるとそんなに覚悟はいらないコンテンツだった。どこも老若男女が水に浸かっているだけなので、プールとは布一枚あるかないかの違いしかない。

蟹場は離れにある澄んだ露天風呂で、脱衣所がたいへん寒かったがそれなりに空いていてゆったりできた。お次の鶴乃湯は乳頭温泉郷のスペシャリテで、観光客でごった返していたが、流石に面白い露天風呂だった。白濁したぬるめの湯なので長く入ってられる。最後の妙乃湯は、高〜いお宿に付いている風呂で、圧倒的にモダンだったし露天風呂からの景観がダントツによかった。湯めぐりバスがあまり融通の聞かない時刻表になっており、また事前に調べていたものが現在の冬期のものではなく、ドタバタしたが回りたいところはぜんぶ回れてラッキーだった。

昼過ぎに乳頭温泉郷を出て、田沢湖駅のストリートピアノでひとしきり遊んだあと、盛岡へ。盛岡はめちゃめちゃ栄えている。ローカル駅続きだったので、一気に都会に出てきてびっくりしたが、翌日の仙台はさらにすごかった。着いてそうそう、ぴょんぴょん舎で盛岡冷麺を食べる。これが本場の……!みたいなのはとくになく、冷麺は冷麺で安定してうまかった。

安心安全のドーミーインへ。道中、奇声をあげて信号待ちの通行人に殴りかかる(ふりをする)やべぇやつが対岸で暴れていて、盛岡やべぇなとやや引く。事なきを得てチェックインした後、白龍のじゃじゃ麺を食べに行く。食べきった後で用意してくれる卵スープがよかった。割と時間が余ってしまったので、ベアレンビールの直営レストランに行ってきた。初めて飲んだが、ウィンターヴァイツェンがかなりお気に入りだったし、スタウトとピルスナーもよかった。エール系ばっかり飲んでいるが、こういうドイツ系のビールもさすがにうまいな。おつまみで頼んだ冷麺チップスがかなり好み、お土産に買って帰った。

ドーミーインに帰還。盛岡ドーミーインは本八戸に比べたらちと割高だったが、設備はいつもどおり良かった。夜鳴きそばを食べ、風呂に入り、寝る。

2023/01/05

東北2日目。八戸を出てまずは角館まで向かう。朝早く、ドーミーインを出たタイミングで部屋に忘れ物したことに気づきタイムロス。本八戸駅まで朝のジョギングをすることになった。今回はスノーブーツだけで来たので、これが結構しんどかった。どの旅行でもなんかしら走っている気がするが、今回はそうそうに走らされた。

無事に乗り込み、盛岡経由で角館まで。八戸は海辺で暖かいのかそれほどでもなかったが、角館はどっさり雪が積もっていた。武家屋敷通りまで来たが、雪かきをする人を除いて観光客は皆無、雪も相まってタイムスリップしたのかと思った。桜の里で比内地鶏の親子丼をいただく。近くの土産物店に看板犬の秋田犬がいるとのことで会いに行く。秋田犬の武家丸はもふもふしていて抜群に可愛かったが、始終センシティブな部分を舐めていてちょっと気まずかった。店内に200円で回せる秋田犬のガチャガチャがありドハマリする。

角館駅を出て、今回の旅のメインになるだろう乳頭温泉郷まで向かう。田沢湖駅からバスに揺られに揺られ、雪山のど真ん中に到着。宿泊した休暇村は比較的新しい施設だそうで、かなり清潔な旅館だった。事前に、乳頭温泉郷はカメムシがやばいと聞いていたが、一匹も出なかった。夕食時まで卓球をするつもりだったが、冬期はやっていないと聞いてショック。気を取り直して入った温泉はかなりよかった。正直、他で湯めぐりをするので休暇村はそこそこでよいかなと思っていたが、ミニマルにまとまった露天風呂がかなりお気に入りで、翌朝も朝風呂をすることになる。夕食はビュッフェでフードファイトをした。エビフライとエビの天ぷらと甘エビの刺身とで、計9本はエビを食べた。部屋でなぜか『アナと雪の女王』を見た後、就寝。

2023/01/04

東北1日目。新幹線とバスを乗り継いではるばる十和田までやってきた。八戸駅はめっぽう寒い。十和田市現代美術館を一通り見たが、ハンス・オプ・デ・ビークの《ロケーション (5)》が群を抜いてよかった。立体的なトロンプルイユで、ハイウェイのそばの夜中のレストランに入り込む作品。デヴィッド・リンチの映画みたいな雰囲気だ。ロン・ミュエクのでかい人物彫刻や、レアンドロ・エルリッヒのインスタ映えする作品もあるので、楽しく見て回れる美術館だと思う。ただし、料金と八戸からのバス代がやたら高い。

八戸中心街まで戻ってきて、安心安全のドーミーインにチェックイン。本八戸店はすこぶる安く一泊できた。晩ごはんは近くのごはん処で天ぷらと刺身を食べた。夜鳴きそばを食べ、風呂に入り、寝る。

2023/01/03

東北旅行の準備をした。

2023/01/02

Matthenのそれに続き、JAACに掲載予定の美的価値シンポジウム報告をがしがし読んでいる。Steckerががっしりと経験主義をとっているのと並べると、Nguyenが考えている価値あるengagementも、for its own sakeな経験と現象学的にはかなり近い感じがする。Nguyenの立場については一点かなり気になっていることがあるので、今度#なん読の後半戦で聞いてみたい。

SaitoやBradyら環境美学・日常美学の人たちは、日常のささいな事物が大事なんです、といった趣旨のことをねちねちと書くので、あまりポイントをつかめずにいる。というか、〈美的生活にはハイアートの鑑賞だけでなく、いろいろあるのだ〉というのが彼女らの唯一のポイントなのではないかとすら思う。

結構手強いと思ったのはGorodeiskyだ。Auburnの一派なので対象説の支持者だと予想していたのだが、現にそういう成分はありつつも独特なことをたくさん言っている論者っぽい。まず、キャロル的な内容説、美的価値は一群の美的性質の観点から理解される、という立場を退けているのに驚いた。〈優美さやけばけばしさといった美的性質が美的価値をグラウンドする〉という考えは、そういった性質を持った対象が反応者独立にそれ自体で美的価値を持つ、という仕方で対象説をサポートしやすいものだと考えていたが、Gorodeiskyはこれを退ける。Gorodeiskyは、おそらくは美的概念の文脈依存性を踏まえて、性質単位で美的価値とガッシリ結びついたものがあることに懐疑的らしい。一番意外だったのは、彼女が美的価値をa capacity for a feeling of pleasureから理解しようとしている点だ。そういった感情に値する[merit]ものこそ、Gorodeiskyにおいて美的価値を持つものらしい。この辺はかなり快楽主義に接近しているし、好き嫌い[liking/disliking]を重視しているところもあってかなり独自だ。他方で、Gorodeiskyは還元主義も退けている。美的価値は人を楽しませる能力によって対象が持つ価値だが、それは人の楽しみの価値には還元できない。この辺が、対象説っぽいところだと思うが、これを説明する段になると急に人間や人生についての語りが割り込んできてなかなか要領を得ない。正直ぜんぜん分かっていないので、代表的なGorodeisky (2019)は近々読んでみたいと思う。

2023/01/01

ホリデーなのをいいことにビールばかり飲んでいる。ビールにせよなんにせよ、ある新しい分野にgo intoするためにはその美的プロファイルを把握することが肝心であり、とりわけ他人がそれについてどう語っているのかを読んだり聞いたりすることが有用である。ということで、飲むビールはなるべくブルワリーの説明を読み、自分でも簡単なメモを付けて語る練習を繰り返している。これが結構楽しい。

当たり前だが、飲食物はひとたび飲み食いしてしまうともうそこにはなく、もう一度お金を出して手に入れなければならないあたりが、本とは全然ちがう。サブスクやCDやDVDの前は、音楽や映画もみんなそんな感じだったのだろうか。

2022/12/31

2022年もおしまい。今年もあっという間に終わってしまったが、旅行も行けたし、ビールも飲めたし、親知らずも抜いたし、非常勤も難なくやれているし博論も進んだので、良い年だった。こう、やることやった満足感とともに年を越せるのはいいことだ。唯一の心残りだったDiA論文も、このギリギリのタイミングで出版された

2022/12/30

実家(横浜)に帰ってきた。老犬は先月よりもだいぶ元気で、生命力がすごい。

年明けの旅行用にスノーブーツとやらを買いに行った。当たり前だが車があるとあっちゃこっちゃ移動できてすごい。クラフトビールもごっそり買ったので、年末年始のHAPPYは確保された。

2022/12/29

論文を500〜1000ワード削らなければならないので、頭を捻っている。その量になってくると、1フレーズ2フレーズカットしていくレベルではなく、議論の一部をごっそり切らないと済まないのだがどうしようか。

2022/12/28

私は新海誠をひとつも見ていないし、今後見る予定もない。なので森さんのように、新海誠のここやあそこが苦手というわけでもない。なんせ見ていないのだ。(トトロ見たことないに比べたら、この未経験は自慢にも使いがたいのがしぶい。)

しかし、見ていないだけでなく、今後見る予定もないのであって、なおかつうっすら確かに馬鹿にはしている。理由は、ただただ私が紛うことなきスノッブであり、ちょけた新作アニメなんぞ見ているのはダサいと思い込んでいるからだ。ちなみに、エヴァンゲリオンの新劇場版はぜんぶ見ているので、あまり自己一貫性はない。

昔から一般的に、①日本の②現代のコンテンツは、優先的に消費しようという気にならないことが多い。現代アートなんかを見に行くにしても、作者の名前がカタカナでなく鈴木とか小林であった途端に興味の7割は失っている。日本のものも時代の離れたものは気になるし、現代のものも海外のものは気になる。それは、部分的には場所の試練と時の試練を乗り越えたコンテンツのほうが良質である見込みが高い、という推論によるものだが、やはりシンプルに私が生粋のスノッブだからだ。洋楽を聞くようになり、それまで聞いていたJ-POPや邦ロックを馬鹿にしはじめた中3から、性分はなにも変わっていない。

一応、もうちょっと一般化できそうな話としては、①②を満たすコンテンツは、鑑賞のための心的距離をあまり取れないことがしんどいのかもしれない。作者のことを呼び捨てにできないような距離感では、その作品について気の利いたことを言うのはほとんど不可能である。作者は、私から地理的時代的に離れているべきであり、対面の人間関係であれば払ってしかるべき敬意をある程度免除される程度にそうでなければ、批評は難しい。現代の、その気になったらコンテンツ作者にDMを飛ばして、運が良ければ返事を貰えるような距離感(会いに行ける○○、生産者さんの顔)は、正直しょうもないと思う。ということで、作者を神格化したがるようなロマン主義的価値観を、私は少なからず持っているようだ。わざわざ耳を傾けるとしたら、神々の言葉のほうがよいに決まっているではないか。

2022/12/27

今日開けたCollective ArtsのGood Monsterが、ここ最近でいちばんうまかった。匂いからしてホップがガン攻めの、勢いあるダブルIPA。色んなビールがあって楽しいのは楽しいのだが、結局はこの類のものが趣味の中心にはなりそうだ。ファンクだって、結局はJBとPファンクに戻ってくるみたいなところ、ある。

2022/12/26

美的価値についての、Mohan Matthenの短いノートを読んできた。Matthenは基本的に道具主義をとっており、ものが持つ価値を、それとの間に取り結ぶ関係が主体にとって有益であることから説明している(少なくとも美的価値はその類の価値だと考えているっぽい)。美的価値を持つものとは、それに関与することで美的快楽を味わえるもののことである。この辺の説明は、まんまビアズリーの美的快楽主義と一緒だが、「快楽」の中身をちょっと特定化している。

促進型の快楽[Facilitating pleasure]とは、単に感覚としての快楽[pleasure-as-sensation]ではない(それもありうるが)。それは、ある種の役割を果たす快楽であり、それが伴う活動を維持し、強化するものである。

Matthenが挙げる例は、散歩の快楽である。散歩は健康にしてくれる点で有益であり、健康をもたらすという価値があるが、それだけではない。お気に入りの格好でお気に入りのルートやペースで散歩することは、そのやり方をsustainしreinforceするようなポジティブな情動を生じさせる。促進型の快楽は、あることをする気にさせ、それをどのように行うかに影響を与えることで、主体のふるまいを成形するような快楽なのだ。美的価値を持ったものへの認知的関与とそれが与える促進型の快楽の間には、関与が快楽を与え快楽が関与を促すような、フィードバックループがあると言ってもよいだろう。個人的にはかなり共感できる立場であり、とりわけ時間的要素を持ち込んだ説明なのが性に合う。密かに温めているアイデアで言えば、(少なくともある種の)美的価値はハーモニーではなくグルーヴなのだ。

この、「もっとやっていたくなる」類の快楽、手段の自己充足から美的な価値を説明するというアプローチは伝統的なものでもある。私のかじった程度の知識によれば、カントの目的なき合目的性とはまさにそういう話だったはずだ。そういえば、第一契機に比べて第三契機について書いている現代美学はあまり読んだことがない気がする。活用していきたい話なので、掘ってみようと思う。

2022/12/25

クリスマスなので『素晴らしき哉、人生!』を見た。見るのは二度目だが、さすがによい映画だ。こう、ふつうによくできた物語については、褒めるのが難しかったりする。感動しすぎるのもこっ恥ずかしいので、あらを探してケチつけたくなる類のやつだ。

近所のイタリアンで食べたボンゴレビアンコが美味しかった。来年はパスタマスターを目指したい。

2022/12/24

井の頭公園をぶらぶらしてきた。吉祥寺を散策するのははじめてだが、なんでも揃っている楽しい街だ。400円で入れる自然文化園は、動物たちもさることながら、とくに水生物館の展示がピカピカで感心した。週末のクリスマスなのに、そんなに混雑していなかったのもポイントが高い。

2022/12/23

日比谷のクリスマスマーケットに行ってきた。イベントの非日常感はよいが、どうしても自前の文化という感じがせず、コスプレ感が否めない。リンツのホットチョコレートはおいしかった。

霞が関駅、ほんとうにぜんぜん人がいなくて、Liminal spaceみがあった。

2022/12/22

美的に気に食わなかったのでずっと手を出してこなかったウルトラライトダウンジャケット、買ってみたら一枚でポカポカするので、家の中でもずっと着ている。

すっかり年の瀬で、「良いお年を」と言い合う季節になってきた。今年はやるべきことを粛々とやる一年だったので、それなりに満足している。

2022/12/21

今年はほんとうに映画を見ていない。ろくに見ていなかった2019年でも72本は見ていたのだが、今年は50本ちょいにとどまりそうだ。といいつつ、ふつうに考えれば、年に50本も映画を見れていれば、まぁ文化的な暮らしをしているほうではないか。また、今年は見たことのあるものを見返す機会も多かった。思えば長らく再鑑賞をないがしろにしてきたが、好きなものは何度見ても好きなので、わけわけらんハズレを引くよりよっぽど生活を豊かにしてくれる。長いやつはなかなか見返せていないが、来年は時間を作ってそれができればと思う。

今年は「面白かった映画選」も作る気がないので、手っ取り早く2022のベストを挙げておくと、群を抜いていたのはギヨーム・ブラック『宝島』(2018)、アンジェイ・ズラウスキー『コスモス』(2015)だ。前者は夏のキラキラをエスプレッソしたような最高のドキュメンタリーで、8月のくそ暑い時期に見れて最高だった。ブラックはうっすらずっと好きだったが『宝島』で大好きになった。今年公開の『みんなのヴァカンス』も良かったが、こじんまりとまとまっていて佳作という感じではあった。後者はズラウスキーというだけでお察しだが、ひさびさにこういう不条理で気の触れた映画を見れて最高だった。物語映画のフォーマットをぶっ壊しにきつつも、ところどころで確実にユーモアをかましている。ズラウスキーは外すときはとことん外す(今年見た『狂気の愛』も最低だった)が、ハマるときはハマり過ぎて吐きそうになる(『ポゼッション』はオールタイムベストのひとつだ)。この、面白すぎて吐きそうという奇妙な味わいは、リンチやハネケにもありつつ、ズラウスキーが圧倒的だと思う。

映画館で見たものだと、たいそう期待したPTAの『リコリス・ピザ』はまぁまぁで、そんなに期待していなかったジュリア・デュクルノー『チタン』がかなりよかった。

2022/12/20

スーパーに買い出しに来たつもりが、リュックを忘れて手ぶらで来ており、だめだ疲れているなと思いつつビニール袋を買ったのだが、帰り道の途中、ふつうにリュックを背負っていることに気がついた。

2022/12/19

芸術家より批評家のほうがえらい、という直観はわりとある。もちろん、これではただただミスリーディングなので、もう少し正確に述べると、 芸術家にとってのコアとなる能力と、批評家にとってのコアとなる能力があるとして、アートワールドにおいてより肝心なのは後者だろう、と思っている。具体的には、前者としては手を動かして素材をoperateする技術を、後者としては状態に照らしてものの良し悪しや向かうべき方向をevaluateするセンスを想定している。こう考えれば、芸術家といえど、後者の能力なしにはやっていけないだろう。良い批評家が良い芸術家であるとは限らないが、良い芸術家はみな良い批評家なのだ、というのはわりとそう思う。(少なくとも、私が良いと考えている類の芸術家に関してはそれが成り立ってしかるべきだと思う。)

もっとも、当の能力が批評家かつ批評家のみのコア能力とは言えないのかもしれない。今日のちゃん読で出た話だが、批評家とは、むしろ言語化したりレトリックで色をつける部分にコア能力を持つ人たちであり、evaluateがとりわけ得意な人たちではないのかもしれない。それはそれでかまわない(operaterよりもevaluaterのほうがえらい、とさえ言えれば。まだ読み始めたばかりだが、Lopes (2018)の立場も、うっすらこの直観を共有してくれているように思う。であるとすれば、肝心であり、プロパーに美的だと言える関与の仕方はとどのつまりevaluationであり、それをした上でなにかするという実践的なレベルまで問題にする必要はないと思うのだが、Lopesがどう話を進めるのかは楽しみなところだ。

2022/12/18

M-1からのワールドカップ決勝で話題に事欠かない夜だったが、テレビがないので結果はどちらも後で知った。前者は総合的にあまり面白みを見いだせなかったが、後者はよかった。総じて、今回のワールドカップは、スポーツなんてほぼほぼ興味のない私にも分かりやすいストーリーをなしていて楽しかった。

2022/12/17

大学の友人たちと宅飲みした。お互い大人になったなぁという部分と、ぜんぜんあの頃のままだなぁという部分がそれぞれある。深夜に延々と早押しクイズをやるのが楽しかった。

2022/12/16

スゴ本の中の方が『ホラーの哲学』について書かれていた。キャロルは「相当にワキが甘く、理屈にポロポロ穴がある」が、だからこそ「哲学者と格闘できる一冊」になっているとのことらしい。キャロルの理屈にポロポロ穴があるのかはともかく、だからダメな本だとはならず、相手取ってバチバチ闘える本になっているという評価は、楽しみ方をよく分かってらっしゃると思う。分析美学に限らず、哲学書は「パチこいてんじゃねぇだろうな」ぐらいの喧嘩腰で読むのが健康的だ。私の『批評について』にも、罵詈雑言に近いメモがたくさんある。

とはいえ、スゴ本の中の方が「相当にワキが甘く、理屈にポロポロ穴がある」とおっしゃっているは見たところ大きくふたつであり、どちらも実のところキャロルの落ち度であるとは思われない。ひとつは、フィクションのパラドクスについて思考説を推すにあたって、「思考説で全てを語ろうとする」「他を退けようと攻撃する」点、それは「哲学者の悪い癖」とのことらしい。必ずしも一択を迫られているわけではない場面で、そうであるかのように話を進める哲学者が多いのはその通りだとは思う(哲学者に限った話でもないが)。しかし、実態として「様々なルートによって感情が誘発される」のだとしても、よく通るルートとそうでないルートというのはあるものだし、ある立場の優位を示すために(必ずしも競合しないにせよ)別の立場の問題点を指摘するのはアブダクションとして必要な作業だ。ある立場を明確に支持し、他を退けるポーズをとることは、哲学者の悪い癖」と言われるほど問題のあるものとは思われない。なにより、はなから「いろんなケースがある!」と述べるだけでは面白くないし、みんな本当に一理あるのかどうかはやはり検討が必要であり、その意味で「他を退けようと攻撃する」くだりはやはり必要なのだ。

もうひとつ、スゴ本の中の方が問題視されている点はよくあるもので、危険かつ不浄なモンスターを必要条件とするキャロルのホラーの定義では、あれやこれといったホラーの名作が「ホラーではない」として退けられてしまうことだ。私の書評でも書いたが、こういった反例合戦はそんなには盛り上がりようがない。キャロルがXをホラーとして認めないからといって、われわれがXをホラーと考えるべきでないわけでもないし、われわれがXをホラーとして認めるからといって、キャロルはXをカバーできるよう定義を修正するべきとも言えない。われわれが一連の作品群をホラー扱いしているという事実はかなり重要であり、それはそれで説明を要する事実だが、その範囲と厳密には一致しないものの、芯を食った定義を提出することはカテゴリーの理解にとって役に立つ。芯が大幅にズレていることは問題だが、あれやこれをカバーできないことはたいした問題ではないのだ。スゴ本の中の方は必ずしもそうではないと思うが、こういったアプローチに対して、パターナリズム的な不寛容さを見て取るのは誰も幸せにならないアナロジーだろう。よくよく考えてほしいが、私の好きなホラー作品Xが、キャロルの考えるホラー*ではないからといって、私はなんら憤慨する理由はないし、キャロルがバカだと考える理由はないのだ。

2022/12/15

論文が(おおむね)できた! BJAに通らなくて、1ヶ月半ぐらいこねくり回していたやつだ。すっかり内容が変わり、ボリュームも日本語で16,000字程度だったのが、あれよあれよと25,000字弱になった。書きたてほやほやなのでずいぶん気に入っているが、粗熱をとってからもう一度見直したり、人に見てもらう時間をとりたい。

すごく当たり前のことだが、迷走し始めたらアウトラインを作るに限る。今回は、中心的な主張ひとつと、補助的な主張ふたつから成ることに気がついてから、さらっとまとめられた。たいていの活動がそうだが、自分で自分がなにをやっているのか不確かな状態というのは苦しいものだ。

蓄えているクラフトビールでもあけて一杯やりたい気持ちもあるが、週末に大学の友人たちに会う予定があり、どうせ散財するのでここは我慢だ。ビールは我慢すればするほどうまい。

2022/12/14

先日、友人と飲んでいて、〈専門家がXについて語ることと、素人が与太話としてXについて語ることはなにが違うのか〉という趣旨の質問をもらった。いい質問だし答えるべき質問ではあるのだが、難しい質問であり痛いところつかれた質問でもあるため、即答はできなかった。飲みの場でいきなり学振を書かされるようなものだ。

必要な理由づけをしているとか、先行研究にあたっているとか、ありていに言えば権威づけのためのマナーに則っている、というのが一応の答えになるわけだが、そう答えるまでもなく、それが相手の期待している答えではないことは明らかだった。しかし、それ以上の本質的な違いはと言われれば、ないというのが実情なようにも思われる。権威づけられたしょうもない理論もあれば、耳を傾けるべき与太話もあるからだ。

与太話が建物の乱立なのだとしたら、専門知は整地と地図づくり、みたいなメタファーで答えるのが、おそらく適切ではあっただろう。当のメタファーが適切かどうかはともかく。

2022/12/13

私は元バンドマンで、男子らしくラーメンとビールが好きなのだが、このままいくと夜な夜な飲み歩き50過ぎても一人称が「俺」のちょい悪オヤジに成り下がるので、そうならないよう日々軌道修正を試みている。しかし考えてみれば、古風な頑固親父も嫌だし、ロックなちょい悪オヤジも嫌だとすれば、どうすればいいというのか。自分がおっさんになったときのモデルとなるような存在が、正味な話、まったくいないのだ。結局のところ、われわれはなりたい類のおっさんになれることは決してなく、なんらかの類のおっさんになってしまうというのが実態なのかもしれない。

2022/12/12

体系的な情報というのはなんであれうれしいものだ。フィクションの快は部分的にはこれなんじゃないかと思っている。現実の真である断片的な情報よりも、フィクションの偽である体系的な情報のほうが面白いというのは、当たり前と言ってもいいだろう。

2022/12/11

DiA論文は、本来9月ごろには出るはずだったものがひとしきり延びて、二ヶ月前にsoonと言われてからのtechnical difficultiesがあって、先月in the coming weeksと言われてから1ヶ月が経過した。向こうの人の時間感覚は分からないが、そういうもんなのかもしれない。年内に出してくれれば文句はないが、12月25日に出るフィルカルで2022年の業績として書いてしまったので、それまでにどうにか頼む。

ブロガー上がりなので、論文や本の出版ラグにはいまだに慣れていない。ふつうに、一年も前に書いたものがそのままのかたちで世に出ることに対して、みんな恥ずかしさはないのだろう。このこっ恥ずかしさは、もはや自分では全面的に支持できる内容ではない、という点を脇においても存在すると思う。

2022/12/10

中目黒で酸辣湯麺を食べた。GT中目黒のとこがクリスマス仕様になっていて、かわいかった。

2022/12/09

高校の友達とクラフトビールを飲んできた。みんな悩みも愚痴もなくHAPPYだ。飲み会はこうであってほしい。

渋谷のGoodbeer faucetsで飲んでいたのだが、酔ってくるとだんだん舌が馬鹿になってくるので、なにを飲んでもうまいという、得なのか損なのかよく分からない状態になってくる。こう、ちゃんとクラフトビールをクラフトビールとしてappreciateできるのは一杯目だけだな、という気づきがあった。

2022/12/08

今日の講義では、試験やレポートでコピペをしないように念入りに釘を差しておいた。たぶんあと2〜3回は言っておかないとまたしてもArtpediaやartscapeまみれになるだろう。

コピペならそれ用のツールを使ってチェックできるのだが、流行りのChatGPTでそれっぽい回答を作ってくる可能性もあって、どう対策すればいいのか分からない。よく分かっていないのだけど、あれは同じ質問文に対しては毎回おなじ回答を返すのか、その都度ちょっと違う回答を生成するのか。後者だったら面倒だな。

2022/12/07

三軒茶屋の業務スーパーまで自転車を飛ばし、肉を買ってきてサムギョプサルした。キッチンのすみずみまで油まみれになったのだが、後悔はしていない。

2022/12/06

中学生の作文を教えていて、「アンパンマンのマーチ」の「たとえ 胸の傷がいたんでも」のフレーズに棒線が引かれていて、それについてなんか600字書けという設問をみた。ずいぶん雑な大喜利で芸人も困るだろうと思うが、考えてみればアンパンマンの胸の傷とはいったいなんなのか気がかりだ。愛と勇気以外に友達はいないのか、というよくある揚げ足取りよりもずっと気になるではないか。胸の傷というからには、なにかトラウマや過去の苦しみを指すはずであって、単純にバイキンマンに敗れて身体的・精神的に損害を受けるリスクのことではないはずだろう(それだとしたら、「たとえ傷つくことがあったとしても」だろう)。私の知る限り、かの人物はジャムおじさんのパン工場で創造され、毎日公安のために使役されている機械的存在であり、トラウマなんかとは無縁だ。いくどとなく頭部を取り替えられているので、記憶や自己の同一性すら確かではない。いったいどこにどんな胸の傷があるというのか。

どう考えても、なんらかの明確な目標を持ち、そのために過去の失敗や苦しみを乗り越えて努力しているのはバイキンマンのほうだ。そのときどきのトラブルに対処するだけのアンパンマンとは異なり、アンパンチによってつけられた多くの傷がいたんでも果敢に立ち向かう。そう考えると、「ああ アンパンマン やさしい 君は」なんかは、バイキンマン目線のルサンチマンのようにも聞こえてくる。

2022/12/05

ワールドカップの日本対クロアチア戦を15分ほど見ていたときに、ちょうど先制点を入れていた。素人目には、その直前まではクロアチアがボールを持っていることが多く、日本は防戦一方という印象だったのだが、なんかどさくさに紛れてコーナーキックでわちゃわちゃやっていたらあっけなくゴールに入っていた。翌日ハイライトで見たが、後半クロアチアの追いつき点はきれいな縦パスからのきれいなヘディングで、こちらのほうが圧倒的にカタルシスがあった。とはいえ、延長前半14分で、三笘薫が一人だけでドリブルで切り込んで行ったのは完全に流川楓だった。あれが入っていたらその日一番のカタルシスになっていただろう。

もちろん、シュートの決め方が美的であるかどうかは、点が入るかどうかに比べればまったく肝心ではない。現実はカタルシスを保証されたフィクションとは違うというわけだ。それにしたって、ファールをもらうために痛がるという例のやつ(見ていた15分の間だけでも、日本とクロアチア両方がやっていた)は何度見ても興ざめだ。

2022/12/04

早稲田松竹でシャンタル・アケルマンの『私、あなた、彼、彼女』と『アンナの出会い』を見た。前者は美大生の卒業制作といった感じでとても見てられなかったが、後者は『ジャンヌ・ディエルマン』以降というのもあり、少なくとも画はきれいだった。が、後者も話としての起伏がなさすぎるので、なにもパンチのないミヒャエル・ハネケをずっと見ている気分だった。どちらも同時代のフェミニスト映画理論を持ち出せばあれこれ言える作品なのだろうが、そうやってテクい操作をしなければ面白みが浮き上がってこない作品という時点で、しゃらくさいと思ってしまうフェイズに入った。

早稲田松竹で見たもので覚えているのは、『ざくろの色』『火の馬』の二本立てと『ヴィタリナ』『イサドラの子どもたち』の二本立てだが、今回も含めて毎回睡魔に襲われている気がする。早稲田松竹に行くと眠くなるのか、眠いときにばかり早稲田松竹に行っているのか。シンプルに、二本立てというのがなかなか集中力・体力的に追いついていない、というのが答えなのかもしれない。映画もビールも、たま〜に一本嗜むぐらいがいいのだ。

2022/12/03

グリーンカレーのチャーハンを食べたがかなりお気に入りだった。タイ行きたい。

2022/12/02

自分がもう27なのにも驚くが、10年前に同級生だった人たちがみんなもれなく27というのは、ほとんど実感がわいていない。単純に、少数を除いてまったく会っていないだけだが、記憶の中では彼彼女らはみな17のままだ。同窓会という類には一度も行ったことがないし行く予定もないので、今後もそうなのだろう。

2022/12/01

最寄り駅のエスカレーターは各ホーム1列×1本しかないので、例の片側空けるかどうか問題は回避している。しかしながら、それはそれで、自分が立ち止まった場合に自分を先頭にして後ろの人々が全員立ち止まることを強いられるため、全員が同様の推論から、結局だれも立ち止まらず、全員で歩くということになりがちだ。身体的に本当に無理のある場合を除き、普段なら2列エスカレーターで立ち止まるような人もみんなもれなく歩くことになる。ことによると誰も本心からは歩きたがっておらず立ち止まりたいのだが、誰も立ち止まらないので(心理的に)立ち止まるわけにはいかない。エスカレーターを1列にすれば問題が解決されると考えるのは大きな間違いだ。みんなで立ち止まるための1列ではなく、みんなで歩くための1列が実現される可能性がおおいにあるからだ。

2022/11/30

みんなポケモンをやっている。私はいまだにRSE以降のポケモンを知らないし、オープンワールドが〜と言われても、オープンワールドものもひとつもやったことがない。スカーレット・バイオレットが出るということ自体、発売直前にコンビニのダウンロードカードで知るぐらいの疎さであった。こないだはみんなスプラトゥーンをやっていた。小さい頃はあんなにビデオゲームが好きだったのに、すっかり乗り遅れてしまった感がある。

2022/11/29

ちょっと前にはまって、1週間ぐらい作業中にたれ流していたナミブ砂漠のライブカメラだが、Togetterでバズって日本人がチャットに集ったときに、運営ボランティアがしつこく「英語を使え」と言っていたことをたまに思い出す。「ボランティアがユーザーの質問に答えているので、英語以外だと対応できない」という建前らしいが、それと非英語で書き込んではならないことに一見したつながりがなくて、ちょっと考え込んでしまった。ボランティアらの様子を見るに、対応できないことへの困惑というより、知らない言語がつらつら書き込まれる嫌悪と恐怖が主だったように思う。

おそらく、ネット文化の違いというか、ネットにおけるルールの認識に齟齬があるのだろうと思う。私のブログにいきなりアラブ語の長文コメントが書かれたらびっくりするし、しつこく書かれたらやめてくれと抗議したくもなるが、「日本語以外のコメントはお控えください」と宣言するのも変な気がする。私にできるのは粛々と無視したり削除したりするぐらいで、プラットフォームとして制限する機能がない以上、私から勝手にルールを定める権限があるようには思えないのだ。ブログにせよYouTubeにせよ、公園の一角を借りて遊んでいるようなもので、そもそも私の私有地ではないのだ。そういう認識から言えば、「英語を使え」にはたしかに不当なところがある。日本人は日本人同士でチャットをしたがっているわけだし、運営の都合なんて知ったこっちゃないのだ。インターネットのコメント欄なんてそういうものだ。

同ライブカメラのチャット欄で、「そんな要求はレイシズムだ」いやレイシズムではな」みたいなやり取りも目にしたことがある。レイシズムはちょっと大げさとも思うが、それへの応答として運営が「レイシズムではなく、みんなが平等に気持ちよく使えるためのルールだ」と言っていたのはナチュラルに排斥者のマインドで、悪手だろと思った。

それはそうと、「英語を使え」と言い出す日本人も少なからずいたあたりが、極めて日本人らしいなと思った。学級委員長タイプというか、郷に入っては郷に従えというか、ルールと聞けば脊髄反射で遵守し、遵守を他人にも要求するタイプなのだろう。

2022/11/28

過集中で食事しなくなるのか食事しないことで頭が冴えるのか、おそらくはその両方なのだが、そういうのがよくある。いまのところ健康に害はないのだが、食事の時間が不規則なのは長期的にはよろしくないのかもしれない。

2022/11/27

「マーベル映画は映画じゃない」は言い過ぎだが、マーベル映画のファンと、ツァイ・ミンリャンやらキアロスタミやらを見ているシネフィルは「実のところ同じ趣味の持ち主ではない」とは言えるだろう。価値づけも、コミュニティも、ルールも規範も、伝統も慣習も、その両者とでは大きくかけ離れているのだ。大衆向けの娯楽作品が後世においては玄人好みの古典名作扱いされるのは珍しくないので、広い目で見れば作品自体に根本的な差異があるとは思わないが、〈同時代においてどう同じ趣味の仲間を探すか〉という狭い問題に関しては、両者を区別して考えることがさしあたり重要だと思う。好きな映画3選に『ショーシャンクの空に』が入ってくるような映画好きと、『牯嶺街少年殺人事件』が入ってくるような映画好きの間で、仲間意識が芽生えることはあまりないだろう。相手が「映画好き」だからといって気を許さず、自分と同じタイプの映画好きなのかどうか確認するステップが常に必要である。

私はかつて、この対比は単純に見ている本数の違いに起因するだろうと思っていたが、そうでもないらしい。タルコフスキーやらベルイマンなんぞ歯牙にもかけず、マニアックなものを含めヒーロー物やコメディやホラーを何千も何万も見ている人がよくいる。やはりそれは、素人玄人の対比ではなく、根本的な趣味の違いなのだ。

個人的には正直なところ、自分と同じタイプの映画好きであっても、好きな映画や監督について語り合うことが楽しいと思えた経験はほとんどない。とりわけ、Wikipediaに載っているようなうんちくの交換になってしまうのは惨めだと思う(し、そういうバックグラウンドの話ばかりしてくる相手との会話は早めに切り上げたいと思う)。最近の共同体主義美学は、コミュニティやらアイデンティティやらについてふわっと楽観的なビジョンを示すばかりで、この美的会話におけるぎこちなさ、分かりあえなさ、気まずさを意図的に無視していてよくないと思う。あるいは、そういうネガティブさを経験したことのないような著者ばかりで、ノリが合わないと思う。

2022/11/26

恋人との記念日でご飯を食べてきた。ビル15階は高所苦手勢にはなかなか凄みがあったが、出されたものはどれも美味しかった。お祝いの定番なのか、2時間の間に20人ぐらい誕生日を祝われていた気がする。みんな生まれてよかったよねぇ。

2022/11/25

じっくりと1ヶ月ちょい焦らしたかいあって、Grammarlyから55%OFFのブラックフライデークーポンがきた。これで、1万円弱でまた一年使えそうだ。Nice。

5年ぶりにパーマをあててくるくるになった。

2022/11/24

今日は料理DAYだった。壺ニラときゅうりのポン酢漬けを仕込み、ちゃんこ鍋をこしらえ、チーズケーキまで仕込んだ。今回はオレオチーズケーキということで買いに出かけたのだが、東急ストアにもまいばすけっとにも私が知っているオレオがない。たしか9枚×2パックの箱で売っていたはずだが、6個×2パックの箱と、3枚×10パックの小分けされたやつしかない。契約終了かなにかでノアールと分裂したことまでは知っていたが、その後もマイナーチェンジを続けていたらしい。そもそも、一食の適量は3枚らしい。

2022/11/23

小学生だったか中学生だった頃の音楽の授業、班に分かれての歌の発表かなにかで、他の班の発表を腕組みして見ていたら「そんなのは人の発表を聞く態度ではない」と先生に注意されたことがある。まれに思い出すが、当時も今も「人の発表を聞く態度」として要求されていたものがなんなのかよく分かっていない。批評家的な、分析し、論評するような態度のことではないのはたしかだろう。というのも、批評家は腕を組んだりして偉そうにしているのがふつうだろうからだ。

2022/11/22

ネットにおいては、好きや楽しいよりも、なんらか嫌な経験や鬱憤とした感情に沿って人が集まることがよくある。誰しも多かれ少なかれネガティブな面を持つのは疑いえないが、私はそれを利用して仲間を得ようとは思わないし、積極的にそれを表明することは、実際のところ期待されるようなセラピーとしての機能をちゃんと果たすのか懐疑的である。SNSのプロフィールに病名や飲んでいる薬や持っている手帳や受けた災難を記し、定期的に死んでみようかとほのめかすような人の周りにはそういう人が集まっていくばかりで、問題が解決されるわけでもないし病が治療されるわけでもない。一日一日をよりfeel goodに過ごすという以上にやるべきこともできることもない、というところから出発して合理的に選択できるのは、そもそも大して苦しみを経験していない人間の特権である、と言われればそうかもしれないが、ルサンチマンは相手にしていられないというのが正直なところである。トラウマやディプレッションはなんらかの対処を要する問題であって、アイデンティティの一部に組み込んだり、定期的に前景化させてしみじみと苦しむのが好きな人に対して、ケアもなにもないだろう。

2022/11/21

基本的に、べらべらと思弁的なことを喋る映画やビデオアートがめちゃくちゃ嫌いだ。ゴダールだかベルイマンだか知らないが、それっぽいことをそれらしく棒読みしていればミステリアスな質が得られると思っているのがうすら寒い。そんなのはレジュメもスライドもない口頭発表のようなもので、ふつうの人にはついていけないのだ。

まったく同じ内容でも、小説で提示されれば誠実度はぐんと上がるように感じる。やはり、思想とは本質的には書かれたものなのだと思う。とりわけ、それを公に共有しようとする場合には、間違いなくそうなのだ。独白がたらたらと続く作品には独りよがりなところがあって感じが悪い。一般的に言って、本人しか体系的に分かっていない事柄を、聞き手の理解度を考慮することなくたらたらと話すことは感じが悪いのだ。その点、書かれたものはどれだけ難解で衒学的で破綻していても、その種の感じの悪さからはある程度逃れている。「読んでも分からないのはお前が悪い。分からないなら読むな」というのがアリでも「聞いても分からないのはお前が悪い。分からないなら聞くな」というのはナシな気がするし、「俺に分からない話をするな」というはアリだが「俺に読めない文章を書くな」というのはナシな気がする。そこになんら根本的な原理がないとしても、私はそういう非対称性を感じるし、私は私がそうであることからみんなそうであることを推論している。だからこそ、論文を書くときの態度と、講義で教えるときの態度が一緒ではまずいなと思うときがある。

2022/11/20

お寿司を食べた。 まぐろ、はまち、あぶりえんがわ(みそ)、あぶりえんがわ(塩レモン)、うなぎ、合鴨ロース、カニ味噌軍艦、海苔すまし汁。最近は鴨にハマっている。

2022/11/19

ミッケラーのバーストIPAを飲んだが、そんなだった。あっさり系ではあるが、ガムを噛んでるような苦味と甘みがしつこくて、なかなか料理と合わせにくい。なぜなら、ガムを噛みながら料理を食べるということはないからだ。

2022/11/18

『現代存在論講義』のとくにIIはすごい本で、ひさびさに読み返すと、直近で気になってることを取り上げてくれていることがかなり多い(私がいかに読んだ本の内容をすぐ忘れるか、という話でもあるのだが)。Evnine (2015)は性質群からなる普遍者ではなく、ファンやコミュニティを含んだ個別者としてジャンルを理解することを提案しているが、これは種に関する個体説とおおむね同じアプローチみたいだ。自然種のHPC理論についてもぼんやりとしか理解していなかったが、手短な解説がついてて助かった。芸術のカテゴリーの話は、あたりまえだが種についての存在論とかなり親しいので、しばらくはそっち方面のものを勉強しようと思う。

2022/11/17

ぷらっと渋谷に出て、ラーメンを食べ、Loftで買い物して帰ってきた。ラーメンはなかなか美味しかったが、1000円前後の「丁寧に作られたんだろうな〜」という感じのラーメンはどれも似通っているため、ふと思い出して再訪することがあまりない。高いし。

夕方からぷらっと渋谷に出て立ち寄れる場所がもっとあった気がしたが、とくに思いつく当てもなく、買うもの買ってすぐに帰宅した。ミッケラーで一杯やりたかったが、なんでもない日にそういうのをやり始めたらきりがないので自重した。

渋谷は玉石混交のあれこれをギチギチに詰めた汚らしい街だ。思い出はたくさんあるが、いい思い出ばかりではない。

2022/11/16

疲れ目なので蒸しタオルをやったらいつもより3倍すやぁと入眠できた。最近買い直してなかったけど、またあずきのチカラでも買って使うか。

2022/11/15

Abell (2015)のジャンル理論を読み直した。ジャンルとは目的と結びついたものだとする、(Malone 2022の言葉で言えば)機能種説だ。あらゆるジャンルには本質的な目的があり、このことがジャンルを規範的にしている。すなわち、目的に照らして手段がどういう手段なのか解釈したり、適切な手段なのかどうかで評価されるというわけだ。キャロルのカテゴリー論ともかなり通ずるところがあると思うが、キャロルの場合目的は作品ごとに個別のものであり、カテゴリーはその重要な手がかりとして知られている。実際、後のキャロルはカテゴリーの重視をやめ、作者が作品に担わせた目的にまっすぐ向かうことにしたらしい。

「あらゆる個別作品には目的がある」というのは目的を広くとる限り無茶な観察ではなさそうだが、「あらゆるジャンルには目的がある」はどうだろうか。少なくとも私の観察では、物語芸術に限定しても、ジャンルは①目的(とりわけ鑑賞者に与える感情的効果)によって個別化されるものと②表象内容によって個別化されるものに分裂している。「コメディはジャンルである」というときの「ジャンルである」と、「西部劇はジャンルである」というときのそれは、中身がぜんぜん異なるのだ。この後者、常識的に考えれば表象内容によって個別化されているジャンルたち(具体的には西部劇、ファンタジー、SF、恋愛もの、犯罪もの、戦争ものなど)についても、エイベルはジャンルの中心的な目的を帰属しようとしている。しかし、「議論の余地があるものの[arguably]」と留保を付けながらエイベルが記述するSFや西部劇の目的は、余地どころかほとんど受け入れがたいものであり、見たところアドホックに指定したものばかりだ。曰く、SFの目的とは〈論理的に一貫した別世界を記述すること〉であり、西部劇の目的とは〈制度的な社会秩序がない状況の道徳的行為を主題とすること〉らしい。しかし、「SFとは未来や別の惑星におけるテクノロジーを描くもの」「西部劇とは開拓時代のアメリカ西部を描くもの」といったフォークな説明に対し、これら目的を中心に据えた説明のほうが適切だと考える理由がなにもないのだ。

さらに、音楽ジャンルのことを思い起こせば、①②だけでは済まないことに気がつくだろう。ヒップホップはサグい気分にさせてくれるからこそヒップホップであるわけではないし、ストリートでの暮らしについて歌っているからこそヒップホップであるわけでもない。すくなくとも、それだけではないし、そこが中心ではないように思われる。音楽ジャンルは、ほとんどの場合③非美的な音楽要素・構造や④美的性質によって個別化されており、常識的にも理論的にもそこがポイントなのだと考えざるを得ないと思う。

2022/11/14

ちゃん読でビアズリーの創造論文を呼んだ。創造プロセスに関して、よく想定されがちな推進モデル(インスピレーションや明確でない感情を得て、それに突き動かされる)と目標モデル(成し遂げたいことがあってそこへ向かう)をどちらも拒否し、トライアルアンドエラーで進行するような創造観を推している。あらかじめかっちり持っているアイデアに突き動かされるのでもなく、最終的にかっちり定まっているゴールに向かうのでもなく、その都度やるべきことをやって行けるところに行く、というわけだ。それなりにもっともらしい立場だと思う。

面白いのは、そうやってトライアルアンドエラーするなかで重要となる能力とは、批評をする能力にほかならないと考えている点だ。その都度なにがエラーなのか認識し、どう修正すべきなのか分かるためには、現在の暫定的な状態が持つ美的価値を判断する能力がなければならない。フォークな考えでは創作力とは手を動かす能力(テクニック)のことなのだが、ビアズリーが正しければその重要な部分とはむしろ批評力・鑑賞力なのだ。この2つの能力(operateする能力とselectする能力とでも言うべきか)の対比は面白い。ディスカッションではメディアによる違い(絵画制作はoperate重視だが写真制作は主にselect)や、AI絵画(operateしているだけでselectはしない)に関する話も出て面白かった。

2022/11/13

Being for Beautyはまだちゃんと読めていないが、Philosophy and Phenomenological Researchに載った要約論文を読んで、ネットワーク理論への理解が深まった。〈ある事実「対象xは美的価値Vを持つ」がある命題「人物Aは行為φすべきである」に重みを与える〉というゴツい説明がなかなか分かっていなかったが、要は〈Vを持つならばφする〉といった条件付き戦略が効用を最適化する、みたいなことらしい。条件部の方にはある美的価値が、帰結部にはある行為が入る。なんでそのような条件付き戦略の選択が効用を最適化するのか、という点で美的快楽主義とネットワーク理論は分かれる。前者によれば、美的価値とは価値ある経験をさせてくれる能力のことなので、鑑賞すべし、ということになる。いわずもがなの前提は、みんな価値ある経験をしたがっている、だ(プレーンバニラな快楽的規範)。

後者の考えはもっと込み入っている。「美的プロファイル」というのがかなり気の利いたアイテムだと思う。Lopesがそう説明しているのかは定かでないが、見たところ、それはおおむね芸術のカテゴリーに相当し、非美的性質群からある美的性質(ここでは美的価値)への関数のようなものとして与えられている。ある美的領域のエキスパートたちは、分業(すなわち、帰結部に入る行為φが人それぞれ異なる)しつつも同じ美的プロファイルを共有している。この社会実践においては、美的プロファイルがいわば規範となっており、これに沿って、かつ自らの能力を発揮して行為し成功を収めることが「達成」となる。ここにプレーンバニラな実践的規範、すなわち、みんなやるからには達成したがっている、が加わって先程の条件付き戦略の選択が最適とされるわけだ。

見たところ、美的快楽主義もネットワーク理論もうまいこと美的価値を説明できているように思われる。Lopesによれば前者は、帰結部の方に入る行為φがもっぱらappreciateなので狭い、ということになるのだろうが、ここはやっぱり納得がいかない。なんか勝手に話題を広げといて伝統的な理論は狭いと言っている風なのが気がかりだ。おそらく、美的問題を脇に置いて[punt on]しまったことが、こことも関わっているのだろう。

そしてやはり、達成を目指すことは快楽を目指すことに還元されるような気がしてならない。とりわけ、Lopesは快楽を価値ある経験として広くとっているのでなおさらだ。あるいは、どちらも合理的選択理論の下にあり、ペイオフが快楽なのか達成なのかは大した違いを生じさせない、ということなのかもしれない。

2022/11/12

アイブロウサロンというのに行ってきた。ブラジリアンワックスでの脱毛は初体験だったが、事前に痛いと脅されていた1/10も痛くなかった。注射のように異物が入ってくる不快感がまったくなく、むしろ不要物が回収されるだけなので、そこの意識の違いがかなりあると思う。

2022/11/11

今年新たにやり始めたこととして、マルチデスクトップを使い始めた。仮想デスクトップといえば、昔はフリーソフトのキューブみたいなやつを導入していたのが懐かしい。Macになってからぜんぜん使わなくなったが、ChromeやNotionなどつねに立ち上げているアプリを全画面で出しておくほうが作業しやすいという当たり前のことに気がついた。よくアクセスするサイトはつねに固定タブで開いておく、というのも今年からやりはじめたことだ。PC歴は長いが、逆に変な癖が多くて、非効率的なことをたくさんしているような気がする。

2022/11/10

生きてる間も亡くなった後も、ゴダールの映画とどう向き合えばいいのか分からずにいる。大学1年の私がキューブリックと並んで貪るように見ていたのはゴダールであり、前者にはない後者のミステリアスな質にサブカル魂をくすぐられていなかったら、ここまで映画にはまることもなかっただろう。われわれは少なからずゴダールが好きな自分が好き、という時期を経てシネフィルになっていくものだし、それが悪いことだとも思わない。他方で、サブカルを自省できるメタサブカルになるにつれ、あの衒学的な態度が鼻につくようになったのも事実だし、もっと体系的になにかを学ばなければ十分に理解できる対象ではないと謙虚にもなってきた。『ウイークエンド』や『アルファヴィル』の表面的な楽しさを指摘する以上に、ゴダールについてなにか語ることは私には難しい。

そして、いろいろ読んで勉強しようとは思うのだが、ゴダールについて語る者を、単にゴダールが好きな自分が好きというナイーヴなサブカルによるそれと、ちゃんと勉強した上位のメタサブカルによるそれとに区別することは容易ではない。みんな衒学的でポエムな文体を好んでおり、中身がピンきりなのだ。現代思想もそうだが、フランス文化にはなにかを明晰に語ることへの恐怖があるのではないか、と勘ぐってしまう。

2022/11/09

鶏もも肉のソテーを作ったのだが、タークがご機嫌斜めで革がベチャベチャにこびりつき、あっちゃこっちゃしているうちに消え去った。鶏皮部分がきれいさっぱり消えたのだ。どういう理屈なのかはわからないが、現に失われてしまった。

2022/11/08

あらゆるケースがそうだとは言えないが、例えば、「寝起きはだるい」という観察に対して、[citation needed]などとつけるのはどこか役所仕事的で、ばかばかしいだろう。著者としても、「周囲や自分を観察してみろ!」としか応答しようがないではないか。それ以上にばかばかしいのは、適当になにか参照文献を挙げておけば、要求に誠実に応えたことになるという事実のほうだ。実際には、参照先の文献で別の誰かが同じ観察をして同じことを述べ、そちらの校閲者はそれに突っかからなかっただけなのだ。誰もなにか実証的な調査をしたわけではなく、ただ日常的な観察を報告しているだけなのだが、後になって報告する者が先立つ報告を参照しなければならないのは意味不明だし、参照によって後の報告がjustifiedされたかのような雰囲気になるのも意味不明だ。まぁ、そういう過度に突っかかるべきではない日常的な観察、(著者や校閲者が属する共同体において)みんなふつうに認めるだろうし省みる理由もとくにない意見を、証明の必要な主張から区別するのは、それはそれで難しいことなのかもしれない。

2022/11/07

紅白にK-POPのアーティストが出て、老人や愛国主義者や愛国主義の老人の反感を買うのはいまに始まったことではないが、出るべきではないという理屈をどれだけこねようが、数字を出せるというただ一点においてキャスティングされていることを完全に見逃しているのがきつい。紅白歌合戦というのを、その年に日本文化に貢献した名誉ある日本人アーティストたちを称える場だと考えているのだとしたら、あまりにもナイーヴだろう。

それはそうと、IVEが出るということから、LE SSERAFIMも出るだろうという推論は、あまりセンスがない。両者には、日本デビューしており、日本語曲を持っているかどうかの決定的な違いがあるからだ。誰が誰にケアっているのか内部事情は知らないが、K-POPアーティストがふつうにやってきてふつうに韓国語で歌う、というのはまれだ。日本デビューしているかどうかで、日本で数字が出せるかどうかが大きく左右される、というのが事実だとしたらその事実には驚くが、"内部事情"に陰謀論的なものを嗅ぎ取るよりはもっともらしい説明になるはずだ。

2022/11/06

はてブやnoteでまれに記事への質問をもらうが、回答することはなく、頃合いを見て削除するか非表示にしている。とくに深い理由はないのだが、〈質問すれば回答が得られる〉という風に考えているのだとしたらそんなことないぞ、というぐらいの気持ちではいる。質問されること自体に不快感はないのだが、質問に応えなかった場合に反感を招きそうな可能性には不快感がある。こういう自意識過剰を自覚しているので、もう一律回答しないことにしたのだ。

当人のブログで言及してもらったり、メールで直接質問が来た場合には、もう少し対応しようという気になるかもしれない。それにしたって、まずは挨拶と自己紹介からだろう。立場も関心も謎なまま的確な回答をすることは困難だし、そうやって匿名のまま人に絡もうとするのは失礼に相当しないのか、といつもながら思ってしまう(もちろん、インターネットでは必ずしも失礼ではなく、向いていないのは私のほうだ)。勉強会も、はじめに本名と所属を明かさないアカウントからの参加希望はぜんぶ無視している。

2022/11/05

宇宙には、秩序へと向かう原理と、分散し多様化する原理がある。そこまで思弁的でなくても、人間の生活には、ランダムな刺激による不確実性を排除し、安全圏を確保しようとする努力と、あえて多様な刺激にさらされることで、安全圏を増やそうとする努力がある、というのはもっともらしいだろう。われわれはなるべく美味しいと保証されている味を繰り返し食べたいし、たまには違う味にも冒険してみたいのだ。

Lopes (2022)による美的価値の説明(冒険説)は、2つ目の観察に依拠している。それが美的生活の豊かさの一部であることはおおいに説得的だが、同じものばかりにこだわる美的生活をただちに貧しいものだと断定するわけにもいかないだろう。思うに、問題は「豊かさ」がほとんどつねに多様性と結びつき、強度を無視して理解されてしまうところにある。消費社会において価値とは差異なのだから、そのような「豊かさ」観にも一理はあるのだが、冒険し続ける人生だってオルタナティヴがなければやりきれないだろう。

こう考えてみると、結局いつもの、西洋的な発展モデルと非西洋の循環モデルの対比に帰着してしまいそうなものだ。私はそれが気の利いた対比だとは必ずしも思っていないが、美的生活論にはその辺の検討をわりと期待している。そもそも、日常美学とは西洋的な価値を見直し、非西洋の価値を組み込む試みだったはずだ。最近の美的生活論と日常美学の接点は正確には分かっていないので、そろそろ誰かサーベイを書いてほしい。

2022/11/04

クラフトビールがもりもり売られているイオンリカーが近所にあることを知ってしまった。もうアラサーなので、ビールは卒業しようと思っていた矢先に、だ。夢ならばどれほど良かったでしょう。

とりあえず、ぱっと見でよさげなIPAを2本買ってきた。473mlとはいえ、1本1000円前後するので安い買い物ではない。しかし、文句なしにうますぎる。正味な話、うまいビールが与えてくれる快をほかのなにかで代替しようとするなんて無理があるのだ。もうIPAしか受け付けない舌になって、最終的にインドの青鬼で妥協する未来が見える。

2022/11/03

文化の日なので、無料で常設展が見れる国立西洋美術館にやってきた。目当てのハンマースホイ《ピアノを弾く妻イーダのいる室内》は彫刻エリアと合流する曲がり角にひっそりかけられていて、人だかりもなかったのでじっくり見れた。この、ひっそりとしている感じが絵の主題にとっても適切でうれしい。モネみたいに照明ででかでかと照らしていたら台無しだっただろう。

私はずっとマネを贔屓にしているが、この常設展のストーリーでいくと、モダンアートへのゲームチェンジャーはクールベだと印象づけられる。あまり強いマネがない分、クールベの《罠にかかった狐》が異彩を放っていた。

図らずも良かったのはナビ派のボナールとヴュイヤール。スコットランド国立美術館展でもヴュイヤールに目が止まったので、私はこの辺の描写が瓦解するスレスレの描き方が好きなのだろう。新たに心惹かれたのは、ピュヴィス・ド・シャヴァンヌ《貧しき漁夫》と、ウィリアム・アドルフ・ブーグローの《音楽》だ。前者は象徴主義的な、ミニマルなのに意味がギチギチに詰まっているような緊張感があり、対峙する楽しさがある。後者は、《ヴィーナスの誕生》で有名な女体職人として認識していただけに、このポストモダンな絵にずいぶん動揺させられた。この訳のわからなさに対してなんの説明もないあたりが笑える。

時代順になっている展示では、序盤の宗教画や古典主義をじっくり見すぎて、本当はちゃんと見たい19世紀以降をさらっと流すだけになりがちだ。

浮いたお金で昼は牛カツを食べ、夜は鴨ラーメンを食べた。

2022/11/02

世界美猫大会というのをベルギーでやっていたらしいが、はてブでおおいに嫌悪されていて興味深かった。「趣味については議論できない」の動機づけはやはり愛なのだと再確認させられる。〈うちの猫がいちばん可愛い〉のマインドは、いかなる批評的試みにも容赦しない。私も犬に関してはうちの子が当然いちばんだと考えているクチだが、それはそうと、世界美犬大会なる場でどのような個体がなにゆえ評価されるのかを楽しむ余裕はある。猫派にありがちな、自分ん家の子を過度に偏愛、神格化、崇拝するノリときたら、まったくうすら寒いなといつも思っている。

ところで、中身を見てみると、さっそくヘアレスのスフィンクスが飛び出してきてぎょっとさせられる。しわしわぶにぶにの脳みそみたいな肌に、焦点の合わない目、なかには威嚇するように牙をむき出した写真もある。当の記事が話題に上がったのも、ひとつにはアイキャッチとなっている当の猫種が一般的に言えば美しいどころか醜い点にあったのだろう。流暢性仮説に従えば、人間はカテゴリー的により範例的な見た目をしたものを好むので、それで言えばスフィンクス猫なんかは猫カテゴリーの周縁も周縁だ。生き物なのか屠殺された食肉なのか定かでない質感も、カテゴリー逸脱的で不浄である。もちろん、これらは一般的かつ部分的に醜さを支持する要因というだけで、個別的かつ全体的に見てあるスフィンクス猫が美しさを持つことを妨げるものではない。それにしたって、スフィンクス猫がエントリーする美猫大会は、言ってしまえば逆張りである。それは〈一見醜いが、実は美しいのだ〉という価値転覆の試みであって、端的に美しい猫であるわけがないのだ(飼い主や審査員はそう説明したがるかもしれないが)。

スフィンクス猫が、平均的なカテゴリー処理能力を持つわれわれにとって異常で不浄だという前提のもとで、あえて逆張りして「美しい」と述定することになんの意味があるのだろうか。そこにはどうも、ポリコレ的な多様性を推し進める自分たちへの陶酔があるように見えるので、批判されるべきだとしたらそこだろうと私は思う。みんなで醜い猫を並べて美しいと逆張ることで、自分たちがpoliticallyにcorrectな感性を持っていると相互確認し、安心したいのだ。そもそも、美人コンテストは多様であるべきだという考えをそのまま動物コンテストにも持ち込もうとするのはとんでもない誤りだ。人種の多様性と違って、猫種や犬種の多様性は人為的に創造・維持されているものであり、本猫本犬たちにとってなんらありがたいものではない。自然界なら淘汰されてあたりまえな突然変異体を、グロテスクにもあれこれ交配させて存在せしめたのがあの猫や犬たちである。私は、それを人間の残酷として切り捨てるほどモラリストではないし、歴史的に短足を強いられたうちのダックスフントを可愛いと評価する程度にはアンチモラリストである。しかし、ペットの犬猫たちの歪んだ"多様性"と、人種における多様性(一般的に、自然界の多様性)を無邪気に類比してしまう感性とは、なるべく距離を取りたいと思っている。

2022/11/01

キムチ鍋を作ろうとしたが、直前で天啓をうけ、コチュジャンの代わりに麻辣醤をぶちこんでマーラー鍋にしてやった。具材として入れる予定だったえのきが虫の息だったので急遽レタスを登用したのだが、ちゃんと美味しかった。

2022/10/31

ちゃん読でWalton章を見ていただいた。邦訳もあり、たいへん有名な議論であるにもかかわらず、専門家を集めて4時間半討論してもいまだ謎が残るような、わけわからん論文だ。

2022/10/30

駒沢公園でやっているラーメンフェスタに行ってきた。こってりからさっぱり、細麺から太麺まで、津々浦々のラーメンを味わえるイベントだ。おまけに、ふわふわからつるつる、大型から小型まで、津々浦々の飼い犬たちが見れる。

「秋刀魚だしらーめん」「札幌芳醇炙り じゃが白湯味噌らあめん」「黄金真鯛出汁の極上塩そば」という順にいただいたが、どれも個性的で食べごたえのあるラーメンだった。日曜ということでごっそりと人間がおり、ひさびさにガッツリと大行列に並んだ。駒沢公園は開けた場所にでかい建造物を置く構成で、私好みのSF的空間だった。

2022/10/29

白のタートルネックとジーパンを買った。図らずも、ナダルのコスプレセットになった。

2022/10/28

『「美味しい」とは何か』を読み終えた。主観vs客観、言語化の意義など、面白い問いは複数あるのに、それらを差し置いて最後にちらっと触れられる「ラーメンは芸術か?」が帯のアイキャッチになっているあたりに、出版社の戦略がうかがえる(『ビデオゲームの美学』もそうだった)。いつまでたっても〈Xは芸術か?〉式の問いにばかり注意が集まるのは不健康だと思うが、致し方ない部分もあるのだろう。

そして、任意のXに関する〈Xは芸術か?〉に対してYESと答えようがNOと答えようが、だからなんだと言えばだからなんだではある。ラーメンやビデオゲームが芸術でないとしても、それらは紛うことなき文化であり、それでいいではないか。

ともかく源河さんの答えはYES、「料理も芸術」だ。その根拠は、おおまかには二点ある:①料理を芸術から排除するいくつかの理由は退けられる、②現に芸術であるものと料理の間には重要な共通点がある。思うに、「料理は芸術だ」は「高級レストランで提供される創作料理から、われわれが日常的に食べるインスタントラーメンまで、ありとあらゆる調理された飲食物は記述的な意味において芸術である」でとられるべきではないのだが、著者はまんざらそれを否定したいわけでもなさそうなのが気がかりだ。

ちょっと解釈を加えれば、その主張は「料理という形式は、絵画や彫刻や写真や演劇と並ぶ、芸術形式のひとつだ」というものなのだが、そこに「ある芸術形式に属するメンバーはいずれも芸術作品である」が伴っている点に問題がある。ここには、Lopesがコーヒーマグ問題と呼んだ問題がある。《モナリザ》は芸術だが私の落書きは芸術ではなく、《地獄の門》は芸術だが小学生の粘土細工は芸術ではない。活動やその産物には重要な類似があるにもかかわらず、一方は芸術であり他方は芸術ではない。この観察は、単に「芸術」の記述的用法と評価的用法を混同しているわけではない。私の落書きや小学生の粘土細工は、価値の低いbad artですらなく、芸術作品の事例として認めるべきではないのだ。その違いを説明するのは、基本的には慣習、制度、手続き、「アートワールドの雰囲気」だろう(Xhignesseによる説明については2022/10/05を参照)。英語のpaintingにはおそらくないが、日本語の「絵画」には、このような慣習を要件とするような含みがあるはずだ(皮肉以外で、私の落書きを絵画と呼ぶ人はいないだろう)。

ということで、「料理という形式は、絵画や彫刻や写真や演劇と並ぶ、芸術形式のひとつだ」という主張は適切でも、同時に「芸術作品である個別の料理もあれば芸術作品でない個別の料理もある」は認めざるを得ないと思う。すると、芸術作品を芸術作品たらしめる本質にはたどり着いていない点で、前者の主張もトリヴィアルになってしまう。現代アートにおける素材の多様さを踏まえれば、ほとんど任意の人工物カテゴリーXについて「Xは芸術形式のひとつだ」と言えてしまいそうだからだ。ことによると、著者はここに書いたもろもろの懸念に無自覚というわけではなく、自覚した上で「料理も芸術だ」といったキャッチーな言い切りをより好んでいるのかもしれない。それはそれで、帯のアイキャッチと同様あまり教育的ではないように思う。

最後に、仮に私の食べるサッポロ一番みそラーメンが《モナリザ》や《地獄の門》と同じ身分において芸術作品であったとして、それのなにがうれしいのか。価値含みの事実でないとしたら、芸術作品を食べていることが私の尊厳を引き上げるということもなさそうだ。

2022/10/27

ぶんぶん革命が起きた。チョッパーのことだ。掃除機と同様、それがなしで済ませていた以前の暮らしを力強く否定してしてくれるアイテムだ。一人暮らし7年目、玉ねぎのみじん切りという人道的に許しがたいタスクからようやく解放されたわけだ。

解放されたいまになって思うが、私の場合玉ねぎのみじん切りの嫌なところは、「まな板からボロボロこぼれ落ちる」というのが9割を占めていた。ちょっとでもこぼれ落ちると気になってしまい、それをまな板に戻すのに一旦手を止めることになる。一般的にそうかは自覚がないが、玉ねぎみじん切りに関してはパラノイアといっていいほどの完璧主義なのだと思う。

2022/10/26

『「美味しい」とは何か』3章まで読んだが、美学、とりわけ批評の哲学の優れた入門書だ。芸術批評という絡みづらいトピックが、食に取り替えるだけでこんなにも馴染みやすくなるのか、という驚きがある。

「味への評価は人それぞれで正誤が問えない」という主観主義に対し、客観主義からふたつの応答が紹介されている。ひとつは、端的な客観性を諦めても、文化相対的な客観性なら認められるかもしれない、というやつ。よくあるムーヴだが、傾向性[disposition]から説明されているのは新鮮だった。傾向性は、顕現していない性質一般としてなんとなく理解していたが、顕現のための条件付き性質として考えられているみたい。

もうひとつは、シブリーにおける①純粋に評価的な美的用語と、②記述込みの美的用語の区別を、バーナード・ウィリアムズにおける薄い/厚い概念の区別と対応付けて、前者はともかく後者なら客観的な正誤が問える、というやつ。「美味しい」に正解はなく、好き勝手に言ってもらって構わないが、「こってり」かどうかには正解があり、好き勝手には言えない、というわけだ。こちらもよくあるムーヴだが、実のところ、あまり有効な応答ではないのではと思っている。というのも、それで言えるのはせいぜい「記述込みの美的用語の記述部分については正誤が問える」であって、記述を除いた評価部分については依然正誤が問えていないからだ。(記述部分同じ)「こってり」か「くどい」かについて正誤が問えない限り、評価に関する客観主義は擁護できていないように思われる。

もちろん、ここで記述と評価がセットになった性質帰属を端的に「評価」とつづめるなら、この厚い意味での「評価」については確かに正誤が問えることになる。しかし、これはもともとの問いからは離れてしまっているのではないか。

2022/10/25

BJAに投げていたメタカテゴリー論文、残念ながらrejectだった(ざんねん!)のだが、丁寧に査読してもらえたのはよかった。一人目はstyleに関する文献をたくさん教えてくれたし、二人目はうっすら自覚していた議論の穴をテキパキと指摘してくれた。ちゃんとした専門家から的を射たコメントを貰えるのには感動すらある。

今回はずいぶん早く結果が帰ってきた印象を受けたが、ゆうても投稿したのは3ヶ月前なので平均的といえば平均的だ。例の帯状疱疹で半月ほど闘病していたのもあり、ここ数ヶ月はまったくあっという間に溶けた。

2022/10/24

名画になにやらぶちまける類の抗議活動が、なんらかの点で非難されるのは当然だが、「こんなやつらの命より、数億する絵のほうが価値が高い」といったコメントを平気でする人は品性が貧しいなぁと思わずにはいられない。燃える美術館から救い出すなら名画か人か、という定番のジレンマを持ち出さずとも、上のような人は単純な金銭的価値であらゆる価値を一元的に評価しているにすぎない。資本主義には外部がない、という前提に立つなら、そういうものの見方も不正確ではないのかもしれないが、それにしたって貧しい品性はやはり貧しいのだ。はてブを追っていると、醜悪なことをした人間より、それについてなんらかコメントする人間のほうがしばしばはるかに醜悪であることを学べる。

2022/10/23

ITZYは2019年にデビューしてから今日に至るまで、一種類の曲しか歌っていない。「あんたみたいな男なんていなくても、私はやっていけるのよ」という趣旨のそれだ。毎回内容が同じすぎて、歌詞だけ出されてもどれだか当てられる気がしない。ずっと追っているのだが、このグループにはK-POPに対する私の愛憎が詰まっているように感じる。徹底的にスムースなのだ。それがありきたりで退屈に転ぶか、消化しやすく快適に転ぶかは毎回紙一重でしかない。全ての元凶はガールクラッシュ傾向だと思っていたが、それでなくても、グループ単位でかっちりコンセプトを決めてしまい、豆腐屋は豆腐しか売らないスタイルになってしまっているのが厳しい。ジャルジャルのコントに「何曲歌っても一曲とみなされる奴」というのがあるが、シーン全体がそういう状態になってしまっている。〈なにを見たって同じに見えて楽しめない病〉はNanayも取り上げていたが、問題の5割が私側にあるのだとしても、残りの5割はやはりシーンにあるだろうと思ってしまう。

2022/10/22

今月もシーシャに行ってきた。持ち込んだ瓶ビールを栓抜きで攻めども攻めども開けられなかったのだが、ふつうに回すタイプだった。今日はライチ×グァバ×タンジェリンでお願いしたが、好みはやはりナッツやスパイス系統だな。

ガチ中華はある意味でプロパーな真正性の例だと思っている。つまり、贋作かオリジナルかといった存在論の問題ではなく、権威があるかどうか、オーセンティックかどうかが問題となる例だ。権威はもちろん、部分的には存在論的な真正性にも由来するわけだが、それだけではない。もろもろの広告(NHKのルポを含む)や、中国人客が足繁く通っているといった伝聞が、総体として作り上げているようなイメージが、ガチ中華を"ガチ"にしているのだ。そもそも、「中華料理」というのは日本人向けにアレンジされ日本において発展してきた伝統を指し、現地で食べられているものおよびそれに近似したものは「中国料理」と呼んで区別したいたはずだ(長年中国料理教室を運営している母がそう言っていた)。まぁ、ガチ中国と呼ぶわけにもいかないので、ガチ中華は要は中国料理なのだとパラフレーズして理解したいところだが、ガチの台湾料理も入ってくるとなるとやはりミスリーディングだ。一般的に、日本には中華文化圏の多様性を捉えるだけのボキャブラリーがぜんぜん足りていないと思う。

2022/10/21

外干しするより暖房直下に当てたほうが洗濯物が早く乾く季節になってきた。

2022/10/20

エピグラフというのはヒョーショーすぎて投稿論文にはつける勇気がないのだが、新しいことについて書くたびこっそり妄想しては楽しんでいる。ダントー「アートワールド」が引用する『ハムレット』なんかはバッチリ主題にハマっていてクールだし、ウォルトンは「芸術のカテゴリー」でヴェルフリン、「透明な画像」でバザンを引用していて、非ブンセキ論壇との接続がうまい。私が特に好きなのは、前者のような、フィクション作品を使ったエピグラフだ。

先日ちゃん読で読んだストルニッツは、フィクション作品の伝達する"真実"や"知識"がしょうもないとdisっていたが、少なくとも、教訓や価値観を学ぶ窓口としてフィクション作品が現に利用されていることは否定しようがないと思っている。「映画が発明されて人生が3倍になった」というのは『ヤンヤン 夏の想い出』に出てくる素敵なセリフだが、そこまで大げさでなくても、フィクション作品のおかげで私が得たものは、現実世界において見知ったものの量に劣らないはずだ。ストルニッツが述べるように、フィクション作品それ自体は知識が知識たるための確証を与えてくれない。だからこそ、エピグラフ付きの論文は、ある意味ではその確証に相当するのだろう。そこには、知識獲得に関する適切な主従関係があるように感じる。

2022/10/19

Grammarlyの年間契約期限が迫っていたので、溜まっていたドラフトを急ピッチで訳した。去年はちょうど40%ディスカウントのタイミングで契約できて、$86.40(当時のドル円114ぐらい)だったのが、いま更新しようものなら値上げ+きっちり100%+円安で、$150(ドル円150)かかる。1万円でお釣りが出ていたものが一気に¥22,500とはさすがに厳しいものがある。

なければないでどうにかなる暮らしでもないので、どうにかディスカウントに再度あやかろうとしているのだが、それにしたって$90に円安が合わされば¥13,500だ。いやはや。

2022/10/18

現代文を教えていて環境美学的な文章を読んだ。思想や文化に先立つ大事なものとして「風景」というのがあるんだ、という趣旨の文章だった。その手のふわっとした議論をどう相手取ったものかいまだに分からないが、ともかく、私の人間形成にとって重要な風景があるとしたらなんだろう、と考えていた。行くたびに変化し続けていて、もはや私の知っている姿を失いつつあるが、横浜駅西口はそのひとつだろう。いまだに、東京を歩いていると、人を避けて足早に通り抜けなければという切迫感があるのに対し、横浜駅はひさびさに行っても地に足のついた感覚がある。

2022/10/17

実家の老犬と遊んできた。この1ヶ月ですっかり目が弱ってしまい、あちこちにぶつかる。まだガツガツご飯を食べるし、ガウガウ吠える体力があったのはよかった。彼を通して、私は毎月老いについて学んでいる。

2022/10/16

昨日はパツンパツンになるまで博多ラーメンを食べたが、今日は準パツンパツンになるまでまぜそばを食べた。

2022/10/15

みんな美学会へ行っているのをよそ目に、岩盤浴というのに行ってきた。かなりエンターテイメントだった。帰宅した段階ですでに風呂には入った状態が達成されているのはうれしさがある。

2022/10/14

銀行口座の名義変更チャレンジDAY2。ディテールは割愛するが、クソこと三菱UFJにてたっぷり1時間待たされたあげく、3年ぶり2度目の却下をくらう。久々にしっかり"""怒り"""を経験したが、喧嘩しても仕方がないので、諦めて帰宅。もう一度行こうという気になるのに3年はかかるだろうな。

アンガーマネージメントができる大人なので、喫茶店でナポリタンをやけ食い、コーヒーをやけ飲みした。

2022/10/13

絶妙に面倒で、かれこれ5年も放置していた〈銀行口座の名義変更〉というタスクを、1/2やっつけた。学部4年の途中に日本国籍を取得し、姓と読みはそのままで「名の漢字だけ」変わったのだが、別になにも困りゃしないだろうと放っておいたらサラサラと5年が経過した。とはいえ、まだ銭清弘になってからたかだか5年なのか、という意外性もある。今日も、変更前の名前を書いてくれと言われて、我ながら「こんなんだっけ……?」と思った。手続きに1時間ちょいかかり、非常勤の時間が迫っていたので、もう1/2は倒せなかった。明日、天気がわるくなければ倒しに行く。

実は2年前に一度名義変更チャレンジしにいって失敗したことがある。そのせいで余計面倒になって、+3年経過したわけだ。そのときももろもろの身分証を用意していったのだが、「新しい名前と以前の名前が併記されている書類」、具体的には戸籍謄本の類をとってこなかったので変更してもらえなかった。通帳とクレジットカードがあり、届け出の印鑑があり、が同じで、姓名の読みも同じで、その他登録情報はなんでもかんでも答えられるのに、かつての私との時空間的連続性を証明できなかったのだ。テセウスの船の甲板一枚張り替えた程度の違いではないか。窓口も仕事でやっているので恨みっこなしだが、まぁ変更しなくてもこっちは困りませんよ、ということでふてくされているうちに3年経過。きっと私みたいなのが病気の早期発見かなわず突然死するのだろう、と思うと身が引き締まる思いだ。健康診断は行こう。

2022/10/12

grooveのない一日だった。昼前ににゅるっと起きて、不要不急のもろもろを読んでいたらあっという間に日が沈み、早くも酒飲んで寝るかというムードになってきた。こう、曇りや雨の日はカーテンを閉め切って人工光のもとで一日過ごすわけだが、そうなってくると時間感覚および活動意欲が失われてしまいよくない。持論として、0時過ぎて考えたり書いたりしたものはたいていしょうもないので、さっさと寝たほうがいいのだが、人工光のもとではそんなダウンタイムが前倒しになる。冬はこういう灰色でまとまりのない日が多いので困る。雪国に生まれていたら、私は何者にもなれなかっただろう。

2022/10/11

感動を与える」は、考えてみたら確かにちょっと変な表現である。

なんにせよ、感動という現象がもっぱら受け手側の問題であって、送り手側はなんら関わらない、といった論旨は筋が悪すぎる。「感動を与える」というのが、スポーツ選手にとっては本質的課題ではない(求めすぎても気負いすぎてもよくない)、という趣旨はふつうに飲み込める。

2022/10/10

この日記の初日から言っているように一度冷凍した米が嫌いなのだが、解凍後もそこそこ美味しく食べられるたったひとつの冴えたやりかたを最近ようやく知った。丁寧に浸水させる、これに尽きる。まったくの我流で長年一人暮らしをしているが、今年になってはじめて浸水というのをやりはじめた。実際、贔屓にしている青天の霹靂は浸水させようがさせまいが美味しく炊きあがるので、浸水の必要性をほとんど感じてこなかった。しかし、研いだ後で15〜30分ほど浸水させるかどうかは、冷凍米のクオリティを大きく左右する。浸水せずにボソボソガチガチの餅みたいになっていたのが、丁寧に浸水させるだけで卵かけご飯に使ってもストレスのないスムースさを保てるのは、すごいことだ。

あと、こちらは有名だが、炊きあがったら食べる分以外は即冷凍だ。一旦落ち着かせてしまうと、解凍したときパサパサになりやすいので、湯気ごと冷凍するイメージが大事だ。たったふたつだった。

2022/10/09

3〜4時間かけてパキスタンカレーを作った。先日サリサリに行ったばかりなので、レベルの違いというか、そもそも料理としての違いをひしひしと感じる。どうしてもパサパサしてしまうのだが、おそらく、もっと油を大量に使ってコンフィしないとあの柔らかさは実現できないのだろう。あと、火加減が難しいのでどうしてもスパイスを焦がしてしまう。とはいえ、独立した料理としてはそこそこ美味かった。本家にならってチャイも作った(今日は休肝日)が、がぶがぶ飲んだせいで夜なかなか寝付けなかった。

2022/10/08

ひさびさに晴れたので、自転車でその辺をぷらぷらしてきた。山手通りから目黒駅までの界隈はすっかりお馴染みだと思っていたのだが、三田のおしゃんな住宅街で迷いに迷った。目黒住みも7年目なのでこの手の高級住宅街は見慣れたものだが、どれもこれも無機質な塀に囲まれていておどろおどろしい。

カレーを食べ、リキュールとスパイスを買って帰宅。帰りに寄生虫館の前を通ったが、ビル・ゲイツ効果でひっきりなしに人が入っていた。

2022/10/07

ホラーとの対比で言えば、マジックリアリズムはアンチ好奇心なジャンルと言えるかもしれない。なんらかの宙吊り状態が発生し、キャラクターは戸惑い、観客は好奇心でもってその解決を期待する、というのがホラーを駆動しているのだとしたら、マジックリアリズムは一見したところの宙吊り状態が発生しているにもかかわらず、キャラクターは平然としており、観客の好奇心はそれによってくじかれる。人が飛んだり、死者が現れるのは作品世界において「当たり前」であり、なんら解決を要する事態ではない。観客は、それ以上の開示や解明を期待できないのだ。

2022/10/06

いきなり寒いし、いぎなりさみぃ。2022/09/28にふとんのレベルを②にしたと書いたばかりだが、もう③になってしまった。冬服やヒートテックをはやめにスタンバイさせておかなければと思うのだが、連日の雨に阻まれている。

今日は博論計画書の英訳をした。提出するのは日本語版で、英語版はもっぱら指導教員のために用意するのだが、自分の思考の整理にもなる。日本語で書いているうちはメイクセンスなつもりでも、英語にした途端収まりが悪くなる、みたいなことがしばしばある。日本語上では省略されている主語はなんなのか、その語は単数形か複数形か、定冠詞か不定冠詞か、などなど。おおむね、日本語だとなあなあでも通る表現が、英語だともっとspecifyしなければならないことが多い。

ふわっとした思想とカチッとした思想というよくある対比が、使用言語の性質に対応しているというのはわりともっともらしい仮説だと思う。日本語や中国語が前者をもたらし、英語が後者をもたらすのは腑に落ちる。(フランス現代思想がふわっとしていると仮定して、)フランス語が前者をもたらすような言語なのかは分からない。フラ語は学部のころに入門書を一冊やっただけで、なにもかも忘れてしまったが、「Je ne suis pas étudiant.」だけはいつでも使える(いまのところ真理値は偽だが)。語学は好きなので、時間があったらいくらでも勉強したい。韓国語は、K-POPを追っていてある程度発音にも馴染んでいるので、いいかもしれない。こういう展開を脱線と言う。

2022/10/05

近々ブログにしたいネタなので、いつも通り備忘録として日記に書く。(この使い方が、個人的に一番効用が大きい。)

Michel-Antoine Xhignesseの「What Makes a Kind an Art-kind?」(2020)という論文。タイトルの通り、なにがある種を芸術種にしているのか、という問題を扱っている。一年ほど前に、DiA論文の査読者におすすめされた一本だが、関心にどんぴしゃで、何度も読み返しているお気に入りの一本だ。ただし、Xhignesseの表現と構成にはちょっと癖があってなかなか読みにくく、最近になってようやく全体像を把握した。(failed-artについて書いているやつも難しくてまだ読み切れていない)

あらすじ。芸術の定義論もいい加減落ち着いてきて、Lopes (2008)が「芸術一般の理論なんて手に入らない(し必要ない)ので、諸芸術(絵画とか音楽)の理論をやろう」と言い出す。「Xが絵画、音楽、彫刻、映画……など、芸術種のどれかに属しているならばXは芸術である」ということで、芸術種まで説明の負担がバックパスされてきたのだが、そうなってくると、じゃあどの種がなにゆえ芸術種なのかが気になる。備前焼は芸術種であり個別の備前焼は芸術作品なのに、マグカップや個別のマグカップがそうではないのは、一体なぜなのか。

芸術種から、それをとりまく芸術「慣習」へとさらに説明負担をバックパスすべきだ、というのがXhignesseの主張になる。結論を一言で言えば、ある実践を芸術実践にし、別の実践を非芸術実践にするのは慣習の違いでしかない。備前焼を芸術扱いし、マグカップをそう扱わないのは、これまでもそうしてきたし、いまもみんなそうしているから、という以上の話ではない。芸術の身分は、根本においてはまったく恣意的で偶然的なのだとXhignesseは考えている。この手の話題でここまで恣意性を強調する論者も珍しいだろう。比較として、恣意的だとdisられがちなDickieの制度説でも、「鑑賞の候補」というのである種の本質的機能が規定されている。Xhignesseはそういう機能すら求めない。

ただし、重要なのは、慣習が先例に基づいて複製されていくことで成立・維持されていくという性格を持つことだ。この点、Xhignesseは慣習の基盤には解決すべきコーディネーション問題があるとするルイスの慣習概念を退け、より自然主義的なミリカンの慣習概念を採用する。あるふるまいがコピーされ、その間に反実仮想的な関係(モデルが別様であれば、必然的にコピーも別様である)が成り立っているのだとすれば、ミリカン的な意味においてそれはすでに慣習である。芸術慣習においても、「芸術作品を作ろう」「絵画を作ろう」といった意図は不要であり、すでに存在する先例に基づいて作られたものは、芸術慣習の(一部であるいずれかの芸術種の)一部であるという意味で、芸術作品である。先例に基づいていることが必要なので、完全に恣意的というわけではない。

私の考えている制度説との比較で言えば、Xhignesseはそういった慣習がかっちり固まって、ルールなどが明文化された状態をどうやら「制度」として理解しているらしい。Xhignesse説においては、芸術(種)かどうかは慣習の時点で決まっているので、制度は必要ではない。とはいえ、制度はルールによってさらに恣意性を小さくする、と考えているようだ。この辺は、制度をグァラ説で理解したり、暗黙的な「制度」を認める分には、Xhignesseの考えている「慣習」と両立可能なように思われる。

チューリップバブルを引き合いに出しているように、Xhignesseの考えるアートワールドは、本質において投機的なものだ。内在的な機能や価値はさておき、注目されることで注目され、流行することで流行していくと、次々に人々のふるまいが複製され、慣習を形成する。チューリップ以外の花がバズってもよかったし、いまある活動以外の活動が芸術種として定着していてもよかったのだ(例えば、数学が芸術の一分野だったかもしれない)。慣習は本質において恣意的なのである。

ほんまかいな、というのが正直な感想だ。私は、アートワールドがそこまで強く恣意的であるとは考えていない。どちらかというと、「鑑賞」のような本質的課題を中心に据えるLopesやDickieのほうが腑に落ちること言ってると思う。先例に基づいて複製していればよし、というのは明らかに広すぎる。私が鼻歌で歌う第9を芸術慣習から排除する理屈を、Xhignesseは用意していないように思われる。雑ではあるが、「鑑賞の候補ではない(鑑賞されることを意図していない)」といった説明は、そういった理屈になるだろう。作品のカテゴライズ実践についても、〈鑑賞経験の価値最大化〉というコーディネーション問題をわりと勝手にでっち上げて使ってきたつもりだったが、こうやって見てみると意外と支持されている案なのかもしれない、という発見もあった。

2022/10/04

グレートファイアウォールと戦いつつ、中華圏の分析美学論壇〉を調べるのがちょっとした趣味なのだが、2009年に『分析美学史』という本を出している刘悦笛に続き、三峡大学の章辉なる人物が分析美学のイントロダクションビアズリーの紹介美的経験論について書いているのをみつけた。どちらも中堅の教授といった趣(ふたりとも1974年生まれ)で、最新のJAACやBJAを読むというよりは、歴史的関心から分析美学を見ているっぽい人ではある。

上のイントロダクションで章辉が書いていたが、中国では分析美学といえば「ウィトゲンシュタインに影響を受けた一派」として誤解されがちらしい。刘悦笛の本も、ビアズリー、ウォルハイムを差し置いて第1章にウィトゲンシュタインが来ている。また、中国であまり分析美学が好かれない理由として、分析美学は芸術にまつわる客観的現象への科学的志向が強が、中国の伝統美学は主体の美的生活の意味や価値に注目しがちで、ゆえにドイツの大陸美学や現象学のほうが親和的だと述べている。まぁ、それで行くと日常美学は東洋的な価値観に接近しているので、こちらは好かれるという話にもなりそうだが。この論考は結構見どころが多いので、ちゃんと紹介してもよいかもしれない。

あと関係ないが、DeepLが一回に訳してくれる上限が原文で5000文字(単語ではない)ずつなので、英語よりも中国語を投げたほうがサクサク訳してくれて新感覚だ。

2022/10/03

親子丼を作った。予熱をなめていたせいで、半熟に仕上げるのに失敗。

2022/10/02

『ブラック・ミラー』のシーズン1をちょちょいと見たが、3話目『人生の軌跡のすべて』の〈記憶を鮮明に保存し、いつどこでも再生できる埋め込み端末〉をめぐるSFは、私が昔からたびたび妄想している話に近いものだった。相手の心理や意図を推測する上で、認識論的に強すぎるテクノロジーを手に入れてしまったことから、疑心暗鬼が生まれ、知らないほうがよい真実を知ってしまう、みたいな話だ。私にとっては、この「知らないほうがよい真実」(別のバリエーションとしては「やさしい嘘」)が少なくともいくつかあると考えている人々を、どうにかこうにか論破したいというのが、学部時代いちばんはじめに湧き上がってきた哲学的意欲だと言っても過言ではない。法定で宣誓される「the truth, the whole truth, and nothing but the truth」は二の腕にタトゥーで入れたいぐらいだ。『人生の軌跡のすべて』では、まさに私のような価値観を持つ主人公が、価値実現のため理想的なテクノロジーを携え、真実かつ真実のみを求めた挙げ句に破滅する。これが全体として、「やさしい嘘」の上にこそ幸福が築かれる、というメッセージになっているのだとしたら嫌だが、ラストは多義的だ。Netflixでさくっと見れるのでおすすめ。

『人生の軌跡のすべて』の人々が、いまだ真実かつ真実のみの世界に耐えられないのは、それがつまるところ過渡期だからだとは思う。当のテクノロジーが最終的に普及し、人々の意識も含めて完成された真実かつ真実のみの世界は、適度どころか節々に嘘を含むわれわれの世界と比べて、なにが損なわれているというのか。美的に画一的な世界に関する直感もそうだが、こう全体主義的で管理された世界に対する警戒心が薄い自覚はある(もちろん、立証責任は警戒すべき派にある)。

2022/10/01

白楽までプチ遠出して、サリサリカレーからの珈琲文明をハシゴした。友達のバンドが白楽の歌を作っているが、まんまそのコースだ。サリサリは日吉時代に一度行ったきりで、ひさびさに行ってみると移転していたのと、記憶ほどいかがわしい雰囲気ではなくレトロな洋食屋という感じになっていた。パキスタンカレーは自分でもよく作るのだが、流石に本家本元はたいそううまかった。珈琲文明もサイフォンが小粋だった。

散歩で寄った白幡池公園〜篠原園地ものんびりしていてよかった。電線の上をリスが駆けてった。

2022/09/30

死はひたすら畏怖し、遠ざけ、見て見ぬ振りをするほかないものだと思っているので、それについてはなにも語れない。

2022/09/29

いつだったか中国に行ったとき、親戚のおじさんに盲人マッサージ院なる施設へと連れて行かれたことがある。見てないが、ロウ・イエの映画『ブラインド・マッサージ』に出てくるような施設だ。盲人は目が見えない分、人一倍指先の感覚が鋭く、足裏マッサージにかけては達人なのだという触れ込みだったが、嬉々として勧めてくるおじさんを含めてなんだか気味が悪く、ぜんぜん乗り気ではなかった。視覚障害者の就労機会ということで間違いなくえらい院なのだが、コンテンツとして消費するのはなにかわるい気もして、温室育ちの私にはとっさに倫理的な態度形成ができなかったのだ。

マッサージがどうよかったのかはぜんぜん覚えていないが、スタッフの手際はとてもよいどころか、あまりにもよすぎた。後でおじさんに「あの人たち見えているよね?」と尋ねると、「たぶんね」と言うではないか。そういうものらしい。あの手のマッサージ師のなかには、盲人のフリをした健常者もふつうにいて、付加価値として「盲人マッサージ院」を謳っているだけであり、おじさん含め中国の消費者たちはそれを知りつつ割り切っており、そういうものらしい。

2022/09/28

先日実家でおとんにもらった中華製麻辣醤でちゃちゃっと作った麻婆豆腐を前に、わりと上出来だと自負していた自己流麻婆豆腐がボロ負けした。やはりこう、赤い油が浮くぐらいに辛くしないとダメなんだな。敗北の悔しさはあるが、簡便さを手に入れたうれしさもある。

近頃は夜中の気温が申し分ない。私の使っている無印良品の掛け布団は、中身を取り替えることで四段階(①カバーだけ/②薄いのを詰める/③厚いのを詰める /④薄いのと厚いのを詰める)まで厚みを調整可能だが、レベル②の時期がいちばんfeel goodだ。①は風邪を引くし、③以降は重い。

2022/09/27

今日、中学生に国語を教えていて、納富信留の文章を読んだ(こちらに全文公開されているのを見つけた)。著者は「ことばがツールとみなされている」ことを問題視しており、効率や有用性といった道具的価値ばかり優先するのはダメだと述べる。そういった合理化は、つまるところ労働のためになされるのであって、人文学はそういうのに抗わなければならないという、よくある言説だ。著者によれば、ことばを大切にしないと、人権や民主主義や自由といった大切な価値が損なわれてしまうらしい。

これこそ、私が昨日も書いた「教育」にほかならない。おそらく、一部の人文学者は労働がクソである理屈を一生懸命考え出し、労働がいかにクソであるか伝導することを責務と感じているのかもしれない。実際、効率性に対する彼らのアレルギー反応は、マルクスの古典的な疎外論から一歩も外に出ていない。常套句でもって言説を再生産している様は、遠目に見れば工場労働そのものなのがおおいに皮肉だと思う。だが、まぁ、労働がクソであることに異論はないので、その辺は脇に置こう。

なによりむかつくのは、この手の人が効率主義を批判する場面でしばしば取り上げるのが、「人権や民主主義や自由といった大切な価値」である点だ。これが毀損されるべきでないことについては、少なくとも私は手放しで同意する。むかつくのは、目下の課題(この場合は、国語教育において文学よりも論説文の比重を挙げるべきか)に対してある種の選択をすることから、数段飛ばしに、それがリベラリズムの毀損であると批判してくる点だ。国語教育において論説文の比重を挙げることと、民主主義が脅かされることの間にある具体的な因果関係について彼らが思いを巡らすことはほとんどなく、前者に効率主義の気を読み取って、「そんなお前は反リベラルだ」と一方的に裁断を下しているのだ。目下の課題にその選択をすることと、懸念なさっているリベラリズムが(なんらかの変容を強いられるにせよ容認可能な形態で)維持されることが、まったく両立可能であることには、中学生だって思い至る。

昨日一昨日の話題にもういっちょ噛みすると、哲学史不要論で問題となっているのも効率性の是非にほかならない。上のような反効率主義を内面化した人に、例えば分析哲学のディシプリンを分かってもらうことは根本的に無理なので、あまり期待しないほうが失望を最小化できる(効率的な判断)。それはそうと、けなすことだけを意図して「そんなお前は反リベラルだ」といったことを直接/間接的に言ってくるのも、それによって「自分のほうが人権・民主主義・自由を重んじるリベラルだ」といった印象操作をするのも、本当に不当なので勘弁してほしい(2022/09/10や2021/11/28も参照)。そういったハラスメントになにか名前をつけるべきではないか。

最近BJAに載ったErlend Lavikによる論文「Towards a Pragmatist Aesthetics」にも、同類の価値観が見て取れる。Lavikは批評における客観性の追求に懐疑的で、ローティの反本質主義を引きつつ、批評とは対話でありプロセスが重要なのだと主張する。とくに目新しい主張でもないが、そういった批評観の正当化としてLavikは再度ローティを引きつつ、それがリベラルな社会(自由、民主主義、多様性を重んじる社会)の促進になるからだ、と述べる。美的評価における客観性は、反リベラルな、全体主義的なイデオロギーのもとでしか達成可能でない、とまで言う。この見立てのもとでは、キャロルの芸術鑑賞ヒューリスティックなんかはまったく独善的な効率主義で、反リベラルな批評観ということになるのだろう。対話やプロセスが重要で、最終的な客観性を期待すべきでない、という主張までは同意できるのに、たちまち政治の話にスライドさせて他方を反リベラルだと断じるやり方は、まったく尊敬できない。みんな、もはや政治とは独立になにかを論じることができなくなってしまったのかと、心配になってしまう。

私が効率主義に対して基本的に寛容な見方を持っているのは、言うまでもなく経済学部出身だからだ。より正確には、受験生時代からこのような価値観を持っていたと思う。

2022/09/26

現代哲学の研究に哲学史は必要なのか」について書くのがはばかられると昨日書いたばかりだが、「この手の哲学観にいい顔しないだろうな〜」と私が予想した一連の表象文化論者たちが、案の定昨日の今日で抗戦的な姿勢を示していて、改めて「哲学」における分断を意識させられた(分析vs大陸のいがみ合いが三度の飯より好きなので、ニコニコしながら断面を眺めているのだが)。以下の数段落は、Sauerの問いにはほとんど触れることなく、普段からきらいな人たちのきらいな理由について述べるだけの、informativeでない文章だ。

私がまさにそういう教育を受けたから知っているのだが、駒場ではどんな講義を受けても、進歩や普遍性を神話として疑い、歴史を重んじるように仕向けられる。今回のSauerの主張はどう控えめに紹介するにしても、ベクトルとしてはとにかくそれとは真逆のことを言っているので、上述の教育を信条として内面化した者を脊髄反射で怒らせるには十分だ。彼らは、哲学史不要論の主張にどれだけ慎重な留保があるとしても、方向性そのものを言語道断として批判する。私がその手の現代思想ヤクザに直面するたび本当に不愉快なのは、多くの場合、受けた教育の後半部分、すなわち「歴史を重んじる」という部分を具体的にどう実践するのか明確な考えも持たないうちから、受けた教育の前半部分、すなわち理性とか近代性とか普遍性とか進歩といったタームを見つけたらとりあえず批判するという、しょぼすぎる行動パターンを示してばかりいるからだ(学年が上がるにつれてこの手のしょぼい人は減っていくが、一部は先鋭化されていく)。「歴史を重んじる」こと正当化が必要だと自覚できる程度には謙虚だった場合でも、その手の人たちが繰り出すのはヘーゲルやらニーチェやらデリダやら固有名詞をねっちょり並べて権威づけた、当人たちも理解できているのか疑わしい怪文ばかりだ。

もちろん、彼らのやっていることがまったくナンセンスだというつもりは毛頭ない。私が無知なだけで、彼らは彼らなりになにか"アクチュアル"なことを言っているのだろう。しかし、われわれ(僭越ながら、分析哲学者たちをreferさせてもらう)のやっていることに対して彼らが言うことは、まったくナンセンスだし、ただただ失礼だ。誰だって、「あいつはカントを読んでないからダメだ」とマウントされることなく哲学をする権利がある。

被害者意識マシマシで書くとざっとこういう文章になるわけだが、こういう物言いはこれはこれで加害性があることは意識している。分析哲学嫌いの現代思想の人たちは人たちで、ブンセキサイドからの「もっと明確に物を語れ」圧を日頃から感じていて、被害者意識を持っているのだろう。ということで、結局は対称的、どっちもどっち、われわれはみなTwitterで小競り合い、マウントを取り合うだけの悲しい生き物なのだ。

2022/09/25

「同じ日本人として恥ずかしい/申し訳ない」と言える人は、普段から一民族の倫理観を代表していてしんどくないか、と思うのだが、もちろん発話の要点はそこではなくて、実質として「日本人がみんなこういう恥知らずなわけではないので、どうか一般化しないでほしい」という欲求の表出なのだろう。そういう一般化をされてしまうのは、当該集団がマイノリティであるほど死活問題なので、身内として批判を示さねばという切迫感もある程度は想像がつく。しかしこう、どうしても国をまたいで身内と他者という線引きが意識させられるのは、いい気分ではない。無礼なふるまいをしたのもされたもの主体性を持った大人なので、一方の個人を個人として非難し、他方の個人を個人として尊重するという以上に、属性を問題にする必要などそもそもないのだ。もちろん、これは理想論である。

現代哲学の研究に哲学史は必要なのか」についてもなにか書こうという気になったが、この手の「教養」が絡む話題に対して上から物申す有象無象にいつもながらウゲーッとなりつつ、傍から見たら自分の書いたものもそれらと同類なのだろうと謙虚にも自覚したため、心に留めることにした。

2022/09/24

内実として「最近の日本の若者は〜」ぐらいの話なのに、それだと顰蹙を買うから「Z世代は〜」ということにしている言説がほんとうに多くて、感じがわるい。そもそも、あの区分はアメリカの人口推移や経済状況を踏まえた区分なので、日本にZ世代なんていないのだ。最近の若者論はうざがられるが、無意味とまでは思わない(一般化自体に罪はない)。それをなにやらキャッチーなタームでパッケージングしているのが小賢しいのだ。

基本的に日本で言われる「Z世代」はカテゴリーとしてあまりにも貧しく、「SNSやってる若者」ぐらいの内包しか持っていない。そういう、世界認識においてほとんど役に立たないカテゴリー、ちゃんと役立てるために中身を反省する者がほとんどいないカテゴリーが、キャッチーというだけでなんとなく使われ続けるのは、これぞシミュラークルという趣がある。

2022/09/23

高田さん訳の『ホラーの哲学』を着手した。本当にいい本なので、近いうちに書評なり書きたい。アマレットミルク、うまい。

2022/09/22

ずっと買おう買おうと思っていたアマレットディサローノをようやく入手した。はやく買えばよかった。ゴッドファーザーを作りたくて買ったわけだが、分量適当でも混ぜてロックにするだけで最高の飲み物が出来上がる。最初は少し甘みがキツイが、氷がほどよく溶けると角が取れていい感じになる。700ml瓶がけっこうデカかったので、当面の間、晩酌はこれで落ち着きそうだ。ジンジャーエールやミルクやコーヒーで割っても美味しいらしいので、これからいろいろ試してみたい。

はじめてゴッドファーザーを飲んだのがいつどこでだったのかさっぱり覚えていないが、どうせ渋谷あたりの学生向け激安バーなので、家で作るほうがよっぽどハイクオリティだ。ウイスキーを愛しすぎるあまり、そういうところに行ってもたいていウイスキーベースのカクテル(あとはモスコミュールとかシャンディガフとかそういうかわいいやつ)にしか手を出さなかったのは、ちょっともったいないと思っている。30代までにはショートカクテルを頼めるような余裕がほしい。色んな意味で。

2022/09/21

『天井桟敷の人々』を見た。3時間なので、ひさびさに割と長い映画だ。三角関係でドタバタするのは『アンダーグラウンド』っぽかったし、ガヤガヤした画面もクストリッツァっぽい。ラストはちょっとホドロフスキーっぽいなと思ったが、『エンドレス・ポエトリー』に本作ちょっとだけ引用した場面があるのを調べていて思い出した。そもそも、ホドロフスキーがパントマイムをはじめたきっかけは本作らしいので、かなりコアな影響源のようだ。戦前のクラシックを見ても、そういう影響関係ばかり気になってしまうが、『天井桟敷の人々』は単独でもなかなか見応えのある映画だった。

2022/09/20

自分が心の底からつまらんと思っているコンテンツがもてはやされることへのムカムカは、ジャンルごとに程度さまざまだが、個人的にはお笑い芸人やYouTuberに対するそれは結構ムカムカするほうだ。個人的なそれを超えて、一般的にもそうではないかと思う。彼彼女らは大声を出したり、事物をバカにしたり、子供じみたことをするのが仕事なので、そもそもジャンルとして綱渡りなのだろう。ダサすぎる曲を作ったり、しょうもなさすぎる映画を作ったからといって、その生産者やそれをありがたがっている消費者に対して軽蔑の念がわくことはそんなにないが、つまらん芸人やそれを面白がる視聴者とはご縁のなさを実感しやすい。評価の対象が人格により近いのだ。きっと研究生活もそうなのだが、アンチがたくさん湧いて嫌になるのを回避するためには、コンテンツの基本単位が人にならないよう気を配る必要があるのだろう。言うまでもなく、手っ取り早い自衛の手段はSNSを控えることだ。

ところでその反対、自分が心の底からおもろいと思っているコンテンツがバカにされることへのムカムカは、少なくとも個人的にはまったくない。自分が心の底からおもろいと思っているコンテンツがバカにされムカムカする人へのムカムカならある。

2022/09/19

正しい方向へ向かっているのかどうか分からないまま、一ヶ月ほど髭を伸ばしている。周囲からの評判はわるくないが、いよいよアラサーという感じがしてくる。

2022/09/18

「殺したも同然だ」という言明が真になる範囲はどこからどこまでなんだろう、とちょっと気になっている。なんらかの因果的関与について言っているのだろうが、一方の極には「それは同然というか、ふつうに殺しているだろう」という関与があり、他方の極には「殺したも同然、は言い過ぎだろう」という関与がある。運転中に飛び出してきた人を轢き殺すのは文字通り殺しているが、医療ミスで死なせてしまうのは「殺した」というのは言い過ぎでも「殺したも同然だ」とは言われるべきなのか。自身の不倫が原因でパートナーが自死を選んだ場合は、「殺したも同然だ」の典型的な例のようにも思われるが、私としては自責としても他責としても言い過ぎだろうと思わなくはない。喧嘩したせいでデートが中断になり、帰り道の途中でパートナーが事故死した場合は「殺したも同然」か。こちらも映画なんかでよく自責しているのを見るが、さすがに言い過ぎではないか。過失致死の範囲と「殺したも同然だ」の範囲が一致するのか、というのも気になる。

2022/09/17

最寄りに良さげなシーシャ屋があったので行ってきた。カルダモンとアーモンドのミックスでお願いしたが、居心地もホスピタリティもかなりよかった。やたら濃厚なココアが飲めると思ってたら、氷で割ってアイスにする用だった。差し支えないのでそのまま飲みまくった。また行くと思う。

2022/09/16

実家で犬と遊んだ。ソファでヘソ天で寝ているのを俯瞰で写真を撮ったら、《ウルビーノのヴィーナス》みたいなのが撮れた。

2022/09/15

まだ9月だが、ちゃんこ鍋ばかり食べるゾーンに入っている。白菜も大根も旬ではないので、お味は及第点といってところだ。ぶっちゃけ具もスープもなんでもよくて、茹でたうどんをポン酢につけて食べるのがうまい。

2022/09/14

右利きだが、スマホの操作は左じゃないとしっくりこない。ガラケーの頃から、文字入力は左のほうがやりやすかった記憶がある。なので、ズボンの左後ろにポケットが付いていなかったり、改札を通るのにちょっと手こずるたび、なるほど社会は右利きに最適化されているなと感じる。

2022/09/13

高田さん訳の『ホラーの哲学』ももうすぐ出るし、気持ちを高めている。この3日ほどで一気観したが、Netflixの『ザ・ホーンティング・オブ・ヒルハウス』がバチバチに良かった。ホラーかつ家族ドラマというふたつの課題を有機的にこなしているすごい作品だ。そしてばっちり怖い。呪われた館、という噛みしだかれてけちょんけちょんの題材で、なんでこんなに面白くて怖い話になるのか。

2022/09/12

近頃はみんなペンキをぶちまけるイカに夢中らしいが、私はバンドのほうのイカに夢中だ。UKのポスト・パンクはようやく聞き方が分かってきたのだが、なかでもSquidは色んな音が鳴っていて面白い。とくにツインギターで分担しているリフがどれもキショくてお気に入りだ。カッティングやらアドリブソロやらいろいろ経てきた後で、エレキギターというのはやっぱりリフを刻むのが一番格好いいというのに戻ってきつつある。Arctic Monkeysも新譜を出すということで、昔懐かしのアルバムを聴いたりしていたが、アレックス・ターナーはまだピアノにハマっている様子なので、新譜でギターロックを期待することはできそうにない。(少なくとも私が追いかけているような界隈において)ギターはもうすっかりスポイルされて、長いこと誰も見向きもしなかったパートなので、新しい音を探しているなら逆にいまこそギターなのだ。(こうして、人は毎年のように「今年はギターロックが来る」とか言い始めるのだろう、と思う。)

2022/09/11

すごく当たり前のことに最近ようやく気づいたが、OCRのめちゃめちゃな論文PDFをShaperやらで頑張って磨いてDeepLに投げるより、ジャーナルのウェブ上のテキストをそのままDeepLに投げれば済む話だ。最近のやつ限定だが。

2022/09/10

なんとなく昔のツイートを見ていて、ジュディス・バトラーの講演を聞きに本郷に行った日のことを思い出した。どういう話だったかはすっかり忘れたが、ざっくり関係性が大事だと述べたバトラーに対して、「それは突き詰めると全体主義なのでは」という質問が出ていたことを当日の私が報告している。

大意として「お前の立場は、突き詰めると全体主義/西洋中心主義/男性中心主義/レイシズム/etc.なのではないか」というケチのつけ方は、まったく面白くないのに、言う側も言われて答える側もようやるわと、いまだからこそ思う。表象文化論研究室では(まぁ似たような人文系の研究室ならおそらくどこでも)、本当に些細なディテールを捕まえてそういうことを言う人にわんさか出会える。私もなんかしらで言われたことがあるし、白状すると、ろくに勉強しないうちにリベラル風の批判フレーズだけ身につけはじめた頃の私も言ったことがある。

もうちょっと棘をおさえて「あなたの立場は、政治的・倫理的によろしくない方向へ向かっているのではないか」と言われたとしても、どう答えるのが正解なのかわかったもんじゃない。「政治的・倫理的な方向性は目下の関心の埒外なのだ」というのが常に本音なのだが、それで納得してもらえる可能性は低い。質問者は哲学にせよなんにせよ、なんらかの立場を取ることは常に政治と倫理の問題だと前提しているはずだからだ(言うまでもなく、こんな前提はあほらしい)。

「いいえ、政治的・倫理的によろしくなくないですよ」と返す準備ができている人は、たいていの場合理屈として用意ができているというより、修辞的に話をそらす用意ができていることが多いのだとも思う。そりゃたいていの考え方は、突き詰めれば(極端化すれば)なんらか政治的・倫理的によろしくないものになると考えるほうが当たり前であって、ビシッとよろしくなさを消去できる理屈なんてふつうはないからだ。

いっそのこと「突き詰めたらどうなるかという仮定の質問には答えられない」とでも言いたくなる。ともあれ、それで政治的・倫理的に無責任だと評価してくるような人は、上のような面白くない質問をする時点ですでにあなたのことをそう評価している見込みが高いので、失うものはほとんどない。

2022/09/09

疱疹跡がヒリヒリしてかゆいぐらいで、もう痛み止めなしでも人間生活ができる程度に回復してきた。油断せず薬を飲みきれば、来週には平常運転に戻れるだろう。ここ2週間はなかなかハードだったが、たいして熱が出なかったのがせめてもの救いだろう。そういう意味では、コロナワクチンの副作用よりは一人でもギリギリ対処できる苦しみだったわけだ。

帯状疱疹で調べると、これが増加しているのはコロナワクチンのせいなのだ、という言説にたくさん出会う。ワクチンのせいで免疫がバグって帯状疱疹が出てくる、という説明はまぁもっともらしい(つまり、なるほどそうなのかと直観的にすとんと落ちる説明になっている)。私はそこに因果関係があるともないとも判断できる立場にはいないので、専門家に究明をがんばってもらうしかない。

仮にワクチンと帯状疱疹に因果的関係があるとしても、その場合には、コロナ感染と帯状疱疹にも因果的関係がある見込みが高いだろうから、反ワクチン派の主張がサポートされるわけではない。どっちに転んでもリスクしかないのなら、そのときそのときの苦しみを引き受けるしかないだろう。今回この病気にかかって、改めて身体はクソだなと実感した。

2022/09/08

とりわけ日本人はレビューですぐ低評価をつけがちなのかどうかは知らないが、そもそもチャリティとして発表されている情報なりコンテンツに対して、「もっとこうしてくれなきゃダメだろ」というコメントを書いてしまう人は、〈そもそもチャリティとして発表されている〉という部分を十分に理解できていないのだと思う。具体的には、個人ブログでまとめられているゲームの攻略情報なんかに対し、「そのまとめ方じゃ見づらい(俺のためにもっと見やすくしろ)」といった趣旨のコメントをしてしまうケースだ。対価として得たサービスがなってないので苦言を呈するという、場合によってはもっともな態度がスライドして、ろくに対価もなく得ているサービスに対しても文句を言ってしまうのだろう。批評的態度のバグだ。

こういう、コストリターンで考えたらコストがほぼないので常にプラスなのだが、それだけ見たら出来が悪いものに対して、われわれは批評家になる権利があるのかという問題はありそうだ(美的というよりは倫理的だろうが)。浮浪者は炊き出しの味に文句を言えるのか、フリーゲームを酷評する権利はあるのか。実際には、チャリティのように見えてこちらが間接的にコスト(税金とか広告費)を払っているケースもあるだろうから、難しそうではある。

2022/09/07

セブンイレブンの「たんぱく質が摂れるグリルチキン弁当」というのを初めて食べたが、なんとも味が薄いのと、やけに米が少ないのとで、機内食みがすごかった。beef or chickenのチキン。機内食っぽいものを食べたいときにおすすめだが、¥600ぐらいするのはかなり割高だ。

2022/09/06

楽園のイメージといえば、草原にぽつんと木があって、鳥がさえずって、太陽がさんさんと照っているというのが相場だろうが、虫多そうだし、芝生がじょりじょりしそうだし、日陰少なくて嫌だなぁといつも思っている。天国があるとしたら、そして死後永遠の時間をそこで過ごすのだとしたら、美術館みたいに天井の高いコンクリ打ちっぱなしのモダンな空間であってほしい。近くに海があったらなおよし。地中美術館とか完璧だったので、あそこに座り心地のいいソファでも置いてもらって、私の死後行き着く場所ということにしてほしい。

2022/09/05

ということで帯状疱疹だったので、抗ウィルス剤を飲んでおとなしくしている。

闘病日記を書くのにも飽きたので、informativeなことを書こう。いまは博論の第二章を書いており(一章は書いていない)、毎日のようにWalton (1970)とにらめっこをしている。Laetz (2010)が強調していた、「知覚的に区別可能なカテゴリー」に関しても考えが固まってきたので、書いていることを小出ししていこう。

ウォルトンのカテゴリー論は、心理学的テーゼ=「美的にどう見えるかは、どういうカテゴリー(およびその標準的/可変的/反標準的特徴)を踏まえるかに左右されるよね」という、わりと直観的なテーゼから始まる。ミステリアスなのは、その準備として、まずは知覚的に区別可能なカテゴリーと、それにとっての標準的/可変的/反標準的特徴」というのを導入している点だ。ここには「media, genre, styles, forms, and so forth」が含まれ、具体的には「絵画、キュビスムの絵画、ゴシック建築、古典主義的ソナタ、セザンヌの様式の絵画、後期ベートーヴェンの様式の音楽など」が含まれる。定義は「ある作品がそのカテゴリーに属するかどうかは、ただ、その作品が通常の仕方で経験されたときにその作品のうちに知覚されうる特徴のみによって決まる」⇔知覚的に区別可能なカテゴリー、として与えられている。見たり聴いたりするだけで、それに属していると分かるようなカテゴリー、というわけだ。

「セザンヌ作品」「贋作」など、出自に関する歴史的事実がメンバーシップにからむようなカテゴリーは、この限定によって排除している。問題は、ちょっと考えれば分かりそうなものだが、media, genre, styles, forms, and so forth」のなかにも知覚的に区別可能とは限らないものがわんさかあることだ。ウォルトンが例に挙げている「絵画」も、つねに目で見るだけで絵画だと分かるとは限らない。アート&ランゲージによる《絵画/彫刻》(1968)は、ふたつのまったく同じ見た目を持つ灰色の直方体が、キャプションひとつでメディアを左右される(一方は絵画であり、一方は彫刻である)という文脈依存性を暴露している。「セザンヌ作品」を回避して、知覚的に区別可能な「セザンヌ様式」に撤退したのと同じように、ウォルトンは「絵画」ではなく「絵画風[painting-style]」「絵画っぽいもの[apparent painting]」へと撤退せざるをえない。実際、ウォルトンは製造工程という知覚的に確認できない事実がからむ「エッチング」から、そうではない「エッチング風」へと撤退することを選んでいる。スーパーリアリズムは「写真風」の「絵画」であり、フォトレアリスムは「絵画風」の「写真」だが、ウォルトンはそれぞれ前者のほうのカテゴリーを問題にし、後者は問題にしないことを選んでいるのだ(この例はウォルトンが挙げたものではないが)。

この限定が論文の最後まで通底し、ウォルトンを形式主義に対して譲歩的な立場にしている、というのがリーツの解釈だ。この限定は解除して差し支えないし、解除すべき独立した理由がある、というのがDavies (2020)の解釈で、私もデイヴィスに同意している。私が持っている理由は複数あるが、ここではそのひとつを紹介しよう。

知覚的に区別可能なカテゴリー」のいち解釈として、先日書いた「芸術のメタカテゴリー」にからめて私が主張したいのは、そういうカテゴリーがあるというウォルトンの説明はきわめてミスリードであり、より正確には(結構多いだろうがすべてではない)一部のカテゴリーにそういう用法がある、ということだ。ある作品に対して、私は実際にセザンヌによって作られたかどうかを気にせず、セザンヌ様式だなぁと判断できるし、実際に印象派展に出展されていたかを気にせず、印象派様式だなぁと判断することができる。これらは、私の説明では「セザンヌ作品」「印象派」というカテゴリーを、プロフィール用法ではなく様式用法ないし形式用法で用いている例に相当する。ウォルトンに反して、「セザンヌ作品」「印象派」とは別に「セザンヌ様式」「印象派」のようなカテゴリーがあるのではなく、前者たちに出自を問題としないような、偏った用法があるのだ。問題としているカテゴリーは同じなのである。これはウォルトンとしても望ましいことだろう。

カテゴリーの様式用法と形式用法の共通点は、どちらも作品に備わっている性質だけに基づいて「この作品はCだ」というような分類的判断をくだすケースをカバーしている点だ。このうち、ウォルトンの意図により近いのは、非美的な性質の所有を問題とする形式用法だろう。筆触分割を用いているから「印象派だ」、というのは形式用法で「印象派」カテゴリーを用いている。しかし、私が思うに、ウォルトンは意図せず美的な性質の所有を問題とする様式用法の例も念頭に置いてしまっている。全体的な雰囲気が「印象派だ」というのは、筆触分割のような個々の非美的性質があることの指摘にとどまらない。それはそれ自体として、「印象派っぽさ」という美的性質を持つことの指摘なのだ。実際、ウォルトンはカテゴリーの知覚が美的性質の知覚と同様にゲシュタルト的であり、全体の絶妙な絡み合いの知覚に基づくと言っている。美的性質を知覚する準備としてカテゴリーの知覚を取り上げたものの、その一部の内実はそもそも美的性質の知覚である、というのが私の解釈だ。

おそらく、このことはウォルトンの枠組みにとって、そんなには不都合ではない。しかし、いくつかの説明は改められなければならない。「知覚的に区別可能なカテゴリー」に話を限定した時点で、ウォルトンにおけるカテゴリーの知覚は、作品のうちに非美的性質のセットないしそれらに基づいて創発した美的性質があることの知覚と、交換可能なものとなる。カテゴリー知覚はカテゴリー知覚でも、あるカテゴリーの形式的側面ないし様式的側面だけを知覚しているのだ。ここから、標準的/可変的/反標準的の重み付けがなされたテンプレート上に作品の性質を位置づけ、さらなる美的性質を出力することが、プロパーな美的知覚になる。のだが、ここで召喚されている標準的/可変的/反標準的のテンプレートは、「知覚的に区別可能なカテゴリー」として知覚された単なる性質を超えた、規範的なものである。私の用語法では、ここに至ってカテゴリーは一種のジャンル用法として新たに用いられている。

私の考えでは、形式や様式としてあるカテゴリーを同定する能力と、そのカテゴリーの規範を踏まえて知覚を行う能力(それをジャンルとみなす能力)は、ひとまず別物である。あるカテゴリーを知覚することと、あるカテゴリーのもとで/を踏まえて/として知覚することは、別問題なのである。悩ましいことに、おそらくウォルトン自身はこの区別にほとんど気がついておらず、知覚の訓練を問題にしている場面でも混同してしまっている。しかし、「芸術のカテゴリー」を結論部まで読むと、ウォルトンにおいてとりわけ重要なのは、後者の「カテゴリーのもとで知覚する」ことだと分かる。これは、「知覚的に区別可能なカテゴリー」という限定を、(仮にウォルトンが外したがらないとして)最終的には解除しても差し支えない、独立した理由になっていると考えている。知覚的に区別可能でないカテゴリーに関しても、教えられたりして同定し、それをひとつのジャンルとして踏まえて美的性質を知覚する、という議論は問題なく通るからだ。私は、モノだけ出されてもどれがレディメイドなのかは分からないが、ひとたび教えてもらえれば、どういう規範のもとで知覚すればいいのかは分かる。こうすれば、よくある文脈主義者の主張にまとまるというものだ。

上の引用でもお借りしている森さん訳の「芸術のカテゴリー」は最近バージョンアップされたので、まだ未読の方にはおすすめだ。

2022/09/04

病気(翌日、やはり帯状疱疹だと診断される)で元気がないのをいいことに、土日はずっとゲームをやっていた。『ファイナルファンタジー・クリスタルクロニクル』。小学生のころはなんて難しいアクションゲームなんだと思っていたが、この年になってみると大半は作業だ。ヒットアンドアウェイで適時ケアルを振っている限り、ゲームオーバーになることはまずない。小学生の頃に苦戦していた印象があるのは、コンテンツのレベルで結構シリアスな話が続き、でかいモンスターに襲われたり大勢に囲まれたりといった精神的プレッシャーによるものだろう。でかかろうが大勢だろうがやることは変わらない、というのは今だからこそ思える。

ラスボス含めてあまり難しいゲームではないのだが、コナル・クルハ湿原のドラゴンゾンビ戦だけは例外だ。脇に控えるストーンサハギン×2があほみたいに硬く、針で氷結されて動けない間にドラゴンゾンビから遠距離攻撃をかまされるので、気を抜くとすぐにハメ殺しされる。勝利するためには、逃げつつタイミングを見計らってサハギンにグラビデを打ち込み、すきあらば回復し、サハギンを処理できたらホーリーでドラゴンゾンビを実体化させてしばき、サハギンが復活したら最初から同じことを繰り返す、ということでかなり集中力がいる。そういえば足場が狭いのもあって、モンハン2ndGのヤマツカミ戦とはゲームのメカニクスがわりと似ていることに気がついた。あれも苦手だった。

2022/09/03

ヘルペスに似たプツプツが首から耳にかけて出現してきたので、やっぱり帯状疱疹な気がする。リンパ腺まわりが、親知らず抜いたときぐらい腫れている。何年か前に手足口病という赤ん坊の病気にかかったが、帯状疱疹なのだとしたら今度はおじいおばあの病気にかかったことになる。私はいったい何歳なのだろうか。

2022/09/02

しばらくは闘病日記になりそうだ。

頭痛は慣れつつあるが、リンパ腺の腫れがかなりしんどめなので、耳鼻咽喉科にやってきた。症状は帯状疱疹っぽいが、断定できないといった感じで、とりあえず抗生物質と痛み止めで様子を見ることになった。検査の一工程として鼻から喉へとファイバーを突っ込まれたのがそこそこ苦しかったが、大人なので文句は言わなかった。

ロキソニンは偉大で、効いている間は人間生活ができるため、Debates in Aesthetics論文のもろもろを返信対応した。長らくお待たせしたがぼちぼち出版らしい。こう、書いてから1年も経つと、加筆したいところだらけになるので悩ましい。

2022/09/01

体調がかんばしくない。例の神経痛がしつこいのに加え、同じ左側のリンパ腺が3箇所も腫れだした。吐き気とめまいがあり、やたらと汗をかく。とりあえず冷やしてみたのが不正解だったのかもしれない。安易な解決を求めて、ソルティライチ、野菜ジュース2種、キレートレモンを買ってきたが、どうにもならなかったら明日病院に行こうと思う。

グロッキーにもかかわらず栄養補給を怠っているのか、これがすでに食欲のなさの現れなのか定かではないが、今日はパンばかり食べた。トラスパレンテのクレーマ(「酸味とコクのあるクリームがたっぷり入ったデニッシュ」)はほんとうに美味い。

2022/08/31

先日無印で買った人感センサーライトが、そこそこいい仕事をしている。トイレに設置しているが、夜中に行くときに照明の眩しさでウッとならずに済む。どういう原理か分からないが、普通に照明をつけているときには人を感じてもつかない(きっと、私の想像力が足りないだけで、ごくごく単純な原理なのだろう)。

2022/08/30

連載コンテンツに対する「考察」「解釈」が、内実として、作者のまだ開示していない情報に関する予想に過ぎないのだとしたらつまらないだろう。当たっていようが外れていようが、だからなんだとしか思わない。しかしこう、物語コンテンツがどれもこれも謎・伏線・ダークな世界観の側に傾いていっているなか、情報を握っている作者が特権化されていく流れがあるのは分かる。新しい話が出るたびに答え合わせのように読まれていくのはしょうもないだろう、と思うばかりだ。

その一方で、キャラクターが物語から切り離されて消費される動向もきしょいと思うので、総じて、私は現代のフィクション文化に向いていないのだろう。

2022/08/29

ここ数日頭痛が続いているが、調べたところ神経痛が一番症状に近いようだ。数分おきにつむじあたりをグサッとされるような痛みがあり、周辺は髪に触っただけで頭皮に同程度の痛みが走る。首の左側がずっと寝違えたような感じで張っており、喉の左側もものを飲み込むときに違和感がある。もっぱら、悪い姿勢でずっと座っているせいらしい。心当たりがありすぎる。

たしかにこれなのだとすれば、1週間ほどで自然に治るらしい。そうだと助かるし、そうでなければ困る。

2022/08/28

Sauchelli (2013)の機能美の論文を読み返していて、彼がウォルトンのカテゴリー論を要は期待の認知的侵入だとまとめている箇所を思い出した。ウォルトンを認知的侵入として読んでいるものとしては、Stokes (2014)のほうが有名だろう。ところが、ウォルトン自身は自分の理論が認知的侵入ではないと後に明言している。Ransom (2020)のまとめのほうが正確で、あるカテゴリーとして見ることが知覚学習を経て体制化されるという枠組みらしい。ここでは、信念レベルのものは絡んでおらず、一貫して知覚の水準でカテゴリー知覚・カテゴリーとして知覚が展開される。

そこで、「期待」は定義上認知的なものでなければならないのか、無意識で非認知的なやつもありなのか、というのが気になった。音楽鑑賞における期待なんかは、むしろ無意識的で非認知的なものがなような印象がある(ほとんど読んでいないので適当な印象だ)。知覚的体制化を経た人が、ある種の特徴を見て別のある種の特徴を無意識に期待し、それが満たされたり裏切られることで感情的な反応を返す、というのは全体としてふつうに「期待」の働きなように思われる。だとすれば、Sauchelliがそれを認知的侵入のモデルでしか使えないと考えたのが誤りで、ウォルトンのカテゴリー論を要は期待なのだという主張を維持しつつ、知覚学習のモデルでも使えるのではないか。

2022/08/27

ユーロスペースで『みんなのヴァカンス』を見て、オンラインQ&Aを聞いた。映画はいつものギヨーム・ブラックといった感じで無難に良かったが、Q&Aは残念なクオリティだった。ただでさえ翻訳をまたいだ意思疎通、それも観客という第三者にも内容を共有しなければならない意思疎通(@Zoom)に困難があるのに、監督も役者もたらたらと喋り、「もういいから一旦翻訳させてくれ…」とハラハラしっぱなしだった。中身も映画作りに関する一般論(e.g.「私はそのときどきの条件を活かして撮ります」)で、ギヨーム・ブラックからしか聞けないような話はなにひとつなかった。

もっとどうにかできなかったのかとは思うが、そんなもんだろうとも思う。講演的なものを長らく学会発表しか摂取していなかったせいでやけに期待してしまったが、思い返せば聞いたことのあるトークショーはたいていグダグダだったような気もする。まとまった、新規性のある話をしてくれるトークショーは、よほど準備されたトークショーなのだろう。では、人はなぜ準備されていないグダグダトークショーにまで足を運ぶのかと言うと、動いて喋る有名人を生で見たいからだろう。オンラインだとそのありがたみも薄れてくる。

2022/08/26

こうしてアッバス・キアロスタミもキャンセルされたわけだが、あらゆることを考慮に入れた上でも、『クローズ・アップ』のような名作が上映機会を失っていくのは、とても耐え難いことだと思ってしまう。それは、作者がどれだけ倫理的に極悪だとしても、美的に重要なものなのだ。他方で、配給も商売としてやっているので、リスクヘッジとして「やめておく」のも頷ける。じゃあもう今後は聖人君子の作ったものしか鑑賞できないのか、という極論も気持ちは分かる。倫理的に許しがたい人間の作ったものが公的に宣伝され、受容され、称賛されることが許しがたい、というのも分かる。キャンセルしろ派もするな派も気持ちは分かるからこそ、どうすればいいのかはさっぱり分からない。キャンセルカルチャーというのはもはや乗らざるをえないバスだが、どこに連れて行かれるのか分からなくて不安、というのが唯一の正常な認知だとすら思っている。

民間形式主義も今回ばかりは元気がないが、キアロスタミを見る層は相対的にリベラルが多く、ポジション的にこういった件を許容しがたい、というのが少なからずあるだろう。なぜ人は民間形式主義に走るのか長らく謎だったが、キャンセルカルチャーに対する心理的自衛というのはひとつ理にかなった説明だと思う。

2022/08/25

ウォルトンとキャロルはどちらもカテゴリーが大事だという話をしているが、話の水準はけっこう異なる。ウォルトンは美的性質を知覚するレベルの話をしており、現象学的経験や認知的判断といった後期のレベルは問題にしていない。一方、キャロルは批評という、かなり後期に形成される表象の正誤を問題にしている。私の印象では、キャロルはこの「考える」レベルをかなり重要視する論者だ。一般的に、意図や文脈が大事だと言われがちなのは、キャロルのような後期レベル(判断とか批評)だろう。対してウォルトンは、シブリー以来のやり方を引き継いで、かなりニッチな「美的知覚」の話にフォーカスしている。これはまったく「考える」レベルではない。

ややこしいのは、シブリーやウォルトンも「美的判断」の語を用いている点だ。今日のわれわれにとっては、「美的知覚」の話をしていると言ってもらったほうがよっぽど分かりやすいのだが、おそらくはカント由来の伝統が用語をややこしくしている。美しいものの判断は推論によらないというのが大前提なので、「美的判断」といっても論理的判断のニュアンスは「判断」から解除される、ということなのかもしれない。ということで、知覚し、なんらかの現象学的経験を抱くことを、単に「判断」と呼んでいるように思われる。キャロルら現代の論者は、「判断」ということで知覚よりもずっと後ろの認知的な話をしがちだが、このカント的伝統に忠実な論者からすれば、それはもう美的なもの話ではない、とすら言われるかもしれない。

源河さんの本を読んでいて思ったが、知覚と判断の境界線は最終的に取り払われるとしても、出発点として用意しておいたほうがいい。でないと、ウォルトンとキャロルみたいに似て非なる話をしている場面で、存在しない対立点を見出してしまう恐れがある。

2022/08/24

一人暮らし7年目にして、ついに掃除機を手に入れた。アイリスオーヤマのコードレスのやつ。手軽さと効率が違いすぎて、これぞテクノロジー革命だ。クイックルワイパーとコロコロで事足りると言っていた連中は嘘つきだったわけだ。

2022/08/23

Staff Diffusionやらmidjourneyがあれこれすごくて、新時代到来のごとく騒がれているが、どれだけ実用性があるのか明らかでない段階から「テクノロジーに対する肉体の完敗」がポルノのごとく消費されていて、気味の悪さがある。イラストレーターは廃業だ、みたいに結論を急ぐのがみんな好きなんだなぁ。私としては、写真の認知的価値がさらに落ちるなぁ、というのと、いらすとやにない図をぱっと用意できたら便利だろうなぁ、と思う程度だ。

2022/08/22

フェスを声出しなしでやりましょうというのがそもそも馬鹿げているので、ロックな俺たちが風穴を空けてやるぜ、という態度は、後半はともかく前半はよく分かる。叫び、ぶつかり、汗を流すことがその楽しみの要点なのだとすれば、声出し無しのフェスなどというのはつまるところ、リモート飲み会とかリモート修学旅行のような痛々しいその場しのぎの類なのだ。

旧来の、すでに困難となった楽しみに関して、現在のわれわれが採りうるオプションはおおきく三つだ。①危険を顧みず旧来の仕方で楽しむ、②対策しつつ新たな形式で楽しむ、③楽しむのを諦める(別の楽しみを探す)。問題は、現状多くの場面で選択されるのが②であるにもかかわらず、当の「新たな形式」がまったく楽しくなく、本質を失っている点にある。また、その場しのぎや妥協にはどうしてもみじめさがある。そのみじめさを自覚することなく、これは依然として楽しいものだ、というのはどこか自己欺瞞のように響く。

実際、②ではいたたまれないので開き直るか諦めるかという点では①も③も同じだ。だからこそ、私は①な人の選択には決して共感しないが、動機には共感してしまう。あれもこれも諦めるばかりではやるせない、というのも分かる。どうすればいいのかは分からない。

2022/08/21

やっぱ「邦ロック」聴いても音楽聴いたことにならなくない?」は、中身はともかく釣りとして秀逸なタイトルだ。「邦ロックなんてレベルの低い音楽をまだ聞いてんの?」という話では必ずしもないのだが、ろくに読まない人、またはカテゴリーへの愛が強すぎる人はそう読み取ってしまうのだろう。

著者の主張は、①サマソニでの邦ロック勢(具体的にはKing Gnuとホルモン)の言動は感じが悪い、②彼らの言動は音楽としてダメ、③一般的に、邦ロックは音楽としてダメ、という観察→評価→一般化の形式を取っている。社会性が欠如しており、無意識に差別的で、いわば「意識が低い」ことが問題となっており、そういう意識の低いケースとして今回のキングヌーとホルモンが批判に値する、という部分まではある程度同意が得られるとは思う。「邦ロック界隈には意識の低い人もいる」というわけだ。

しかし、この主張を一般化していく前提として、「ポップ音楽聴いた結果できあがるのは、差別や表現や人間関係、社会について考えを巡らせた人物なのだ。逆にいえば、ポップ音楽を聴いた結果、社会への無関心や差別を表明する人がいるのだとすれば、その人は音楽を聴いていない、大事な何かを聴き逃している、ということになる」というのは論点先取であり、実際ほとんど同意を得られていないようだ。むしろ、「ポップ音楽とは政治社会とは切り離され、イケてればそれでいい」という民間形式主義があるなかで、反直観的なことを言ってしまっている。もちろん、そういう民間形式主義が健全かは別問題だ。

また、例を探せば探すほど、「①邦ロック界隈には意識の低い人もいる」「②邦ロック界隈には意識の高い人もいる」「③洋ロック界隈には意識の低い人もいる」「④洋ロック界隈には意識の高い人もいる」のいずれをも支持する言動がいくらでも見つかるはずなので、ことさらに①と④を強調しても説得的ではない。チャリタブルに読めば、「①邦ロック界隈には意識の低い人もいる」、それも洋ロック界隈に比べてそういうダメな人が比較的多い、と言いたいのだろう。実際そうなのかは体感としてよく分からないが、そういうこともありうるとは思う。

という風に、煽りや誇張なしに穏当な主張にまで切り詰めたら、ブログ記事としてはここまで伸びることはなかっただろう。

2022/08/20

八丈島4日目、最終日。荷造りをし、バスの時間まで古民家喫茶を再訪した。アイスコーヒーに塩キャラメルプリンをつまみながら、なかなか落ちない蚊取り線香を観察する。お昼はポケットという洋食屋で、ハンバーガーを食べる。テイクアウトだけで営業中なのを知らなかったが、こちらの様子を見て二階のテラス席を貸してくれた。

空港まで徒歩で移動し、昼過ぎの便に乗って羽田に戻る。がーっと帰宅し、一休みしてから中目黒に出て三宝亭の麻婆麺を食べた。文句なしにうまかったが、しっかり辛めで、水をがぶ飲みしていたら胃袋がかなりぱつんぱつんになった。小雨のなか、ふらふらしながらカフェ・ファソンに移動。さすがにうますぎるカフェオレグラッセと月心(いい感じの甘いコーヒーに練乳をのせたもの)をたしなむ。今年の秋は喫茶店巡りして、こういう小洒落たコーヒーを飲みまくろう、という決意を固めた。

歩いて帰宅しシャワーを浴びたら、もう睡眠欲以外の欲がなくなったので、寝た。

2022/08/19

八丈島3日目。天気にも恵まれ、八丈富士に登る。ペーパードライバー×2なので、登山口までどう登ったものか悩ましいところだったが、ふつうにタクシーを配車できた。山腹のふれあい牧場では牛たちとふれあった。牛しかいない。でかくてモウモウゆうてる。そろそろ登山するかと引き返していたら、前方から逃げ出した(?)牛が接近してきて、飼育員も「逃げてください!」と叫び、バタバタする一幕があった。都会じゃあまりしない経験だ。

登山口から、いざ山頂を目指して登り始める。1280段、約1時間ひた登る。文系院生のデスクチェア哲学者にはとても対応できない運動量で、ところどころ休みながら満身創痍でたどり着く。文系院生のデスクチェア哲学者ではない恋人は、まぁ疲れるね、という手応えだった。火口は二重火山になっていて、ほんのり霧がかっていたのもあり、さすがにこの旅一番の景観だった。ぐるっと一周回るお鉢めぐりコース(所要時間1時間)もあったが、脚がプルプルだったのでやめておいた。開けた感じの草地は、ドライヤー『奇跡』の名シーンを真似て写真を撮るのに最適だったが、疲れのため頭が回らなかった。道中も山頂もカナブンが大量にいておぞましい。この島のカナブンは活きが良く、ブンブンと飛び交っている。下りはさすがにeasierで、ふれあい牧場でポカリスエットをがぶ飲みした後、タクシーを呼んで下山した。

遅めの昼食は、一休庵でうどんを食べる。たぬきうどんは、鰹節たっぷりのつゆが美味しかった。特産品らしい明日葉は、天ぷらにすると癖のないしそといった感じで、いくらでも食べられる。土産屋でお酒を買った後、ジャージーカフェでソフトクリームを食べた。バスに乗ってガーデン荘に戻る。

古民家喫茶でベーグルとチャイをいただいてもまだ17時だったので、海岸沿いにある裏見ヶ滝温泉&やすらぎの湯まで歩いていった。前者は水着着用の混浴露天風呂で、湯はぬるめ。人は少なかったが、海辺によくいるゴキブリとダンゴムシのハーフみたいなやつがもりもりいて、早めに退散した。後者は温泉というか銭湯みたいな、小綺麗な風呂だった。湯の温度は平均的で、ここだけ海水ではなく真水だった。懲りずに足湯を経由した後、丘を登って宿に戻る。疲れは溜まっていたが、八丈富士でメンタルを鍛えられたので、初日ほどは苦労しなかった。

夕飯は天ぷらとハンバーグが出た。この日は若い男友達二人組が泊まっていた。部屋で金曜ロードショーのトトロを見て、就寝。

2022/08/18

八丈島2日目。底土海水浴場にやってきた。バスを降りた瞬間に畳み掛けるような豪雨が始まり、以後ふったりやんだりに悩まされる。海の家に停まっているカフェスタンドで、チャイとナチョスをいただいた。大雨のなか、恋人はダイビングをしに行った(私は泳げない)ので、私は海岸沿いを2時間ぷらぷらすることになった。この日は木曜日だったが、八丈島は定休の店がかなり多い。海の写真を撮ったり、ヤドカリを観察したり、ぜんぜん誰もいないので歌を歌いながら散歩して1時間つぶし、残りは屋根のあるところで本を読んでいた。底土は砂浜も黒い砂なので、晴れていたとしてどれだけ映えるのかは定かではない。

なんだかんだダイビングを堪能し、ウミガメにも会えた恋人と合流、歩いてバス停まで向かう。道中はさびれたリゾート地といった趣で、ヤシの木沿いにでかい廃ホテルがあった。バス停近くのパン屋でカレーパンとクリームパンを食べた。

島の東エリアにやって来た。名古(なご)の展望台は、小雨になっていたのもあり、なかなかの景観だった。みはらし台よりも、手前のほうが開けていてよかった。およそ人が歩くことを想定していなさそうな車道をひた歩き、みはらしの湯へ向かう。海を一望できる露天風呂があり、途中からはほぼ貸切状態だったのでかなりよかった。内湯があつあつ。

ガーデン荘に戻り、夕飯。2日目は夫婦と、原付一人旅の兄ちゃんが泊まっていた。メインはとんかつで、肉を欲していたところだったのでうまかった。部屋に戻り、寝る。

2022/08/17

8/17から8/20まで恋人と観光で八丈島に行ってきた。

1日目。羽田でケバブプレートを食べてから搭乗。親戚にパシられ、空港でも機内でも羽生くんグッズを買う。

八丈島空港から八丈植物公園まで歩く。温室で諸植物を鑑賞し、ビジターセンターでソフトクリームを食べ、キョンという小型の鹿を見た。キョンはつるつるしていてかわいかったが、千葉では害獣として近隣住民を悩ませているらしい。あと、うまいらしい。

気合いを入れて八上一周道路まで降り、バスに乗る。バスは、温泉とセットのパスが発行されており、全日それを利用した。泊まったのはガーデン荘という気さくなばあちゃんがやっている民宿で、島の南側にある。チェックイン、荷解きし、手頃なバスで引き返し、ふれあいの湯へ。このバスの時間というのがなかなかの曲者で、一日に数本しかないのを上り下りチェックしつつスケジュールを調整するのが、私の主な担当となった。ふれあいの湯は露天風呂が混んでおり、さっさと洗って出たのであまり覚えていない。

バスで宿に戻り、夕飯。夜はいつも多めに出たので、フードファイトしてばかりの旅だった。夕飯は食堂でみんなで食べるスタイルで、ばあちゃんが焼酎片手に島の豆知識などを語ってくれる。初日はスナックをやっている泥酔ママさんと、付き合って2ヶ月という同年代のカップルが来ていた。島焼酎は飲み放題で、初日は2杯ほどいただいた。昔は焼酎好きだったが、今はそうでもないので、二日目以降はコンビニで買ったビールを飲んだ。食事は、島寿司というのが出たが、私は刺し身のほうが好みだった。刺し身は毎日出たのでお得だ。

夜な夜な繰り出して、近くの足湯へ向かう。この足湯、歩いて15分程度のところにあり、夜21時までやっているので通いつめようと思っていたのだが、高低差100m強下った先の海岸にあるので、帰りがたいそうしんどかった(翌々日のしんどさに比べたら物の数に入らないのだが)。足湯は夜中で景観もなにもなかったが、完全な闇を前にして入るのも悪くはなかった。宿に戻り、就寝。

2022/08/16

卒業研究やりたくないんだが、大学の教授は勘違いを改めろ」は、表現の乱暴さと、接続詞の通りのわるさを除けば、前半も後半も多少は頷けることを言っていると思う。少なくとも、問題提起を無視して教養マウントをかます奴のほうがよっぽど醜悪だろう。

問題は見かけよりもシンプルで、学生からすれば、一方ではちゃんと勉強するインセンティブがなく、他方ではそれでも大学に行くインセンティブがあるのが問題なのだ。大学というのが、学問を修めたい人だけが行き、そうでない人が行く必要のない場所として成り立っていない。「こんな奴は大学に来るな」とか平気で言える者は、大学が現に就職予備校として社会に組み込まれているという事実を無視しているか見逃している。

慶應経済にいた最初の1ヶ月で、たいていの学生は履修を楽単で埋め、講義はサボれるだけサボり、出席は代返を頼み、試験は後ろの方に群れてカンニングし合う、というスタイルをよしとしていることを知り、おおいにショックを受けた。それでもって、勉学における真面目さと、就職先の良さにはほとんど相関がなかった。少なからぬ学生にとって大学生活とはそういうものでしかない、という認識から始めないことには、問題は解決しようがないだろう(解決を要する問題なのだとして)。

卒業研究はつらい。大学院に進んだ私は客観的に見て奇特なので、卒論2本をうきうきと書いたのだが、一般的に言って何万字も書いたり実験したりというのは労力のかかることだ。卒業研究が、その労力に見合うだけのスキルを養う機会になるというのも、私には誇張に聞こえる。それはたしかに大切なスキルだが、なければ生きていけないものでもないし、他では身に付けられないものでもない。私はわりとずっとこういうスタンスだが、研究というのは好きな人が好きなだけやればいいのであって、そんなに役に立つものでもないし、役に立たなければならないわけでもない。「やる気のない学生に研究室や教授の資源を割くよりもやる気のある学生に資源を使ったほうが研究室の利益や個人の幸せの観点から見ても良い」という増田に、私はかなり賛同できる。

なんだかんだ、歪んだインセンティブを学生に与えている「就職活動」が諸悪の権化に思えてきた。

2022/08/15

帰省を終え、目黒に戻ってきた。実家では3泊したが、親も犬も元気でよかった。

2022/08/14

神奈川県立美術館の葉山館でアレック・ソスを見た。ストレート写真の系譜とは聞いていたが、多くの作品はウィリアム・エグルストンと並べられたらどっちがどっちか分からないぐらい、まさにあの時代のあの感じだった。由緒正しきアメリカン・ジャーナリズムの写真家というわけだが、とりわけ人物写真に見られるデッドパンな冷たさは彼ならではの持ち味だろう。人物の立ち方や画面上での置かれ方が人工的で、作り物じみている。蝋人形っぽいな、と思っていたら実際に蝋人形の写真もあり、こちらはむしろ生身の人間っぽい撮られ方をしていた。ドキュメンタリーとフィクションの絶妙な緊張がある(書いてしまうとずいぶん安っぽいが)

1時間ぐらいで回れるサイズ感で、人も少なめだったのがよかった。葉山の海には海水浴客がたくさんいた。

2022/08/13

実家でティラミスを作ったが、生クリームというのは調子にのって混ぜすぎると、分離してボソボソになることを知った。

2022/08/12

「芸術のメタカテゴリー」を書き上げたので、次に書く論文は「芸術のサブカテゴリー」にしようと思って、読んだり考えたりしている。抽象的な性質と具体的な性質のスペシフィケーション関係についてはよく理解していなかったが、どうも次のが基本的らしい。

determinables / determinatesはふつうに抽象的/具体的の言い換えだとざっくり思っていたが、ぜんぜん違った。この特殊な関係をどう理解すべきか、なにか別の関係(流行りのグラウンディングとか)で還元できないか、というのはSEPを見る限りかなり論争的みたいだ。

ある芸術ジャンルの(定義はどうにもうまくいきようがないので)大雑把な特徴づけがあったと仮定して、それとサブジャンルが取り結ぶ関係は、上のどれにもっとも近いのだろうか。前に松永さんとお話したロッツェの概念モデルもからめて、一度整理できればなと思っている。

2022/08/11

ネット論壇におけるwhataboutism(近頃の流行りは「共産主義だって…」だろう)はことごとく醜悪なのだが、よくよく考えてみると、キャロルなんかも『批評の哲学』でしょっちゅうこれをやっている。作品解釈における意図の推測は難しいとする反論者に対して、「日常生活ではふつうに意図を推測して生きているではないか」と返すし、作品の良し悪しはカテゴリー相対的に「そこだけ見れば[pro tanto]」語れるというキャロルに反論してpro tantoな一般性じゃだめだとする反論者には、「科学ではpro tantoな基準がたくさんあるではないか」で返す。

whataboutismは、要はアナロジーなので、対応付けがうまくいっているかが肝心だ。「映画を倍速で見るやつは、音楽も倍速で聞くのかよ」みたいなのは、映画を見ることと音楽を聞くことが重要な点で重なっていない限り、なにも言ったことにはならない。そして、ちゃんとした対応付けのあるアナロジーであっても、なんらかのディスアナロジーを見出すことはほとんどの場合において容易だ。「作品解釈と話者の意図推測は違う営みだろう」「芸術と科学はぜんぜん違う分野だろう」などなど。

オチはとくにない。whataboutismは良くないが、informativeかもしれないアナロジーを「whataboutismだ!」と言って黙殺するのもそれはそれで良くない、とは思う。

2022/08/10

いつの間にか失効していた運転免許証の再発行手続きをしに、鮫洲まで伺い奉り差し上げ申した。きっとまた忘れて失効するので、備忘録として書いておこう。

当方はまごうことなきペーパードライバーである。以前は住民票が神奈川にあったので、車関係は二俣川に行っていたが、今回ははじめて鮫洲に行ってきた。やむを得ない理由なしの更新し忘れで、講習だけ受ければ試験なしで再発行してもらえる6ヶ月以内だった。私のポスト管理がずさんであることは認めざるを得ないが、はがきでお知らせなどというアホらしいやり方はやめてメールしてくれ。次回も忘れること必至なので、2025年の自分に向けて予約メールを設定しておいた。

警察関係者にありがちなデフォでタメ口という態度には疑問符が浮かんだが、事前に段取りを調べておいたのもあって手際よく手続きは済んだ。①総合受付で申請書をもらう、②申請書を記入し(申請用の写真がいる)、失効手続きの窓口に提出、③別の窓口で5000円弱を支払い、なんらかのパスワード4桁を設定し、視力検査、④再度失効手続きの窓口で受け付けてもらったあと、写真ブースで撮影、⑤別室に移動して講習を受け、⑥出たところの窓口で免許証を受け取って終了。所要時間は合わせて2時間ぐらいだった。二度目の更新(をするはずだった)ので、講習は1時間で済んだ。

鮫洲の受付時間は「午前8時30分から午後2時00分まで」とあり、結局何時に行けばいいのか謎だったが、その間であればわりといつ行ってもいいみたいだ。講習は始まるまでに20〜30分ほど待機したが、それなりの頻度で開講しており、直近の回を受講できる。私は10時前に付いたが、だいぶ空いていた。また、更新よりも失効手続きのほうが若干早く受け取れる。

鮫洲は中目黒からバスで40〜50分で行けるが、帰りのバスはない。品川シーサイドから恵比寿に出て、1000円の焼肉ランチを食べ、帰宅。早起きすれば、これらをこなしても13時なので素晴らしい。

2022/08/09

東急ストアのパクチーサラダ、これまでオリーブオイルとバルサミコ酢で食べてきたが、ナンプラーと塩コショウのほうが合うことに気付いた。

Xは自然種と言えるかという議論で、①自然種は恒常的性質クラスターから理解でき、②Xは恒常的性質クラスターから理解できるので、③Xは自然種だ、というムーブをわりによく見るのだが、ボイドを読む機会がないので前提①をなかなか受け入れられない。そもそも、「Xは自然種だ」と言えてなにがうれしいのか明らかでなく、また恒常的性質クラスターから理解できることにうれしさがあるとしたら、議論は②で終わって良いのであって、「Xは自然種だ」という結論が冗長になるのではないか。

2022/08/08

自家製ティラミスというパンドラの箱を開けた。もっと手間かと思っていたが、生クリームを泡立てる工程を除けば、混ぜて冷やすだけなのでお手軽だ。生クリームは、電動の泡立て器がないので、冷凍庫で数分冷やしては混ぜ、冷やしては混ぜを繰り返してどうにかした。明日はきっと筋肉痛だろう。

2022/08/07

JAACの「Categories of Art」50周年記念号に載った、Madeleine Ransomの「Waltonian Perceptualism」を読んだ。「知覚的に区別可能なカテゴリー」という、例の悩ましいくだりについてのいち解釈を提示している。

ウォルトンは、アイデア的には文脈主義者寄りなのだが、ところどころで形式主義者に寄ったことを書いている。美的性質は推論されるのではなく知覚されると言っているし(これはシブリーを引き継いでいる)、美的性質知覚を左右するカテゴリーも、ゲシュタルトとして知覚されると論じている。詳しくはLaetz (2010)のレジュメを見てもらえればいいが、結局ウォルトンは作品を見るだけでは分からない歴史的文脈などを、自身の美的知覚論に組み込んでいない点で、従来の文脈主義とは異なるのではないか、という疑いがずっとあった。

従来の文脈主義ならば、作品の正しいカテゴリーはまず知識として持っており、これが美的知覚に認知的侵入する、という説明をするところだが、Ransomは「知覚的に区別可能なカテゴリー」という縛りを維持するために、「知覚学習」に訴える。カテゴリーは、具体的な事例との接触を通し、プロトタイプとして学習されていく。これがあるおかげで、キュビスムの絵をキュビスムとしてカテゴライズするのは、(知覚した特徴を元にした推論などではなく、)端的にカテゴライズ=知覚なのだと言える。こうして、①キュビスムだとカテゴライズする、②キュビスムとして見る、③しかじかの美的性質を見て取る、というのがいずれも「知覚」の範疇で説明されることになり、ある意味では「知覚によって知り得ない事柄は美的判断に入り込まない」という形式主義者のテーゼが維持されるのだ。ウォルトン解釈としての結論はLaetzと一緒だが、Ransomの説明のほうがクリアかつ実証的で説得的だと思う。

そういうこともありそう、というのは確かだ。問題は、知覚学習によるカテゴライズは、ウォルトンが担保しようとした美的判断の「正しさ」を担保できるほど規範的なものとなりうるか、だと思う。Ransomも認めるように、知覚学習はそもそも学習プロセスが間違っていたりすると、分類ミスを引き起こしうる。結局のところ、正しさを担保するのが意図やら歴史やら、知覚によっては知り得ない事柄なのだとすれば、ウォルトンは美的判断に関する文脈主義として位置づけたほうがより適切だろう。この場合、文脈は生の知覚を左右するというより、正しい知覚に関して決着をつけるものとなる。ウォルトンがこの水準の「美的判断」を問題にしていたのかはおおいに疑わしいが、一般的に言って、そういうことは普通にあるだろうと思う。

2022/08/06

自由が丘のTHE LAB TOKYOという小洒落た甘味処で、ティラミスを食べ、チャイを飲んだ。ガトーショコラが有名らしいが、私は選択肢にある限りティラミスを選ぶことになる。演出も含めてなかなかのものだった。

2022/08/05

期末レポートの採点をしている。みな期末の記述よりはよく書けている。

2022/08/04

Hans Maesによるインタビュー集でレヴィンソンが言っていたが、バーネット・ニューマンの有名な「芸術家にとっての美学は、鳥にとっての鳥類学のようなものだ」は、「for the birds」がそもそもイディオムとして「くだらない、どうでもいい」の意味らしい。するとニューマンは、二重の意味で美学を貶めていたことになる。これは知らなかった。

実際の文脈を踏まえるとニューマンの発言はもっと建設的なものだったらしいが、批判は批判だ。「XはYの役に立っていない」に対しては、「Xは実はYの役に立っている」か「Yの役に立つことはXにとって必要ではない」で返すことになるわけだが、前者は実情を踏まえるとどうしてもアドホックになり、後者は閉じたアカデミアへ向かっていくことになる。

ひとつありだと思う応答は、直接的には芸術家の訳には立たないが、広くアートワールドの役に立っている、というものだ。いかなる意味でもアートワールドの役に立たない美学は考えにくい(なんにせよ、「決して〜ではない」を証明することは難しい)。腰を据えて、じっくりXの本質を考えようとする分野が、Xにとって役に立たないわけがないのだ。むしろ芸術家こそ、「創作の役に立つ」ものを探して右往左往する自分をたまには反省してしかるべきではないか。よく言われていることだが、いきなりアドルノとかバタイユとかハイデガーを読もうとするのは、たいていの場合本人のためにならない。

2022/08/03

「芸術のメタカテゴリー」という論文をBJAに投げた。まだまだ詰めるところは多いのだが、どうせ査読に3ヶ月も4ヶ月もかかるのだから、とりあえず渡してご機嫌をうかがう、というのでいいのだと最近は思いつつある。根本的に内容が面白くなければ、ディテールを詰めたって仕方がないのだ。さすがにいきなりBJAは厳しいと思うが、一流誌に査読をやってもらえるなら御の字だろう。なので、コメントなしrejectというのにならないことを祈るばかりだ。

タイトルページ、カバーレターなども、見様見真似で作ってみた。メールでのやり取りがメインだったDiAはもう少しゆるめだったが、BJAはその手の書類一式を投稿サイトから提出するよう求められる。この投稿サイトがかなりしっかりしていて、査読や修正もサイト上でやり取りすることになるらしい。

2022/08/02

バイトが早上がりだったので、米を炊いて味の素の冷凍餃子を焼いた。食生活がずさんなときには、そうでないときにどうずさんでないのかなかなか思い出せない。

ちいかわに触発されて、家で水風呂をやった。さすがにサウナはないのでたかは知れているのだが、塩梅わるくなかった。クーラーが苦手なので、夏場の暑さを水風呂で乗り切るのもありかもしれない。

2022/08/01

私が高校時代にやり残したことのひとつは、学食から野球部を追い出すことだった。われわれが高校に進学した年あたりに、本校舎からやたら遠い旧学食がなくなり、「カフェテリア」という鼻につく名称の新施設ができた。それは、ただでさえ生徒数に対してあまりにも座席が少ないしょっぱい施設だったのだが、その1/5だか1/4だかを、常に野球部員が占めていた。しかも、連中はほとんど全員が学食ではなく、弁当を持ち込んで食べていたのだ。野球部より早く着いたとしても、ふだん野球部が陣取っているスペースには座らない、というのが校内の暗黙のルールとなっていた。バカバカしいし、本当に不当だ。特段、野球部が強い学校ではぜんぜんまったくない。

野球部のなかにはまともな奴もいた(「〜もいた」に過ぎない)のだが、諸悪の権化は顧問だ。「チームの団結力を高める」という名目で毎日学食に全部員を集め、われわれを故郷なきユダヤの民に仕立て上げたのはそいつだ。半グレ風のいかつい小男で、学食では常に必ず女子マネージャーたちを左右に侍らせ座っていた。体育会系の生徒が威圧的なのは、自分らが普段顧問にしごかれている腹いせだ、というのはよく聞く話だが、まさにそのような生態系がうちの高校では成り立っていたのだろう。私は信頼できるあらゆる教員職員に抗議し、なんらかの改善を求めたのだが、そういうリベラルなやり方でどうにかなる相手ではなかったらしい。 一度も話したことがない人物をあれほど憎み、不幸を祈ったのはあれが最初で最後かもしれない。

2022/07/31

ズラウスキーの『コスモス』を見た。昨日の『リコリス・ピザ』が愛おしく思えてくるほど支離滅裂な映画だったのだが、ズラウスキーのようなぶっちぎれ方には毎度ながら呆れつつも最大限の賛美を送ってしまう。つまるところ、「(作者は)なにがしたいのか」という問いを気にするどころではない作品を見るのは気楽で楽しいのだ。

そんな楽しい映画を見ている最中にまたしてもやってきた、セールスマンが。今回はWi-Fiではなく不動産だ。インターホンでの開口一番「お住まいの件で参りました、入れてください」とずいぶん舐められたものだったので、用件はなんでしょうと尋ねるも、「玄関先でお話する」といって譲らない。操作ミスのふりをしてインターホン切っても(これはここまで連戦連勝だったのだが)、直後にかけ直すという胆力のあるやつだった。オートロックの内側に入れるつもりは毛頭ないため、こちらから出向いて話をどういうつもりか聞いてやることにしたが、玄関先でなければ話せないなどと意味不明な理屈をこねくり回す。ごにょごにょ言いつつも、「お住まいを売ったり買ったりすることに関して皆様にご周知して〜〜」というので言質を取れたと思い「要は勧誘ですよね」と尋ねるも、「いいえ、勧誘というか〜〜」と返してくるのは新パターンだった。なんだか知らないけど間に合っています、でゲームセット。

人に取り入るだけの愛嬌も誠実さもテクニックもなく、横柄にしていればこちらがビビって萎縮する、という態度を隠そうともしない個体だった。いい加減こんなブルシットジョブ駆逐してくれよと思うのだが、一人暮らし歴も長くなってくると、いかに手際よくセールスを断るかが一種の競技として楽しくなってきた感もある。日本語分からないふりして外国語で返すのが効果的、という情報を得たので、今度来たら中国語で対応してみようと思う。

2022/07/30

『リコリス・ピザ』を見た。80点ぐらいのよくできた映画なのだが、ポール・トーマス・アンダーソンには9兆点のものを期待してしまう。『マグノリア』も『ブギーナイツ』も『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』も身震いするほどよかった。本作は主題も画面もすごくPTAらしい分、行儀よくまとまりすぎている感がある(話はぜんぜんまとまっていないのだが)。あと、タランティーノが『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』を撮ったときにはずいぶんとテンションがあがったが、こう似たような映画を後出しされると多少は冷めるというのにも気がついた。

2022/07/29

朝から腹痛に見舞われ、ひとしきり悶えた。小学生のころから謎の腹痛が定期的にあるのだが、なに原因なのか未だに分かっていない。身体の不調は慣れでごまかしているところが多すぎて、知識がまったく形成されていない。例えば、どのような食べ物がどの程度日持ちするのかといった知識がまったくないので、知らずしらずのうちに食あたりになりまくっているのかもしれない。

午後には持ち直したので、散髪して、ラーメンを食べた。

2022/07/28

期末試験をやった。採点をしているが、事前にかなり釘刺したにもかかわらず、出典の記載がないコピペがそれなりにある。普段そんな難しい表現使わないじゃん、というのですぐにバレる。見ていると、バレないように設えた形跡すらないので、そもそもダメだというのを理解していないのだろう。


一言一句コピペしてくるのは論外として、助詞などをちょっとだけ変えるのも小細工にしかならない。コピペチェッカーか、それでなくても文単位でGoogle検索にかかれば、すぐに見つかってしまう。統語論的な配置なんかがそのままなので、これではダメだ。などと、採点しているうちに、バレないコピペ術について理解が深まった。


こちらとしては粛々と減点していくので構わないのだが、それとは別に奇妙なことに気づいた。


かなりの人数が、段落と段落の間に無意味な改行を入れているのだ(今日の日記のように)。おそらく、ウェブ記事やブログの類に慣れているため、「読みやすさ」の配慮として適時行を空けているつもりなのだろう。そういえば卒論を書いていたころ私も注意されたことがある。節の終わりに行を空けてからまとめの段落を続けていたら、「論文ではふつうこういう改行はしない」と言われて、ぜんぜんピンとこなかったのをうっすら覚えている。学部生とはそういうものなのかもしれない。

2022/07/27

非常勤の期末試験準備をしていた。ついぞ履修生の顔すら知ることはなかったが、どうにかこうにか半期終えられそうだ。コンテンツもノウハウも一通りそろったので、秋学期はもっと楽できそう。論文書こ。

生命に必要な栄養素を摂取できていない自覚があったので、とりあえず野菜ジュースとキレートレモンを飲みまくっている。結構ほんとに調子がよくなりつつあって、人体は不思議だなぁと実感する。

2022/07/26

表象の博論中間発表を聞いてきた。学会発表よりはだいぶ穏やかな雰囲気なのは、教授陣vs院生という構図上、時代的に強く出れないからか、とか考えていた。ちゃんと表象表象な研究をされている先輩たちだったので、先生方との話もおおむね噛み合っていたのだが、自分の場合にどうなるのかやはり心配はある。が、修論発表のときはそれなりにメイクセンスなやり取りができたので、なんとかなるとは思う。

噛み合っていたとは書いたが、それはやり取りの表面的なスムーズさの話であって、やり取りの中身がどう噛み合っているのか私にはなかなか理解できなかった。あまり内容を共有するわけにはいかないが、例えば、あるふわっとした概念Xに関して、よく知られている(時代なり地域なり集団)AのXではなく、BならではのXを扱う論文に対し、「そもそもAのXは無条件に前提できるのか」みたいなコメントが出ていた。ほかにも、BのXについて扱う論文に対し、「私はAこそXだと思うんですが」といったコメントもあった。問題は、そもそもXがかっちりした内包を持った概念ではなく(少なくともその場で意味が共有されているわけではなく)、どれにどう適用されるかなんて、おおよそ言ったもん勝ちだという点だ。1つ目の質問に対しては「Aの周辺文脈について再調査してみます」、2つ目の質問に対しては「そうですね、AもXかもしれません」あたりが(実際になされてもいたし)真っ当な応答になるかと思うが、そのやり取りがどれだけ執筆のヒントになるのかは不明だ。いずれにしても、書き手はBについて書きたがっているのだから。

2022/07/25

宗教の説法なり説教の動画を等速でじっくり見る信者と倍速でたくさん見る信者は、どちらが信心深いのだろう、という問いを思いついた。そういうコンテンツがあるとしての話だが、こんなご時世だしあってもおかしくないだろう。前者には敬意という美徳がありそうだが、後者は後者で勉強熱心だと言っていいのではないか。私がキリスト者だったとしたら、神父に聞いてみたくなるかもしれない。

2022/07/24

いわゆる主題論、蓮實重彦がやっていたような、特定のモチーフや身振りを「」で括って、それが作品において反復されていることを指摘する批評は、とどのつまりなにをやっているのかずっとよく分かっていない。私自身、そういう見方をすることが多いにもかかわらず、である。つまるところ、小津安二郎の映画で人物たちがしばしば「食べる」身振りを繰り返していたり、アキ・カウリスマキの映画にたびたび「犬」が出てくることを指摘したからといって、だからなんだではあるのだ。

もし、指摘されるモチーフや身振りが容易には気が付かないものなのだとすれば、記述としての認知的価値があるだろう。また、それが個別作品やある作者の作品に通底していることを指摘し、全体性や一貫性があると言うのであれば、評価したことにもなるだろう。問題は、「X」というモチーフを指摘した上で、作品とは直接的には関係のないXについてのエッセイが延々と続くような批評(?)だ。なんにせよ、目的に対して遠回りすぎるように思われるし、そういう書き手は大抵の場合目的などないのでは、とすら思ってしまう。それっぽい文章を書く、という目的を除いて。

というのは、まぁ「理屈としては」の話だ。実際、提示された批評文を読めば、ふつうに面白いことも少なくない。そういう批評も、作品の経験や理解になんらか資する点がある、という感覚はあるが、どういう理屈でそうなのかが分かっていない。私はそういう理屈として分かっていないものを分かりたいのだが、表象の映画の講義なんかで質問しても腑に落ちる回答を得られた試しはない。大抵のトピックについて言えることだが、「言葉にした途端にそれはこぼれ落ちてしまう」などと言われても私は信じない。

2022/07/23

朝から哲学若手研究者フォーラムを聞いていた。昨年は参加しなかったので二年ぶりだ。そういえば修士1年の2018年、知り合いもいなかったのにふらっと参加したのはなぜだろう。結局その年も翌年も宿泊することはなく、いつの間にかオリンピックセンターとは切り離されたイベントになってしまった。

伊藤さんの真正性の発表は、前からうかがっていたアイデアの全体像が知れてよかった。やはり、時間をかけて用意されたスライドがあるかないかで人の発表を聞くモチベーションが段違いだ。伊藤さん以外にはとくに参照があったわけではないが、なんだか言語行為論的な世界観をあちこちで感じる一日だった。最後に社会存在論の講演があったからかもしれない。倉田さん三木さんはやはり先生なだけあって、話して聞かせて分からせる技量がさすがに一段上だった。社会存在論の勉強会もやりたいな。

今年は聞きたい発表が1日目に密集していたので、明日は自分のことをやろうと思う。

2022/07/22

『チ。―地球の運動について―』のたいそうパワフルな批評を読んだ。書き手は、本作のエンターテイメント/ドラマとしての秀でた点を十二分に認めつつ、史実との齟齬が本作の目的に照らすとやはり欠陥であることを、長大な科学史語りによって示している(結果として、『チ。』に劣らないほどの科学エンタメ記事になっているのも素晴らしい)。知的探求や真理への忠誠といった『チ。』の中心的な主題を踏まえれば、史実における文脈のディテールを省いたり、「科学vs宗教」のような対立構造へと単純化するのは、たとえそれがエンターテイメントの優先なのだとしても、やはり自己矛盾だろう。筆者の論旨は明確であり、説得的である。

本批評は①『チ。』を評価するためのフレーム(作品の目的、カテゴリー)を設定し、②作品において行われていることを特定し、③その一貫性や矛盾から良し悪しを語る、というキャロル的なアプローチを採用していて、私としても馴染み深いものだった。結果として出てきた「歪で不誠実で不愉快」という結論を否定したいなら、書き手の設定しているフレームが不適切か、記述されている作品性質が正確でないかを示すほかない。その点、書き手は無理のない前提に立って、妥当な評価を導いているように思われる。

書き手も繰り返し留保しているように、上述の欠陥は『チ。』がエンターテイメント作品として抜群に面白いことと矛盾しない。むしろ、抜群に面白いからこそ、欠陥は単なる不備ではなく歪さというより深刻なものとなる。このような割り切り方を知らず、作品愛に駆動されて「フィクションは面白けりゃなんでもいいだろ」と言う人は、思いのほか見当たらなかった。6〜7万字という分量に圧倒されて、下手に退けられないのだろう。ぜんぜん関係ないが、たしかに、量には圧倒されてしかるべきだ。

2022/07/21

コロシテくん改めミャクミャク様は、何度見ても強烈なルックスだ。とても国を上げたイベントの公式キャラクターとして採用されるルックスとは思えないが、そうなったからには私の常識が古かったということなのだろう。

考えてみれば、この血みどろの肉塊に目玉をたくさんつけた生き物が「気持ち悪い」のも、文化的な刷り込みでしかない。私は知らず知らずのうちに、こういう奇形を気持ち悪がらされていたわけだ。無垢な目で見れば、色合いもポップだし、やわらかそうだし、目という親しみやすいパーツがたくさんついているし、素敵な笑顔ではないか。なので、言われているほど子供を怖がらせるようなルックスではないのかもしれない。モンスターズインクにも奇形の生物がたくさん現れるが、あれらは「かわいい」ではないか。

書いているうちに認知が調整されて、ふつうにかわいく見えてきた。公式サイトの「キャラクター展開案」なんかは、不定形であることをかなり活用できているし、こうやって使うのかという意外性がある。少なくとも、東京オリンピックのミライトワみたいな、完全に置きにいったキャラクターよりだいぶ見どころがある。

2022/07/20

大学で本を買ったついでに、院生自習室でしばらく作業していた。17時で生協がしまったあとに気づいたのだが、駒場キャンパスはどこにも自販機がない。日吉は塾生会館にあったし、なんなら校内にファミマがあった。三田も中央広場の側に自販機コーナーがあったはずだ。カピカピになりながら15分ほどあちこち探し回ったが、本当にぜんぜんなかった。一体全体どういうつもりなんだ。

と、かなり激昂していたのだが、家に帰ってからよくよく考えたら、中央のミニ生協的な売店の脇にあったのを思い出した。ふつうにあった。久しく通わないうちに、私がすっかり忘れていただけだった。

2022/07/19

セブンでケンタッキービスケットのジェネリックを売っていることを知ってしまってから、毎日1袋(2個)食べてしまっている。やってしまっている。

2022/07/18

昔から音楽を聞くときにはアートワークをかなり重視していた。ジャケットがダサいアルバムは中身がよくても、なんだか聞く気になれないのだ。Al Greenなんかはたいそういい音楽なのに、アートワークが総じてダサいので、『Call Me』ぐらいしか聞かない。一方、収録されている曲の性質とアートワークの性質に一貫性があるのはうれしい。マルチモダリティというやつなのかは分からないが、視覚的なものと聴覚的なもののハーモニーは私に大きな美的経験を与えるような気がする。

2022/07/17

先日のちゃん読でかなり学びになったのは、ある概念の定義(必要十分条件の提示)をやろうとしている議論と、それの存在論をやろうとしている議論の区別だ。前者に対してはその条件は必要じゃないとか十分じゃないといった反論が意味を成すが、後者に対してはせいぜい必要じゃないという反論しか意味をなさない。類を明らかにして、種差はさておく議論(e.g.「人間は動物である」)は、この手のものだろう。なんとなく区別はしていたが、後者のプロジェクトと存在論という語が結びついたおかげで、見通しがだいぶよくなった。「ジャンルは伝統である」が十分条件になっていない、みたいな反論は藁人形論法になってしまうので気をつけたいところ。

2022/07/16

中目黒でたいそううまい酸辣湯麺を食べた。ほんとは都立大で食べる予定だったが、目星をつけていたお店のメニューが思てた感じとやや異なり、急遽探したわりには💯なお店だった。都立大でついでに買ってきたチーズケーキもねっとり重めで美味しかったし、セブンで買ったケンタッキービスケットのジェネリックみたいなやつ(これは翌日に食べた)もうまかった。講義資料作成の進捗はまずまず。

2022/07/15

意図主義と反意図主義の論争で、互いが互いを「言語モデルに依拠していて適切ではない」と言っている、奇妙な事態についての手短な解説。

意図主義が反意図主義の言語モデルを批判するときに念頭においているのは、「意図を推測しなくても、言語的慣習で意味は定まるだろう」という慣習主義だ。具体的にはビアズリー。キャロルは、このような立場では、言語的慣習のような外部装置の存在しない芸術形式(絵画や音楽)の意味を説明できない、とする。

反意図主義が意図主義の言語モデルを批判するときに念頭においているのは、「言語表現が意図を介して意味を持つように、芸術の意味も意図次第だろう」というコミュニケーションモデルな意図主義だ。印象としては、グライスを読んでいる意図主義者がよくこういう立場をとる。ガウトは、このような立場では、芸術作品が意味を持つ多様な仕方を捉えきれない、とする。

つまり、ここではモデルとされている言語に関して、「言語の意味は慣習で決まる」「言語の意味は意図で決まる」というそもそもまったく異なる前提がある。結果、慣習だけじゃダメだという意図主義者は「言語モデルじゃダメだ」と述べ、意図だけじゃダメだという反意図主義者も「言語モデルじゃダメだ」と述べる。

2022/07/14

パフォーマンス・アートを教える回だったが、ヴィト・アコンチとかマリーナ・アブラモヴィッチのエログロな作品は、どこまで講義内でシェアしていいのか悩ましい。皮膚をフックで吊り下げる、みたいなレベルになると私も見たくないので見せないが、私にとってはセーフだが生徒にとってはNGな過激さの場合、どう判断すればいいのか分からない。なんとなく、ダミアン・ハーストのホルマリン漬けされたサメはOKで、ぶった切った牛はNGぐらいのつもりで紹介している。

2022/07/13

我ながら「あれっ?」と思ったのだが、次の瞬間にはカレー屋でばくばくとナンを食べていた。まぁ、これを白米のように食べている文化圏だってあるのだから、とりたてて奇特なことではない。ナンはいくら食べてもうまい。一昨日はバターチキンカレーとエビカレーを食べたが、今日はマトンカレーとほうれん草チキンカレーを頼んだ。

2022/07/12

「適切な」芸術鑑賞に関して私がとる立場は穏当すぎて面白みがないが、「ちゃんと調べてちゃんと見る」ことだ。調べるだけで実物を見ないのはもったいないし、なにも知らずに「ただ見る」のももったいない。

それはそうと、まったく芸術鑑賞に馴染みのない人に向けてこの楽しみや興奮を共有するには、もうちょっと工夫が必要なのかもしれない。例えばそれは「まずは自由に見て感想を言ってみよう」といった敷居下げから始まるかもしれないし、まずはアーティストの面白エピソードを紹介するところから始まるかもしれない。この「まずは」が抜け落ちて、偏見を養うのは教育上問題だが、初手から「ちゃんと調べてちゃんと見る」ことを要求するのは、あったはずの興味をしばしば削ぐことになる。「適切な芸術鑑賞」というのは、すでにアートワールドに参与している人にとってのもっとうまくやる方法であり、参与するかどうか決めあぐねている人にとってはほとんど助けにならない。なんにせよ、「やるならこうやりましょう」という話は比較的しやすく、「これをやりましょう」という話はしにくい。

ところで2022/03/17ぶりに雨のなか自転車こいで帰宅した。とんでもない大雨で、誇張なしに水中を泳いで帰ってきたも同然だ。

022/07/11

腹をすかせてから、カレー屋でばくばくとナンを食べた。血糖値スパイクで眠気がとんでもなかった。

2022/07/10

AirPods Proの故障で、Apple渋谷に行った。けっこう前からザラザラ(ときには爆音のザーーッ)というノイズがあり、さすがにやってられなくて調べたら、ある時期以前のモデルにはその不具合があるらしい。持ち込んで見てもらったところ、やはりそれらしく、無償での交換となった。Appleの販売員はみなプロフェッショナルで、茶でも勧められる勢いだった。我ながらチョロいと思うが、こう満足度の高いユーザーエクスペリエンスを提供され続ける限り、私がWindowsやAndroidに手を出すことはないだろう。

2022/07/09

駒場を散歩し、ティラミスを食べた。改めて歩いてみるとずいぶん小さなキャンパスだ。そういえば一度も降りて見たことがないが、炊事門のそばにある池は一二郎池と言うらしい。本郷の三四郎池をもじったネーミングらしいが、ずいぶん安直だ。今日も結局見ることはなかった。

2022/07/08

インターネットを見ていても、心身が疲弊するばかりの一日だった。元首相が襲撃されたことに関していろんな人がいろんなことを言っていたが、共感したり反感を覚えたりしているうちに、そうやって感情的に反応しているのが自分であって自分でないような気がしてきた。「暴力は許されない」という最低限度のモラルでさえ、私のモラルなのか私というキャラクターのモラルなのか分からなくなり、誰がなにを言ってもパフォーマンスに聞こえ、どんな映像も見世物に感じられてきたので、さすがにまずいと思い、昼過ぎには一旦ネットから離れた。「ショッキングな事件を見聞きしてつらいときには、一旦テレビやインターネットから離れて」という注意喚起ですら、“お約束”の一部なのがかなりつらかった。つらい、と言いつつ実際のところ大してつらくないのもつらかった。

隣町まで自転車で出かける。ふだんは目にも止めない八百屋が当たり前のように野菜を売っていたのを見て、多少生活を回復できたような気がする。自転車屋で、ずっと破れっぱなしだったサドルを交換してもらった。

2022/07/07

ジョン先生とミーティングをした。メタカテゴリー論の論文を見てもらっているが、ネイティヴだけあってgenreやstyleに関して向こうの自然な用法を共有してもらえるのがうれしい。反例合戦は、そもそも問題となっている事物や、その言語的な扱いに関する直観が必要なのだが、非ネイティヴだとよく分からなくなることが多い。あと、styleと様式はけっこう違うことに気づいた。

2022/07/06

選挙シーズンになると毎度思わずにはいられないが、若者の投票率を上げるための「投票ついでに美味しいごはんを食べて…」「投票用紙の質感が面白くて…」「選挙はワクワクする…」みたいな言説は、とどのつまり小細工であって、それを認めないなら欺瞞だろう。若者がそれで心惹かれると本当に思っているのだとしたら、子供扱いが過ぎる。それによって促される行為(たいていは、野党候補者への投票ということになるのだろうが)にどれだけ大義があったとしても、小細工というのはやはり格好悪いものであり、子供扱いはそこだけ取ればわるさがある。コンビニトイレの「いつもキレイにご利用いただきありがとうございます」みたいなものだ。

選挙にかかわらず美味しいごはんは食べに行けたり行けなかったりするし、投票用紙の質感の面白さはたかが知れているし、オンライン投票すらできず列に並ばされるイベントはそうワクワクはしない。釣りなのだとしても、餌が貧相すぎるだろう。

2022/07/05

人にせよ芸術作品にせよ、分類するのはダメだという言説が今も昔も根強いが、そういう人たちへの嫌がらせとしてカテゴリーを研究している部分が5%ぐらいある。habitとしてbadかどうかはともかく、分類と期待が人間の世界認識のデフォルトなのだとしたら、それとどう付き合っていくかを考えたほうが生産的だろう。思うに、重要なのは期待はずれを楽しむ余裕と適時カテゴライズし直す素直さを持つことであって、はなからなにも期待しないことではない。おそらく分類はダメ派の言いたいこととは、「あるカテゴリーに固執し、ディテールを見逃してはならない」という程度のことなので、よくよく考えてもらえればこちらとの対立点はほとんどない。とにもかくにもカテゴライズとはわるいものなので、あらゆるカテゴライズを拒め、みたいなモードを推し進めるほうがよっぽど弊害が大きいと思う。作者の死もそうだが、そうやってナイーヴなままに尖っていくムーヴに、なにか名前がないものか。

2022/07/04

先日の講義でアプロプリエーション・アートを教えながら、ポピュラーカルチャーにおけるパクリについても生徒たちの意見を聞いてきたのだが、「作風をパクるのはNGか」という問いに対して、「作者本人に許可を取ればOK。勝手に商業利用するのはNG」という線引きの人がかなり多かった。

私はあまり共感しないが、それはともかく考察ポイントはいくつかある。

ふたつ目なんかはなるほどなぁと思った。

2022/07/03

ちょっと歩いたところでずっと大規模な工事をしていたが、今日見に行くとでかい道路ができつつあった。目黒通りまで貫通する予定らしい。なんだかストーリーを進めたことで、前まで使えなかったショートカットが使えるようになったという趣だ。生活の動線としては、塾まで行くのに狭苦しい商店街を走らなくて良くなるので、わりと期待している。

2022/07/02

お寿司DAY。今回はたいそうお腹が空いていたのでばくばくと食べた。行きつけの店舗、数年前にできたばかりでいつ行っても空いてるのがhappyだったのに、いつのまにか行列店になっていた。待ち時間でぷらぷら本屋を見れたのでそれはそれでよかった。

2022/07/01

遅ればせながらトム・ヨークらのThe Smileを聞いているが、尖ってるのにめちゃ聞きやすいアルバムでびっくりした。いくつか書かれているのを見たが、最近のUKジャズ〜ポスト・パンクとも呼応するような曲が多くて、「面白そうじゃん、俺らも混ぜろよ!」な趣がある(Sons Of Kemetのドラマーが入っているのでそりゃそうだが)。それが大御所の「やってみた」感にとどまらないのは、いつもながらトム・ヨークの歌声によるところが大きいのだろう。パンクやマスロックっぽい音(どれもblack midiがやってそう)が目立つが、トム・ヨークがファルセットで歌うとぜんぶトム・ヨークになる。私は前半終盤のThe SmokeThin Thingみたいなタイトな音がとくに好きだし、ちょうど折返し辺りにOpen The FloodgatesFree In The Knowledgeというグッド・メロディな弾き語り曲が配置されているおかげで、構成としてだいぶと安心感がある

2022/06/30

今日の講義で簡易的にとった投票では、「批評は①作者の意図を踏まえるべき、②鑑賞者の自由である」の比率が6:4で、「倍速鑑賞は①あり、②なし」の比率が7:3だった。僅差ではある&前後の話でやや誘導してしまったところがあるが、今の大学生たちはどちらかというと作者を尊重するが、どう鑑賞しようが人の自由なのでとやかく言う気はないし言われたくない、というのがデフォルトなのかもしれない。割と予想通りの比率にはなったので、秋学期でも同じ質問をして、サンプル数を増やしたい。

しかしこう、ネットの人にせよ生徒たちにせよ、「映画を倍速で見ることのなにがわるいのか」をただちに「人に迷惑をかけていて、咎められ、差し控えるべき行為なのか」という問いでとってしまうのは問題だと思う。こちらの問い方にも問題があるのかもしれない。きっと、「わるい」という言葉がわるいのだろう。欠陥、不備、至らなさ、不適切さあたりで言い換えたほうが、議論のポイントが伝わりやすいかもしれない。とはいえ、実際の選択や規範を脇において、ある行為のわるさなり不適切さを語るというのもおかしな話ではあるので、そこを切り分けて考えている哲学者のほうが変なのかもしれない。

2022/06/29

掘り出してきた『どうぶつの森 e+』をポチポチしていたが、初対面からオラオラと乱暴な言葉づかいで、始終不機嫌な狼がいて腹立たしかった。私がなにをしたというのか。きっと、小学生なんかはこういうキャラクターをキャラクターとしてすんなり落とし込めるのだろうが、私は変に人と人のコミュニケーションを求めてしまったせいで、腐れ狼の態度に対する閾値が低すぎたのだろう。近所の温厚な雌羊が「言葉づかいは乱暴ですけど、本当はやさしいんですよ」とか言っていたが、乱暴な言葉づかいがevilであることに変わりはないし、おまえ羊が狼にそんな油断してていいのかよとしか思わなかった。明らかに私がどうぶつの森に向いていないのだが、件の狼が不快であることに変わりはないので、つきまとったりアミでしばいたりして、早めに引っ越してもらおうと思っている。

2022/06/28

アメリカンプレスで水出しコーヒーを作るのにハマった。なんでいままでこの用途に気づかなかったのかというぐらい快適にgood vibesなコーヒーを獲得できる。注ぎ口だけ空いてて困るので、キッチンペーパーを詰めている。

2022/06/27

ちゃん読で昨日の日記の話を松永さんとお話し、ウォルトンの言う可変的特徴に関して学びを得た。芸術のカテゴリーは標準的/可変的/反標準的な特徴のセットと紐付けられているが、可変的特徴はさらに、そのカテゴリーにとって美的に関与的なパラメータと、どうでもいいパラメータとで区別がある(あるいはグラデーションをなしている)。ホラーにとって標準的でも反標準的でもない特徴のなかに、ホラーの事例としての特殊性(個性や、その作品ならではの工夫)につながるようなパラメータとそうでないパラメータの区別があるわけだ。すると、概念の抽象度を落としたときに起こることは、①可変的特徴が標準的ないし反標準的特徴として振り分けられるというのに加え、②可変的特徴の重み付けが変わることで、一部のパラメータが強調されるというのもあるのだろう。

あるいは、「可変的特徴」を美的に関与的なものに限定するならば、そもそも特徴群はカテゴリーに従って標準的/可変的/反標準的/美的に関与的でない特徴の四つに振り分けられることになる。この場合、概念の抽象度が落ちると、可変的特徴は“増える”ことになる。重み付けで考えるか、線引きと増減で考えるかは好みだが、この辺をウォルトンがどう考えていたのかは気になる(細かく考えていない、という可能性はそれなりにあるが)。

2022/06/26

松永さんのエントリーを読んで考えていたが、概念(カテゴリー)は抽象度を落とすと、可変的特徴だったものが標準的特徴か反標準的特徴のいずれかに振り分けられて減っていく、というイメージがいいのかもしれない。あるレベルのカテゴリー、例えば〈ホラー〉は一連の標準的特徴反標準的特徴を持ち、それ以外可変的特徴において事例の差分が比較される。そのサブカテゴリー、例えば〈ゾンビ・ホラー〉は、なにを表象するかという可変的だったパラメータを「ゾンビを表象する」という標準的特徴として固定することで、可変的特徴を減らしている。〈ゾンビホラー〉の事例たちは、残った可変的特徴において、それぞれの個性を発揮することになるもっとも抽象度の低い絶対的にdeterminateなカテゴリー、すなわち〈ある個物aと同一である〉というカテゴリーは、aが持っているあらゆる性質を標準的とし、aが持たないあらゆる性質を反標準的とするため、可変的性質がまったくない。determinableとdeterminateの区別は前からよう分からんかったが、こういう理解の仕方があると知って自分もかなりすっきりした。

ややこしいのは、数学に出てくるような概念(例えば、四角形>台形>平行四辺形>長方形>正方形)とは違い、芸術カテゴリーのような類は標準的特徴を論理的な必要十分条件として期待できない点だろう。ウォルトンもそう考えたように、標準的特徴や反標準的特徴は芸術カテゴリーのメンバーシップにとって論理的な条件にはならない。そうなると、カテゴリーの階層関係だとみなされているものを下る際に、可変的特徴の振り分けが行儀よくなされるとは限らなくなる。〈ホラー〉のサブカテゴリーを下っていくと、どこかの段階で、〈ホラー〉としての標準的特徴を可変的ないし反標準的特徴として持ったり、反標準的特徴を可変的ないし標準的特徴として持つようなサブカテゴリーに出会うかもしれない。上位概念と下位概念同士がきれいな入れ子になっておらず、はみ出していることがあるのだ。それはもっぱら、芸術のカテゴリーが細分化されたコミュニティやそのメンバーたちの信念によって成立する、社会的な面を持つことに起因するのだろう。厳密に正方形であることは厳密に四角形であることを含意するが、厳密にフリー・ジャズであることは厳密にジャズであることを含意しない。階層関係がなあなあであることは、芸術のカテゴリー(というか、社会的なカテゴリー一般)考える上でかなり面白ポイントだと思う。

2022/06/25

近代美術館でゲルハルト・リヒター展を見て、日比谷のTOHOで『ベイビー・ブローカー』を見た。その前後でミロンガ・ヌオーバに行ったり眞踏珈琲店に行ったり牛カツに行ったりしたので、盛りだくさんの土曜日だ。激暑で移動がしんどかったが。

リヒターは、フォト・ペインティングと写真の上に絵の具載せるシリーズがバキバキに良かった一方で、抽象画はどれもそんなに興味がなかった。出展作品のけっこうな部分を占めるアブストラクト・ペインティングは、何個見たって同じだろうとやさぐれそうになる。私がリヒターに期待しているのは、絵画と写真を脱構築するような、モダニズムの歴史と不可分の作品であって、その期待が先走りすぎたのかもしれない。大きいキャンバスに巨大なへらで絵の具をベチャベチャ塗る作業は、画家にとってよほど楽しいのだろうが、そういうアナログな楽しみに留まっている印象を受けた。

『ベイビー・ブローカー』はそこそこだったが、映画館で映画を見る楽しみがおおいにあったのでOK。シメの串カツ、うまかった。

2022/06/24

今回の健康診断で、コロナ禍に入ってから1cm身長が伸び、7kg増量したことが明らかになった。もともとBMIが基準値を下回っていたのでこれでようやく標準体型ということになるのだが、どこから7kgもやってきたのか。数年前の身体に7kgのおもりをつけて生活していると考えると、これは結構たいしたものだ。

2022/06/23

〈他所で書いたものと一貫しているかは分かりません〉という文言がふと頭に降ってきて、すっかり気に入ってしまった。物書きするたびにこの注を入れておきたいし、Twitterのプロフィールなんかにも掲げておきたい。首尾一貫性が美徳であるのはその通りだが、現代の文壇に必要なのは矛盾を認める寛容さと、手元の議論だけを相手取る公平さだろうとつねづね思っている。死んだ後に墓石を設置されることになるとしたら(希望はしていないのでその可能性は低いのだが)この言葉を刻んでもいいかもしれない。死という結果は、おそらく私が生きているうちに書くことになるどれかしらと矛盾するものであろうから。

2022/06/22

私がはじめて美学という学問に触れたのは、三田で履修した西村清和先生の美学講義だ。あの講義はすごく感じがわるかった。西村先生は大学生に(慶應生に?)よほど恨みがあるのか、教室の前方2列ぐらいにしか届かない声量でぼそぼそと喋り、資料も板書もなく、デュシャンの便器がアートかどうかをたらたら話していた。当時の私にとってそんな問いはまったくどうでもよかったので、結局2回ぐらいしか出席しなかった。成績評価は期末試験だけだったので一応受けたのだが、それもデュシャンの便器についての記述問題だった。ふつうに落単したが、なんの知識もない大学3年生が《泉》に関してでっち上げた文章に単位をあげない程度にはちゃんと採点しているんだなぁ、と関心したのを覚えている。過ぎたことにもう恨みはないのだが、あのとき私がどんな文章をでっち上げたのかまったく覚えていないので、どうにか答案を見れないものかと思ったり思わなかったりする。

2022/06/21

講義で現代アートを教えているが、よくもわるくも、わけわからん作品を提示して生徒を戸惑わせることが主旨となってきた。難解であることは現代アートの一部であり、戸惑うことは芸術経験においてごく基本的な反応だ。それは、なにもかも明瞭に理解したい人にとってはストレスかもしれないし、とくに試験でちゃんと点が取れるのか不安にさせるかもしれない。が、少なくとも、高校までのお勉強とは異なることをやらされているという自覚を与えることが、大学での講義にとって課題となるだろう。

2022/06/20

家でおとなしくしていた。Joseph Kosuthってふつうにコースーだと思うんだけど、なぜコスースが定訳になっているんだろう。

2022/06/19

今日も今日とて美味しいもの(ステーキランチにティラミスとプリン)を食べに行ったが、朝から喉に痛みがあり、夜には微熱も出た。

2022/06/18

鎌倉へ遠足に行った。紫陽花見頃の土曜日で激混みだったが、行きたいところはおおかた回れた。帰り際に寄ったディモンシュではオムライス、プリンパフェワッフルを欲望のままに注文し、コーヒーで流し込むと脳汁がすごかった。タイミングが合わず、オクシモロンのエスニックそぼろカレーにはありつけなかったが、あれは似たようなものを自宅で作れるのでOK。

2022/06/17

文化的盗用のわるさが実際のところよくわからない。

2022/06/16

なんとなく『リア王』を読み直していて、なぜラストのシーンにはフランス王がいないのか気になった。イングランドへの侵略戦争を、イングランドから娶ったばかりの新妻にまかせ、自身は関与しないというのはふつうなのか。それも、勝ち目のある戦争ならともかく、コーディリアらはあっけなく敗戦し、悲劇が悲劇たるラストへとつながっていく。第一幕では、地位も持参金も顧みずコーディリアを救う良識ある人物だったのに、その後は一切登場せず、最後は妻を見殺しにしているようにも読める。

そもそも、あのタイミングでフランスが突然侵略してくるのも不可解だった。一応、ひどい扱いを受けているリアを救出するというポーズで話が進んでいくのだが、合流できた後も撤退せず、イングランド軍と全面衝突となったからにはやはり侵略戦争だったのだろう。いろいろ鑑みるに、おそらく物語の冒頭からしてイングランドとフランスの関係はよろしくなく、コーディリアの縁談も多分に政治的なものだったのだろう。もし、戦争を見越して後々利用するためにコーディリアを娶ったとしたら、フランス王はいくらなんでも狡猾すぎるが、さすがに考えすぎだろうか。それにしたって、結果的にイングランドは瓦解し、一番得をしたのはフランスだ。ありきたりな推理だが、密かに得をした奴はやはり怪しいのだ。

2022/06/15

先日のちゃん読での学びのひとつは、道具的価値-内在的価値の説明打ち止め問題に関しては、われわれが日常的にそれ以上説明しない辺りで適当に打ち止めればよいのであって、究極の内在的価値までたどる必要はない、ということだ。ビアズリーは内在的価値を認めないが、それでも価値について語れるのは、そういったプラグマティズムを採用しているからっぽい。これは割と説得的な話だ。価値の話になるたび、それ以上追及される余地のない究極的価値に基礎づけを求めなければならないのはたいへんだろう。

では、内在的価値ではないにもかかわらず、快楽や幸福を説明項として使えることをなにが担保しているかと言うと、集合的信念なり、ある種の思考の均衡なのだろう。Xには価値があるという常識が、価値に関してそれ以上追及することを免じている。これは、私があまり好きではない「議論におけるジョーカーカード」たちがジョーカーカードたる所以でもある。

あるいは、価値の源泉に関してそれ以上追及すべき場面と、しなくていい場面というのがあるのだろう。それがどう区別されるのかは、まだよく分からない。

2022/06/14

中学のころはJ-POPを聞いて、歌詞を調べてはノートに書き写したり、といった作業をしていたのだが、それというのも公認で掲載している歌詞検索サイトがどれもコピペをさせてくれないからだ。当時はそんなもんか、と思っていたが、改めて考えてみると馬鹿らしい文化だ。現行の著作権は多くの点で馬鹿らしいと思っているが、歌詞に対するそれは最たるものだろう。音楽や映画の違法アップロードが、商売にとって不利益であることは明らかだが、歌詞を転載することのなにが困るのか。そして、なにか困るのだとして、コピペ不可能にすることでどれだけ保護できるというのか。ひと手間かけて手打ちすればよいのだから、個人ブログでもYouTubeのコメント欄でも好き放題に転載されている。転載されたものは当然、コピペ可能だ。

走行速度もエスカレーターの乗り方もそうだが、実際に落ち着いている均衡と、制度が定めるルールに齟齬があるケースには、なんらかのイタさがある。もちろん、イタいのは制度設計側であり、行為者側ではない。

2022/06/13

親知らず②をぶっこ抜いた。すでに勝手が分かっているものはずいぶん気楽だ。風呂にビールがNG、というのがきびしい。

2022/06/12

実家で犬と遊び、ティラミスを食べた。

2022/06/11

山下達郎がサブスクを一生解禁しないことのなにがわるいのか。

幸い、これはまったく切羽詰まった問いではない。山下達郎を聞く人は山下達郎がそういう精神性でやっていることに賛同するだろうし、山下達郎を聞かない人はサブスク解禁によってなんら利得がない。私は山下達郎を聞く人であり、また、ああいう職人気質の人が何人かいないと、世の中回らないだろうと思う。数年前に生で聞いたヤマタツは本当に素晴らしかった。

それよりも、話の流れで「サブスクは搾取だ」といった趣旨のことを述べたのが、一部の人の気に障ったらしい。あんなの使ってるリスナーも搾取の加担者だ、ぐらいに深読みして怒っているのだろう。いつものインターネットだ。ちなみに山下達郎は、自作のサブスクは解禁しないが、人の曲を聞くのにSpotifyを使っているらしい。

こう書いてみてもどこにもオチのない話だった。怒りたくて怒っている人は怒らせておくほかない。

2022/06/10

右上の親知らずをぶっこ抜いた。初診はとりあえず見てもらうだけかなと思ったが、即日で問題の1/2が解決した。麻酔のチクッは記憶していたよりだいぶ余裕があったが、力を入れてメリメリと引っ剥がす音が記憶していたよりけっこう嫌だった。私は中学のときに矯正で歯を4本ぶっこ抜き、下の親知らずをそれぞれほじくり返し、それらに際して何本も麻酔をぶっ刺したので、口内の拷問に関してはそれなりの権威だ。地動説で異端審問にかけられてもそこそこのところまでは粘れるだろう。来週の月曜に左上も抜くので、ようやく私というアバターの歯の部分が完成するわけだ。長い道のりだったし、ずいぶん課金した。

2022/06/09

コミュニタリアン(共同体主義的)な美学理論がポツポツ目立つようになり、私も広い意味でここに足並みを揃えていると思うのだが、共同体の価値や規範の話を聞いただけでうげっとする気持ちは私にもある。イメージが悪いのだ。理念としてのcommunitarianismは全体主義も共産主義も含意しないと分かっているのだが、直観はどうしてもそこに滑り坂を見て取ってしまう。共同体の中でポジションを持つことがアイデンティティにとって重要だとか、あるものがどういう身分を持つのかは共同体次第だとか、私にとっては当たり前すぎるほど当たり前なのだが、他方で、うるせぇ自由意志だ!というふつふつ湧き出るものもある。シラー=リグルの美的自由のような議論が、まさにその両立可能性を論じているのだとしても、湧き出てくる個人主義はもっと天の邪鬼で、「両立」なんて解決とみなさなそうとしない。私ならそれを「サブカル」精神と呼ぶだろう。「あなたの好きはみんなと共有できるんですよ」というメッセージはまったく的外れであり、誰も理解してくれないからこそ私にとって大切なものが、少なくともいくつかある。反快楽主義は分業なのだという割ともっともらしい前提に立てば、こういった特殊な価値づけを説明する理論もひとつはあったほうがいいだろう。

2022/06/08

久々にホットサンドを食べたが、BASE BREADとは格が違った。後者はもう一年ちょいちまちまと食べてきたが、いい加減飽きてきた。栄養があるのは確かなので(確かなのか?)、3食に1食はこれにしようかというぐらいの気持ちではいる。

2022/06/07

昨日の日記で愚痴ったことから勇気を得て、今日はスーパーに行ってきた。タコライス、ビビンバ、焼き肉漬け、サルサホットサンド、トマト卵炒め、きゅうりのにんにくポン酢漬けなどの食材と、サッポロ一番みそラーメンを買うてきた。8000円ぐらいしたが、私の計算では15〜20食はこれで回せるはずだ。米とビールは買いきれなかったのでバイト帰りに買ってきたが、5kg+2kgちょいは「重い」ということを見逃しており、帰り道が筋トレとなった。

2022/06/06

先日の意図WSでの村山さん発表に関連して思いついたことだが、創造的行為における「意図の明確化」という現象は、私の場合、昼食の選択において最も頻繁かもしれない。ほぼ毎日のように作業しすぎでランチタイムを逃すのだが、15:00ごろになると空腹にもかかわらず、自分がなにを食べたいのか自分でも分からないゾーンに入ってくる。そして、Googleマップを開いて行きつけの店を吟味し、コンビニ弁当という妥協案を検討し、どれもこれもピンとこないうちに不毛すぎる30分が過ぎていく。

この場合も創作行為と同じように、何が失敗なのかは、すなわち何を食べたくないかははっきりしている。ある選択肢が目に止まっても、それを口に入れることを想像した途端、生理的嫌悪感に「蹴られる」のだ。そして、これだと決めてアクセスしても、本当に「それ」だったのかは舌で批評するまでは分からない。失敗によるコストはたいして大きくないのでさっさと妥協してしまったほうが時間の節約になるのだが、私の「その瞬間もっとも食べたいものを食べたい欲」がそうさせてくれない。

これはなにかのパラノイアかもしれない。梅雨が始まったので、昼食選択の問題はより一層深刻になる。明日も明後日も明々後日も「何を食べようか。あれでもないこれでもない」という時間を迎えると考えると、ちょっとしたホラーだ。

自炊のいいところは、ひとつには作り置きしてしまえば、日持ちという制約が選択をシンプルにしてくれる点だ。よく日記で愚痴っているが、実のところ私は時折のカレー地獄に感謝している。その週は、食べたいもの探しという認知的課題をサボれるのだ。しかしこれは、売れ線の作風で量産するアーティストと同じで、創造的ではないし、自己欺瞞ですらあるかもしれない。

2022/06/05

ズーラシアに行ってきた。目当てはヤブイヌだ。野毛山ぐらいの規模感を想定して行ったらだいぶと広くて、閉園時間ややオーバーでどうにか一周回れた感じだ。雨予報は回避できたが、どうもアニマルたちにはオネムな日だったようで、おとなしめの子が多かった。オランウータン、オットセイ、ライオンは迫力があったし、チーターはすごく近くで寝ててもふもふだった。セスジキノボリカンガルーは園が推すだけあって、シルバニアファミリーのような毛並みが愛くるしい。ピグミーゴートはめっちゃ賢い。ミーアキャットが駆け回っていたのは大興奮だったし、犬っぽいやつ(ドール、リカオン)は総じてわれわれ好みだった。ケープハイラックスという意味不明な生き物も個性的でよかった。マレーバクがすっかり寝てたのと、カワウソが見つからなかったのは痛手だったが、カワウソは昨年の油壷マリンパークで見たのでよしとしよう。

そして肝心のヤブイヌはといえば、寝ていた……!ぐっすり!小屋の中で……。寝顔もキュートだが、やや消化不良のまま次へ。帰り際にもう一度立ち寄ったところ、飼育員さん待ちでうろちょろしているところをちょっと見れた。ぼてぼてしていてかわいい。こんなにかわいいのに、まったくグッズ化されていないのが不可解だ。

2022/06/04

作者の意図を再訪するワークショップをしていた。内容的にはだいぶ余裕を持って準備できた発表だった。原さんは、仮説意図主義と現実意図主義が実のところかなり似通った立場であることを、村山さんは、制作における意図のあり方はもっとダイナミックであることをそれぞれご発表されていて、どちらも個人的に同意できる内容だった。

「作者の死ガー」な現代思想ヤクザはいなくて始終快適な回だったが、逆に言えばそういう尖ったスピーカーもオーディエンスもおらず、分析美学の作法と議論史をふまえた人たちのクローズドな会になったのだとしたら、ちょっと残念な気もする。が、殺伐よりは和気あいあいとしたほうが気分がいいのは確かなので、難しいところだ。私は(Twitterによくいる)極端な意図主義者も極端な反意図主義者も全員論破するつもりで意気込んでいたが、全然そんな必要はなかった。

2022/06/03

「作者の意図、再訪」ワークショップに先駆けて、ラマルクの再構成した「作者の死」を読んでいた。序盤の「私が興味を持っているのは議論であって、作者たちではない」というくだりも、終盤の「authoredなテクストに統制された意味や構造を求めることと、威張りちらした権威主義の作者の復位はなんら関係がない」というくだりも、たいへん鋭くてお気に入りだ。こういう態度をとりたいと思うし、こういう態度をとる人とのみ付き合いたいと思わされる。

2022/06/02

『経済学の哲学入門』にしょっちゅうアマルティア・センが出てくるのでふと思ったが、Senだけ見るとインド人っぽさがあるし、なんならKiyohiroもヒンドゥーの神にいそうなスペルだ。ちなみにインドではサンスクリット語の「軍隊[Sena]」に由来する名字らしい。それで特に困ることはなさそうだが、そういえば銭の中国語読みのQian(あるいはChien)で活動する選択肢もあったな。

2022/06/01

なぜか私のPCは昔から重い(なぜかといいつつ心当たりは少なからずあるのだが)。今日は片っ端からいらないファイルを見つけては削除していた。とくに、中高時代にレンタルCDからリッピングしまくった音楽をごっそり削除した。一体だれがこんなもの聞くんだ、というEDMやポストロックがぎょうさんあって恥ずかしかったのは、昔の私がセンスなかったからなのか、今日の私がスノッブになったからなのか。

ふとMUSEが目に止まり、「MUSEってバンド、いたな〜〜〜〜」としみじみ感じた。ほんとうにもう7、8年はMUSEのことが意識に上らなかったように思う。みんなそうなんじゃないか。スタジオ練なんかで唐突にStockholm Syndromeのリフなんかを弾き出したらユーモアとして機能しそうだが、スタジオ練の予定はない。

2022/05/31

美的自由や自律性といったアイテムが内在的価値を持つことに対して私は懐疑的なのだが、そこには私が小論文を教えるときにしつこく念を押している「自由やら平等やらを議論のジョーカーカードにしてはいけない」と同根の問題意識がある。あまり自主的に論証を構築したことのない生徒は、しばしば主張の理由づけに際し、そういった西洋近代の一般的美徳を持ち出しがちだ(もっとひどい場合には、単に違法であることをジョーカーカードにしてしまう小論文すらある)。たしかに、哲学者のように「よろしい。ではなぜ〜」と問い続けるときりがないのだが、心のノートで仕入れたような概念で話が済むなら、はじめから問うべき問いなどなかったも同然だろう。

2022/05/30

健康診断のため、ひさびさに駒場に出向いた。もはや大学には人がほとんどいないのが当たり前だと思っていたのだが、対面授業も再開した平日の昼間はわりと賑わっていた。生協で『経済学の哲学入門』と『論証の教室』を買った。まだそれぞれ2章ほど読んだ程度だが、とくに前者は美的快楽主義や価値や理由に関して私が考えていることの整理にも使えそうな内容で、美学者にもおすすめできそうな本だ(ちょっと難しいが)。

駒場の近くにはティラミスホームメイドといううますぎるティラミス屋があり、欲望にまかせて二瓶も買って帰ってきた。

2022/05/29

日曜の渋谷はとんでもなく人が多かったが、うまいアフォガートも食べたし、シャツも買ったので収穫の多い一日だった。冬の間は夏のギラギラした感じを心待ちにしていたが、この暑さだともう冬のひんやりした感じが待ち遠しい。

2022/05/28

発表してきた。ビアズリーを対象説に親和的な立場として読もう、という内容。ツメツメでだいぶ駆け足になってしまったが、去年よりは心持ちに余裕があった。人の発表を35分聞くのはずいぶん長く感じるが、自分が喋っている分には35分なんてあっという間だ。学生は毎週私の話を90分聞き続けていることになるので、心中お察しする。

ビアズリーを対象説として読むという本筋に大きなツッコミはなかったが、統一性・複雑性・強度の身分に関する松永さんのコメントはなかなか悩ましかった。ICUがつまるところ経験において立ち現れる性質だとしたら、対象説をどう維持していくのかはちょっと考えなければならない。私個人としては、ICUがもっと実在寄りの身分を持っていることを直感しているし、仮に実在論を諦めたとしても維持可能な立場だと思う(Shelleyは実在論にはコミットしていない)のだが、理屈とセットのディフェンスはとっさには思い浮かばなかった。

ホットトピックというのもあって、快楽主義とその論敵に関する問題設定レベルでの疑問を多くいただいた。この辺はまだまだ勉強不足で、いくらか議論を単純化しがちな自覚があるので、もっと時間をかけてすり合わせたいと思っている。ひとつ、になって自覚したのは、私自身がサポートしたがっている立場を「美的快楽主義」と呼ぶのはややミスリードで、心配されやすいという点だ。2022/02/112021/09/13にも書いたように、私が考えているのは「誰もが利得に突き動かされて行為選択をしている」という、ゲーム理論の前提になるような合理主義でしかない。「ロペスやリグルのアイテムも、要は快楽につながるから規範問題に答えられるのでは」と述べるときにも、快楽ではなく利得の語を用いたほうが共感してもらいやすいかもしれない。ともかく、これは今回の発表では二次的な話題だ。

森さんコメントへの応答のなかで、思いつきで喋った対象説ディフェンスは、わりとありかもしれない。対象説は規範問題にどう応えるのかという点だが、われわれが「美的」規範と仰々しい形容詞を付けて論じている規範性は、いろんな場面でいろんな都合があって生じている、源泉も強度も種類も異なる規範性のカオスなんじゃないか。美的価値とは対象側のイケてる性質ゆえの価値に過ぎず、そういった対象への関与に義務や権利が伴うのは、セカンダリーな事情による(快楽主義も、反快楽主義も、そのバリエーションについて述べていることになる)。思うに、真であることの価値もそういうものだが、認識論はレベル0なのでとやかく言わないことにする。

2022/05/27

明日は応用哲学会なので、せっせとレジュメを切っている。減量という意味での「切る」だ。早め早めで準備を進めると、当日までに喋りたいことが増える一方なので、締め切りギリギリから動き出すぐらいが丁度いいのかもしれない。

2022/05/26

ピザを食べた。皮膚科帰りにピザを食べるのが、私のルーティンとなっている。相変わらず、サラダにかかってる謎ドレッシングがうまい。夜には激辛麻婆豆腐も作って食べた。あれもこれも作り置きのカレーからの一次逃避であり、プレッシャーは日に日に高まるばかりだ。

2022/05/25

欲望にまかせて、近所で評判のプリンを買ってきて食べた。たいそううまいが、それなりに手間暇かけたプリンは一般的にいってたいそううまいので、感動するほどではなかった。映画もそうだが、ほんとうに意表を突くような傑作はごく稀にしか出会えない。たいそううまいものを食べれる人生はすでにたいそう豊かなものだが、私は強欲なので、たまには感動するほどうまいものも食べたい。

2022/05/24

最近のロペスみたいな、可愛げのあるオリジナルタームを散りばめた論述は、好きか嫌いかで言えば嫌いだ。理由は、論文を読んでいて知らない単語が出てきたり、妙に凝っていて解釈を要するような表現が出てくるとむかつくからだ。それは思考を停止させ、なくて済んだような知的負担を読者に強いている。そして、その目的はたいていの場合、書き手の格好つけだったりウケ狙いでしかないのも、付き合いきれないなと思う。いつも述べていることだが、基本的に私は「論文」というカテゴリーにおける修辞的要素を一律憎んでいる。真水のように透明で、DeepLに流し込めば外国の中学生にも飲めるような文章を絞り出すよう努力すべきではないか。

複雑な言葉でしか説明できない事柄を複雑な言葉で説明するのはなんの問題もない。しかし、人文科学では不必要に難しい文章が多すぎる。そして、「難解さにとどまることこそが人文科学の味わいなのだ」とそれっぽいことを述べる輩がそれなりにいることは、悲惨だと思う。

2022/05/23

学部時代にはあんなに嫌々読んでいたのに、いまでは経済学の話が面白くてしょうがない。あるものを面白がれるかどうかはタイミング次第、というのは生きる上で無視できない事柄のように思う。そのときどきの偶然的なプリセットが、目下のものを面白がれるかどうかを左右し、面白がったかどうかが次のプリセットを左右する。そのフィードバックループが好循環をなしているのが、やりがいないしwell-doingのある人生というものだろう。経済学を面白がれるタイミングは私にとってずいぶん遅かったようだが、結果としてそれを面白がれるプリセットを得たことは、なんにせよめでたいことだ。

2022/05/22

倍速鑑賞の話題でとりわけ不可解なのは、「倍速で見るのは自由だが、分かった気になって批評しないでほしい」というそれなりに人気の意見だ。

第一に、「倍速で見るとちゃんとした批評はできないから、やめておけ」ということであれば、「倍速で見てもちゃんとした批評ができる場合がある」で十分差し返せる。『死霊の盆踊り』が下品なうえに不必要なダンスシーンだけで構成された駄作であること、『東京家族』が伝統的な日本家族の崩壊という主題を端正に扱い、優美な構図を練り上げた傑作であることは、4倍速だろうが分かる。速度とは関係のない作品性質だからだ。倍速だろうが、作品については多くのことを知りうるのであり、それに基づいた批評は真正で気の利いたものとなりうる。問題があるとすれば、「動きやセリフが速すぎて不自然だった」「展開のテンポがサクサクしていて良かった」のような、倍速ゆえに得ている偶然的性質を評価の理由づけとして用いるケースだけだろう。しかし、そんなことをあえてしようとする人はまずいない。

第二に、倍速否定派は前提として、隅々まで目の行き届いた、作品の良さ/悪さを余すところなく引き出した批評のみを批評として期待しているのかもしれない。「倍速で見ると十全な批評はできないから、やめておけ」というわけだ。確かに、「倍速で見ると十全な批評はできない」は認めざるを得ない。速度が関わる作品性質もあるからだ。しかし、批評に十全さを求めるのは明らかに理不尽だ。間が大事な作品の間に言及しないからといって、その作品の真正な批評にならないというわけではない。批評は選択的でいいのだ。(「倍速で見ると、真正だろうがあまり面白みのない批評になる見込みが高い」ぐらいなら、言いたいことは理解可能だ。)

第三に、「倍速で見たくせに作品の良し悪しを語るなんて、傲慢だ/ずるい/不当だ」ということであれば、情動表出以上のものではないので、言い返せることはない。「作品に対する誠意のない人とは付き合いたくない」というのは、誠意の基準について対立しうるが、十分に理解可能だ。そのようなことを言う人は、作品への愛が強すぎるので、そもそも批評を嫌っている見込みが高い。実際、倍速で見ただれかが作品についてとやかく批評したところで、上のような見解の人にとって実質的な損害はなにもない。しかし、愛は功利主義では説明できそうにない。

ということで、「倍速で見るのは自由だが、批評はダメ」という線引きを持ち出すのは悪手であり、無根拠であるか単にお気持ち表明であることがほとんどのようだ。倍速によって取りこぼされる重要ななにかがあるとすれば、それは知覚・経験のレベルにあるのであって、批評云々はぜんぜんまったくなんの関係もない。

2022/05/21

キャロルの「Forget Taste」(2022)を読んだ。基本的には「Art Appreciation」(2016)の話を趣味概念の批判として再構成したもので、特に新しい話はしていないが、詳細な説明が加えられ分量は倍ぐらいになっている。キャロルのアプローチには全面的に同意できるわけではないが、私にとっては何度も立ち返るデフォルト理論となっている。

キャロルによれば趣味概念は(たいてい理想的批評家が基準となるような)快楽概念と結びついたものであり、ラフに言えば作品を好むか嫌うかの問題だ。実際になされている芸術批評は明らかに好き嫌いや快楽の問題ではないので、趣味概念はいらないというわけだ。この点、キャロルは芸術的価値に焦点を合わせているものの、最近の反快楽主義と同じ方向を向いている。アートワールドにせよ美的生活にせよ、価値を快楽で一元的に説明するにはあまりに多様なのだ。キャロルの主張は、美的経験を快楽や価値ある経験に訴えず定義する内容アプローチとも一貫していて、ざっくり要約すれば、クールな芸術批評を推し進めたい人なのだろう。キャロルの師匠筋にあたるディッキーもそういう論者だった。

キャロルは代替案として、作品の構成的目的およびこれを実現する手段に基づいた、趣味ナシ評価を好んでいるが、「美しさや優美さを追求する」のような目的を持った作品はどうするのか、という反論は気になっていた。今回読んだ論文では面白いことを述べており、曰く、美的性質の検出にも趣味は必ずしも必要ではないとのことだ。これはシブリーの前提と真っ向から対立する見解のように読めるが、はっきり決着がつけられているわけではなさそうだ。おそらく、美的性質(美しさや優美さ)を検出する心理的プロセスが、なにかを好んだり快楽を感じるような心理的リソースと不可分であるかどうかが争点なのだろうが、この場合、ときにはそうでないと述べるキャロルに対し、つねにそうだと考える趣味論者のほうが不利にはなるだろう。キャロル的にはたいていそうではない、ぐらいの主張をすることがフェアだと思う。

別の話として、「好き嫌いはともかく──」というスタンスを広めることが、アートワールドや美的生活を豊かにするのかは分からない。「『死霊の盆踊り』は大傑作であり、大好きだ!」という人を捕まえて、「お好きなのはおおいに結構だが、駄作なのは認めてください」というのは、いかがなものか。それは客観世界のより正確な表象を手助けしている点では認識論的に美徳があると思われるが、当人の経験世界を否定している点ではふつうにハラスメントだろう。必要なのは、教育する側のケアなのか、教育される側の割り切りなのか。これもよく言われる(真偽不明の)話だが、西洋人は「好き嫌いはともかく──」に慣れており、日本人はもっと感情的な尊重を求める、という背景もある。どちらのスタンスが人生を豊かにするのか、なんていうのはでかい話すぎて私には分からない。

2022/05/20

近所のフランス料理屋で食べたパプリカの冷製スープとチーズパンが美味しかった。家の近くに小洒落た店がいくつかあるのは、東京に住む利点のひとつである。

2022/05/19

美的なものを考える上でappreciationを中心に据えるのは狭すぎ、という(最近よく聞く)見解は、実のところ話題を変えてしまっているのではないかと思う。少なくとも私には、アジェの写真を収集・保存する営みと、アジェの写真を鑑賞する営みが同種であり、包括的な説明を要するというのがいまいち飲み込めていない。美的な生活の多様性を強調するのは結構だが、美的なものへの関与と美的関与を混同してはならないだろう。あるいは、混同しているわけではなく、意識的に話題をシフトさせようとしているのかもしれない。

少なくとも私の関心はダンス教室やスケボーや洋服選びより、芸術鑑賞や批評にある。

2022/05/18

あらゆる学問は意義があるという前提のもとで、しかし中高生の貴重な時間をとって学ばせ、受験で競わせるのは不当だろうという科目はいくつかある。個別の評価は人それぞれだ。私にとって不当なそれは古文漢文であり、別の人にとっては三角関数だったりするのだろう。

まず、教育を設計する側が怠惰であり、これまでやってきたことを見直したり修正するのを面倒がっているせいで、優先順位の低い科目を教え続け、優先順位の高い技量を教えていないというのは、紛れもない事実だろう。必要に迫られて古典を紐解いたり、三角関数を用いた計算を行う人は、正味な話まれだろう。その辺を過大評価している人は、単に世界を誤表象している。また、まれであることを暗に認めた上で、それが重要となる個別の場面を列挙し、「ほら、必要知であろう」と示そうとするのも悪手だ。争点はいずれにしてもその優先順位が低いことにあるのだから、まれに役に立つことを示されても不毛なのだ。

そうは言っても保守は人間にとって自然なシステムなので、「Xはいらない」式の議論を精緻に展開し、改革につなげることはたいてい無理がある。だいたいそういうのは「XよりYのほうがいらんだろう」と脱線していったり、個人の思い出話に流れたり、果ては教養をめぐる人格攻撃合戦に転じるので、救いがない。理不尽を押し付けられるのは中高生なので、どうにかならないものかとは思う。

2022/05/17

ガクシーンの応募資格を誤解していたせいで、朝から方方に問い合わせ、頭を捻り、一日が終わった。それでなくても私は雰囲気で博士に属しているようなところがあるので問題だ。反省した。

2022/05/16

ちゃん読でビアズリーの美的経験論をちゃんと読んだ。来週末にはビアズリーについて発表する予定であるにもかかわらず、ビアズリーのことがますますわからなくなってスリル満点だった。

美的快楽主義といえば、美的価値を美的経験から説明するビアズリーが代表だと思っていたのだが、どうも後期のビアズリーは「美的経験≒美的な性格を持った経験」を快楽には還元したくないそうなのだ。踏み込んだ説明はないので、実のところ美的経験(≒美的楽しみ≒美的満足)=快楽の一種だと考えるのが無理なく整合的なのだが、どうなのだろうか。快楽じゃないとしたらなんなのか、そのことは規範問題をどう説明するのか。

2022/05/15

今年もせっせと学振を書いている。学振に受かるとうれしいことのひとつは、向こう2年は学振を書かなくていいということだ。

2022/05/14

中華を食べに行ったら平日しかランチをやっていなかったので、近くにある別の中華に行った。カサゴの唐揚げに甘酢あんをかけたものを初めて食べたが、THE中華料理といった感じの味付けで美味しかった。

A WORKSは、7年前に行ったときには古民家風の落ち着いたお店だったが、いつの間にか移転し、行列のできる映えカフェと化していた。テイクアウトしたチーズケーキはしっかりうまかった。

中目黒にあるバカ高ジュース屋さんにも行ってきた。さすがにかなり美味しいジュースだったし、お店の向かいにあるペットサロンでパピヨンとテリアの子犬がじゃれていたのでかなり得をした。

2022/05/13

なんで新譜に収録されていないのか謎だが、ケンドリック・ラマーの「The Heart Part 5」はヒップホップについぞハマれたことのない私にとってもかっこいいトラックだ。すごいすごいとは何年も聞かされてきたが、ようやくケンドリック・ラマーを聞き始めるきっかけを得た気がする。それにも増して、マーヴィン・ゲイの『I Want You』を聞くきっかけを得たことがラッキーだった。『What's Going On』『Let's Get It On』ばかり聞いてたが、アルバムとしては『I Want You』が一番好きかもしれない。

2022/05/12

アンディー・ウォーホルのマリリンが20世紀の作品としては史上最高額で落札されたというニュースを授業で紹介した。ついでにちょっと前のサザビーズの話もしたが、アンケートをとったところ、ウォーホルのマリリンよりもマグリットの《光の帝国》が欲しいという人が倍ぐらいいた。純粋にインテリアとして考えるなら、マグリットのほうが色も落ち着いているし、ちょっと風変わりなのも「アート」な感じで好まれやすいのだろう。どでかいマリリンの肖像画なんてけばけばしくて趣味が悪いと思われているのかもしれない。

2022/05/11

均衡したルールというのは怖いもので、一旦定着してしまったからには、そこから逸脱する人に対してオートマチックに反感を抱かせる。具体的には、マスク生活がデフォルトになってしまった今、隙あらばすぐマスクを外したり、なにがなんでも鼻だけは出しておきたい人を見ると、なんてわがままで非常識な人なんだろうと、とっさにそう思ってしまう。実際、そのような反感は自分への健康リスクに基づいている点では合理的であり、またノーマスクを推進する人のなかにはやばめの人が相対的に多めである点でも合理的なのだが、全面的に合理的とは言えない。いまさらマスクを嫌がるのは単に忍耐力の欠如であり、そういう輩はどうせ他の場面でも短気でずぼらで自民党支持者なのだろうと思っているうちは自分へのリスクなど考えておらず、相手の品性を勝手に裁断しているだけなのだ。お腹が空いていたり天気が悪いときには、私もすぐそういう思考モードになってしまう。もしかしたら彼/彼女らには呼吸器系の疾患があり、マスクをつけ続けると危険なので、人に迷惑をかけないタイミングを必死に探して、申し訳無さとともにマスクをずらしているのかもしれない、という風に想像力を働かせることは容易ではない。

それはそうと、空気を気にすると言われがちな日本人が、一度定着してしまったマスク生活からはたして脱却できるのか、なにがきっかけで脱却するのかは、社会科学的に大注目の事象だろう。私は本当にどっちでもいいのだが。

2022/05/10

ミュージカルの「突然歌い出すのがきしょくてイヤ」問題は、作品をミュージカルというカテゴリーで見ておらず、突然歌い出すことのない作品をも含むより一般的なカテゴリー(映画)で見ているから、というのが無難な答えになるだろう。リアリズムとして期待しているからだという説明だと、それは単にカテゴリーミステイクだという話になるのだが、より一般的なカテゴリーとして期待する分にはカテゴリーを誤っているわけではない。稀な可変的特徴にうまく反応できていないだけだ。能やオペラはそのカテゴリーに精通したマニア向けであり、それらを含むより一般的なカテゴリー(舞台芸術)のもとで見られることが相対的に少ないのだろう。ミュージカルは、ミュージカルを期待しておらず単に映画を期待している人が見るからこそ、きしょくてイヤという評価になることが相対的に多くなる。

それだけではない。そもそもの話として、人が突然歌いだしたり踊りだすことを標準的特徴としているカテゴリー自体が馬鹿げている、という見解のミュージカル嫌いもいるだろう。これはカテゴリーのもとでの評価ではなく、カテゴリーの評価だ。その人は、人が突然歌いだしたり踊りだすのを見聞きすることが愉快であったり、あるいは人生にとって有意義な経験であることを飲み込めていないだけなのだ。この場合、「突然歌い出すの不自然だ」とか言う必要はなく、それはそれでそれとして自然なことだが、だからなんだという話になる。このようなミュージカル嫌いは、ジェットコースター嫌いやホラー嫌いと同類であり、対立は人生において求めているもののレベルにあるので、説得の余地も必要もない。

2022/05/09

批評の中心は解釈か評価かというちょっとした話題があり、ダントーは前者推しキャロルは後者推しなのだが、解釈にせよ評価にせよ(そして記述やら分類やら分析にせよ)、現になされたりなされなかったりするような作業のどれかひとつだけが中心なのだ、と言ってなにを言ったことになるのかいまいち分かっていない。「解釈なし評価」「評価なし解釈」の一方だけが批評と呼ばれるに値するとして、どちらがそうなのかという点で対立があるのだろうが、美学者が「批評とはこっちだ」と言っても仕方がなかろうし、そういう物言いをするから疎まれるような場面もあろうと思ってしまう。

「たいていの評価には解釈が伴う」「たいていの解釈には評価が伴う」「たいていの解釈や評価には○○が伴う」といったテーゼを立てるのは、まだ面白くなりようのある論じ方だろう。

2022/05/08

カレー屋さんに行ったらクリームのダックスちゃんがいてお得だった。アイスクリーム屋でアフォガートも食べた。

2022/05/07

不道徳なアーティストのキャンセリングはほとんど意味がないどころか、美的エイジェンシーとしての自律性を脅かし、芸術作品による豊かな経験を没収するだけなのでやらなくていい(やらないほうがいい)という議論をMary Beth WillardがWhy It's OK to Enjoy the Work of Immoral Artistsでしている。思うに、そのようなキャンセル観は、利他的なキャンセルを想定しており、利己的なキャンセルを見逃しているのではないか。ボイコットが制裁としてほとんど有効な手段でないというのはその通りだろうが、なんでもかんでも粗を探してキャンセルしようとする類は、実のところ社会正義実現のための制裁にほとんど興味がないのだろうと思うときがある。キャンセラーにとって重要なのは正義ではなく正義感である。自らが道徳的に無誤謬であり、立つべき場所に立っているという感覚を得るためにキャンセルという身振りするのだとしたら、それが実用的に不毛だと言われても止まるわけがないだろう。むしろ、彼彼女らは、エイジェンシーとしての自律性のためにこそキャンセルを行うのだ。もちろん、寄り添うべき側に寄り添っている感覚、と言い換えればいくぶん温かみのあるものではあるが、利己的なインセンティブであることに変わりはない。そして、そのインセンティブは単にしばしば美的に利己的なインセンティブを超える、という話だ。それは全体としては、合理的な判断と言わざるをえないと思う。

もうひとつには、2022/04/29の話だが、美的価値と道徳的価値は比較しようがなく、加点減点で前者が大きければ鑑賞してよいなんていうことにはなりようがない。

さて、では不道徳な芸術家の作品をエンジョイするにはどうすればいいのか。ひとつには、自らがエイジェンシーとして自律的でも無誤謬でもなく、しばしば無意識に加害者であり、搾取する側であることに開き直る、というオプションがあるだろう。私にはそれがほとんど唯一の選択可能で、現に選択されている態度だと思われるのだが、誰もそんなヒールではない、そんな態度を公言するヤツこそキャンセルしてしまえ、という社会に向かっていくのは、まずもって欺瞞だし、ひどくグロテスクだと思う。

2022/05/06

実家の庭でバーベキューをした。両親の選ぶ肉は、脂肪分が高すぎて一家誰も得をしないがちなのだが、おそらくは部位やら産地やらを吟味するのが億劫なのだろう。とりあえず高い国産ものを選んで買う結果として、毎回脂肪分の高すぎる肉が食卓に並ぶ。私はアメリカ産の豚バラにタレびしゃがけでよい(がよい)のだ。焼肉屋に行っても、とりあえず特上カルビばかり頼むので、ハラミや豚タンの美味しさを知ったのは大学に入ってからだ。なんにせよ、一人暮らしで牛を摂取することは稀なので、油にまみれながらばくばくと食べた。母が唐揚げ用に漬け込んでいた手羽先を即席で焼いたやつは、かなり美味しかった。

2022/05/05

キャベツを一玉買ったが、紙袋に入らなかったので素手で抱えて持ち帰った。

2022/05/04

友人の赤ん坊を見てきた。ちょうど今月来月で二足歩行を習得しそうな段階で、いちいち勢いのある一挙一動が一同大注目のパフォーマンスと化していた。私のメガネが気に入ったらしく、執拗に付け狙われた。ただ動き回り、積み上げたものを破壊し、ティッシュを引き抜きまくるだけで周囲を笑顔にしてしまうのだから、赤ん坊はすごい。

2022/05/03

ねぎしの牛タンを食べた。あの米をかっくらうためだけに設計されているセットが、本当に好きだ。しばらく食べていなかったが、ねぎしも寿司ぐらいの頻度で食べたいもののひとつだ。

2022/05/02

東京都美術館で、スコットランド国立美術館展を見た。先日のメトロポリタンに比べたら、よく知らない画家が多くて学びが多い。ベラスケスとゴーギャンがたいそう良かったが、ナビ派の画家エドゥアール・ヴュイヤールを知れたのがかなりお得だった。どこかで聞いた名前だなと思っていたら、Abell (2009)が事例として作品を挙げていたのを後で思い出した。

上野に行くのもずいぶん久々だ。カヤバ珈琲のサンドイッチとルシアンは相変わらず美味しかったし、初めて頼んだアフォガートも絶品だった。今年の夏はアフォガートを食べまくる夏にしたい。

2022/05/01

東京タワーの台湾祭に行ってきた。雨で屋根のある席が大混雑だったため、難民祭になりかけたが、どうにかこうにかじゃんじゃか飲み食いできた。ビーフンと胡椒餅が美味しかった。ずっと台湾のちゃちーポップスが流れているのがかなり屋台感があってよかった。

2022/04/30

ダントー『アートとは何か』を読んでいたら、マネの画面手前にギチギチに詰まった空間は写真の影響だという話が出てきた。遠くから望遠レンズで撮ると、本来は離れているものが密着しているように映る。野球中継や江島大橋みたいなやつだ。《皇帝マキシミリアンの処刑》が異常に近くから発砲しているように見えるのも、写真からの影響らしい。また、マネ独特のグラデーション処理のないベタ塗りも、写真の効果を真似ているとか。真偽は定かではないが、そうだとすると従来とは異なるモダニズム観が得られて面白い。写実主義のプロジェクトを写真が最終的に終わらせて、絵画は抽象へと向かっていった、というのがよくある説明だろう。しかし、ダントーが正しければ、マネはむしろ絵画による写真の模倣を通して、結果的に奥行きのない画面へと接近していったことになる。絵画におけるモダニズムは、写真からの離反ではなく、写真への接近に始まった、というのはびっくりだがわりと腑に落ちる話だ。こういう話ばかり聞きたい。

2022/04/29

『ゴールデンカムイ』まわりの「センシティブな主題を中立的かつ誠実に描いている」という道徳的期待は、度を越していてきついと常々思っている。『ゴールデンカムイ』がアイヌ文化に対して誠実なものかどうか、私には判断できないし、当事者か専門家でもなければたいていの人には判断できないだろう。あの暴力だらけの殺伐とした漫画に、なおかつ文化への道徳的な期待を寄せるのはあきらかに相性がわるいし、なんらか疵瑕が見つかるのは当然といえば当然だ。そもそも道徳的かどうかをゼロイチで判断するほうが変なのだが、(前に勉強会でも話題に上がったように、)道徳的価値というのは加点減点方式ではなく、ひとつでも深刻な欠点があると−∞に落ち込むような、ヤバすぎる領域なのだろう。「良いところもあるし、悪いところもある」というのはほとんど任意の事物に当てはまる真理なのだが、そう言わせない雰囲気がある。どうにかしようという話にはなりようがなく、どうにか凌ごうという話にしかならない。

2022/04/28

今日の講義で、学生から「Zoomでの講義映像がVTuberの配信みたいで面白い」というコメントがあり、ちょっと嬉しかった。実際、VTuberではないが、顔出しのゲーム実況などにインスパイアされた講義形式で、スライドをバーチャル背景にする機能を使っている。まだベータ機能らしいが、それなりに見栄えがいいので、今後の学会発表などでも使っていきたい。私はもう勉強会ですっかり慣れてしまったのだが、そうでない人にとって、顔の見えない相手の声だけを聞き続けるのは、やはり苦痛を伴うのだろう。実際、生身の肉体であるところの顔である必要はそんなにないので、アバターを用意して喋るのも割とありなのかもしれない。

2022/04/27

ハウスダストにまみれながらコタツをしまった。日記によると、出したのは11月半ばなので、半年そこにあったわけだ。なんとなく、冬の間の3ヶ月ぐらいしか出していない印象があったので、年に半分はコタツが出ている、という事実にはちょっと凄みがある。いろいろと片したら、部屋がずいぶんすっきりした。コタツは温かいが、美的にはないほうがいい。

2022/04/26

映画は1960年代フランスとイタリアの白黒モダニズム映画しか見ないとか、美術館行ってもポップアートの部屋は避けるとか、両思いの女の子の家に行ったらダサい音楽をかけられて萎えたとか、Bence Nanayのスノッブエピソードはたくさんあって面白い。見た目も相まって、私のなかでは狩野英孝的なキャラクターなんじゃないかと思っている。

ナナイの立場は、私の理解ではもはやピュアな快楽主義者なのだが、ポイントはむしろ理想的鑑賞者説へのアンチにあるのだろう。理想的鑑賞者説が、おのおのの主観的な経験を超えてものの客観的な価値を規定するためのアイテムなのだとしたら、ナナイはそういう価値を端的に諦める立場なのだと思われる。価値とは個々人の経験であり、経験にヒエラルキーがないのだとしたら、価値にもヒエラルキーはないのだ。

美的生活はまったくの自由、というのは耳障りのよいテーゼで、私も大きく異論はない。しかし、それは話をハイアートに限定せず、広く美的生活一般を問題にしているからこそ出てくるテーゼなのではないか。こう雑多な領域を統制する規範がそもそもないので、自由が唯一の規範になるのは当たり前といえば当たり前だろう。芸術、あるいは芸術でも広すぎるなら各芸術実践には、依然としてshouldやmustがつきまとうように思われるのだ。

私がAesthetic Life and Why It Mattersの三者いずれにもあまり共感できないのは、彼らが反西洋中心主義を掲げつつ、しばしば自由や個性といった最近の欧州でpoliticallyにcorrectな規範に訴えて話を落としがちだからだ。ブレイクアウトで、まさにこの話をナナイがリグルに振る場面があるのだが、リグルがごにょごにょとシラーの話をしていたのはかなり残念さがあった。

2022/04/25

授業準備でデュシャンのレディメイドをいろいろ見ていたが、どれも抜群に面白い。視覚的に面白いのだ。こうデジタル時代に生きていると、ふつうの櫛やスコップですら視覚的関心の的になるのは、デュシャンも予期しなかったことだろう。ボトルラックなんかは、もはやありふれた日用品として見ることのほうが難しい。

2022/04/24

暗い部屋でカービィのエアライドをやっていたらめちゃめちゃに車酔いした。

2022/04/23

前に、美的快楽主義に関連して「美的に画一的な世界」という記事を書いたが、それとほぼほぼ同じ話をAesthetic Life and Why It Mattersのイントロダクションで見つけた。どちらも有名なネハマスの悪夢にインスパイアされているので珍しいことではない。誰もが同じものに美を見出し、好み、美的な意見対立がもはや存在しない世界は悪夢ではないか、というわけだ。Lopesらは、デヴィッド・フォスター・ウォレスの小説に出てくるアイテムをちょっとアレンジして、「面白すぎて一度見てしまえばもう他を見る気になれなくなる映画」を挙げている。いくら面白いと言われても、われわれはそれだけを見る生活をきっと選ばないだろう、というのが著者らの見解だ。この思考実験は、反快楽主義を動機づける直感ポンプとして機能している。

私の思考実験は、もうちょっと工夫している。第一に、「最後の美的対象」を鑑賞するには、知識や経験を備えた理想的鑑賞者でなければならない。それは、受け身でも快楽を与えてくれるLSDのようなものではなく、能動的に価値を見出す必要のあるものだ。Nanayのように、能動的な努力による達成を持ち出す論者には、これがいくらか予防線になるだろう。第二に、私が問題にしているのは、「「最後の美的対象」を選択することは、個々人にとって望ましいか」ではなく、「誰もがそれだけを選択することになった世界Zは、われわれにとって望ましいか」だ。前者の問いにおいてどうしても心理的抵抗があるのは、Lopesらの映画や「最後の美的対象」がもたらす画一的な美的生活を、いまだ十全に想像できていないからだろうと思わずにはいられない。いいものだと言われても、なかなか信用できないだけなのだ。問うべき問題は、世界Zにおいてあらゆる人が至上の美的満足を報告しているなか、そのような世界が美的に欠けているとしてなにがどう欠けているかだ。Riggleのように個性を持ち出しても、Lopesのように冒険心を持ち出しても、それがとにかく価値なのだというのはわれわれの世界Aに限った話で、世界Zでもそうなのだ(そして世界Zではそれが欠けているのだ)と述べるのは論点先取だろう。

記事にも書いたが、私は美的に画一的な世界のほうがよいとはまったく考えていない。この思考実験は、 しばしば反快楽主義に都合のいいように細部が隠されているか、十全に想像された場合にはもはやわれわれの直感では手に負えない。反快楽主義を動機づける直感ポンプとしては不当だ、とまで言えれば私は満足である。

2022/04/22

一昔前のJ-POPによくある文言だが、「君との出会いは運命」と「偶然だらけの世界で君と出会えた」の両方がロマンチックなものとして歌われるのは、よくよく考えてみると奇妙でおもしろい。どちらも特定の人間関係に価値があり、維持・促進すべきものだと伝えたいわけだが、ある出会いが必然である(あらゆる可能世界において出会っている)ことも、偶然である(一部の、おそらくはごく限られた可能世界においてのみ出会っている)ことも、同様に価値づけられるとはどういうことか。ひどい場合には、一曲の間に両方が歌われることになる。「偶然君と出会えた  これはきっと運命」といった具合だ。(というか、「偶然の出会い」と「運命の出会い」はしょっちゅう交換可能なものとして使われているような気さえする。)

もちろん、形而上学的により正確なのは偶然性を述べるほうの文言だ。どう考えても、任意の出会いについて、出会わなかった可能世界が少なくともひとつはあるだろう。もっとも、歌われているのはそういったトリヴィアルな事実ではなく、出会っている可能世界が極小であり、おそらくは「貴重である」ということだ。もっともらしいかはともかく、「レアなものには内在的な価値があり、維持・促進すべきだ」という価値づけ規範が背後にはある。一方、運命や必然性を述べるほうの文言は、それとはぜんぜん違う価値づけ規範に則っているはずだ。正直、私にはこちらがなぜロマンチックなものとして機能するのかが昔からあまりピンときていない。天命を授かった高揚感ぐらいしか思いつかないのだが、それが価値であるためには、自由意思を差し置いてでも絶対的な導きに従って生きることを価値づけていなければならないと思うのだが、はたしてそうなのか。

あるいは、よりもっともらしい解釈としては、民間形而上学(撞着語っぽいが)では、運命とは必然性とは別のなにかなのかもしれない。それはむしろ、数ある可能世界のなかで、まさにいまここの世界にたどり着いてしまった不可解さをより直接的に指し示す語であり、偶然であることと両立可能な事態なのかもしれない。

さらにもっともらしいが面白みのない解釈として、「君との出会いは運命」「偶然だらけの世界で君と出会えた」も単なる表出だ。そこに「好きだ」という以上の含みはない。

2022/04/21

昨晩書いた「グルーヴとはなにか」の記事が、はてブでそこそこ伸びていた。書いたものが読者に恵まれるというのはやりがいを感じさせられるが、それと同時に多方面からマウントが飛んでくるのは、毎度ながらどうにかならないものかと思う。「グルーヴ」という主題もちょっと地雷ではあった。「考えるな、感じろ」という蒙昧がはびこっている分野だからこそ、ひとつひとつ概念を解剖し、整理し、反省可能な仕方で提示しているのに、そのような作業まで含めて野暮だとちゃぶ台返しされたらお手上げだ。「芸術」という概念がそもそもそういう人々に囲まれているので、批評にも美学にも救いはない。基本的に、まともにものを考えたり、長めの文章(言うても5000字ぐらいのブログ記事)を読むのに難がある人は、難を自覚してもっと謙虚になってほしい。

ということで結構むかついたのだが、実のところむかつくようなことを述べるコメントはそんなに多くなく、せいぜい5〜6個といったところだ。しかし、その5〜6個の存在が、数百の肯定的なコメントにもかかわらず書き手を直ちにむかつかせるというのは、ネットで活動している人であれば誰でも経験したことがあるだろう。今日は友人と『TITANE/チタン』を見てきた。序盤、無実の人々が理不尽に殺害されるのだが、見ていてしんどかったので、私にむかつくコメントをしてくる連中だということにして見た。

2022/04/20

スーパーでお菓子をドカ買いしてきた。カラムーチョ、ピザポテト、かっぱえびせん、フラン、チョココ、たけのこの里、鈴かすてらという欲望メンツだ。お菓子というのは、買わなければ買わないで別に不都合ない食べ物だが、家にお菓子があると生活にメリハリが出るのも確かだ。

2022/04/19

美的経験に関する分析美学上の論争といえば、ビアズリーvsディッキーと、ステッカーvsキャロルが有名だ。ビアズリーは経験に特別な内在的性質がある(統一性、強度、複雑性のある経験)と論じたのに対し、ディッキーはそんな現象学は疑わしいと考えた。ディッキーによれば、統一されていたり強度を持っているのは、美的対象(典型的には、芸術作品)そのものであって、経験ではない。ビアズリーとディッキーの立場は、ほとんどそのままステッカーとキャロルの立場に投射できる。ステッカーは美的経験には「それ自体のためになされる[for its own sake]」という内在的性質があることを重視するが、キャロルは美的対象側の美的な形式や質に注目さえしていれば十分に美的経験だと考えた。

こう見ると、内在主義定義をとるビアズリーとステッカー、外在主義定義をとるディッキーとキャロルで陣営ができており、このことはキャロルがディッキーに教わっていたことを踏まえるとかなり腑に落ちるものだが影響史はもうちょっと複雑だ。外在主義定義のルーツは、意外にもビアズリーであり、とりわけ、ディッキーに批判されて自説を修正したビアズリーなのだ(前に訳した「美的観点」(1970)なんかは、ディッキーに対してかなり譲歩的な定義になっている)。キャロルの立場はビアズリーvsディッキーの論争全体から引き出された、かなり分析美学分析美学した立場であり、対するステッカーは近代美学に由来したより伝統的な立場をとっているものと見られる。

伝統的に「美的経験」としてラベルづけられていた現象Xsがあるとして、それは単に対象の形式や質に注目することなのかと言われれば、キャロルの内容アプローチにはいくらか厳しさがあるように個人的には思う。一方で、伝統はともかく、今日の多様な美的生活におけるある特別な現象Ysを、包括的に捉える定義としては、ステッカーのように「それ自体のためになされる」という方が大げさで狭すぎるのだろう。ここでも、定義によって捉えたい現象のレベルで、いくらか対立があるように思われる。

こと美的価値を問題にするとき、ビアズリー=ステッカー的な価値ある経験を踏まえて、ものの価値を道具主義的に規定する(快楽主義)のがデフォルトではある。これに対し、改ビアズリー=ディッキー=キャロル的に美的経験を空虚に定義するとしたらどういう帰結が出るのか。そういう話を、今度の応用哲学会でする予定だ。

2022/04/18

デスクチェアのガスシリンダーが音を立てて昇天した。ハイデガーのハンマーばりに、壊れてはじめてガスシリンダーという仕組みを理解したのだが、そもそもこんなんで人の尻を持ち上げようというのがおこがましいのではないか。まったく、使えば使うほど安物を実感させられる椅子で、二年なら存外持ったほうだが、これを捨てる手間と新たに買う手間を考えるとうんざりする。これが生活だ。私はきっとあれこれ面倒臭がって、この壊れたままの低〜い位置からディスプレイを見上げる生活を、なんだかんだ二年ぐらい続けることになるのだろう。それもまた生活だ。

2022/04/17

今日も今日とてホットサンドを焼いている。私の朝食はすっかり、かの器具におんぶに抱っこだ。

2022/04/16

27歳になった。15歳の頃には、早々にロックスターになって、27歳にはジミヘンやカート・コバーンのように早死にするものだと信じて疑わなかった。残念ながらロックスターにはなれなかったが、幸運にもまだ生きている。

土曜の世田谷公園は人ん家の犬をたくさん見れるのでお得だ。とんかつも食べたし、激ウマチーズケーキも食べたので、休日の過ごし方としては言うことなしだろう。

恋人がおしゃれなテーブルランプをくれた。こまごまとしたものを片したらデスク周りがかなりすっきりした。27歳も張り切って読み書きしようと思う。

2022/04/15

Aesthetics: The Key Thinkersでウォルハイムのことを勉強した。精神分析にも明るいとは聞いていたが、人間の心にかなり関心を寄せていた哲学者らしく、理解が深まった。創作も鑑賞もある種の心の働きであり、画像表象も芸術表出も、①鑑賞者による心的関与+②芸術家による意図(画像表象だったら、seeing-inと正しさの基準)というふたつの契機から説明している。図式としてはダントーの芸術観に近いような印象も受けた。ダントーはこれから読む。ビアズリーはもう読んだ。ビアズリーについてはほぼ知っていることしか書いてなかったので、かなりイタコに近づいてきていると思う。

2022/04/14

非常勤の講義、初回のイントロダクションをしてきた。予定では1時間で一通り喋るつもりだったが、当日のタイムキープがガバで、後半のディテールを切りつつなんとか90分で喋りきった。基本的には、資料を上から下へと読んでいけばいいものだが、Zoomの虚無に向けて喋っているとなかなか相手の理解度が掴めず、不必要に説明を足してしまいがちだ。論文に注をつけまくってしまうのは読者への不信だというのをいつぞや書いたが、それと似ている。とはいえ、コメントシートを読んだ感じの手応えはまずまずといったところ。あとは場数だろう。

それにしても、こう授業後に質問やコメントが寄せられることには特別な充実感がある。mixiをやっていた頃(mixiをやっていた頃!?)はバトンというリレー式の自己紹介文化があったし、Twitterには質問箱文化がある。恥知らずにも前者に参入していたのは質問への回答が充実感を与えたからであり、後者に参入しないのはその充実感が自己承認欲求と結びついているのを自覚し恥じるようになったからだ。ちなみに、自己承認欲求を恥じるようになったら、いよいよ自意識過剰というやつだ。まぁ、そんなバックグラウンドとはなんの関係もなく、寄せられた意見のいくつかはシンプルにおもしろくてためになる。

ところで、「ティツィアーノとルーベンスの《アダムとイヴ》、どちらが好きですか」という投票は、きれいに半々に割れた。これはちょっと予想外だった。

2022/04/13

散髪してきた。もうかれこれ3年は「いつも通り」で注文している。なんらか新しい髪型を試す機運がないわけではない。学生で誰からも文句を言われないうちに、坊主をやってみたさはある。

2022/04/12

なんとなく『BLEACH』を読んでいたが、記憶していた以上に「難しいことはわかんねぇけどよぉ」な精神のマンガだった。ジャンプのバトル漫画の主人公は悟空にせよ花道にせよルフィにせよナルトにせよ、いわゆる「バカ」なのだが、ここぞというときに物事の本質を把握してすぐに行動できる、そんな人物ばかりだ。黒崎一護はもう少し精神年齢の高い人物なのだが、それでもごちゃごちゃ考えるのが苦手なタイプで、考えなしに突っ込んでは大怪我してばかりだ。無責任な一般化として、平成とはそういう人格が尊ばれる時代だったような気もする。頭だけいいやつもうGood nightというわけだ。

最近の竈門炭治郎とか緑谷出久はもっと理性的に行動できる人物として描かれている(虎杖悠仁はバカだが)。別に子供は好きなのを読めばいいのだが、模範となる人物像がこのように相対化されたのは、教育的にはよいことだと思っている。「竈門炭治郎が長男の生きづらさを再生産している」なんて言う人々は、ろくにマンガを読んでいないのか、よほど暇なのか、その両方なのだろう。

2022/04/11

アルヴァ・ノエのStrange Toolsについて、ノエル・キャロルが書いた書評を読んだ。キャロルの紹介だけ読むとノエの立場は、われわれの組織化された日常を異化し、意識に上らせ、反省させ、再組織化を促す点に芸術の本質的目的があるとするものらしい。発想源はもちろんハイデガーの壊れたハンマーだ。道具は生活へと有機的に組み込まれており、普段は自覚なしに使われるが、壊れたときのみそのメカニズムに注意を向けられる。芸術ははじめから壊れた日用品「奇妙な道具」として提示され、生活を異化するというのが基本的な図式らしい。もちろん、そんなアヴァンギャルド偏重の一般論がうまくいくはずもなく、キャロルもその点を問題視しているのだが、個人的に気になったのは、ノエの立場がほとんどそのままグレアム・ハーマンのそれである点だ。オブジェクト指向存在論における「魅惑」や「代替因果」あたりの発想源もハイデガーのハンマーやシクロフスキーの異化だったはずだ。どうもこう、芸術や美的なものを左翼革命的な図式で理解したい人はどこにでもいるらしい。

キャロルの立場は、芸術の非前衛的機能、たとえば宗教的な機能や政治的な機能をフェアに認めるもので、端的にいってほとんどの芸術は「奇妙な道具」などではなくふつうの日用品だと認める立場だ。批評におけるキャロルのヒューリスティックを見ても、そこには芸術作品とその他の人工物を区別せず評価する態度が見て取れるし、総じてノエル・キャロルは芸術に芸術ならではの本質やアプローチを認めたくない立場なのだろう。進化心理学的に見て、芸術とその他の実践で目的や手段がカブっているのは冗長性の担保であって、はっきり区別できると考えるほうがおかいという説明は、それなりに頷けるところだ。

2022/04/10

「○○に関する議論は、あらかじめある客観的な真実をめぐるものではなく、構築的な真実をめぐる交渉なのだ」という話の落とし方は、多くの場合○○という事象に関して正確なものだろう。しかし、そこから導かれがちな帰結「○○に関する議論は不毛である」を回避するために出される論証、すなわち交渉という活動の意義づけについては、あまり賛同できないことが多い。何度か書いた話だが、そうしてディベートすることに積極的な意義を見いだせるのは、健康的にディベートできるコミュニティに限られる。XがFであるかどうかは話し合い次第なので、ちゃんと理由を添えて主張せよ、という規範がいつでもどこでも成り立つと考えるほうが間違いだろう。理由付けられた主張をしたりされたりすることは、すでにひとつのスキルなのだ。そのようなスキルを養い養わせることは一種の啓蒙主義にほかならないわけだが、教育が○○に関する個々人の経験を豊かにしない限り、学ぶ意義は見いだされづらいだろう。

結局、声が大きく口先の回る人物の意見が構築的真実になる、という帰結も不都合だ(それもまた真実である見込みが高いのだが)。「エビデンスに基づいて議論しよう」という規範は、それはそれで気味の悪さを伴いがちだが、ともかく、その背景には「どうせ客観的な真実はないので交渉しましょう」というより一層気味の悪い規範への反動があるように思う。

2022/04/09

国立新の「メトロポリタン美術館展」に行ってきた。目当てのカラヴァッジョも良かったし、サムネイルのラ・トゥールも良かった。出展数はやや少なく感じたが、中世における宗教との結びつきから、絶対王政のバロック・ロココを経て、セザンヌやモネらの前衛に至る流れを作っている。土曜日で人も多かった。なんだか異常に早く一日が過ぎてしまい危機感を覚えたが、異常に楽しい一日だったというだけかもしれない。

2022/04/08

読み直していて、ウィムザット&ビアズリーによる「意図の誤謬」は実際のところ、表出説の誤謬なんじゃないか、という気づきを得た。意図主義というのは、作者がなんらかの命題的な心的状態を持ち、それを作品によってコミュニケートし、その事実が作品の意味論的内容を定める(正しい解釈によって引き出される意味とは、作者の意図した意味である)、というものとしてざっくり理解できる。一方、「意図の誤謬」で叩かれているロマン主義的な芸術観・批評観は、感情や精神性の現れとして作品を捉える立場のように読める。おそらくは、言語哲学やフィクション論に十分な積み立てがなく、作者による表出と意図伝達が同一視されていたのだろう。しかし、両者は区別すべき問題だろう。たぶん、「意図の誤謬」が言っていることを現代哲学の用語で要約するなら、作者の持った心的状態は、作品の表出的性質にとって必要でも十分でもない、ということだろう。厳粛態度で記されたからといって、小説が厳粛なものになるとは限らない。このことは、「意図の誤謬」のほとんどが(解釈と意味の話ではなく)評価と価値の話になっている点も説明してくれるかもしれない。意味論的内容は価値とはただちには結びつかないが、表出的性質はしばしば価値含みだからだ。

表象内容の帰属、具体的には「『インセプション』の最後でコマは停止したのか」は意図によって定まるのか、といった事柄は、どうも「意図の誤謬」の射程外のように読める。いずれにしてもこの読みに自信はない。そして、自信を深めるために精読するには、「意図の誤謬」は感じの悪いテキストだ。いちいち格好つけているのウィムザットのせいなのかビアズリーのせいなのかは分からない

2022/04/07

いつも17:00ごろに家を出てバイトへ向かうので、外の明るさで季節の移り変わりを実感している。昨日はほのかに西日が差していた。冬は辛気臭くてきらいなので、はやく夏になってほしい。

2022/04/06

Notionのプラグインがあったので、ポモドーロテクニックを導入して作業しているが、けっこうよい。25分集中して5分休むというペース配分も割と気に入っているし、その25分でやることを明確にして、それだけをやるという気持ちの引き締めが、飽き性にはいい薬だ。25分ごとに立ち上がって体を伸ばすのは、死を遠ざけている実感が具体的にあってうれしい。

2022/04/05

Evan Malone「ふたつのグルーヴ概念:音楽的ニュアンス、リズム、ジャンル」を読んだ。JAACでforthcomingになっている音楽の哲学論文だ。グルーヴに関する議論は、2014年に出たTiger C. RoholtのGroove: A Phenomenology of Rhythmic Nuance以降、じわじわ注目されている模様。グルーヴとは言うまでもなく、「Cold Sweat」や「Hang Up Your Hang Ups」に含まれるアレのことだ。

Maloneがふたつのグルーヴ概念と呼ぶのは、①Roholtらが扱っている、マイクロタイミングなどの音楽的ニュアンスを取り入れていることを指すgroove-as-feelと、②リスナーを踊りたくさせるような喚起能力を指すgroove-as-movementの区別だ(命名は正直イマイチだと思う)。前者は、個々のノートがオンタイムの演奏よりもわずかに(知覚はできるが言語化ができない程度に)早いか遅いかで、プッシュとかレイドバックと呼ばれる演奏法のこと。後者は、単にダンサブルであることでもあり、BPM100〜120のテンポ、パーカッシヴさ、シンコペーション、低音域の明瞭性など、さまざまな要因によって実現される。理論家や哲学者がしばしば取り上げるのは前者だが、心理学者が実験などで問題にするの後者らしい。心理学的実験では、①プッシュやレイドバックの採用が、必ずしも②踊りたくなるような感覚を与えないどころか、場合によっては低減することが報告されているらしく、これを根拠に①はグルーヴ理論として間違っているとも思われがちだが、そもそも異なるグルーヴ概念を扱っているのだ、というのがMaloneの主張になる。真理条件で言えば次のようになる。

説得的な話だ。「グルーヴを持つ」「グルーヴィーだ」という帰属はこの意味で多義的であり、①特定の内的な形式的性質の指摘にも使われるし、②リスナーに与える特定の効果の指摘にも使われ、一方は必ずしも他方を含意しない、というわけだ。前者はさしあたり非美的性質だが、後者は美的性質ということにもなるだろうか。また、この区別や、語られ方の違いの由来を、ジャンルの違いに対応付けているのも面白い。楽曲や録音よりも、演奏を重視した実践であるジャズではしばしば①groove-as-feelが問題となる一方で、楽曲や録音も重要であるポピュラー音楽(この中にはポップスやファンクが含まれる)では②groove-as-movementが問題となりやすい。ある楽曲/演奏/録音に「グルーヴを持つ」「グルーヴィーだ」を帰属できるかどうかは、その音楽やミュージシャンやリスナーが属するジャンルに左右される。

ジャンルごとに期待される閾値が異なる(「パンクとしてはグルーヴィーだが、ファンクとしてはそうでもないね」)という話ではなく、ジャンルごとに適用される概念の中身が変わっているという話だ。Maloneは"なので"一般的に美的概念を考える上では(RiggleとかNguyenとかKubalaの)コミュニタリアンな理論を持っておいたほうがいいかも、という話に持っていこうとする。このムーヴは最後にちょっとだけ出てくるのだが、議論の流れ的に妥当でも必要でもないだろう。Riggleらのやっていることに関してはまだ全貌が見えているわけではないが、ここでMaloneがしている話とは主題においても道具においてもまったく別物の領域なんじゃないだろうか。あるいは、「美的なものは、ジャンルとか実践集団単位で考えるのが重要だよね」ぐらいの話でしかないのだろうか。ちゃんと読んでいないので分からない。

それよりも、Roholtはマイクロタイミングで性質としてのグルーヴを説明しつつ、その「知覚」に関しては、メルロ=ポンティを引きつつ身体動作との相互作用を必要条件としているらしく、そちらにも興味を持った。メルロ=ポンティは博論でも使おうと思っているアイデア源のひとつだ。

2022/04/04

星のカービィは、小さい・丸い・柔らかい・淡いなどの非美的性質によって「かわいい」という美的性質が適切に差し向けられる対象なのだが、その正反対、でかい・四角い・硬い・濃いものといえば、モノリスである。デデデ大王は、丸っこいしカラフルで柔らかそうなので、カービィとは好対照になっていない。もっとシリアスなラスボスは、黒っぽくて・非物質的で・スケールがでかい。煎じ詰めればその形態は物言わぬモノリスになるだろうし、カービィvsモノリスという対立は、赤ん坊と宇宙の対立にそのまま落とし込んで理解できる。かなり硬派な主題を持ったSFなのだ、星のカービィというのは。

カービィシリーズのゲームはたくさんやってきたが、あの赤ん坊のメタファーを操作し、宇宙のメタファーに打ち勝つ経験は、私の人間形成にとって少なからぬ影響を与えたと思う。小さい・丸い・柔らかい・淡いものが、でかい・四角い・硬い・濃いものを打ち勝つというのは筋が通っておらず、ほとんど夢物語だ。しかし、子供に必要なのは、「あなたは宇宙の崇高さに比べたらなんてことない塵なのだ」という正真正銘の真実よりも、耳あたりのよい夢物語であることは言うまでもない。カービィとは人間の肯定である。

2022/04/03

Frank Hindriksの「制度理論を統一する:ペティットのバーチャル・コントロール理論への批判」という論文を読んだ。話題的にはちょっと当てを外したが、哲学美学にも関わるメタ理論の話で面白かった。

話題は、競合するふたつの理論を統一[unify]するやり方に関するもので、調停[reconciliation]と統合[integration]が区別される。ヒンドリクスは統合推しだ。ざっくり言えば、理論Aが「事象Xは要因Aで説明できる」と述べ、理論Bが「いやいや、事象Xは要因Bで説明できる」と述べているときに、「事象Xのうち、X1は要因Aで説明され、X2は要因Bで説明される」みたいに被説明範囲を住み分けさせるのが調停による統一だ。ペティットの「バーチャル・コントロール理論」によれば、①人間はリスクの低いデフォルト状態では特に反省せずルールに従い、②リスクが高くなると自己利益を意識して行動する(仮想的な背景と化していた自己利益の原理が前景化する)。前者は制度の持続性を説明し、後者は制度の回復性を説明していることになる。ここでは、ルール遵守の原理と、ルールを破ってでも自己利益を追求する原理(これは均衡をもたらす)が、区別された状況の区別された事象(持続性と回復性)に即して別々に使われている。もともと競合しているとされた理論(ルール説と均衡説)は、別々の被説明項を持つ点で、もはやライバルではなくなる。

これに対し、ヒンドリクスの「ルールかつ均衡理論」は、ルール理論と均衡理論を統合する試みだ。曰く、制度とはルール(規範)によって支配された社会実践(=社会的規則性=繰り返し均衡)である。ヒンドリクスはグァラと仕事をしていた人で、二人のアイデアはかなり似ている(ヒンドリクスは相関均衡は使っていなかったが)。社会規範による社会実践の支配[govern]については、ルールによる動機づけを要件としており、行動選択においてルールと自己利益は同時に関与することになる。実際、本論文を読んだだけではヒンドリクスの理論は(とくにグァラとの差分)はあまりわからないのだが、ともかく、「ルールかつ均衡理論」は統合による統一を通して、制度の持続性も回復性も、おまけに脆弱性も説明できる。統合とは、「事象Xは、要因Aと要因Bの再構成によって説明される」ような統一を指す。

結論としては、事象をしっかり区別すべきだったり、異なる道具立てがどうしても必要でない限り、調停による「分割統治」よりも、統合による「解体・再構築」のほうが望ましい、ということになる。私のメタ理論的直観にも沿った結論だった。特定の個別者の描写は意図主義だが、性質・種の描写は非意図主義でやる、という私が持っていた描写の理論も再考の余地がありそうだ(最近はあまり描写のことを考えられていない)。

2022/04/02

金沢21世紀美術館の「フェミニズムズ」展に関してとやかく言ったら上野千鶴子に怒られた人のツイートが流れてきた。もろもろ目を通したが、いわゆる「評価に関しては合意しているのに、その過程において批評的対立がある」ケースだ。

上野論考の論点はいくつかあるが、①マジョリティ(男)としての安全圏からフェミニズム関連の諸々がこわい/こわくないみたいな価値判断をするな、という論点はともかく、②脱ジェンダー化への価値づけはクリシェだからやめろ、という論点はそれなりに学びがあった。「…男性には決して向けられない、「ジェンダーを超えた」という評価が、女性のアーティストに対する褒め言葉になってきた」というのはそれなりに実情に即している手触りがあるし、自分も気を抜くとそういったクリシェで作品を価値づけてしまうことは白状しなければならない。具体的には、『ジャンヌ・ディエルマン』に★5.0を付けつつ、「フェミニズム映画として意図された目的を十二分に達成していることは言うまでもなく、その枠にとらわれない大傑作だ」と述べている私もまた、上野論考の矛先にあるのだろう。

脱構築っぽいことを書いておけば締まりがいいだろうということで、批評的に楽を取っている点には反省があり、批評として新鮮味がないと言われれば私は両手を挙げて降参するだろう。それはそうと、であるとして、ヘテロ男性の立場から『ジャンヌ・ディエルマン』を褒めるにはほかにどんな言葉がありえたのかと、開き直りたくなる気持ちもないではない。いずれにしても、そのフェミニズム映画は私に特定の経験を与えたわけだが、それを言葉にする主体がヘテロ男性であった途端に、批評が挫折するとしたらあんまりだろう。にもかかわらず、上野論考の語り口には、まさにそう考えている感が見え隠れする。端的に言って、男は黙れ、というわけだ。(精神分析は趣味が悪いが、上野論考も半分ぐらいが人様への精神分析なのでイーブンだろう。)

任意の社会運動に関して言えることだが、特定の集団の経験を改善するという目標を忘れて、〈刺し違えてでも自尊心を守る〉フェイズに入ってくるともう救いがない。粛々とスモールワールドのことを優先し、欲望と理性の均衡において行動を選択し、好きなものを好きと述べ、意識できる範囲で道徳的に振る舞いつつも無意識に人を傷つけ、取り繕い、一日一日を過ごす。それ以上にpolitically correctな批評も生活も、私には思いつかない。

今日はちょっと歩いたところにできた評判のラーメン屋に行ってきた。抜群に美味しかった。

2022/04/01

新入社員の憂鬱がこちらまで伝播してきそうなタイムラインだが、いつもながら、怒鳴ってくる目上の人間というのが一人でも減れば、世界はひとつベターになりそうなものだ。人間はどんなミスをしたって、他人によって大声で恫喝されなければならない、なんてことはない。怒鳴る怒鳴られるは実存に関わる問題だ。我が子に対してもそんなことするべきではないし、法のもとに平等である赤の他人に対してそんなことができる人間はどこかひどく損なわれている。二十歳を超えて、不満に対して大声を出すことでしか対処できないなんてみじめ過ぎるだろう。無視するとか、見放すとか、あるいは粛々と経済的制裁を加えるといったハラスメントは、私が思うに、怒鳴るというハラスメントに比べると遥かに軽い問題だ(是正すべき問題に変わりはないが)。怒鳴らず、怒鳴られずということで生きていけるなら、私はそれでいい。

2022/03/31

年度終わりなので、幾人かの教え子たちとお別れをしてきた。かつての私と私が教わった塾講師のように、もはや互いに二度と会うこともなく、やがて顔も名前も定かではなくなっていくのだろう。忘れられた思い出はミオによってミルラのしずくへと変換され、ミルラのしずくがクリスタルを清めることで、世界は循環していく。

2022/03/30

カフェノマドで、AbellのFictionを読んでいた。この本は前に書評を書いたのだが、後ろのほうを読み込めていないので、4月上旬までにそちらを片付けられればいいなと思っている。今日は前のほうしか読めていないが、Abellの議論にはやや変な前提があるのが気になった。

Abellの関心はフィクションの認識論であり、鑑賞者がいかにして正しい虚構的内容にアクセスするかである。詳しくは書評を読んでくれれば結構なのだが、Abellを理論的に動機付けているのは、フィクション解釈の場合、現実のコミュニケーションみたいに発話者の意図へとアクセスする諸々の解釈戦略(会話の含み、合理性の前提など)が使えないことだ。ここで、Abellは現実の話者とフィクションの作者の間に、シャープな線引きをしている。それで、後者を相手取った解釈のガイドとして、フィクションの制度が持ち出されることになる。

その過程で、これはダメだとして退けられているのが、Waltonらが出している、「作品は、作者が属する共同体において、作者の虚構的発話内容と、矛盾しない範囲だと信じられている範囲の虚構的内容を持つ」という原則だ。あるキャラクターAがBと結婚している場合、明示されていなくても、作者の属するコミュニティーのメンバーにとってAみたいな人はふつうBとの結婚を後悔すると信じられているならば、「AはBとの結婚を後悔している」という内容を作品に帰属して構わない、ということになる。Abellが問題視するのは次の点だ。この原則を取った場合、作品の正しい虚構的内容は膨大に膨れ上がることになる。例えば、明示されていなくても、「Aにはへそがある」みたいな虚構的内容もまた真だろう。しかし、作品解釈において、「Aにはへそがある」みたいなどうでもいい内容を見落としたからといって、解釈が失敗したとは言われない。ゆえに、解釈のための原則は、実際の解釈が取り出すような内容の範囲内に即して、もっと限定的でなければならない。(4-5)

論証としては、おそらく次のようになるだろう。Waltonらの原則を「矛盾しない範囲」説と呼ぶ。

引っかかるのは前提2だ。Abellの言うとおり、「Aにはへそがある」みたいなどうでもいい内容を見落としたからといって、解釈が失敗したとは言われない。しかしそれを、「矛盾しない範囲」説では広すぎることを示す反例として読むのはいささか奇妙だろう。「Aにはへそがある」は依然として正しい内容であり、理論的に十全な解釈を行う上では見落としてはならない内容なのだが、実践的になされている解釈は断片的に正しい内容を取り出していれば十分に適切・正しいと言える(十全な解釈をする必要がない)、というのが実情ではないか。「矛盾しない範囲」説がどこまで有望かはわからないが、Abellはこの立場を十分に退けられていないのではないか、というのが最序盤へのツッコミだ。

2022/03/29

薬を飲むのが苦手で、n錠あるとn回飲む動作を反復しなければならない。薬を飲んでいるという事実が喉が緊張させ、通りがわるくなるのだ。おいしいうどんなんかは、一口2噛みぐらいで丸呑みしている。

2022/03/28

紙のノートをほんとうに使わなくなったのだが、紙になにかを書くこと自体は好きなので、(また、使うあてもなく買った良さげなノートをいくつか積んでいるので、)どうにか生産性の一部に組み込めないかと考えていた。紙でしかできないことを考えたが、とっさに図を書くことぐらいしか思いつかないし、それだったらメモパッドでよいのだ。そもそも、大学受験が終わって以後、ちゃんとコンセプトを守って一冊のノートを使い切った試しがないかもしれない。たいてい雑記帳になるか、使い切らないうちに押入れ行きだ。

この前、実家に帰ったとき、高校時代に使っていたモレスキンを発掘したが、それも雑記帳と化していたし、2/3ぐらいしか使っていなかった。Evernoteとコラボしたやつで、付属のステッカーを貼ったページを専用のアプリで読み込むと、タグ付きでデジタル化できるという触れ込みのモレスキンだった。結局、ステッカーはもったいなくてほとんど使ってなかったし、Evernoteはすっかり時代遅れになってしまった。内容としては、ライフログ、受験勉強のToDo、お絵かき、写真のクリップなど、わりに充実しており、楽しかった受験生活を思い出す

2022/03/27

ビールを切らしていると買いに行くのも億劫なので、しばらくの間禁酒できる。飲むとQOLが格段に上がるが、飲まなくても平均以上のQOLで暮らしている自覚がある。嗜好品が嗜好品と呼ばれる所以だ。

2022/03/26

天気がわるく、元気の出ない一日だった。

Darren Hudson Hickによる美学の教科書をちょっとだけ読んだ。解釈と意図の章だ。解釈において意図はどれだけ関わるのか/関わるべきかというトピックはもうほとんどデッドロックだと思っている。というのも、カバーすべき事例をカバーできているかで理論が評価される以前に、カバーすべき事例についてのコンセンサスなさすぎるのだ。Hickの挙げる例だと、トム・ウェイツは「Last Leaf」を「ただの葉っぱについての曲」だと語っているが、同曲はどう考えても死のメタファーであり、死のメタファーとして説明できないなら意図主義には問題がある、という流れになっている。問題はこの「どう考えても」の正当化だろう。それはもう、どの理論が事象をうまく捉えられるかの対立ではなく、肝心の事象とはどれなのかの混乱でしかない。Hickも章の最後にGautのパッチワーク理論を置いているように、ケースバイケースというのが恒例のオチになるだろう。ケースバイケースであることを認める慎重さは重要だが、「ケースバイケースである」という結論自体は正しいとしてもほとんど面白みがない。それは、問題設定のサイズが不適切であったことの告白ですらある。

2022/03/25

お寿司を食べた。はまち、えんがわ、マグロ赤身、あぶりえんがわ(塩レモン)。海苔すまし汁を二杯飲んだ。今日は直前にカフェでフライドポテトとトリカラを食べていたので、少数精鋭だ。

2022/03/24

親子丼はわりに好きな丼だが、特別美味しい親子丼というのは食べたことがない気がする。いつでもどこでも75点ぐらいの食べ物だ。感動するレベルの親子丼を一度は食べてみたい。

2022/03/23

Peter Shiu-Hwa Tsu「Of Primary Features in Aesthetics: A Critical Assessment of Generalism and a Limited Defence of Particularism」というずいぶん長いタイトルの論文を読んだ。批評的基準に関する三人の一般主義者(ビアズリー、シブリー、ディッキー)がそれぞれ失敗していることを示し、個別主義をちょっとだけ擁護する論文だ。各立場に対する反論は論争史的に既出のものが多く、目新しいツッコミはなかったものの、当のトピックについてさっくり読める良いサーベイになっている。

思うに、ビアズリーの一次的基準(unity、complexity、intensity)がうまくいかなかった理由のひとつは、欲張って三つも挙げたからだ。たしかに、どれもよい芸術作品の持つ性質としてしばしば言及されるものだが、あればあるだけ作品がベターになるというには、組み合わせたときの反例があまりにも多い。

例えばだが、つねに一次的基準となるのはもうとにかく統一性だけだ、という一元論ではどうだろうか。私には複雑性や強度がなんぼあってもいい性質というのがいまいちピンとこないが、統一性(首尾一貫性+完全性)というのであればまだ分かる。この場合も、「脱構築な作品にとって統一性は欠点である」という反例が残るが、そうして挙げられる反例が脱構築な作品という極端なケースぐらいでしかなければ、反例に対する直観を修正する道もいくらかは生きるだろう。すなわち、カオスな作品は、別の偶然的な長所において全体としてはよいのだとしても、カオスだけとればより悪い作品なのだとか、カオスなように見えて、実はそこには高次の統一性があるのだとか、言えそうなものなのだ。後者としては、例えば「カオスを生み出す」という中心的な目的に沿って、適切なパーツが適切に配置されている様を、目的に対する手段のunityとして語れなくもないような気がしないでもないかもしれない。

おそらくは、一面を単色で塗っただけの絵画のように、unityはあっても傑作とは言い難い作品のほうが、反例としては深刻なのだろう。これを回避する道はとくに思いつかないが、その価値のなさを論じるためにcomplexityの欠如を言い出すと、一元論は破綻することになる。実のところ、unityがないのだ、というのは結構無理があってしんどいと思う。

いずれにせよ、その一元論をとるためには気合を入れてunity概念を定義しなければならないが、あらゆるケースをカバーするためには内包的にかなりゆるいもので満足しなければならず、最終的には「統一性がある」と「(端的な)良い」がほとんど区別がなくなってしまうのではないか、という懸念もある。上述の論文にも、一次的基準の一元論が可能性として一瞬だけ触れられるのだが、歴史的に見てもこういった立場をとった論者はいないのかもしれない。

2022/03/22

ポモの悪口はそれなりに言ってきたほうだが、実のところ私はポストモダニズムとして総称される思想的文化的動向がそれなりに好きだし、そこに含まれるアイデアや視点には価値あるものが多いとさえ考えている。ボードリヤールを読んでいなければ、私が哲学をやることはなかっただろう。結局のところ私が憎悪しているポモは、ポストモダニズムの思想群というより、そこに傾向的に含まれる蒙昧主義なのだと言うのが正確だろう。蒙昧主義は必ずしも、ポストモダニズムの書き手に限った問題ではない。ろくにものを考えず、それっぽい雰囲気作りのために修辞を凝らすというのは、芸術作品のステートメントから政治家の発言まで、ろくにものを考えていない人々からなる現実世界においてありふれている。問題は、無知に対してどれだけ謙虚になれるか、言えることを言える範囲でどれだけ明瞭に言えるかであり、カオスを正当化することではない。

2022/03/21

実家で水餃子を食べた。実家で出る点心は、私が地上で最も上手いと思っている食物のひとつだ。夕飯にはすき焼きも食べた。どちらも、一人暮らしではまず食べることのない料理だ。

2022/03/20

意見対立や論争の意義に対して英語圏の論者がやたらと楽観的なのは、健康的でリスペクトフルな議論をしょっちゅうしているからにほかならないのだろう。「必ずしも意見の収束を目指したものではなく、互いの意見を交換することで、他者理解や世界理解が深まる」云々の見方は、最近かなり目にする気がする。しかし、そういった見解においては、自分とは異なる意見を提示されたときの被侵害感、自分の意見を(字面上だけにせよ)否定されたときの不快感を、まったくもって無視しているか、そういった感情を脇に置いてこそ理知的な現代人だと言わんばかりの趣がある。

日本人はそういう態度をとれないとか、大学を出ていない者はそういう態度をとれない、みたいな話に落とす気はないが、そういう態度をとれない人がいるのは事実だし、それもめちゃくちゃたくさんいるのだろう。それは必ずしも悪しきことではなく、「言い争っても友達」みたいなクールネスこそ、ヒトにとっては無理のあるものではないかと思うときすらある。もちろん、これらの反対にある「気を遣って意見を言わない」「意見対立はなあなあで済ます」は別の地獄に繋がっているので、どうしようもない。結局のところ、議論したければそこが否定共同体かどうかを適切に見定め、それ以外の場所での意見対立についてはもうちょっと感情に気を配る、といういつものオチになりそうだ。

2022/03/19

ドレイファスによる行為論を学んだ。私の一昼漬けの理解ではそれは、行為の一部は世界との関係においてアジャストされた身体が目下の状況に対して反応することでなされる、という説明だ。そのような反応は、命題的・概念的な計画や意図によらず、知覚対処[coping]の積み重ねによるフィードバックループに基づいている修士の頃に信原幸弘先生の講義で人工知能の哲学を学んだときにも同じようなアイデアがいくつかあった(ギブソンのアフォーダンス、私がレジュメを担当したティム・ヴァン・ゲルダーの力学系理論)が、いずれも源泉はハイデガーとメルロ・ポンティらしい。計算主義・表象主義的な知能観や行動観の乗り越えとして、世界内存在や肉といったアイテムが重宝されているのだろう。

芸術哲学に関しても、創作と美的経験はこの種の説明によっていくらか見通しが良くなるかもしれない。芸術家ははっきりと述べられる計画において創作することはまれであり、トライアルアンドエラーの積み重ねや、熟練によって自動化された運動、産物と自己が調和する感覚の役割が大きいのだろう。このことは、意図主義が念頭に置くような作者の意図についても見直しを求めるだろう(この辺は最近お話した感じだと村山さんの関心に近いようだ)。他方で、作品を見たときの美的経験にも、同じようなプロセスが言えそうだ。私は作品のうちになにかを求め、見逃し、探し続け、見つけ、ハーモニーを経験する。あるいは、作品と自己が調和する感覚こそが美的経験なのだとしたら、創作こそ部分的には美的経験なのだという、それなりに穏当で見栄えのいい主張も出てきそうなものだ。

2022/03/18

見逃していたが、存じ上げない方から一年前の倍速記事へのコメントをいただいていた。

彼/彼女の論は、私がざっと読んだところでは、「場合によっては倍速鑑賞は構わない」という結論を私と共有しつつ、私が倍速否定派に対して譲歩している前提「倍速鑑賞のわるさのうち少なくともひとつは、作者の意図した仕方(等速)ではない鑑賞をしている点に起因しうる」に反対し、私の退けた見解「意図とか真正性とか失礼とかどうでもいいだろ!」が正当であるような場面もあると主張するものになっている。基本的には、私の意図主義に対する譲歩を、意図主義に対する擁護として読んでいるようなきらいがある。

「これらの議論は、論者の立場上、作品の意義(芸術的価値)を不当に取りこぼす・損なうといった事態について大きな関心が払われており、だからこそ「真正でないかつまたは失礼である」という批判にまともに付きあうかたちで、こうした批判を回避するための道筋を探るものだった。

だが、ぶっちゃけた話、作者が前もって「意図」したような「真正な」鑑賞体験であるということは、そこから生まれる批評が正当なものであることをサポートしない。」

上に引用した段落で、彼/彼女はすでに私の記事の意図(!)を十分に汲んでいるはずなのだが、以下段落ではどうも意図主義への批判を私に差し向けているようで、そうだとしたら的外れというものだ。というのも、「倍速鑑賞は作者の意図を無視していてダメだ」という主張は、私において「たとえ〜だとしても[even if]」のスコープに入る仮定でしかなく、そうせずに倍速鑑賞を肯定できることは、私にとっておおいに結構だからだ。私が立てた論証は、「たとえ意図主義的に見なければならないのだとしても、倍速鑑賞が構わないようなケースがある」というものであり、「意図主義的に見なければならない!」なんて主張していないのだ(チャートに書いた文言がややミスリードだったことは認めなければならない)。「作者の意図を重視しない解釈実践があり、当の実践と相対的に言えば倍速鑑賞もただちにはわるいとは言えない」という趣旨の主張は私も完全に同意することであり、総じて彼/彼女の見解と私の見解にはなんら実質的な対立点がないのだ。

学びとしては、「たとえAだとしてもBだ」を「筆者はAだと言っている」で読んでしまうのはネット論壇にありがちな誤読なので、気をつけていきましょう、といったところだ。受験現代文の誤答でもよくある。

2022/03/17

2021/10/12ぶりに雨のなか自転車を漕いで退勤した。瀬戸内海はさんさんと日が照っていたのに、東京はねちねち雨が降っていてむかつく。

2022/03/16

最終日。連日の遅寝早起きのツケを払いつつ、朝風呂をいただき、チェックアウトして朝うどんを食べに行く。セルフのお店で、自分でうどんを湯がくスタイルだった。美味しかったので、お土産の半生うどんもここで買っていく。

高松港からフェリーで男木島へ渡る。目当ては猫だ。港では茶色い子に目をつけられ、熱烈な歓迎を受ける。私は犬派なのだが、あの甘え方をされては党派も揺らぐというものだ。

山に登ったところにある休憩所で、親切なおじさんの作ったタコ飯をいただく。港が一望できるテラスで、たいへん心地よい。さっき会ったのはミミちゃんという、島内外で大人気のスーパーアイドルだということを教えてもらう。島の猫たちはどの子も名前がついているらしく、おじさんの知識がすごかった。気配をかもしながら歩いていると猫の方から出てきてくれるらしいので、言われたとおりにしながら島を練り歩く。はじめの方はなかなか見つからなかったが、水辺の日陰にはくつろいでいる子がたくさんおり、存分にモフることができた。フェリーの時間ギリギリまでモフっていたので、またしても港まで走る。

高松港へ戻り、ベトナム料理店でバインミーを食べる。会計が間違っていることに後で気づいてバタバタしたが、なんとか解決した。空港へ向かう前に、うどん締めを執り行う。高松のうどんは最後まで最高に美味しかった。うどんという食べ物には、基本的に飽きが無縁だということを実感する。

成田までジェットスターで飛び、バスで帰る。終電近くだったので結構バタバタした移動になり、水分補給のチャンスがなかったので、二人してカピカピになった。溜池山王でやたらと車両が揺れていたので、なんてヤクザな駅なんだろうと思っていたら、バカでかい地震だったらしく、一時的に運休になってしまった。地下鉄は地震に強い構造になっている、というアナウンスが頼もしかった。

どうにか帰宅に成功し、シャワーを浴びて寝る。停電しておらず、ものも落ちていなかった。

2022/03/15

三日目。南珈琲店でお得なモーニングセットをいただいた後、岡山へ向かう。大きな町だ。

後楽園は時期がいまいちで大きな見どころはなかったが、ほどよい散歩スポットだった。タンチョウ、でかい。

倉敷へ移動。昼食はとんかつかっぱが目当てだったが、すごく並んでいたので断念し、みそかつを食べる。みそかつは美味しかったが、追加で頼んだ1200円のエビフライが2本で、「2本!?!?」となった。が、ブリッブリで美味しいエビではあった。

美観地区をめぐる。金沢よりももう少しモダンな町並みで、川もサラサラできれいなところだ。倉敷珈琲館でいただいた琥珀の女王も抜群に美味しかった。地ビールの独歩を購入し、高松に戻る。

夕飯は奮発して、スペイン料理のコースをいただいた。ステーキもアヒージョよかったし、パエリアも久々に食べたので美味しかったが、閉店ギリギリだったのやや急いで食べた。恋人の体調が優れなかったが、不屈の精神で晩酌を決行し、寝る。

2022/03/14

二日目。朝からうどんを食べ、小豆島へ向かう。香川のうどん屋は朝昼と夕夜で別れており、両方やっているところはめずらしい。朝から数百円でうどんがすすれるのは素晴らしいことだ。

昼はそうめんを食べる。小豆島はそうめんが有名らしい。たしかに、市販のものとは違い、極細うどんのような噛みごたえのあるそうめんだ。美味しい。

小豆島はかなりでかいので、さっさと歩いてエンジェルロードへ向かう。道中立ち寄ったカフェのコーヒーとチーズケーキも美味しかった。

エンジェルロードは干潮が予定よりも遅れており、海を見ながらぼんやり座って待つ。スケジュール的にギリギリになってもまだ道が現れ切っていなかったので、靴を脱いで渡ることにした。3月の水はまだ殺人的に冷たく、裸足で渡るには貝殻のギザギザがしんどかったが、どうにかこうにか向こう島までたどり着いた。たどり着いたからには戻らなければならない。

それで、フェリーの時間がギリギリになってしまったので、諦めるかレンタルサイクルを利用するか走るかで、走ることを選択する。文系の大学院生にとっては結構な距離だ。荷物を持って走るには遠い。この数年で最も過酷な移動であり、数分前の海渡りとあわせて、一種目除いたトライアスロンでしかなかった。15時前になんとか港に到着したが、なんたることかフェリーの時間を間違えており、まったくの走り損だった。ともかく、精神的にも肉体的にもいい思い出ではある。

予定よりやや遅で高松港に戻り、本日二食目のうどんをいただく。窯バターうどんは、うどん版の卵かけご飯といった趣で、おいしい。ドーミーイン近くの商店街でジェラートを食べ、骨付肉を買って帰る。骨付肉は、親鶏のほうが噛みごたえがあり、食べ物として面白かったが、シンプルに美味いのは雛鳥だ。スーパーで買ってきたビールを飲み、風呂に入り、寝る。

2022/03/13

実質的な一日目。高松港から高速艇に乗り、豊島へ向かう(とよしまではなく、としまらしい)。瀬戸内海は波が穏やかで、遠くにぼんやりと見える島々が美しい。全体的に空気がしめっぽいのに、陽は燦々と照っている感じが好みだ。広島は小学校2年生のときに去ってから一度も戻っていなかったので、瀬戸内海を見たのは18年ぶりだ。

海のレストランで昼食を食べる。トタン造りのクールなお店で、オリジナル果実酒の「ウミトタの麦とホップと檸檬のシュシュワっとしてるやつ。」もよかった。テラス席は景色が抜群によいので、当日予約が取れてラッキーだった。豊島を出て、直島へ向かう。

直島では、アカイトコーヒーでコーヒーとトーストをいただく。安くて美味しい。基本的に、香川の喫茶店はどこも安くて美味しかった。窓から向かいの家の玄関先で、でかい犬が2匹日向ぼっこしていた。

地中美術館。安藤忠雄によって設計されたコンクリ造の建物に、モネとジェームズ・タレルとウォルター・デ・マリアが恒久設置された施設だ。地中なのに陽の光が差し込む建物がほんとうに格好良く、設置されている芸術作品が半ば食われていたぐらいだ。モネは睡蓮シリーズから5作が展示されていたが、靴を脱いで入ったところの向かいに一番大きい作品を置いているのが、かなりよかった。ジェームズ・タレルはかなり好きなアーティストで、地中美術館ではくぼんだ部屋のなかに入り込む作品がよかった。奥まで行くと距離感が失われ、目は照明の色を追う以外の機能を奪われる。きれいな作品だ。ウォルター・デ・マリアははじめて見たが、教会のような広い部屋に、木でできた無数の柱と、中央にGANTZのような黒玉が設置された作品だった。木の柱は三角形、四角形、五角形のものがあり、3本セットで{三角、四角、四角}みたいな感じになっているのが計27セットあった。数列的なリズムがあり、不思議な作品だ。

ベネッセハウスミュージアムへの心残りとともに、直島から高松港に戻る。到着後24時間にしてようやく香川のうどんにありつく。うまい。うどんはもちろん、天ぷらも安くて盛々なのが最高だ。店員がこっぴどく叱り・叱られていたが、それは彼彼女らの問題なのでとくにできることはなかった。

せとしるべ灯台を散歩する。かなりの距離があり、夜なのに釣りをしている人が多かった。周辺はバイカーのたまり場になっていた。風呂に入り、部屋に戻り、寝る。

2022/03/12

3/12から3/16まで恋人と観光で香川〜岡山に行ってきた。

この日はLCCの夕方便に乗る予定だったので、荷物をまとめ成田へ向かう。銀座からバスに乗るのが行きやすいことを知った。

成田ではフレッシュネスバーガーを食べた。第3ターミナルはその他のふたつに比べるとしょっぱい施設だったが、時間をつぶすには十分である。私は飛行機が割と苦手ではあるが、ジェットスターは思っていたよりも揺れず、無事に目的地まで運んでくれた。

ドーミーインには9時に着いた。ご飯を食べに出かけたが、まん防もあってお店はどこもやっておらず、商店街にはとくになにかをしているわけでもないホストとキャバ嬢しかいなかった。ドーミーインに戻り、夜鳴きそばと大浴場を利用する。露天風呂に入っているとものすごい音量でバイカーが通り過ぎて行ったので、香川はよほど治安の悪い街なのでは、という疑惑を深める(最終的に、そんなことはなかった)。部屋に戻り寝る。

2022/03/11

シネマカリテでブレッソンの『たぶん悪魔が』と『湖のランスロ』を見てきた。ブレッソンはほとんど見ているが、めちゃくちゃ好きだと思えるのは一番最初に見た『ラルジャン』だけかもしれない。私はブレッソンのことを厳格な形式主義者だと思いこんでいたが、今思えばそのフレーミングこそ不適切だったのだろう。アキ・カウリスマキやジム・ジャームッシュにパクられている即物的なカットも、濱口竜介にパクられているセリフ棒読みも、ドラマを排除し、むき出しの理不尽を突きつけるための手段なのだろう。一度見ただけでその中心にある目的を拾い、手段を評価するのは厳しい。なにかが始まる直前にぶった切られたり、なにかが終わった直後から始まる場面が異常に多いし、人物のプロフィールに関する説明はどれも明示的でなく、顔と名前が一致したころには映画が終わっている。きっと私はいろいろ読んだ上で、もう一周ブレッソンを巡礼すべきなのだろう。そして、このような作業を要求する作家がいることは、ネタバレや倍速の否定派に対するミニマルな応答になるんじゃないかと思ったり思わなかったりする。

2022/03/10

これは自己分析だが、基本的に作り置きをすると作り置いた分ぜんぶ食べ切るまで、別の食べ物を口にしなくなる類の強情さがある。昨日今日で3食キムチ鍋を食べた。まだ2食分は残っている。

2022/03/09

学部四年のとき、所属していたゼミを含む専攻の合宿で、八王子の大学セミナーハウスに宿泊した。吉阪隆正によるきしょい建物についてはまだ再認能力もなく、変な建物があるとしか思わなかったが、宿泊していたさくら館のコンクリがかっこよかったのは覚えている。森に囲まれているので虫が多くて嫌だった。

私は他学部からの参加だったのでアウェイ感がすごかった。あれだけアウェイな外泊は、後にも先にもあれぐらいだったと思う。どうも、親睦会で飲んだくれ、冷たいコンクリの床で夜を明かすのが風物詩らしいのだが、例年盛り上がってそうなってしまうというより、当の風物詩を風物詩として維持せんがために盛り上げようとしている雰囲気で、痛ましさがあった。大学生の飲み会は、バイブスが合う仲間たちと盛り上がって粗相かます分には可愛らしい思い出だが、特定のイベントが伝統的規範として酔いつぶれることを個々人に要求しはじめると、途端にきつさが増す。サークルなどで定例の飲み会はほとんどがそうなりがちだ。私は程よくビールをいただいてさっさとベッドに潜ったのだが、深夜に同ゼミの人がグロッキーで帰還し、しばらく息を整えた後、もうひとイッキせねばという使命感とともに再出兵するのを見てちょっとだけ同情した。なんにせよ、世界がまだ平和だったころの話だ。

翌朝の、教員と学生による採点付き卒論中間発表で、私は全評価項目ぶっちぎっての1位を取るのだが、それというのも私以外の構成員はほとんどが二日酔いで、デリケートな判断が出来なかったからに違いない。

2022/03/08

最終日のバンクシー展に行ってきた。一般的に風刺的な作品には「うまいこと言わんでええねん」的なやかましさがある。バンクシー展にも、NONSTYLE石田のボケを立て続けにかまされているかのようなやかましさがあった。はじめはなかなか見方がわからなかったが、井上になりきってツッコむポーズをとってみると、それなりに気分良く相手取れるように思えた。

思いがけずアンディ・ウォーホル見れたのはホクホクした。一方で、「天才か反逆者か」というウリ文句はほんとうにずさんな二者択一で、来場者投票によると天才のほうがやや優勢というのも含めて感じが悪かった(あと、動線がいまいちで人がジャムってたのはこのご時世キツさがある)。アーティストに許可なくやってる巡回展だというのを後で知ったが、まぁ、許可なく壁に絵を描くアーティストなので、どっちもどっちといえばどっちもどっちだ。反消費主義を掲げる芸術が骨の髄までむしゃぶられるという構図は、今も昔もcommonplaceすぎて、もはや皮肉としても通用しないだろう。

2022/03/07

京都みやげのおいしいわらび餅を食べた。

2022/03/06

ほんの3、4年前まで富士フィルムのSUPERIA X-TRA 400 (36枚撮り)が3本パック1500円程度で買えていたのが、いまやSUPERIA X-TRAもなくなり、代替品を謳うPREMIUM 4001本1,200円ちょいするのは、本当にあほらしくて笑えてくる。倍の枚数撮れるオートハーフに、monogramの学割を使って現像+CDデータ化を1000円でやってもらうとして、前までなら(¥500+¥1,000)÷72枚=¥20弱/枚だったのが、いまでは¥30弱/枚だ。この数年でランニングコストが1.5倍になったわけだ。

¥100弱/枚するスクエアチェキもたいがいだが、あれは物理でプリントしてしかじか値段なので、デジタルでパシャパシャ撮って、気に入ったものだけプリントするぐらいが、今日写真を趣味とすることの限界だろう。35mmフィルムカメラは、いつの日か不動産収入なりが入ってきたら再開したい。

2022/03/05

ダミアン・ハーストの桜は、見に行く気がそこそこあったが、ある必要最低限の説明を聞いてすっかり行く気が失せた。鑑賞選択の動機づけになるという点で、それらはいい批評だったと思うし、行く前に聞けてよかったと思う。しかしこう、「なるほど、そんなもんなら行かなくていいな」と納得させられることと、「そんなこと言われると、行きたかったのに行く気失せるなぁ……」と萎えさせられることの違いはどこにあるんだろう。おそらくは、批評家との信頼関係や、その語り口の繊細さや、こちらの期待のベクトルといった、絶妙なバランス関係に依っているのだろう。

で、ある必要最低限の説明とは、「ダミアン・ハーストなら、インスタレーションが見たい」だ。

2022/03/04

ここ半年で知ったなかでは、Robson Jorge & Lincoln Olivettiの同名アルバムが群を抜いてよい。一曲目「Jorgeia Corisco」からブギーなディスコで景気が良いし、「Pret-à-porter」「Squash」のようなソウルギターも大好物だ。ブラジルのソウルはTim Maia周辺が激アツとは聞いていたが、いかんせん情報が少なくて、なかなかdigれずにいたジャンルだ。この二人はTim Maiaとも仕事をしていたプロデューサーらしい。今年はブラジル音楽に詳しくなろうと決意した。

2022/03/03

連載中の作品に対して展開の考察を行い、それが的中していたときに誰がどう得するんだろうか、と思うようになってきた。『タコピーの原罪』は私が能動的/受動的に見てきたいくつかの考察通りに進展しつつあるが、考察を見てなければもっと面白く読めたんじゃないかと思いつつある。あぁ、やっぱりこうなるか、という答え合わせの要領で最新話を紐解くことは、なにかもっと重要な経験を取りこぼしているような気がする。Nanayの言い方だと、注意が凝り固まっており、自由でオープンエンドな美的経験をしそこねているのだ。

考察というのは、当たっていたら当たっていたらで、フォア向きのネタバレでしかないんじゃないか。ネタバレになんらかの落ち度があるのだとしたら、同じタイプの落ち度が考察にもあるはずだろう。ただ、考察は当たっているとは限らないので、鑑賞を毀損する可能性が相対的に低いというだけだ。そして、この「当たっているとは限らない」という事情が考察を正当化し、ネタバレにはあるような批判と配慮がほとんどまったく見られないというのは妙な話だと思う。加えて、ネタバレにはない考察の弊害として、物語が予期せぬ方向へと転回していく妙ではなく、それを予想し的中させただれかの目を称賛するモードが、少なからず入り込んでしまう点もありそうだ。そんなことをしたって、鑑賞にとってはなんらプラスではないだろう。

変な話だが、良い考察というのは、①極めて整合的で(的外れではなく)、②しかし意外性があり(予定調和ではなく)、③蓋を開けてみたら外れている、というのを合わせて満たすような考察なのだと思えてきた。ファンコミュニティでああだこうだと予想し、極めてもっともらしくかつ意外性のある予想が立ったにもかかわらず、まったく異なる方向へと物語が舵をとった瞬間こそ、連載作品の醍醐味だろう。当たっていた考察は、優れた考察であり、考察としては“成功”した考察なのかもしれないが、鑑賞に対するポジティブな貢献はほとんどないのかもしれない。だとしたら、考察における成功基準こそ考え直すべきだろう。

2022/03/02

手元にあった15,000字ちょいの原稿をせっせと英語に訳した。とはいっても、大半の仕事はDeepLとGrammarlyがやってくれるので、銭のやることは確認と微調整に尽きる。DeepLGrammarlyはいまや私の知的活動の絶対的基盤であり、それらなしには私はベルイマンの映画に出てくる牧師並に無力だ。修士のころはせっせと辞書を引きながら、呆れるほどの時間を書けてようやく論文が一本読めるという始末だったのが、今ではDeepLにおんぶに抱っこだ。もちろん、あれはあれで英語を読む基礎体力には繋がったのだが、当時からDeepLを使っていれば、もっと立派な修士論文を書けただろう。Grammarlyは昨年有料会員になって使い始めたのだが、同年、DeepLとのコンボで査読を一本乗り越えたのがだいぶと大きな自信になった。

DeepLに投げる前提で文章を書いていると、「こんな言い回しはDeepLが困っちゃいそうだな」というので、書く段階からしてすでに表現がすっきりしてくる。工程としては、あたかも英語から日訳されてきたような下書きを私が打ち出し、それをDeepLが英訳し、Grammarlyが添削するという具合になる。「ここは一文が長い」「この類義語を使うべし」「これはいらん」というGrammarlyの添削に従って文章を切り詰めるのにも、特別な快楽がある。つまるところ、私はこのような論文執筆スタイルをかなり気に入っているのだ。それは、詩的にかっちょいいエクリチュールを編み出して格好付ける類の、私が薄ら寒いと思っている執筆活動のちょうど正反対にある。

ところで、前述の原稿を一通り訳した成果として、5000ワードちょいの英文が得られたのだが、これは「日本語の文字数:英語のワード数は、だいたい2:1だ(日本語2000字なら英語1000ワードになる)」という通説とずいぶん違わないか。ウイスキーで言うところの、天使の取り分というやつなのだろうか。

2022/03/01

はじめてパッタイを食べたが、かなりfor meだった。あまり意識して食べてこなかったが、タイ料理が相当口に合うというのはここ一年で発見したことのひとつだ。もう3月だが、今年はタイ料理をいっぱい食べる年にしたい。

2022/02/28

ディズニーシーに行ってきた。ラインナップは、トイ・ストーリー・マニア、アクアトピア、スモークターキーレッグ、ビッグバンドビート、マリタイムバンド、ホライズンベイ・レストラン、シーライダー、センター・オブ・ジ・アース、海底2万マイル、シンドバッド、チュロス(フォンダンショコラ風)、ソアリン、タートル・トーク、マジックランプシアター、チュロス(シナモン)。いつのまにか導入されているスタンバイパスというシステムがやたら難しかったが、めぼしいものには一通りアクセスできてよかった。タートル・トークの挨拶が無言になっていたの情緒があった。

2022/02/27

カレー、四食目からは祈りになる。

2022/02/26

カレーというのは一食目は喜びだが、二食目からは作業になり、三食目からは修行になる。

2022/02/25

カルヴィッキ本のレジュメをちょきちょきと切った。最近、描写の哲学に対する関心が薄れてきているのだが、その何割かは、私のやりたいことをそっくりそのままカルヴィッキがやっているからだろう。そして、問題に対する回答も私の考えている回答とおおむね重なっており、じゃあもう彼に任せればよかろう、という気持ちが少なからずある。

一般的に言って、哲学をやっていると、自分の考えていることなんてだいたい先人が考え切っているみたいなことが往々にしてある。とはいえ、翻訳したり整理したり敷衍してりとやることはそれなりにあるので、そこは別にいいのだが、同時代でかなり尊敬できる研究者がすでにやっていることを、ラディカルな差別化の目処もなく追従するのはやっぱりむずかしいだろうなと思う。「博士論文を書く者は、誰であれ、そのトピックについて世界一詳しいのでなければならない」とまで言うのは大げさだなぁといつも思うのだが、「そのトピックについて書く者が、誰であれ、読まなければならないような博士論文を書かなければならない」はそれなりに真実だと思っている(思っている、というよりも覚悟している)。

2022/02/24

昨日作ったタコライスが残っていたので、今日の昼はタコライスを食べ、夜はもちろんタコライスを食べた。なにか書こうとしたが、タコライスについては「作った」「食べた」という以上に書くことがなにもなかった。タコライスに哲学はない。

2022/02/23

イタコになってずっとビアズリーのことを調べているうちに気づいたが、1973年の「What Is an Aesthetic Quality?」を除けば、ビアズリーはほとんどシブリーに言及しておらず、いろいろとツッコまれてきたはずなのにすっかり無視している。これは、ビアズリーが絶えずやり取りをしてきたディッキーとは対照的だ。アメリカ美学会とイギリス美学会ではまだ距離があったということなのか、ビアズリーのプロジェクトにとってシブリーの理論は対して関わらなかったのか、その辺はよくわからない。

2022/02/22

去年導入したガジェットでもっともよかったのは、Notionとホットサンドメーカーだろう。Notionについては、論文ノートの管理や、アイデアの整理、論文の下書き、ライフログ、博論計画までぜんぶこれ一本でやるようになった。基本的には記憶力が人並み以下であることを自覚しているので、こう脳の役割を外部化できるとストレスフリーだ。Notionはまだまだ使いこなせていない機能がありそうなので、Notion大好き人文系研究者を集めて活用セミナーをやってくれるならぜひ聞きにいきたい。ホットサンドメーカー活用セミナーでもいい。

2022/02/21

芸術の理論はなんぼあってもいいのだが、生活の理論はたいてい野暮かつ余計なお世話なのだ。私を理論へと駆り立てる原始の問いはいつだって、ゴダールはどう見ればいいのか、タランティーノはなぜあんなに笑えるのか、私はなにゆえこんなにもエドワード・ヤンが好きなのか、といった問いなのだ。この点、私は近年の分析美学が、芸術哲学からのバックラッシュで日常美学に接近していることを、必ずしも好意的に思っていない。『Aesthetic Life and Why It Matters』を着手したので、対談だけさくっと読んだのだが、三人の書き手はみな「どうすれば美的により良い生活を送れるのか」という問題を共有しているようで、ノリが違うなと感じた。「美的福祉」とか言っていたビアズリーもその手の人だったので、JAEに載っている一連の論文が再評価される日も近いだろう。それはともかく、という話だ。

「美的な生活とはどういう生活か」という、whatで始まる問いなら私もそれなりに気になる。他方、「どうすれば美的により良い生活を送れるのか」という問いは自己啓発セミナーじみていて胡散臭いだけでなく、生活というものに対する根本的な誤解に立脚しているようにすら思う。美的価値の本性がなんであるにせよ、また、それを最大化する方法がなんであるにせよ、本や論文で理論を仕入れて実践するようなものとはとても思えないのだ。むしろ、即興とトライアルアンドエラーが生活の本質なのだとしたら、美的生活のhow to理論ははじまりからして見当違いなのだ。もちろん、理論によってトップダウン的に、暮らし向きが美的にベターになる可能性は少なからずある。しかし、それとは別のところで(そして、私の考えではより核心的なところで)、即興とトライアルアンドエラーのなかでしか出会えない生活上の美的経験があるのだとしたら、それを取りこぼすのは片手落ちだろう。そして、それは理論というフォーマットですくい上げようとしても、どうしても取りこぼしてしまうものなのではないか。だとすれば、われわれは粛々と生活する以外になにができるのか。

結局、哲学には「どうすればいいのか」と「とはなんなのか」というふたつのグランドクエスチョンがあり、私の興味はもっぱら後者に傾いているということになるだろう。それはそうと、『美的生活とその重要性』なんていうタイトルの本、ロペスらを知らなかったとしたら私にとても手を伸ばそうとは思えない訳される予定の森さんにはセンスいい邦題をお願いしたいところ。

2022/02/20

美的理由と快楽主義まわりのサーベイを書いた。基本的には森さんのサーベイに詳しく書かれているトピックなので、改めて紹介するべきか迷ったが、ネットワーク説に対する快楽主義の擁護をひとつ提出しておきたかったわけだ。今年の応用哲学会は出すかどうか迷っていたが、これを書いているうちに「ビアズリーの美的価値論再考」というテーマが浮かび上がってきたので、そちらで発表しようと思う。いずれにせよ博論のテーマ的に、一度はビアズリーのイタコをしておかなければならないはずだ。

2022/02/19

日記をはじめてから一年が経った。総文字数は10万字ちょい。毎日ちょっとずつなにかしらを書く状態を保つのは、精神衛生上それなりによいことだったと思う。とくに、研究上の立場はころころ変わるので、その時々で直観を表明しておくことは、後で見返したときに自己発見があってよかった。

辞める理由もないので、今後も続けていこう。

今日はTyler Taorminaの長編デビュー作『Ham on Rye』を見た。気味の悪い映画だった。

2022/02/18

K-POPにもすっかり飽きたのだが、結局のところ、次になにが出てくるのか分からないフェイズが面白いのであって、60〜70点ぐらいのものがコンスタントに量産されるようになった文化はしょうもなくなる。ちょっと前までは、暴力マシマシなガールクラッシュばかりでほんとうにうんざりしたのだが、最近はマーベルの女性ヒーローみたいな、変身して飛んでいきそうなコンセプトばかりで引き続きうんざりしている。なにかひとつ、飛び抜けた楽曲なりグループが出てくれば面白いのだが、IVEにせよNMIXXにせよ、及第点取りにいってる新人ばかりで残念だ。

もう結構前からK-POPに関しては愚痴ばっかり言っているのだが、not for meだと認めてすっかり無視できないのは、まだなんらかのブレイクスルーを期待しているからに違いない。

2022/02/17

お寿司を食べた。本マグロ赤身、はまち、うなぎ、カニ味噌軍艦、あぶりえんがわ(みそ)、あぶりえんがわ(塩レモン)、サーモンユッケ、海苔すまし汁。ひさびさだったので冒険せず、真摯にいつメンを食べた。武蔵小杉と目黒はいつも行列なのだが、中目黒に新しくできた店舗はがら空きで、たいそう快適な食事ができた。

2022/02/16

恵比寿映像祭に行ってきた。今年はこじんまりとした規模感で、有料の展示もスキップしたため、1時間半ぐらいで見終わってしまった。たいていの作品はわけわからんのだが、ひらのりょうの映像インスタレーション《ガスー》はちゃんとしていてよかった。また、わけわからん作品のわけわからなさにもヴァリエーションがあったのだが、サムソン・ヤン《The World Falls Apart Into Facts》はシンプルにわけがわからなくて、いくらか好感を持てた。

それはそうと、昨年の恵比寿映像祭でなにを見たのか、プログラムを見てても一向に思い出せないのが悲しい。今年見たものも、来年にはほとんど忘れてしまうのだろうか。それはそれでいいことなのかもしれない。

2022/02/15

芸術だろうがホラーだろうが、選言的定義やクラスター説に納得させられたことがほとんどない。それは、シンプルに言って、「Xであるとは、F1あるいはF2あるいは……のどれかである」や「Xであるとは、F1、F2……のうちの多くを満たすものである」と言われても、Xについて肝心なことを知れた気がしないからだ。(ずらりと並んだ性質セットが美的にエレガントでない、という問題はいったん置いておこう。)

ほとんどの選言的定義やクラスター説は、説明項となる性質セットの歴史的変化を認めている。ある時代にホラーだとみなされている作品は、その時代のホラー性質セットのどれか/多くを例化するからホラーであるのだが、今日のホラー性質セットからすれば、それはホラーだと言えないのかもしれない。それは、ある程度までは実態に即したものだろう。しかし、そういった選択肢やクラスターの変遷にもかかわらず、カテゴリーが同一性を保てているのは、制作者や鑑賞者の間に期待のネットワークが成り立っているからだと述べられるとき、芸術哲学者は肝心な探求を仕事半ばで放棄しているように思われるのだ。この定義では、時代ごとにそのカテゴリーに関して形成されていた期待を調査し、最終的にある作品があるカテゴリーに属するかどうかを判定できるのは、歴史家や社会学者だけだという話にもなる。

美学者や哲学者が、そういった解決にどうして満足できるのか私には分からない。繰り返しになるが、あるカテゴリーの内実が選言的だったりクラスター的であることは、世界や人間や文化に関する真実なのかもしれない。しかし、紛れもない真実なのだとしても、クールすぎて、知ったところでうれしさの少ない真実だろう。前にも書いたが、結局、私には定義論の正解がぜんぜん見つからない。

2022/02/14

エスパスルイ・ヴィトンでギルバート&ジョージを見てきた。ルイ・ヴィトンは毎回入るたびに緊張するのだが、スタッフの方々はほんとうに親切で、今回もぼーっと突っ立っていたら作品の解説をしてくれた。《Class War, Militant, Gateway》はステンドグラスのようなツヤツヤした写真コラージュで、でかいとは聞いていたが相当でかかった。メキシコ壁画運動っぽさもある。印象としては、Singing Sculpture》の人を食ったような奇抜さやシニカルな態度はほとんどなく、問うべきものを問い、向かうべきところへ向かう実直さ、素直さの感じられる作品だった。

2022/02/13

朝食:ソーセージキャベツサルサチーズのメキシコ風ホットサンド、コーヒー

昼食:昨日作った麻婆豆腐の残り、白米、きゅうりのキューちゃん、紅茶

夜食:先週実家に帰ったときに貰い、冷凍していた肉まん、ラスイチ

2022/02/12

先輩方からの鼓舞によって、博論を書かねばという気持ちを新たにした。もっぱら悪い意味だが部分的には良い意味において、私はいまだに博論のことをほとんど気にすることなく読んだり書いたりしている。しかし、当然ながら、博論というのは書かれなければ書かれることはないのだ。

2022/02/11

ワークショップのミーティングで、図らずも美的価値の話についての理解が深まり、マネについての理解も深まった。私はやはり少なからず美的快楽主義者にシンパシーを覚えているらしい。2021/09/13に書いたように、「快楽」という語では狭すぎるので「利得」という語を使いたいのだが、ともかく、人間には生物的・社会的にポジティブな経験とネガティブな経験があり、前者を追い求める傾向性が、美的な価値や選択や規範に関しても基礎づけになると考えている。それから、線引き問題についてはあまり気にしていないというか、直感としても、あえて切り出すほど“美的”快楽が独特とは思っていない。ナナイの例で言えば「セックス、ドラッグ、ロックンロール(私の理解では、ものをぶっ壊す快楽)」を、映画を見る快楽や、海を眺める快楽から質的に区別することが実態に即しているとは思えない。「休日の余暇」というカテゴリーに、選択肢となるコンテンツがフラットに並んでいるのが、私の目から見た美的生活だ。

それから、私がマネの絵を好きなのは、ちょっと怖いからだと分かったし、ちょっと怖いのはぎこちないからだと分かった。たいてい、描かれている人々の目はうつろで、視線は合わず、堅苦しいポージングをしている。それを踏まえて見ると、《ラテュイユ親父の店》における男性の覗き込むようなポーズはぞっとするし、明るい色使いのわりに、マネのなかでもとりわけ怖い絵だと思う。

2022/02/10

ビアズリーとシブリーの比較は、もう今更感があるかもしれないが、分析美学という分野の関心や射程を考える上でよい切り口だ。

まず、とりわけ興味を持っていたトピックということで切り分けるなら、ビアズリーは芸術批評で、シブリーは美的なもの、ということになるのだろう(もちろんふたりとも両方やっているのだが)。ビアズリーは、キャロルによってリバイバルされる批評の哲学の重鎮であり、美的経験についてあれだけこだわっていたにもかかわらず、基本的には芸術の話に重点が置かれていたと思う。シブリーは、同様に芸術批評の言葉づかいに大きく触発されつつも、それに限られない、あらゆる美的判断に関心があったはずだ。日常美学などへとつながっていく、プロパーな美学=感性学は、ビアズリーよりもシブリーによって担われていたはずだ。

方法としては、私は長いこと誤解していたが、言語論的転回をより重く受け止めたのはシブリーであり、ビアズリーの議論には少なからず現象学的な成分がある。というか、シブリーはイギリス人で、オックスフォード周辺で学んでいたのだから、さもありなんといったところか。ビアズリーがいたアメリカでも日常言語学派の影響は大きかったと思うが、ビアズリーの議論が言葉やその用法にこだわっているかというと、必ずしもそうではないと思う。とりわけ、パンチラインとして出てくる美的経験や、それをもたらす美的性質(unity, intensity, complexity)ついては、明らかに言葉上で確認できるものではなくて各々の現象学的経験において確認できるものであり、その共有可能性にベットされているように思う。

人物としては、ビアズリーがなんちゃら会長やらをたくさん担い、同時代のアメリカ美学会のドンだったのに対して、シブリーはもっと求道者的というか、遅筆で、完璧主義者なイメージがある。ビアズリーは公民権運動に参加していたのもあり、社会改革にかなり関心があったようで、その延長で美的経験や美的観点といったアイテムを訴えていたような感もある。つまり、美学を通して社会の構成員がより豊かな暮らしを送れるようになることを目指すという、社会奉仕的な態度が少なからずあったと思われる。その点、シブリーは良くも悪くも内省的というか、人前に出て改革を訴えるより、粛々と自分のことをやっているイメージがある。教え子だったコリン・ライアスによれば、めっちゃ厳しいけどユーモアのある先生で、長いことうつ病に、晩年は白血病に苦しめられていたらしい。

どちらも読んでいて面白いというのは言うまでもないが、分析美学の紹介として一冊訳すなら、たしかにシブリーの論集のほうがいいなと思う。主題や方法のオタクっぽさというか、万人受けしない感じというか、地味だからこそエキサイティングだというのを感じ取れるかどうかで、向き不向きを読者に分かってもらいやすいと思う。ビアズリーだと思いも寄らない方面から変なディスが飛んできそうだが、シブリーなら畑が違うことを察して貰えそうというか。とはいえ、Amazonにとんちんかんなレビューを書かれそうなのはどっちにせよ変わりないのだが。

2022/02/09

フレドリック・ジェイムソンの映画論をつまみ読みする会、最終回をしてきた。『目に見えるものの署名』はほとんどの章を読んだことになる。いろいろと学びの多い会だったが、この人はまったく信念の人で、信念の異なる作品や批評家に噛み付くのを基本ムーブとする点は最後までブレなかった。本人が映画批評のつもりで書いていたのかすら定かではなく、いわゆる「作品をダシにした社会批評」を堂々とやっているのだろう。私に限らず、表象文化論のフレンズにとっても苦痛の多い読書だったのは、部分的にはわれわれがジェイムソンほどオラオラしていないからだろう。総じてよく分からないことばかりの読書会だったが、分析系の文献ばかり読む暮らしの解毒にはなったかもしれない。

2022/02/08

表現主義に続き、抽象絵画に関するスライドを作っているのだが、この手の試みの意図はともかく、面白さを伝えるのは一筋縄ではいかないなと感じている。ある態度を徹底した結果、装飾が剥ぎ取られミニマルになった、みたいな話を聞かされても、だからなんだとなりかねない。芸術的価値を理解できることと、作品を面白がれることは当然別問題だ。遅ればせながらというか、最近はますます後者の重要性に気づきつつある。

2022/02/07

ダムネーション』がいい映画だったので気分がいい。相変わらずタル・ベーラという監督のことは頭では分かっていないのだが、タル・ベーラ的な質感というか、その特徴的な美的性質のことは目を通して分かりつつある。それにふさわしい美的用語はまだ見つけていないのだが、強いて言うならば、「終末を前にしたポーカーフェイス」のような質だ。無気力、自暴自棄、退屈をブレンドしたような情緒で、色はもちろん黒だ。実物は見たことないが、マーク・ロスコの《Black on Maroon》や《Black on Gray》には似たような質があると思う。

2022/02/06

depi読でカルヴィッキ本のメタファー章を読んだが、画像におけるメタファー以前に、言語的メタファーすらよく分かってないことに気づいた。「隠喩」ということであれば、比喩表現のうち直喩のマーカーがないもの、ということになるのだろうが、論文を読んでるとどうもmetaphorっていうのは隠喩よりも広かったり狭かったりする現象として扱われているような気がする(あるいは、metaphorの用法は隠喩とぴったり対応するそれ以外にもある)。例えば、日常的には結び付けられることのない、距離のある概念ふたつを並置すること(いわゆるデペイズマン)も、しばしばメタファーだと言われているだろう。この意味合いで行くと、「ミシンと蝙蝠傘との解剖台の上での偶然の出会い」はメタファーだし、キリコやマグリットの絵はメタファーだということになる。話に聞くには、キャロルが考えていた隠喩はこういった概念連関のことらしい。さらには、日本語の「隠喩」も、このような広くて狭いmetaphorの訳語として使われることがあるため、一層ややこしい。

それはそうと、義務教育の国語では直喩と隠喩と擬人法を教えるのだが、擬人法だけカテゴリーミステイクだろう、というのはいつも気になっている。問題などで、三つのうちどれかを答えさせるものが定番なのだが、直喩の擬人法もあるし隠喩の擬人法もあるだろう。

2022/02/05

ナナイのAesthetics: A Very Short Introductionを読み終わった。美的経験まわりの話をサクッと読めるいい本だ。ただ、ここでも西洋中心主義を反省する成分が強すぎて、「美学はこうあるべき」と「美学はこうなんです」がいくぶん混同されているきらいはある。普遍の追求はやめて謙虚になろう、というメッセージは耳障りがいいが、普遍を追求する論者は近代も現代も少なからずいるだろう。いずれにしても、美学史の紹介をあまり期待すべきではなく、「今日において美学をどうやっていくか」という本として読むのが最適だと思う。

「注意」を中心に美的なものを構築していく(ナナイにとっては主要の?)アイデアははじめて知ったが、汎用性が高く、いいなと思う。美的経験にはさまざまなモードがあるが、主要なもののひとつは、分散的でオープンエンドな注意なのだそう。それは、張り詰めた集中とは区別される経験であり、気晴らしになり、世界を初めて見たかのような仕方で見せてくれる。ナナイが少なからず異化のモデルに依拠しているのは知らなかった。

また、映画批評家をしていた経験から、映画祭でのエピソードをたくさん紹介しているのも、ナナイならではで読み応えがある。美的に「色あせてしまった」せいで、どんな映画を見ても楽しめなくなってしまった大御所批評家は、集中力がありすぎてオープンエンドな注意ができていない、という話はわりと説得的だろう。

2022/02/04

最近の主なプロジェクトは、「美的関与における知識ないし偏見、カテゴリーなど文脈の役割、それによる美的知覚や美的判断の変質」と言えそうなのだが、その反対の現象にも興味がある。シブリーが言うところの述定的な美的判断、ザングウィルが言うところのカテゴリー独立な美的経験、すなわち、絵画のプロフィールや描写対象を脇に置き、デザインとしての色や線や形を愛でるような美的関与のことだ。そういったデザインのみに注目し、堪能し、(そうしたければ)判断を下すことは、場合によっては困難だと言われるのだが、それでもなお確かに実感としてなされるときがある。抽象画を見るときはとくにそうだろう。言い換えれば、ウォルトンが論じたようなカテゴリーの呪縛には、たぶん例外があるのだ。

もちろん、美しいとされるデザインにはサークル相対性があるのだが、それでもなお、単なる色や線や形が美的関与の対象となる、という現象は興味深いものだ。最近だと、印象派展でユリィのポストカードが売れまくったという話なんかは面白い。作者や作品の背景とは関係なく、物販でポストカードでも買って帰ろうというときに多くの人から選ばれたわけだ。なんだか知らないがデザインを気に入り、ポストカードを買って帰る経験こそ、プロパーな美的関与なんだと思う。

2022/02/03

美的経験に関する任意の説明は、お酒が入っているときに芸術作品(とりわけ音楽作品)への没入感が増す現象について説明できなければならないと思う。知らんけど、LSDでもマリファナでもいい。こう、身体的にしかじかの状態であるからこそ強調される快楽経験を美的経験と呼びたくない向きは、ちょっと潔癖すぎるし、実のところ美的経験などしたことがないのではないかとすら思われる。夜中に暗い部屋でビールを飲みながら、宇宙船に乗って飛来してくるスターチャイルドを目の当たりにすることで成立する経験が美的経験でないとしたら、私にはどれが美的経験なのか分からない。取り憑かれたように絶叫するグレン・ゴインズと、爆撃のようなホーン隊、煙を吹き出して着陸するマザーシップ、そこから出てくる銀ピカのジョージ・クリントン。残念ながらその強度は、シラフでいるときには半減する。

2022/02/02

新年を迎えてもたいした実感はないが、恵比寿映像祭が迫ってくるとまた一年過ぎたなぁ、という手応えがある。私の一年というのは、この2週間という短すぎる会期のイベントを、キャッチできるか逃すかで決まるような感さえある。

今年のテーマは「スペクタクル後」ということで、趣意文でもドゥボールが言及されていたりするのだが、この類のテキストの例にもれず、なにを言っているのか/言いたいのかはほとんど分からない。とりわけ、「後」でなにを意味しているのか謎だ。すでにスペクタクル的でない時代が到来しているというのは控えめに言っても不正確だろうし、スペクタクル的な時代を乗り越えていこうという宣言なのだとしても、その努力を映像作品が具体的にどう担っていくのかは不明確だ。前に勉強会でもこの類の趣意文について話したことがあり、基本的には雰囲気作りでしかないということで納得しつつあるのだが、展覧会に行ってこう中身のない文章を延々読まされると、ある段階でむかついてくることもあるだろう。

あるいは来場者に特定の事象について考えてほしいというぐらいのことであれば、「スペクタクル後」という題だけ投げて、なんの説明もしない、というスタイルこそクールではないかという気もする。懇親丁寧説明しているかのようなポーズだけとるのが薄ら寒いのだ。なんにせよ、恵比寿映像祭には行くことになるだろう(不幸にも忘れない限りで)。

2022/02/01

表現主義に関するスライドを用意していて、村山さんのプロジェクトであるところの画像表出や視覚的修辞のことがようやく分かってきた。画像はいろんな内容を持つ。その中には、一方で「この画像はXを描いている」といった描写対象(ナポレオン)に関する内容もあれば、「この画像はXを性質Fとして描いている」といった描写対象の視覚的性質(しかめっ面である)に関する内容もあり、他方で「この画像は性質Eを表出している」といった情動的性質(怒り)に関する内容もある。画像表出の非修辞的なルートとは、XをFとして描くことで、視覚的性質Fと紐付いた情動的性質EをXに帰属する、すなわち「XはFなのでEである(ナポレオンはしかめっ面をしているので怒っている)」を伝達するというルートだ。一方、画像表出の修辞的なルートとは、ある視覚的性質を描写されている視覚的性質Fとみなさず「この画像は性質Eを表出している」だけを取り出し、これを「この画像はXを描いている」と合わせて、「XはEである」を伝達しているとみなすルートだ。エル・グレコだったら、「縦に引き伸ばされたような造形」を人物に帰属される視覚的性質とみなさず、あくまで特定の非視覚的性質(ここでは神聖さや霊性)を表出するマーカーとみなし、こちらを人物に帰属させる、というのが視覚的修辞になる。

「彼はしかめっ面だ」は「彼はしかめっ面であり、かつ怒っている」を伝達しうるが、「彼は狼だ」はふつう「彼は狼であり、かつ獰猛な性分だ」を伝達することなく「彼は獰猛な性分だ」を伝達しうる。このように、文字通りの意味が、伝達過程において消去(変換)される現象は言語においても存在し、それに相当する画像表現こそが視覚的修辞なのだろう。

私と村山さんの、昔からの対立点は、視覚的修辞において役割を果たしている記号を、描写内容という語のもとに含めるかどうかである。エル・グレコにおける「縦に引き伸ばされたような造形」や、アボガド6における「頭を締め付ける万力」や、少女漫画なんかにおけるコマ縁を彩る花々は、「描写」されているのか、という問題だ。村山さんがそれらを描写内容ではないと考えているのは、それらが果たす視覚的修辞という「機能」に依拠しているからだろう。それらの記号を通してなんらかの非視覚的な性質を伝達することは、たしかにそれら記号の意図された機能であり、「人物Xは縦に引き伸ばされたような造形を持つ」といった命題を伝達することは意図されていない。

私はそれにもかかわらず、エル・グレコは「縦に引き伸ばされたような造形を持つ人物」を描いているし、アボガド6は「頭を締め付ける万力」を描いているし、少女漫画コマ縁花々を描いている、という言葉遣いを好む。それは、他の描写対象とまったく同じ原理でseeing-inされるからというだけでなく、視覚的修辞という意図された機能を果たすことは、それらを描写内容から除外する理由にはならないと考えているからだ。実際、これらは言葉遣いの問題と、概念マッピングの問題でしかないのだが、単純に言って「描写する[depict]」という語のより日常的な用法としては、こちらに分があると思わないでもない。すなわち、エル・グレコは「Xを縦に引き伸ばされたような造形を持つ人物として描いている」し、アボガド6は「頭を万力で締め付けられた人物を描いている」し、少女漫画は「人物Xと、その周囲に花々を描いている」というふうに、ふつうわれわれは説明する。《ウルビーノのヴィーナス》の足元にいる犬は、忠誠といった高次性質を人物に帰属させる記号であるからといって、「犬は描かれていない」というのはまったく許容不可能である。思うに、分析すべき「描写」とは、このレベルでの現象である。そして、村山さんが懸念されている「人物Xは縦に引き伸ばされたような造形を持つ」のような内容は、さらなるコミットメントを要する主張内容であり、ただちには伝達されるものではないため、実のところ懸念する必要はない。

別の言い方をするなら、村山さんは画像表面という歪んだレンズの先にある整合的な別世界を「画像世界」とみなしており(だからこそ、フィクション作品や物語的な宗教画などを例示されるのだろう)、私はもっと浅瀬の、画像表面と近い位置にある、歪みっぱなしの世界を「画像世界」とみなしている、ということになるのだろう。

2022/01/31

玄関の電球をついに交換した。廊下照明の立ち上がりが遅い&白色なのが不都合なので、よほどのことがなければ玄関の照明で済ませているのだが、酷使された挙げ句昨年11月ごろにプツリと切れてしまった。そして、電球ひとつ買ってくるという作業は、痛いほど困難だ。なにかのついでに思い出せることでもないし、わざわざ出かけてどうにかするほどのことでもない。また、交換するにしても脚立はなく、デスクチェアはいちど解体しないと居間から搬出できない。私は惰性と暗闇に浸かって2ヶ月を過ごしたわけだが、Amazonに頼んだら翌日には届いたので、折りたたみのローテーブルを足場にして交換した。光あれ、といってスイッチを押すと光があった。

2022/01/30

『ビリディアナ』を見ている途中、トイレの天井から水漏れが発生するという珍事に見舞われた。方方とやりとりをし、水漏れもやがて自然に止まった。しかし、こういうときに誰に連絡してなにをしてもらえばいいのかとっさには思いつかないのは、方方(不動産と管理会社と大家と保険会社)が結託して、責任の所在をあいまいにしているからでもあるだろう。保険会社の24時間サポートに電話したら、つながるまでに10分以上もかかった。今回はポツポツぐらいの水量だったのでバケツで一時しのぎできたのだが、ザーザーぐらいの勢いで噴水しているときに、「オペレーターが空きしだいお繋ぎします」とか言って待たされたら気が狂うかもしれない。

2022/01/29

アピチャッポン特集の原稿を書いているのだが、批評を書くときには論文を書くときにはない、摩擦のようなものがある。いくらやっても、こんなんでいいのかという自問と、ちょっと強引でもそこは押し切るしかないという切迫感がつきまとう。人様にお金出して読んでもらうだけのものを生み出せたという達成感とともにパリッと校了したことはほとんどなく、世にさらされたものはいつもゴワゴワしていて不格好だ。摩擦の何割かは、やたらと短く、期限の定まった執筆条件(加えて、報酬というプレッシャー)にも由来するのだろうが、にしても、作品についてなにかクリティカルなことを書くのはほんとうに難しい。いわゆる、正解のないことをやる、というのはまさにこういうことなのかもしれない。

とはいえ、アピチャッポンについてはまずまずのものが書けているし、なんにせよ〆切を守って提出できれば、書き手としてはとりあえず及第点なのかもしれない。

2022/01/28

久々に目黒(JR目黒駅のこと)まで出たが、なんだかすごく気分がよかった。私は目黒のことがかなり好きなのかもしれない。下目黒には4年住んでいたのだが、あそこから自転車で権之助坂をがーっと登り、白金を通って三田まで登校するのは、私の人生におけるもっとも豊かな経験のひとつだろう。もうとっくにさくらデリはないし、やきとん玉やもフィッツロイもないと知って悲しくなった。マヤバザールは相変わらずあの変わったアパートの一室にあった。今日はシナモンパウダーを買ってきた。

2022/01/27

先日YouTubeで見た、Nick RiggleとBrandon Politeのディスカッションが良かった。Riggleはいまや美的なものの議論のメインプレイヤーだが、ちょっと変わったことを考えているので、この動画を見るまでなかなか理解できずにいた。彼はよく「コミュニティ」という語を出すのだが、それはおおむね個人主義的な従来の美学に対するオルタナティブのようだ。美的経験にせよ美的価値にせよ、従来の美学は、その基礎づけをなんらかの個人経験に求めがちだ。個人的な快楽を与えてくれるからこそ、Xには価値があり、Xにアクセスすべきだ、といった具合に。これに対しRiggleは、個人主義的なモードを認めつつ、共同体主義的なモードを提唱しようとしている。Riggleはそういった美的経験を「vibing」と呼んでいるが、good vibesとか言うときのvibeのことだ。たぶんそのニュアンスは、集団と場の共振とも言うべき「いい感じ」であり、面白いのは、そのために必ずしも考えや行動が収束する必要はないという点だ。私とあなたは、結果として合意に達しないにせよ、vibingできる。なんとも西海岸らしい精神性で、スケボーやってるのも含めて、Riggleという美学者のことがかなりよく分かった気がする。ガツガツせず、勝ち負けにこだわらず、ポカポカ陽気に仲のいい友達とつるむ感じ。それはもう、理論というかひとつのライフスタイルなのだろう。

2022/01/26

認知シャッフル睡眠法で「ちゃ」から始まる語を回していたのだが、「茶色」がなぜ茶の色なのか腑に落ちず、考え込んでしまった。お茶の色なんてさまざまだろうに、なぜあのbrownの色を指す語として「茶色」が生き残ったのか。「土色」とかのほうがずっとそれらしいのではないか。そういえばbrownの語源はなんなのか(これは後で知ったがクマらしい)。あれこれ考えていたら入眠したが、ひさびさに夢遊病が発動して、朝起きたら隣にもうひとり分の枕がカバー付きの状態で設置されていてびびった。

2022/01/25

日本酒は美味しいが、720mlは買ったそばから切らしてしまう。1000円ちょっと出せば、ビール半ダースか、日本酒720mlか、ウイスキー700mlが買えるので、よくスーパーで迷っているのだが、日本酒だけ圧倒的に消費が速い。コスパを考えると、バランタインのファイネストとコーラを買いだめしといて、普段飲みをコークハイにするのがいちばんいい気がしている。私がYouTuberになって「銀色のヤツ!」的な件をやるとしたら、「コーラと混ぜるやつ!」にするだろうな。最近はレモンハイボールの美味しさも分かってきた。

2022/01/24

2ヶ月ぐらい前からちまちま読んでいた『白の闇』を読み終えた。学部のころに一度読んだので二周目だ。視界が真っ白になって失明する感染症の話なので、『ペスト』と並んで近頃受けて売れてるとか売れてないとか。ほとんど改行がなく、地の文とセリフの区別もないのでわりと読みにくい(しかなり長い)のだが、設定されている状況が状況なだけに、最後まで面白く読める小説だ。しかしこう、危機的状況において人間の醜悪さが溢れ出すというのは、フィクションにおいても現実においても必然であって、ところどころ教訓じみているわりにはそんなに学びがあるわけではない。多少の慰めにはなるかもしれないが。

2022/01/23

流行ってる?ので、美的理由、美的規範、美的価値まわりの議論を追っている。Alex KingがPhilosophy Compassに書いているサーベイ論文を読んで、だいたいのノリはつかめた。基本的には、以下のような概念群からなるっぽい。

この辺りの概念をうまいこと連関させて整理することが主な課題らしい。具体的には「美的理由の源泉はなにか」「どんな拘束力がどれだけの強さであるのか」といったトピックが論じられている。あとは森さんが整理されていたとおり「快楽主義とその敵」という構図があるようだ。

私としては、そんなのケースバイケースだろうと思ってしまうのだが、それはあらかじめお題として出されている美的実践が広すぎていまいち飲み込めていないからだろう。基本的に理論は、実践や現象のここからここまでを説明しますと明示してくれないことにはしんどさがあるのだが、この分野は論者によって射程が結構違うはずなので、なかなか難しさがあると思う。Everyday Aesthetics一般にいまいちのれない理由もこれだ。例えば、美的実践のなかでも芸術実践だけに絞れば、さらには批評実践にまで絞れば、もうちょっとはっきりと言えることも増えるだろう。ビアズリーやシブリーがガチャガチャやっていた議論は、基本的に「批評的理由」をめぐるものだったのでまだ追いやすかった。シンプルに、現代の哲学者はもっと広く抽象的でテクニカルなことをやっていてすごいな、とは思う。

その上で、①プロパーな美的価値とはプロパーな美的経験を与える能力に基づいており、②そういった美的経験は基本的に快経験の一種であり、③個人的により大きな快を与えるものはより積極的に選択するべきである、という快楽主義はそんなに悪くないと思う。山より海を見に行くほうが快楽を得られそうなら、その点に限って言えば、海を見に行くべきだろう。それは美的実践そのものというよりも、批評実践とオーバーラップしつつも並置されるような、ある種の美的実践と考えたほうがいいだろう(感動実践、とでも言うべきか)。もちろん。批評的に良いとされるものが良いとされる理由は、美的経験という快楽を与えてくれるからだけではない。

2022/01/22

問題なり可能性を「はらむ」という表現が昔から気に食わないのだが、今読んでいる美術史の本で多用されているのがしんどい。魚卵じゃないんだからそんなにたくさんはらんでどうするんだ、と思う。「を持つ」「がある」「を含む」「を伴う」あたりでいくらでも代替可能であるにもかかわらず、不必要に気取った(そのくせ死んでいる)隠喩に拘泥する惰性が気に食わない。2021/07/20に書いたように、他人の言い回しの好き嫌いを云々言ってもしょうがないのだが

2022/01/21

近所のスーパーにレジ打ちが遅すぎるおばあがいて、わるい人ではなさそうなのだが威風堂々とちんたら打つので、客一人につき一王国の興隆から衰退ぐらい待つことになる。私以外の聡明なカスタマーたちは鋭くも彼女の担当レジを回避しているようだが、私はレジ選びのセンスが地についているので、よく考えずに並んだ先に件のおばあがいる確率がきわめて高い。スマブラ64なんかで懲らしめてやりたい気持ちはあるが、なんなら私よりスマブラ64強そうな感さえある。

2022/01/20

なんにせよ集団というのは怖いものだ。なんらかの達成を目指して行動する集団というのが、私にとっては恐怖そのものでしかなく、達成される事柄がどれだけ高潔かまでは頭がまわないことが多い。高潔な運動や団体はたくさんあるし、それらが社会において意義を持つことはまったく否定できない(否定する必要もない)のだが、異口同音になにかを述べる集団に対して、私個人が感じる根源的な恐怖もまったく否定できないものだ。「#○○に反対します」みたいなハッシュタグや、オープンレターの類に参加しようとまったく思えないのは、集団の一員になるのが嫌だから、それだけだ。自分の経験に嘘をつかなければならないのだとしたら、私は臆病者でいい。

2022/01/19

魯肉飯つくった。今回は八角をふたつ入れたので、かなり香り豊かな仕上がりとなった。なんとなく、サイコロ切りだけでなく、大きめのざく切りも投入したが、齧るときの肉肉しさがあって、これはこれでかなりいい。

2022/01/18

スーパーで5,000円も買い物したのにまだ買えていない食材があり、別のスーパーにはしごしたらそちらでも5,000円も使った。鍋とナポリタンと魯肉飯を作るつもりだ。

2022/01/17

どういう流れか忘れたが、ジンギスカンにツボってしばらくリピートしていた。改めて見ると、東ドイツに資本主義の全能感を見せつけてやるかのようなグループだ。私の人生はこれまでもこれからも、こんなふうに馬鹿馬鹿しいコスプレをして歌って踊ることはないのだと思うと、ちょっとさみしい気持ちになった。

2022/01/16

『ブルーピリオド』は主題からしてかなり面白いマンガなのだが、芸大編になってから教授陣がヴィランに当てられていて、ハラスメントだらけの環境を努力と根性で乗り切る話になったのが残念ではある。少年漫画にありがちな対立構造を作る上で致し方ないところはあるのだが、講評のたびに立場が上の人間から言葉を選ばず非難されるのは見ていてしんどい。美大がとりわけこういう環境ではないのだとしたら風評被害だし、まさにこういう環境なのだとしたら、講評する側も甘んじて講評される側も仲良くなれそうにない。少なくとも、「何者かになる権利はあっても義務はない」とか「俺より下手な教授の言葉なんかにショック受ける必要なんかないのに」と言ってくれる世田介みたいなキャラクターがいてくれてよかった。彼には媚びず怯えずトガり続けて欲しいし、彼が教授陣に対して従順になった瞬間には私は読むのをやめるだろう。

2022/01/15

ヴィルヘルム・ハンマースホイというすごくいい画家を知った。1900年ごろのデンマークの画家で、フェルメールとホイッスラーをあわせたような画風だが、フェルメールほどカラフルではなく、ホイッスラーほどゴージャスではない質素なタッチで、住んでいたアパートの室内と妻の後ろ姿ばかり描いている。日本では2008年と2020年に回顧展があったらしい。国立西洋美術館にもコレクションがあるらしいので、絶対に見に行きたい。

2022/01/14

本日のTwitter迷言は「大学院は主婦のカルチャーセンターではない」だろう。匿名という安全圏から癪に障ることつぶやくネットユーザーの醜悪さは改めて強調するまでもないのだが、見て反応する側も問題だろう思えてきた。立場と権力のある特定個人がそういう発言をしたなら、それを追及するのはもっともだろう。顔も名前も知らんやつのツイートなんて、スクリーン上の0と1の集積でしかないのだから、放っておけばいいのだ。そういうしょうもない人のしょうもない人生は当人の問題なので、「大学院は主婦のカルチャーセンターではない」とか勝手に思わせておけばいいのだ。1000件近い引用RTで、ムキになった有象無象が「大学院とは……」語りをしていることも、見ていて気持ちのいいものではない。結局、正論かどうかを問わず「分かったふうな口をきく」というムーヴ自体にきしょさがあり、それはそれで他人事じゃないので気をつけていきたい(この日記は分かったふうな口でTwitterを語っているのだが)。

2022/01/13

ほとんどの分野において、西洋中心主義はおおいに反省されて然るべきだろうが、そういった闘争に私個人がいまいち乗り切れないのは、結局自分のナショナリティの問題だと思う。大義名分はなんであれ、西洋的なものを批判する書き手の一部は、私には、アンチテーゼないしオルタナティブとしての自文化(日本的なもの、etc.)を称揚する目論見があるとしか思えないのだ。今日の多文化主義なんていうのはマクロに見たときの結果でしかなく、コスモポリタンの集まりというより、いろんなところのナショナリストが群れているというだけなのではないか。言うまでもなく、ナショナリストがコスモポリタンぶっているというのは、かなり気味が悪い。

個別的なものに安住できる人間は、その個別的なものを所有している人間だけだ。私は血を除けばほとんどの点において“日本人”なのだが、日本文化が私のものだと思えたことは一度もないし、だからといって中国文化も私のものではない。そういう根無し草は、しばしば二択を迫られる。第一の道は、どちらかの文化を選択することで他方を裏切り、やたらとナショナリストぶることで、少なくとも一方は所有したかのように自己暗示をかけることだ。よくあることだが、そんなのはペルソナレベルのパフォーマンスでしかなく、後からよりストイックなナショナリスト(純○○)がやってきて、ルーツを暴かれることになりがちだ。第二の道は、私が歩きがちなものだが、どちらも選択せず、普遍を求めて実質としては西洋中心主義に傾くことだ。普遍的なものは異常に心地がよい。たとえそうして追求される普遍が、普遍を謳っているだけの西洋中心主義だとしても、心地よさに変わりはない。私にとって、「英語圏」とはそういう場所なのだ。あるいは、おそらく、私は数学なり自然科学をやるべきだったのだろう。

2022/01/12

身体の不調な一日だった。2:30ごろに就寝したのに6:30ごろに目が覚め、それからどうしても寝れなかった。頭のなかではなぜかエゴン・シーレの《死と乙女》とVulfpeck「Back Pocket」のCメロがこびりついている。しかたないので、起き上がってBASE BREADとナッツ入りのヨーグルトを食べ、白湯を飲む。なんだか身体が重く、重いというより節々がしっかりめに痛い。熱とかあるときの痛み方なのだが、熱はない。身体に対してはもとより期待していないので失望は小さく、痛みは痛みとしてやり過ごすほかに打つ手もない。通り雨とか交通渋滞みたいなものだ。

勇敢なので、この身体で大学まで行って本を買ってきた。天気も良かったし、久々に午前中から自転車を転がしたので気分は良かった。それで何割か不調は相殺されたと思う。大学はこれまた半年ぶりぐらいに行ったのだが、本を買う以外にはなんの用事もなかったので直帰した。

2022/01/11

Notionで、今までに行ったことのある展覧会ログを作った。行ったかどうか思い出せないものと、たしかに行ったがなにを見たのかほとんど覚えていないものが多くて、儚い。2018年横浜美術館のヌード展なんてロダンの《接吻》しか記憶がないのに、知らない間にフランシス・ベーコンもシンディ・シャーマンもロバート・メイプルソープも見てたとは恐れ入った。映画や小説と同じく、私は見たものを片っ端から忘れてしまうので、もう一度見たい展覧会はいっぱいある。

2022/01/10

日記に書いた矢先、↓のライブが延期になった。オミクロンが暴れん坊将軍しているので賢明な判断だ。昨年は毎日のように報じられる感染者の数字に臨場感があったが、現在は、数ヶ月に一度デビューする新たな変異株、その名称に臨場感を得ている趣がある。

ところで、一昨日ぐらいから私のアパートの塀に飲みかけのいろはすが捨てられている。前にもあったことで心底腹が立つのだが、ひとつ違うのは、数年前だとただのゴミだったのが、今日だとゴミかつ毒というので嫌悪感が倍増する点だ。道に落ちたペットボトルを素手で拾って捨ててやるだけの親切心を発揮するリスクは、数年前の比ではない。われわれの塀にはずっと毒が鎮座しており、リスクを取ってまでそれをどうにかしようとする命知らずは皆無だ。それをそこに置いた人間に出会ったら、私は自分を制御できる自信がない。

2022/01/09

来月、数年ぶりにライブをするということで、楽器の練習をしている。ギターは1日サボると3日分下手になるとか言われるが、現役時代からとくに変わりなくて安心した。技量で言えば、私の上手さは学部3年で止まっており、それから上がることも下がることもなかった。上げようという努力、具体的には理論的な学習と練習を何度も試みたのだが、なぜか本腰を入れられず、こんなしゃらくさいことをするぐらいならペンタの手癖で乗り切ればいいだろうという惰性がずっとあった。今も昔も面倒くさいことはいろいろやっているのだが、なぜ楽器に関しては頑なに拒んできたのかは自分でもよく分からない。もうひとレベル上になると、もう音楽じゃなくて数学だろう、という嫌気はそれなりにあったかもしれない。

2022/01/08

ちゃん読でビアズリーの論文を読んだ。ビアズリーが芸術の定義に参入したのはけっこう遅く、『美学』を書いていた時期はその手の定義論争に巻き込まれたくないとのことで、「芸術作品」の代わりに「美的対象」の語を用いていたほどだ。いろいろ読んで思うのだが、ビアズリーが擁護しようとしていたのはあくまで美的経験とそれをアフォードする対象であり、前衛にせよポピュラーにせよ最近のよくわからんものは興味がないという点で、けっこう素朴な古典主義者なのかもしれない。ダントーやディッキーは明らかにポップアートから触発されていたが、ビアズリーが同時代の作品を論じている文章はほとんど読んだことがない。芸術扱いされているものでも、美的経験を与えない限りで「芸術ではない」とまで言いきってしまうのが、ビアズリーの偏屈だが独特なところで、そこまで強いことを言う論者は現代だとまったく考えられない。最近の人々は美的経験を忘れてしまった、という嘆きが、ビアズリーによる芸術の定義を駆動しているように思えてならない。

2022/01/07

現代美術館で「クリスチャン・マークレー展」と「ユージーン・スタジオ展」を見た後、近代美術館で「民藝の100年展」を見るというので、大移動の一日だった。

マークレーは『シミュレーショニズム』を読んでからずっと気になっていたアーティストなので、こう本格的な個展で見られてうれしい。レコードの盤やジャケットをコラージュした作品は、ものとして可愛らしく、《レコード・プレイヤーズ》のすごく安直な感じも一周回って笑える。いちばん良かったのは《ビデオ・カルテット》で、クラシックな映画から演奏の場面をサンプリングし、四つのスクリーンで同時に再生するというもの。コードが別のコードに上書きされ続ける感触が面白く、ごくたまに混沌のなかからハーモニーが生まれるのも心地よい。《インベスティゲーションズ》もよかった。ピアノを弾く手の写真から音を再現するという作品で、五線譜付きのカードがしゃれている。ただ、もうひとつの筋である、コミックのコラージュにはあまり興味なかった。

どっちに行くかかなり迷ったが、久保田成子はもう少しナムジュン・パイクやフルクサス周辺を勉強してから見たかったので、ユージーン・スタジオにした。Twitterでも流れてきたが、かなり「映える」展示で、デート向きだと思う。でかい人工の海、丸焼きの部屋、チェス盤の乗ったドラムセット、さらさら落ちてくる光のつぶ。全体的に白っぽく、親密さの痕跡を感じさせる作品が多めで、「心地よい破滅」の味わいがあった。

現代美術館の常設展も見たが、ボルタンスキーとアピチャッポンの部屋がすごくどんよりしていた。ボルタンスキー作品はほんとうに格好いいのだが、あまりにシリアスなので、こちらの元気が奪われるときがある。マークレーとは正反対だ。

現代美術館ではどんどん抜かされるぐらい私の歩みが遅かったようだが、近代美術館ではどんどん抜かすぐらい周りの歩みが遅かった。「民藝の100年展」はふだんならほとんど興味ない分野だが、窯元に入った友達におすすめされたので見てきた(あと、さいきん柳宗理が好きだから)。民藝がもとは収集活動だったというのも知らなかったので、美的経験はともかく、かなり勉強になる展示だった。個人的には新作民藝運動以後のモダンなデザインが好きで、吉田璋也のバイカラーな皿なんかはかなり欲しかった。売店では柳宗理がいっぱい売っていて、ぜんぶ欲しかった。

ラーメン食べて帰ると、出かけるときにはまだ少しだけ玄関先に残っていた雪がすっかり消えていた。

2022/01/06

雪だ!

足元もおぼつかないなか、慣れない電車出勤でよいしょよいしょとようやくたどり着いたのに、1コマだけ働いたところで塾は臨時閉館になってしまった。仕方がないのでうんしょうんしょと帰宅する。

雪はきれいで、服についたのを袖で払うと、クシャッと溶けるのがいい。

2022/01/05

最近はペペロンチーノを作るのにハマっている。これもまた料理のお兄さんリュウジに教わった方法だが、パスタは別鍋を用意せずとも、ガーリックオイルを炒めるフライパンでそのまま茹でればいいのだ。今日は唐辛子を切らしてしまったので、ラー油とタバスコでそれっぽくごまかした。オイルがよく絡んでいると、あつあつで食べられるのがうれしい。

2022/01/04

論文なり本の検討会で、「なんでこの著者はあれを引いてないんだろう」と言ってもしょうがないだろう、とよく思う。「この話題に関連して、あっちの人はああ言ってて、それを踏まえるとこの人の議論はしかじかだ」というフォーマットであれば健康だと思うのだが、筆者の文献収集力を直接的に貶める物言いと、それに対して参加者みんなでうんうんと優位を噛みしめる時間がけっこういやだ。百歩譲って、貶す分にはいいのだが、疑問文のかたちをとっているのがいやらしい。特定の文献を読んでいない理由なんていくらでもあるだろう。純粋にそんなの知らんかもしれないし、金銭的・言語的・権利的にアクセスできないのかもしれないし、知っててアクセスも出来るが、優先順位が低くてたどり着けていないか、ただただ興味がないから無視しているだけかもしれない。理由がどれであれ、だからなんやねんで落ちそうな話でしかないのが、「なんでこの著者はあれを引いてないんだろう」疑問文のしょうもないところだ。

2022/01/03

家族と散歩でシーパラダイスに行ったが、いつのまにかブルーフォールが無くなっていた。私は一度も乗ったことがないのだが、妹が小さい頃、身長制限で乗せてもらえずにぐずっていたのを覚えている。100メートル超の高さから落下する経験を得られないことに7歳だか8歳の女の子が抗議するエピソードからして、妹の胆力は私のそれとは格が違うものであり、だからマリパも強いのだと言われれば私は納得すると思う。当人は今日が誕生日で、またひとつ歳をとることに抗議していた。

2022/01/02

夕方ぐらいに眠くなったので、犬を抱いて仮眠した。すやすやねむれた。

2022/01/01

新年なので毎年恒例の「面白かった映画選」を書いた。キューブリックやらゴダールをアフィリエイトみたいな敬語で紹介していた一年目から比べると、ここ二年はずいぶん重めでフォーマルな文体になったと思う。とはいえ、私の書くレビューは作品外のコンテクストをほとんど利用しないし、整った画面とコントロールされた物語(り)をひたすら褒め称える点において、なんら高尚なことをしてない形式主義だと思っている。今までも暗にそうではあったが、とくに今年は映画における見世物性をかなり意識した評価になった。少なくとも現在の私は、映画が映画である限りで、歴史的にも脱歴史的にも見世物であること、サーカスの子孫であること、情動を直接的に喚起するメディアであることからは逃れられないと思っている。そういう意味で、「画面がバッチバチにキマってた」とか「あのシーンが死ぬほど怖かった」といったレビューは、映画作品の見世物性に関する評価的言明として通底するものだと思うし、映画批評のもっとも純化されたかたちではないかとすら思うときがある。それが少なからず下品であることを自覚しないわけではない(だからブログではなく日記に書いているのだ)が、上品ぶった言説にほどがあるだろうというのが正直な気持ちではある。

2021/12/31

今年もおしまい。実家で妹とゲームをしているがマリパやっても桃鉄やっても一向に勝てない。

2021/12/30

Macのキーボードを打つときにタイプ音を鳴らすソフトを導入した。どうということはないが、気分がいい。

2021/12/29

先日、「failed-art」に関して難波さんと村山さんに応答記事を書いているときにも再実感したが、こうした言論の場はきわめて特殊な信頼関係とフェティシズムにおいて成立している面がある。すなわち、主張や立場を吟味するときにはあの手この手で粗を探し、侮辱的な言葉さえ使わない限りで、相手の感情を推し量ることなく自分の考えを表明するという作法を、双方が少なからず受け入れている場所なのだ。それを否定共同体と呼んでもいいだろう。否定共同体では、否定の身振りが許されるだけでなく、ときには称賛さえされる。すなわち、感情よりも主張を優先することそれ自体に、ほとんどエロティックと言ってもいいような価値を見出す点において、参加者はみな否定フェチなのだ。

もしそれが、「定義や議論の論理構造をはっきりさせ、明瞭な論述を行う」などとして分析哲学に帰属されがちな特徴のひとつなのだとしたら、分析哲学は哲学のなかでも相対的にホモソーシャルで、閉じたサークルということにもなるのだろう。もちろん、分野にもよるだろうが、アカデミアという場所自体が強い否定共同体である。その学問的有害さは、(あるとして)私がここで云々言える規模の話ではないが、ともかく言えることは、否定共同体の作法を日常的な対人関係に持ち込むと良からぬことになるという、当たり前だが忘れがちな事実だ。「会話」と「議論」の語を対置させるようないい加減な言説はきらいなのだが、ともあれ要点は分かるし、その意味合いにおいて「会話」と「議論」は目的と手段においてたしかに異なるのだ。否定共同体に一緒に参与してくれる人たちにはただただ感謝する一方で、「ここは否定共同体ではないな」と判断できるだけの見極め力がないといかんなというのは、年末年始に帰省することも含めて最近よく考えている。

2021/12/28

昔、SOMETHIN'のジャムセッションで私がソロをとっていたら、常連のおっちゃんが気を遣って歪みエフェクターを踏んでくれたことがある。「踏んでくれた」というかマナー的には「踏まれた」というべき奇行なのだが、とはいえ、私のフレージングが完全にロックギターのそれでありつつ、クリーントーンで弾いてるもんだから、ディストーションを踏み忘れたのだと判断してくれたのだろう。私としては気分良くGrant Greenをやっているつもりが、クリーントーンのSRVみたいになっていたのだとしたら、それはハズいので踏んでくれてよかった。油断するとすぐダサブルースになるのは、もうギタリストの宿命なのかもしれない。ジャズファンクマスターへの道のりは長い。

2021/12/27

高校時代の友人たちと数年ぶりに飲み会をした。みんな元気そうでなによりだ。冒頭で、「いまコミュニケーション能力を上げようとしており、なるべく感嘆・反復・共感・称賛・質問を心がけるつもりだ」と宣言したおかげで、その後はまっても外してもメタ的に面白がってもらえるので得をした。おすすめ。

2021/12/26

そういえば鶏むね肉ってよく食べるけど、鳥の乳首って見たことないし、気づかず鶏皮と一緒に食べてるんだろうか、という疑問が湧いたが、まもなくそのバカバカしさに気づいて自分でツボっていた。

2021/12/25

夜中にしかけた判断は寝て起きてからしたほうがよく、真冬にしかけた判断は春が来てからしたほうがよい。

2021/12/24

ガーデンプレイスのバカラシャンデリアなる展示物を見てきた。通ったことのない道を通ってガーデンプレイスまで歩いていったので、道中にも見どころが多くて面白かった。途中、目黒川あたりで建て替え中の清掃工場の前を通ったが、煙突がバカみたいに巨大で怖かった。

2021/12/23

余り物のキムチ鍋を雑炊にしたが、米入れる前に洗うのを忘れた。だめだこりゃ。

2021/12/22

勉強会でフレドリック・ジェイムソンを読み続けている。いままでイメージでしか持っていなかったマルクス主義批評(+ちょい精神分析批評)の具体例に触れられてたいへん勉強になるのだが、基本的には社会構造やその改革に関心があって、そのために作品をダシにしている感が否めなくてあまり好きにはなれないアプローチだ。なんだか結局、「みんな孤独が辛いんでしょう?核家族しんどいでしょ?」と言われ続けている気がする。そりゃそうだろうとしかコメントしようがない。

2021/12/21

「分析美学は批評に使えるのか」というおなじみのテーマがあるが、一家言ある人がこんなにもたくさんいるというのはなんだか不思議だ。これも問いの立て方に問題があって、「分析美学は批評の役に立つのか」ということであれば、キャロルとかを読むことが実際の批評を行う上で(なんらかの)役に立つことは自明だろう。批評の哲学なのだから、そりゃそうだ。しかし、それは倫理学が倫理的に生きる上で役に立つぐらいの話で、「大いに」役立つかどうかは定かでない。気持ち悪いのは「分析美学は批評に使えるのか」という言い方で、それはどうしてもポストコロニアル批評や新歴史主義批評と同レベルのカテゴリーとして分析美学批評がありうるのか、という問いのように見えてしまう(し、物申している人の多くはまさにそれを問題としているように思う)。私は、それについてはノーの立場だ。世の中には、①分析美学における議論や概念を援用した作品批評があり、また、②別の所では分析美学の論文を書いている人物による批評があるだろう。それらは、上で問題にされていたような「分析美学批評」の実例とは思えない。少なくとも、ポストコロニアル批評やら新歴史主義批評やラカンやらアルチュセールと並置できるような共有された方法論がない限りで、それがあるかのように振る舞うのは詐欺だ。

あるいは、そんなに強く退けなくとも、とにかく分野としてプライマリーにやっていることはもっとメタ的・一般的であり、個別作品の批評に“使える”ような分析美学批評があるとしてもそれはセカンダリーですよ(プロパーな意味で「分析美学をやっている」論者が気にするようなことじゃないですよ)、という落とし方でいいと思う。

2021/12/20

真穴みかんを買ってきた。こたつにみかんが設置されているという事態は、食べることを抜きにしてもうれしさがある。

2021/12/19

M-1を見た。昨年のマジカルラブリーのせいというか、あれがアリだということになったせいで、壇上を広く使って騒ぎ暴れるボケがかなり多かった。私としてはぜんぜんはまっていないので、嫌な流れだと思う。ともあれ錦鯉が優勝して、学部時代に友人の誰かしらが言っていた「バ行をでかい声で言う(""バ""ナナ!!!!)のが一番おもしろい」が証明される形となった。私はオズワルドが好きだが、ネタはM-1用にアレンジしたものより、YouTubeに上がってるオリジナルのほうが面白い。

2021/12/18

食材を買ってきてキムチ鍋をやる予定だったが、面倒になって、辛いインスタント麺を食べた後、チーズとごはんで雑炊にした。雑炊にする米は、あらかじめ洗ってでんぷんを落としておくといい、というのは今年学んだことのひとつだ。

2021/12/17

コタツの上で盛大に紅茶をこぼして元気が萎んだ。被害にあったのは青田麻未『環境を批評する』(軽症)、ジョゼ・サラマーゴ『白の闇』(中等症)、山本浩貴『西洋美術史』(重症)。『西洋美術史』の上に積んでいた北村紗衣『批評の教室』は無事だった。なにより、シブリーの論文コピーが身を挺して紅茶を吸ってくれたおかげで、これでも被害は抑えられたほうだ。ありがとう、シブリー。

ちょうど読んでいた藤田令伊『現代アート、超入門!』も無事だった。話変わって、この本のp.146にはディッキーの芸術理論について、がっつり誤った説明がある。

「ディッキーは、あるモノがアートであるか否かの判断を下す主体をより具体的に示し、それは鑑賞する側の人間だとした。鑑賞する側が「こういうものは(も)、アートと見なせる」という社会的文化的な了解を抱けるかどうかにかかっているとし、ただ単にアーティストが「これはアートだ!」と述べているだけではアートとはいえないと定義づけた」

よく見る偽ディッキーの主張だが、ディッキーはそんな定義していない。2021/08/29の日記を参照。初期ディッキーによれば、芸術作品とは鑑賞候補の身分を授かった人工物であり、身分の授け手はアート・ワールドを代表して振る舞う人(々)なのだが、これを鑑賞者として誤解する人は後をたたない。ディッキーが繰り返し強調しているように、「アート・ワールドを代表して振る舞う人(々)」でまずもって意図されていたのは、芸術家本人だ。そして、芸術家たった一人であっても、身分の授け手になれることまで認めている。

よく読まれている本なので、Twitterで周知してもいいのだが、ツイートしたくない気持ちが勝った。

2021/12/16

ナミブ砂漠に設置された水飲み場のライブカメラ、というかなり魅力的なコンテンツを知った。だいたいチュンチュンと鳥が鳴いており、たまにバサッと逃げたかと思えば、オリックスが群れがのそのそやってきたり、イボイノシシのコンビがちょこちょこ駆け寄ってくる。スプリングボックの群れが30頭ぐらいでやってきたときはすごく感動したし、突然やってきたジャッカルがそれを蹴散らしたのもびっくりした(ジャッカルは水だけ飲んで帰った)。夜中にはうさぎやヤマアラシも来てたし、いくらなんでも見どころが多すぎる。なんだか、バーの時間帯別の常連たちといった趣で、かわいげがある。

2021/12/15

『東京卍リベンジャーズ』をすごい速さで読み進めたが、不都合な未来を変えるために何度も過去に戻って事実を修正しまくる主人公が、その営みにまったく躊躇していないところがなんだか不気味だった。そこには、そうして修正された都合のいい未来でいいのか、というタイムリープものにつきものの自問はまったくなく、主人公はうれしくて鼻水たらして号泣するだけだ。なんだかリセマラのような話で、スマホゲー世代ならではの想像力なのかもしれない。あるいは、与えられたカードで勝負する、みたいな宿命に対する屈服ではなく、ズルしてでもいいカードを引こうという野心の表れなのであれば、それはそれで健全なことなのかもしれない。私には納得がいかないだけだ。

それはそうと、そうして未来を改変しまくるにもかかわらず、過去において協力関係にある人たち(一人を除く)に対して未来から来たことを隠すのは、「現代にどういう影響を及ぼすかわからないから」と言うのは、プロット上の欠陥どころか欺瞞であり、腹立たしい。

2021/12/14

私が理想とする文章の十分条件はシンプルで、DeepLに投げるとすっきりした英文が得られ、その英文をDeepLに投げるともとの日本語とそっくり同じになるような、そんな文章だ。The sufficient condition for my ideal sentence is simple: if I throw it into DeepL, I get a neat English sentence, and if I throw that English sentence into DeepL, it becomes exactly the same as the original Japanese sentence. 私の理想の文の十分条件は簡単で、DeepLに放り込めばきちんとした英文ができ、その英文をDeepLに放り込めば元の日本語文と全く同じ文になることです。

2021/12/13

Kubala (2021)によれば、美的な実践には、内的規範の問題と外的規範の問題がある。前者は「Xをやるなら○○すべきであり✕✕すべきではない」といった実践内のルールに関する問題で、後者は「XよりもYをやるべきである」といった実践間の優劣・選択に関する問題だ。前者は、批評の哲学でよく問題になる正しい解釈/評価の問題と直結しているのでよく考えているものだが、後者についてはあまり考えたことがなかった。クバラと同じく、実質的で強い外的規範があるとは思えないからだ。「ロックはしょうもないからクラシックを聞け」みたいな言説はどう考えてもしょうもない。

とはいえ、実践間の優劣が重要でないことは、カテゴリーをまたいだ作品比較が難しいという問題と、実際のところ同じ話なのではないかと思えてきた。キャロルの『批評について』(今日レビューを書いた)でも、カテゴリーをまたいだ比較については、最後の最後で軽く触れられている。ある作品があるカテゴリーのもとでどういう達成をしているのか考えることは相対的に容易だが、別のカテゴリーで別の達成をしている作品と引き比べることはしばしばややこしい。シェイクスピアとP・G・ウッドハウスのどちらを読むべきか、みたいな話だ。クバラや私と同様キャロルは、そうして優劣をつけることが往々にしてしょうもないと認めた上で、しかし、カテゴリーの目的が持つ文化的重要性に基づいたカテゴリー間比較もできなくはないと考えているようだ。「ロックよりクラシックのほうが文化的に重要だ」とは言っていないが、それに準ずるようなことは確かに『批評について』に書いてある。いずれにせよ、文化的に重要で価値的に優れているからといって、それを選択する理由がある(選ぶべきである)かどうかは定かでないし、キャロルはその辺を問題にしていなかったはずだ。なんとなく、価値において実践間の優劣は付けられるとしつつ、しかし、行為選択に関する外的規範まではいかない、という立場もありえて、キャロルはまさにこれではないかと思っている(実践内的規範に関して、好みと価値測定を区別する議論でも、同様の立場を取っているはずだ)。いずれにしても、実践外的な規範の話は、そこまで強く興味があるわけではないので、誰か別の人に扱ってもらえればと思う。

2021/12/12

音はともかく、美的な格好良さに関して、ストラトキャスターはテレキャスターに完敗している、というのが私の美的センスだ。エレキギターというジャンルにおいて、テレキャスターはもっとも原始的で、シンプルかつミニマルなモデルだ。それに対し、ストラトキャスターは多機能的で、はるかにモダンなモデルだと言えるだろう。正直、ストラトのハーフトーンに憧れたことは一度や二度じゃすまないのだが、それでも私はもっぱら見た目的な理由でテレキャスターをメインのギターに選んだ。見た目が好きなギターを使うことの快楽は、いい音を出すことの快楽を往々にして上回るものだ。しかし、これは私にとって二本目のギターだ。中学生のとき、はじめて買うギターでテレキャスを心に決めていたのにストラトを買うことになった話は、そのうち書こうと思う。

2021/12/11

ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地、ジャンヌ・ディエルマン』というほんとうに傑作としか言いようのない映画を見て二年ぶりの★5.0をつけたあとで、『ラストナイト・イン・ソーホー』というかなりしょうもない映画を見に行った。一日で、がっつり褒めたしがっつり貶したわけだ。ノエル・キャロルなんかは、作品を貶す批評にはほとんど意義がないと書いているが、これは私が同意できない主張のひとつだ。たとえば、『ラストナイト〜』の欠点のひとつに、安っぽいイジメっ子キャラの登用がある。本作にとって重要な主題のひとつが「男性恐怖症」であることは、議論の余地がないだろう。ブランド物で着飾って、主人公を田舎者扱いしてくるギャルたちは、この主題をブレさせるだけで物語の大筋にほとんど関わらない、単なる装飾と化している。このような欠点の指摘が、どこまで的を得たものであるかはともかく、書くことで作品の不備を指摘し、読むことで不備とされているものを理解することは、作品の利点を指摘し理解するのと同じ能力を動員しているはずだ。悪さが分かれば良さも分かるし、良さが分かれば悪さも分かるのだ。そして、このことは『Why It's OK to Love Bad Movies』に対する道具主義的な回答だと思っている(この本ははやく読みたい)。

2021/12/10

ここ数日、川尻こだまで知った認知シャッフル睡眠法をやっているが、ほんとうにスムーズに入眠できるのでびっくりしている。こういう、身体をモノ扱いできるライフハックは大好きだ。「脳を取り仕切ってる存在」の造形もかなりいいし、ブレーカーのメタファーも感覚に合っている。そうなってくると、寝る前に『溶ける魚』とか読んでおけばいいということにもなりそうなものだ。

2021/12/09

陽の光に当たってなさすぎるので、隣駅まで適当に散歩してきた。古本屋で、四方田犬彦の『映画と表象不可能性』を買う。ストローブ=ユイレはひとつも見たことないし、パゾリーニもゴダールもファスビンダーも、取り上げられている作品は見たことがない。こういった監督たちの話をする人も、最近はめっきり影を潜めたように思う。それぞれ見たら読もうと思うが、いつ見る機会があるのかは分からない。

今日も今日とてホットサンドを作り倒している。いまあるレパートリーは、①タコス風ソーセージ、②クロックムッシュ風ハムエッグチーズ、③あんこバター、④エルヴィスサンド、といったところだ。夏に何度か作った生ハムズッキーニセミドライトマトのパニーニもこれで作りたいのだが、生ハムに火が入ってしまいそうなので作戦を練る必要ある。

2021/12/08

キャロルが『Routledge Companion to Philosophy and Film』に書いた「Style」の項目を読んだ。ここ最近はメタカテゴリー(genre、style、form、mediaなど)についての論文を書いており、スタイルもその一環で調べている。

キャロルはスタイルをふたつの方面から、すなわち、(1)区分概念としてのスタイルと、(2)説明概念としてのスタイルから、それぞれ考えている。

スタイルは、ある作品群をその他の作品群から区別するのに役立つ。キャロルが念頭においているのは、①時代や地域のスタイル(30年代スタジオシステムのスタイル)、②流派や運動のスタイル(ネオリアリズムやヌーヴェルヴァーグ)、③ジャンルのスタイル(コメディやホラー)、④個人のスタイル=個人様式(キューブリックや小津のスタイル)であり、また多くのスタイルはそれらのハイブリッドだとする(30年代のギャング映画のスタイル、など)。要は、ここで言われていることは、個別作品群が時代、地域、流派、運動、ジャンル、作者といったさまざまなメタカテゴリーによって区分できる、ということに過ぎない。それぞれに関して、各カテゴリーと紐付けられたスタイルを語ることはあるが、それらと並置される仕方で、スタイルというメタカテゴリーがあるわけではないのだろう。これは結構学びがあった。なんとなく、私はジャンルとスタイルが横並びだと思っていたのだが、それは幾分カテゴリーミステイクなのかもしれない。つまり、純粋にスタイルでしかないようなカテゴリーは存在せず、すでに別のメタカテゴリーに属するカテゴリー(あるジャンル、ある運動、ある作者の全作品)が得られた上で、そのスタイルが語れる、という塩梅なのかもしれない。このことは、あるジャンルのスタイルについて語ることは自然でも、あるスタイルのジャンルについて語ることが不自然であることとも整合的だ。

キャロルが一層関心を寄せているのは、個別作品の構造を説明する概念としてのスタイルだ。これは、上で見たグループ-スタイルとは違い、個別作品におけるスタイルの話になっている。実際、キャロルが問題としているのはスタイルそのものというより、スタイル分析[style analysis]であり、ここはやや期待はずれだったのだが、スタイル分析はキャロル的な「形式分析[form analysis]」と同じものとして捉えられている。すなわち、キャロルにおいて、個別作品の「スタイル」を分析することと「形式」を分析することは同義であり、その差分は問題にされていないのだ(あるいは、個別作品のstyleということで、もっぱらformのことしか考えていない)。また、「形式」も中立的な仕方では理解されていない。キャロルのformと言えば例の機能主義的なやつであり、「作品の目的を達成するために意図的に選択された手段のアンサンブル」であるとされる。それを分析の切り口(のひとつ)とすることには私も賛同しているのだが、その切り口をformと呼ぶのはやや修正的であり、良くも悪くもキャロル節が効いているところだ。結局、個別作品におけるスタイル分析の話は、キャロルの主要なアイデアをすでに知っている読者にとっては、ほとんどインフォーマティブでないものになっている。

2021/12/07

先日、念願のホットサンドメーカーを手に入れたので、せっせとパンを焼いている。昔からよく作っていたエルヴィスサンドはバナナがぼろぼろ溢れるのが難点だったので、しっかり封をしてくれるのはかなり助かる。コーヒーとのペアリングに関して、ホットサンドはかなり上位に食い込んでくるので、朝昼はしばらくこれでいい。

2021/12/06

ライナー・ヴェルナー・ファスビンダーの『ペトラ・フォン・カントの苦い涙』を見た。当たり外れはともかく、そして本作は個人的にははずれなのだが、ファスビンダーの映像は大好きだ。ざらざらしていて、マットで、触感的な映像だ。ことによると、それは私のマルチモダリティを文字通り刺激するような映像なのかもしれない。ファスビンダーの映像は、手で触れているような感覚がする。それは、編集によるところもおおいにあるだろうが、戦後ドイツという描写内容の時代・地理によるところもおおいにあると思っている。つや消しされていることは、あの時代・地理の様式にとって、標準的特徴のひとつではないかと思う。

2021/12/05

『ONE PIECE』の101巻まで追いついた。前は鬼ヶ島突入直前で止めていたので、5巻分後追いしたわけだ。昔は新刊が出るたびにチェックしていたが、鑑賞のペース配分として数ヶ月に1巻というのは性に合わず、思い出したときに数巻まとめてスタイルになった。本誌で週刊連載を追える人は、いい意味でもわるい意味でもなく自分とはぜんぜん違うなぁと思う。そういえば、まだ完結していない連載中の作品を追うという経験自体、伝統的な芸術鑑賞とはかなり異質なものだと思うが、その辺を深堀りした話は読んだことがないな。

2021/12/04

カール・テオドア・ドライヤーのリマスター上映なんて本当に素敵なことなのに、蓮實重彦の帯文で「彼のすべての作品を見ていなければ、映画について語る資格はないと断言したい」なんて言われると、唐突に見る気が失せるので勘弁してほしい。すっかり権威主義老人になってしまったので、どうしてはやく引退しようと思わないのか不思議で仕方がない。蓮實さんは本当に尊敬できない知識人の一人なのだが、そんな御仁が幅を利かせていた研究室に所属している(かつそこで学位をとる)ことは、私にとって多分に恥ずべきことであると同時に、絶対に空気を変えてやるぞと強く決意させられるところである。

2021/12/03

買い出しに行こうかと思っていたが、面倒くさくなって、インスタントラーメンに作り置きの豚キムチを投入して、なんかいい感じのラーメンにして食べた。粉末スープが半分ほど残ってしまったので卵スープでも作ろうとしたが、面倒くさくなってキッチンの隅に放っておいた。きっと来週も再来週も触れられることなく、そこにあるのだろう。

2021/12/02

美大や音大で習うような芸術理論は、哲学的な芸術理論とは毛色の違うものであり、後者やる上で前者は必ずしも必須のものではないと思うが、あればあったで見方が変わってくるんだろうなと思う。具体的には、美的なものの最も基礎的な説明項に美的性質を据えるような論者が念頭に置いているのは、美大音大の理論がサポートするような「(統一性、多様性、強度を備えた)良い構成」なのではないかと思う。彼らがそれを基礎的なアイテムとして扱えるのは、それがまさに教科書的なアイテムであり、少なくとも彼らのサークルでは共通知識として成立しているようなアイテムであるから、というのが物事の一側面なのかもしれない。

2021/12/01

耳鼻科で錠剤と一緒に漢方薬を処方してもらった。粉薬にはものすごく苦手意識があったのでたいへん心配だったのだが、適当に湯に溶かして飲んだら楽勝だった。プーアル茶のほうがよっぽど癖があるし、私はプーアル茶はぜんぜん大丈夫なのだ。いやはや、これが大人になるということだなぁとしみじみ。

2021/11/30

好きな画家は、ぱっと思いつくのだと、ジョルジョ・デ・キリコ(ワクワクするから)、フランシス・ベーコン(かっちょいいから)、ルシアン・フロイド(ガツンとしてるから)。あぁ、好きだなぁとしみじみ思うのはマネ。

2021/11/29

某サービスの解約証明書が必要になったため、音声サービスの案内に従ってポチポチしていると、どのルートを通っても「あとはWEBで確認してね」ということで通話までこぎつけない。WEBで解決しないからこうして電話しているわけなのだが。一つ学んだ教訓としては、要件がはっきりしていても、「その他のご用件」の選択肢を選ぶことだ。これで繋がる。ようやく捕まえたオペレーターさんはとても丁寧で、さっさと解決したため、それでイライラは相殺された。実は伝えたメールアドレスのtかpかがちゃんと伝わっておらず、再度問い合わせなければならないことは、24時間後に発覚する。

2021/11/28

千葉雅也さんが、分析美学の「音楽の存在論」における(J. Doddに代表される)「発見説」に関して、物申していらっしゃる(1)(2)。曰く、それは「音楽の音構造それ自体はすでに客体的に存在していて、音楽家はそれを発見し指示するのである、とかいう説」であり、「日常的直観に反することを言って常識を生きる人をいじめたいというサディズム」から、「幼稚」「男性的」であり、「それを自覚する必要があるし、そこに享楽を感じる理由の自己分析をしないようでは哲学をやる資格なし」とのことだ。

メタファーによる印象操作はこの手の人たちの常套手段なので、それでなにかを言った気になるのは哀れとしか思えないのだが、「幼稚」はともかく、「男性的」なのを「自覚」しろという裁断は、教会からの破門じみていておぞましい。自分の書いたものについて、彼のような立場の人からこんなことを言われたら、なかなか立ち直れないと思うご自身がどれだけご自覚を持ち、老練なことをやってらっしゃるかは存じ上げないが、人がリソース割いてやっている議論に対して、かのような比喩によって攻撃する権利を、いつだれがこの人に与えたというのか。もちろん、批判するならこちらのゲームに則って主張を検討しろ(ちゃんとDoddを読め)、と応答しても、千葉さんはその強制こそ「男性的」なのだと言うのだろう。

きっとこの人は私がそちらの庭を軽蔑しているのと同じぐらい、こちらの庭を軽蔑しているのだろう。お互い違うゲームをやってますね、という話で済むのに、あっちのゲームのあれはマッチョでけしからんとケチつけてくるのは、かなり気分が悪い。のだが、私もポストモダンの悪口を言ってきたので、人のことは言えない。つまるところ、人間はTwitterで小競り合い、マウントを取り合うだけの悲しい生き物なのだ。私にできる「男性的」であること「自覚」は、Twitterを控えることぐらいだ。

2021/11/27

勉強会でPaul Ziffの論文を読んだ。Ziffは基本的に反本質主義で、芸術作品は必要十部条件では定義できないという立場なのだが、その代案としてスケッチされるのは、範例との家族的類似を元にしたモデルであり、芸術かどうかは「程度問題」だとされる。一見すると奇妙なことを言っているが、「XとYはどちらも芸術だが、Xは余裕をもって芸術であり、Yはかろうじて芸術であり、XはYよりも芸術的[artistic]である」といった言い方は、そんなに無理のないものではないかとも思われる。それでどこまでうまくいくのかは、次回の後半戦に期待だ。

もうひとつ、関連して面白かった雑談は、ラテアートやお弁当アートが「アート」と言われるときの前提に模倣説があるというものだ。たしかに、ふつうは描写ではないものを描写にしたというだけで、「アート」だとされる用法はあるように思われる。それは、「芸術形式の範例とは絵画であり、なんであれ絵画っぽいものはアートである」という直観の表れなんだと思う。健全な直観かどうかはともかく、そういった直観があることは面白い。

2021/11/26

中華のディナーコースに行ってきた。食べたことない味付けをした、食べたことのないものばかりで、たいへん楽しかった。スパイスに特化したコースなだけに、ここ数日のシビアな鼻詰まりを抱えて行くのは心苦しかったが、それを差し引いても素晴らしい体験だった。なんかあまいタレに漬けたホタテもおいしーし、クミンをあしらった……なんかもおいしかった、という風に語彙力がハチワレちゃんみたいになってしまった。毎日が記念日だといいのにな。

2021/11/25

今月だけで4回、中国の知らん番号から電話がかかってきている。Twitterを見てると、同じ目にあっている人がちらほらいて、どうやら詐欺電話らしい。とても新手とは言えないクラシックなスタイルで、毎回異なる番号を用意しつつ、異国のカモを狙うなんて、用意周到なのかアホなのか分からない。発信地も、上海、上海、杭州、北京と、バラエティ豊かだ。

2021/11/24

勉強の出来ない子供に対してできることはたくさんあるが、やる気のない子供に対してできることはほとんどない。私もそういう子供だったから分かる。飴を約束するか、罰で脅すか、というのが大人側のオプションだが、どちらも一時的な対処であり、実質的な解決にはならない。やる気スイッチというのは、こちらで探して押すものではなく、自重で切り替わる瞬間を待つしかないものなのだ。具体的には、自己に対する恥の感覚が立ち上がるまで待つしかないのだ。そういった感覚は、社会生活のなかでこそ立ち上がるという点で、クラスルームが必要なのだ。

やる気を出さず、舐めた態度でその日暮らしをすることが、持続可能なスタイルではないと自覚できるのは、ひとつには高校受験というタイミングだろう。まわりみんなが当然のように頑張り始めたのでなければ、自分も頑張るきっかけが得られないのだ。中学受験に挑む小学生が、しばしば本気になれないのは、高校・大学受験のような「みんな当然のように勉強している」感がなく、むしろ自分だけ不当にやらされている感があるからだろう。

そういうときに、親が取りがちなダメムーブとは、「お前は公立中学に行くバカどもとは違うのだ」という刷り込みである。そういった選民思想は、十歳そこらのキッズにとってはプレッシャーでしかないし、受験に失敗しても成功しても、その後の思想形成にとって有害でしかない。中学受験というのは、よほど勉強できてなおかつ勉強が好きな、一部の特殊な子供の可能性を潰さないためのものであり、そうでない子に無理をさせたり、親の見栄でやらせるようなものではない。

2021/11/23

私は技術的にカラーが可能になって以後に、モノクロを選択することにいやみを感じるのだが、にもかかわらずマイケル・ケンナが好きだし、タル・ベーラが好きだ。そこに一貫した理屈を立てることは可能なのだが、言い訳がましくない仕方でそれを説明することは困難だし、私は矛盾しているのだと開き直るほうが健康的だと思っている。前に勉強会で知ったが、Routledgeの『Why It's OK to〜』シリーズで、『Why It's OK to Be of Two Minds』というのがあるらしい。しかし、開き直るのに理屈が必要である、というのはなんだか奇妙で不健康な気もするので、読むべきかどうか分からない。

2021/11/22

ちゃんこ鍋、うまい。鶏もも肉、肉団子、えのき、しいたけ、白菜、大根はデフォルトで入れるとして、冷凍のギョウザやらシュウマイを入れるのにはまっている。適当によそって、半分ぐらい食べたところで味変にポン酢を加える。冬は鍋さえ炊いておけばたいていの問題は解決するのでちょろい。

2021/11/21

『イカゲーム』を見始めた。ロメールのしけた映画は10分見ただけでうんざりするのに、『イカゲーム』は立て続けに6話見てもまだまだ見足りない。画面に集中させる、という一点だけをとっても、娯楽は徹底的に進化している。娯楽の進化は芸術の進化とは別物だと言いたいのだが、「娯楽性を抜いた芸術的価値」というスノビズムにむなしさを感じる限りで、私も広義の快楽主義をとっているのだろう。

2021/11/20

ミヤシタパークという施設に行ってきた(2日連続の渋谷だ)。昨年新しくできただけあって、ピカピカで、若者で賑わっている。フードコートでパンダエクスプレスを食べたが、ふつうに美味しく、もう少し安くしてくれれば普段づかいしたくなるようなレストランであった。一階には飲み屋の横丁があり、祭りかというほど繁盛していた。人だかりのなかで、クリームのダックスフンドにチンチンをやらせているおっさんがいた。見せびらかしてんなぁ、と思いながらしばらく見せびらかされた。

2021/11/19

まるまる1年ぶりに大学の友人と街飲みをしてきた。金曜夜の渋谷はまさにSHIBUYAMELTDOWNで、いやはや凄みがあった。ポジティブにもネガティブにも、私の生活における感情の振り幅をぶっちぎるような街で、金曜夜はとりわけガッツがある。帰りにセンター街を歩いていると、もう終電間近にもかかわらずなにをしているのか皆目検討もつかないような外国人たちが一クラス分ぐらいの人数でたむろして、タバコを吹かしていた。彼らはどこに帰っていくんだろう。

2021/11/18

Silk SonicのMVにはWarner Music Japan提供で日本語字幕付きのものがある。のだが、3本中3本に誤字があって、頭をひねっている。具体的には「Skate」の「おまえを知りたいん おまえを知りたいんだ」、「Smokin Out The Window」の「この女は 俺に家賃を払わせて 旅行代まだ払わせて」、「Leave the Door Open」に至ってはしょっぱな出だしが「何してるだい?(何してんの?)」でズコーッといったところだ。せめて、日本語よく分かっていない外国人スタッフが担当したのか、仕事できない日本人スタッフが担当したのか教えてほしい。こう、労力を投入してしかるべきところでずさんさが見えるのは非常に腹立たしいのだが、KPOPを見ててもこういうのばかりだ。日本語和訳をつけてくれるのは大変ありがたいのだが、DeepLのほうがずっと自然な日本語になるだろうというレベルなことが多い。責任をもって目を通す人はいないのかと思う。たったひとつの論理的な説明とは、いない、ということだ。

2021/11/17

私は現代文を教えて日銭を稼ぐこともあるのではっきりと分かるのだが、現代文の試験問題が前提としているのは現実意図主義ではなく仮説意図主義だ。テキストから合理的に再構築される限りでの“作者の意図”に基づいて、整合的な選択肢を選んだり正しく要約することこそが、求められているスキルなのだ。よって、センター試験のあとで、出題された現実の作者が、「模範解答は私の意図したところとは異なる」といった発言をしたところで、それは現代文教育のいい加減さを暴露する決定的な材料にはならない。現実の作者がちゃんと書けていない可能性もあるし、抜粋された部分だけから仮説された意図が、現実の意図と一致しないというケースもありそうだ。「人の意図なんて、本質的にはわかり得ないのだ」みたいなアイロニーも、ここではなんの関係もない。この手のアイロニーから抜け出せないままの人は往々にして現代文の出来がわるい(現役のころの私のように)。

もちろん、問題作成者も全能ではないのだから、どう読んだってその答えにはならないだろう、という模範解答もたまにはある。2011年の小説で、ある情景描写から象徴内容を取り出す問題があったのだが、あの抜粋部分だけで正解の選択肢を選ぶのはかなりしんどさがある(し、それによって試されているスキルに一般性があるとも思えない点では、いわゆる悪問なのだろう)。それでも、各予備校の講師陣による解釈がおおむね一致するときには、それこそが問題文の“正しい意味”なのだと言って差し支えないだろう。受験現代文とは、そういうゲームだからだ。もちろん、受験現代文のルールを自覚することと、批評のルールを知ることは、別問題だったりする。

2021/11/16

私は小説を読むのが遅い。昔から、他の人はなぜ小説を読むのがあんなに速いんだろうと不思議に思っていた。文庫本400ページぐらいの長編小説なんて2時間で読めるという人や、上下巻のものを一晩で読んできたという人がいて、いや、私はそれに一週間も二週間もかけているのだが……という気持ちになる。集中力やら没入感が、私の読書経験とは違いすぎるのだ。私は一日に15分だけ読んだり、途中で別のことをしたり、他のことを考えながら何度も同じ行を読み返す仕方でしか小説を読めない(作品にもよる)。ページをめくる手が止まらない、といったゾーン経験をすることはめったにない。もしかすると、私はかなり非効率的な読み方をしているのかもしれないが、走り方や泳ぎ方とは違って、小説の読み方をチェック・矯正してもらう機会がぜんぜんない。こと小説に関しては、この〈タラタラ読む〉ことが私の批評的与件となるわけだ。批評的に言って、つまり、作品に関してより正確で有益な記述を行うゲームに関して言えば、これがどこまで大きなハンディキャップなのかは分からない。

2021/11/15

やるやると言い続けていた「ジャンル」研究に、ついに着手した。個別ジャンルのどれかから入るつもりだったが、やっぱりジャンルというメタカテゴリーのあり方からアプローチすることにした。形式、様式、メディアといった、似て非なるメタカテゴリーとの比較検討がさしあたりの作業となるだろう。基本的なアイデアとしてはわりといいものが見えつつあるのだが、インスピレーションのもとになったのは、まったく別の文脈で別の話題を扱う論文だった。詳細はまた固まったらなんらかの形で発表するが、こういう仕方で、ある方面での勉強が別の方面で役立つ感じは、哲学研究の醍醐味のひとつだと思う。

こたつを出した。ついでに掃いたり叩いたりしたせいで、ハウスダスト地獄を味わった。

2021/11/14

タコライスを作って食べた。冷蔵庫でずっと眠っていたサルサソースをついにやっつけられそうで一安心だ。

結局こたつは出さなかった。明日こそ出す。

2021/11/13

アメリカンプレスで淹れた深入りコーヒーと、キャラメリゼしたナッツを入れたヨーグルトが抜群に合ったので、QOLが上がった。それはそうと寒すぎるので明日こそコタツを出そうと思う。

2021/11/12

Silk Sonicのアルバム『An Evening With Silk Sonic』がついにドロップされたわけだが、本当によくできた音楽で感心している。Bruno Marsはここ数年、R&B〜ソウル〜ファンクをメインストリームに昇華させる上でとんでもない貢献をしてきたので、今回もやってくれるだろうと思ってはいたが、いやはや文句なしの名作を生んでしまった。Anderson .Paakはあまり聞いてこなかったが、ヴォーカリストとしての存在感がとんでもない。シンプルに声がめちゃくちゃいい。本作のキラーチューンはなんといっても「Smokin Out The Window」だと思うのだが、「oh no!」と合いの手を入れてるだけで華がある。この曲も、貢いだ女に振られる情けない男の哀愁漂う一曲で、これをちょび髭グラサンの二人が軽快に歌っている姿がもう面白い(何度見ても.Paakが倒れるところで笑ってしまう)。総じて暗い時代にもかかわらず、ここまでスウィートでソフトなグッドメロディに、くすっと笑ってしまうようなビジュアルで来るとは。歌声のフェティッシュというべきか、結局のところ、ビシッと決まったコーラスを耳にする快楽には代えがたいものがあるのだ。しかしこう、オマージュともアップデートとも言い難いほどにどストレートな70sサウンドがこんなにもフィールグッドなら、結局のところ人類に必要だった音楽はこれだけなのだという話になりそうなものだ。

2021/11/11

先日のテロ事件のせいで『ジョーカー』が地上波放送禁止(見込み)とのことで、表現の自由ウォーリアーがいきり立っている、いつものインターネット風景だ。そもそも、どこかの局が禁止宣言をしたわけでもなく、実在するかも定かではない“テレビ関係者”発の噂が、あたかも公式発表であるかのように騒がれるのは、もはやひとつの様式美だろう。一般論として、薄い理論武装に慢心して、森羅万象を理解した気になってはならない。小論文を教えるとき、いつも早めに釘を刺しているのだが、「自由」「多様性」「個性」「平和」「平等」といった教科書的道徳に落とせば、なんでもかんでも話が済むわけではない。そういった道徳は、議論のジョーカー・カードにならないのだ。肝心なのはケースごとの細部、文脈であって、「表現の自由」から演繹的に批判できる以上の事情があるのではないかという、想像力だ。いつもながら、作品への“愛”がことをややこしくしている。愛するものが不当に扱われてしまったときの人は、驚異的な攻撃性を発揮する。これはまったく正当な心理だが、それがもたらす帰結は必ずしも正当ではない。The Plattersも歌っているように、煙で目がしみているのだ。

2021/11/10

今日はレジュメ担当のイベントがふたつあったので、ずっと喋っていた。ふたつ目でフレドリック・ジェイムソンの「映画のマジックリアリズム」(1986)を読んだのだが、内容はともかく、ジャンル研究の方法論としてはわりと学びの多いテキストだった。とくに、確立したカテゴリーを/から批評するのではなく、批評によって/とともにあるカテゴリーを確立させていく実践になっていて、これはちょうど気になっているものだった。マジックリアリズム映画に対するジェイムソンの特徴づけ(およびポストモダニズム映画=ノスタルジア映画との対比)は、ガルシア・マルケスやらのマジックリアリズム文学とどう繋がるのかいまいち分からないところが惜しいのだが、ともかく、あるカテゴリーをスケッチして色付けしようという具体的な試みであり、そのやり方は大いに気になるところだ。批評の哲学で具体例が必要になったら、引くことにしよう。ところでジェイムソンははじめて読んだのだが、細かいところはともかく論文の構造はわかりやすかったので、意外ととっつきやすい書き手だった。「カヴェルよりは読みやすい」という意見が出て、まったくその通りだなと思った。

p.s.日記ページがでかめのブルテリアぐらい重くなり、にっちもさっちもいかなくなったので、少しだけ体裁を変えたらすっきり軽くなった。生まれたての豆柴ぐらい。

2021/11/09

ディッキーの『Art Circle』(1984)に対するレヴィンソンの書評を読んだ。レヴィンソンの評価は手厳しく、ディッキーの本はほとんど制度説に対する防御のための防御にしかなっておらず、目新しいことを言っていないどころか、以前の制度説よりもしょうもなくなっているという。

Dickie (1984)は、相互定義的な5つの概念をセットで提出することで、「ねじれた概念[inflected concept]」として芸術を特徴づけようとするものだ。

レヴィンソンは、正当にもこのバージョンの課題をいくつか指摘している。第一に、5つの概念の周辺で前提されている「理解を持って」や「提示するために」「準備がある程度できている」といった要素は、日常語のままでとるにしては曖昧である。これらについて細かい説明を与えない限り、定義のサークルはミステリアスなままだろう。第二に、レヴィンソンは「アートワールドシステム」の定義に満足していない。それはおそらく、絵画や演劇、ホラーやヌーヴェルヴァーグといった、各芸術実践を念頭に置いているのだろうが、その内実については十分明らかになっていない。私が思うに、芸術実践や慣習に関して、最近KubalaやXhignesseがやっていることは、その辺りの補完になるだろう。第三に、ディッキーは定義における循環性に満足しているのだが、これはレヴィンソンをはじめ多くの分析美学者を戸惑わせている。ディッキーはもはやゲームを鞍替えしてしまったのか。個人的には、定義論に関するこのメタ哲学的問題が一番気になっている。

2021/11/08

NotionでTo Do List管理するようになって改善されたことはいくつもあるが、なにより、ゴミ出しを忘れないようになったのが嬉しい。

2021/11/07

自由が丘で焼肉ランチをした。自由が丘は時代を感じるというか、小さい頃に中国で見たような風景やお店の多い街だ。帰りにチャイを買いに中目黒まで行ったが、目当てのお店は不定休だった。よく考えたら最寄りのカフェでもチャイは買えるので、そちらに寄って帰宅(結局頼んだのはヘーゼルナッツラテだが)。自由が丘土産のBAKEのチーズケーキと一緒にティータイムすると、猛烈に眠くなったので30分ほど仮眠をとった。

2021/11/06

ちゃんこ鍋を作った。

2021/11/05

二日前に作ったねぎ塩チキンライス、ラップして冷蔵庫に入れたのは幻覚で、ずっと炊飯器に入ってたことが発覚して萎えた。いつもとは違い、フライパンではなく炊飯器のほうで混ぜ合わせようと思い至ったのが仇となったわけだ。

2021/11/04

人文学系の大学院博士課程なんぞいう奇怪なところに迷い込んでしまうと、人文学がさぞ肝心で、気の利いたものだと思われてしまいがちだが、世間の大部分はそれをまったく無視し、なんの不都合もなく維持されているという端的な事実については、なんら言い訳すべきではないし、大いに認めるべきだと常々思っている。とんでもないマイノリティであることはどうしたって事実なので、高尚ぶっても仕方がないだろう。

しかしながら、これは確かに面白いものであり、携わる者に特別な快を与えるものであり、無視している世俗の連中は「人生損している」、これもまた部分的には事実を構成している事柄だろう。趣味の快とはそういうものであり、それ以上のものである必要はない。

楽しい趣味は人を引きつける。初学者には教師が必要だ。こういう、楽しさを中心に駆動する文化産業に携われるならば、その他なにか意義のあることをしようというつもりはあまりない。

2021/11/03

白菜とバラ肉を煮込んで、サッポロ一番の粉末スープで食べる鍋が、最近の主食になっている。シメはもちろんラーメンを茹でて入れる。完全食だ。鍋は完全になりがちなので、冬場は大助かりしている。セブンイレブンに行ってもしょっちゅう鍋ものを買う。「一日に必要な野菜1/2」みたいなポップがあると、ほいほい買ってしまう。

2021/11/02

冬服買いに表参道のCOSまで行ってきた。本当はシネマリンでケリー・ライカートを2本見てからみなとみならいのCOSに行き、急いでバイトに向かう予定だったが、面倒になったのでCOSだけ見てくることにした。表参道まで自転車で行ったので、それはそれで面倒だった。

白のボアジャケット、ブラウンのカーディガン、黒のタートルネックと、黒のニットスウェットを買った。ボアジャケットは変なのを攻めたが、黒のふたつは守りに徹した。ニットスウェットのほうは形状も素材感もかなり理想的なものが手に入り、うれしさがある。カーディガンは去年手に入れ損ねたやつだ。オンラインには黒しかなかったが、店舗には目当てのブラウンがあった。

2021/11/01

台湾風唐揚げを作った。味付けはいいが、やはり揚げの工程がだめだ。なにもわからない。温度も時間も。結局、カリカリというよりはブニブニの、でかい肉片ができた。そこそこうまかった。

夜更けに煮玉子を作ろうと思いたち、卵を茹でたが、ザルに上げるのが早すぎてまともに固まっていなかった。四苦八苦して殻をむき、べちゃべちゃになった温泉卵もどきをやけくそで口に放り込むと、たいていのことはたいした問題ではないような気がしてきた。

2021/10/31

恵比寿で白いカレーうどんを食べた。白い部分はじゃがいもをメインに、生クリームなどが入っているらしい。出オチかと思ったがかなりうまかった。よく考えたら、カレーにじゃがいもも生クリームも、合わないわけがないのだ。

今日は炭治郎も見たし、禰豆子もしのぶさんも見かけた。

2021/10/30

実家で犬と遊んできた。母の水餃子づくりを手伝ったのだが、noobなので、生地に対して具を相当少なめにしないとうまく包めない。母は私の2倍ぐらい詰めていたので、極めし者はちげぇなと思った。

2021/10/29

メガネのレンズ交換で、自由が丘まで自転車を飛ばした。ポカポカ温かいのはいいが風が強い。メガネを預けたあとはとくに用事もなかったので直帰した。洗濯機回しっぱなしだったし。

最近またプランクワークアウトを再開し、意思の力でまる一週間継続したのだが、筋肉痛のターンがやってきてプルプルしている。

2021/10/28

社会存在論をもとに、ディッキーやダントーの制度説を批判する論文を読んだ。もっぱらディッキーの話だ。いろいろと不満はあるのだが、話がちゃんと噛み合っているのか、というのがもっとも大きい。2021/08/29にも書いたが、ディッキーの制度説はたしかにミスリーディングだ。後期バージョンまで含めるとディッキーの枠組みはそこまで大げさなものではなく、芸術作品とは(1)適切な文脈において、(2)もっぱら芸術家によって作られる人工物、というぐらいのものだ。(1)の関連で、いろいろと細かい概念(アートワールド、観賞候補、身分の授与、etc.)の記述をしたうえで、おそらくは便宜的にそれらが含まれる社会構造全体を「制度」と呼んでいるに過ぎない。これを差別化のために制度Dと呼んでおくならば、それが(例えば)サールが定式化したような制度Sの特徴を満たし損ねることは、なんら不思議なことではない。私の知る限り、ディッキーはサールなんて読んでいないからだ。実際、ディッキーのそれは社会構造説とか実践説と呼んだほうが、無難だと思う。

ということで、サールやルイスやグァラの制度理論を踏まえて、ディッキーの枠組みを批判的に読み解くには、①前者こそが制度に関する正当な諸理論であり、②ディッキーの説明はそれにそぐわず、③それにそぐわないからには芸術の制度説はうまくいかない、といった手順を踏む必要があるのだが、本論文が言えているのはせいぜい②だけなような気がしている。

一般的に、ある論文がXという名称の事柄について話しているときに、Xという名称の別の事柄についての理論を参照してきてしまう恐れがある(とんちんかんな質疑応答にもこの手のズレがよく見られる)。これに関してはちょっと前の松永さんのポストがためになる。もちろん、同じ名称で呼ばれているからにはいくらかの共通点があるのかもしれないが、事柄のほうがある程度以上一致していない限り、それではなにか言えたうちには入らない。

2021/10/27

令和何年なのか書かされるたびにスマホで調べるか周囲の人に聞くかを強いられるので、私は元号がほんとうにきらいだ。一桁の数字をひとつ覚えるだけなのだが、それも一年二年と過ぎていけば混同してくるし、そもそも覚える気がないので覚えられるわけがないのだ。日本(にほんではなくニッポン)の伝統がどうのこうのという言説一般が心底うざいのだが、それはごく端的に言って、私のメンタリティが在日としてのそれだからだろう。その手の抗弁がまったく刺さってこないのは、前提として、私が“純ジャパではない”からだ。そして、その手の抗弁をする類(ネット上にはわんさかいる)は、二言目には祖国へ帰れというカードを切ってくるのだが、私は生まれも育ちも日本なので帰る場所はここなのだ。ということで、想像力が欠如しており、お国抜きでは自分が誰なのかも分からない連中をとても軽蔑しているのだが、多くの社会構造はそういった連中によってシェイプされたものだ(変革はめんどうくさい、という自然の自己保存力はおおいに認めるが)。受験で古文・漢文をやらされたことは、いつまでも根の持っているだろう。

2021/10/26

日本酒の熱燗はかなりおいしいが、ごくごく飲んでいるとあっという間に消えてしまうのがきびしい。

2021/10/25

数日前に『ペドロ・パラモ』を読んだ。楽しい小説だ。どこへ行っても幽霊だらけで、死んでそうなやつはだいたい死んでいて、生きてそうなやつもみんな死んでいる。生死の境目があやふやだし、過去現在未来の境目もあやふやだ。どこから読んでもいいし、通読したところで冒頭に戻ってしまう。いまWikipediaを見たら、時系列順のあらすじが載っていることに気づいた。たいへんありがたいのだが、こうして系統化された知識に落とし込むことは、少なくともひとつの意味において作品の意図するところではないのだろう。意図のアクセス不可能性問題に対して、意図主義者は「ふつうに推測できるでしょ」という応答を持っているのだが、なるほどある程度まではふつうに推測できる。

2021/10/24

お寿司を食べた。えんがわ、はまち、うなぎ、あぶりエンガワ(塩レモン)、サーモンアボカドモッツァレラバジル、石垣貝、あさりすまし汁、えび味噌軍艦、藁焼きかつおのたたき風、はまち、あぶりエンガワ(味噌)。うまいカフェラテも飲んだので、元気が出た。

2021/10/23

勉強として小田部『美学』を読んでいるのだが、カント(というか古代~近代美学全般)に対してほんとうに心から関心を持つのは難しいな、というのを再確認している。もちろん、昔の彼らが言っていたことはぜんぶブルシットだというのはまったく不適切なのだが、諸問題に対してより多くの整理された道筋が存在する今、あえて古典に分け入ろうとするモチベーションがそんなには湧かない。無関心性の話をするなら、ストルニッツやディッキーから入ればよい。for its own sakeの話ならステッカーとキャロルの論争をたどればいい。カントは認知科学も知らなければ、映画を見たこともないのだ。真の意味で私の問いだと思えるのは20世紀以降の諸問題であって、それ以前の人がそれ以前の文化を踏まえて考えていたことは、参照するにはずいぶん遠回りである。なにより、概念の語源や間テクスト的な変遷をあらかじめ踏まえなければ本文に入れないのがしんどい。これが美学専攻の学生だったら、不勉強なくせに傲慢だという話にもなるのだろうから、文化系の専攻でよかったなと思う。

2021/10/22

先日、映画論の講義で、論文を読む上で「なんらかのかたちで個別作品に関する自分の理解が深まるなら、論文において提出されている概念や議論の妥当性はどうでもいい」という見解と出会い、自分では決してそんな読み方はしないので感心した。筆者の主張と根拠を整理し、その妥当性を評価する、いわば「パチこいてんじゃねぇだろうな」読みは、哲学(とネット論壇)の外ではそんなに主流ではないのかもしれない。無論、いろんな読み方ができるに越したことはないのだが、論文の主張を十分に検討せずとも「個別作品に関する自分の理解が深まる」ような読み方ができるというのが、そもそも私にはもうひとつ信用ならない。それは、いわゆる古典からスタート勢と同じで、分かってない分だけ深みを感じるデフレスパイラルな状態なのではないか。

2021/10/21

中学生に教えている英語長文で、「芸術とはなんであれ創意を発揮したものなのだ」というフォーク美学を見つけた。いつもながら思うことだが、「そうではない。創意は芸術以外でも発揮するし、創意を発揮すればただちに芸術足り得るわけではない。反例は~~」みたいなマジレスをするより、「芸術とはなんであれ創意を発揮したものなのだ」と適当に断言したほうが、創作のエンカレッジになってアートワールド的にはうれしいのかもしれない。生徒にもどう思うか聞いてみればおもしろかったが、聞きそびれてしまった。

2021/10/20

いまメインでかけているメガネ、紫外線だけでなく寒さに対しても暗くなる調光レンズを使っているのだが、この感じでいくと真冬にはつねにサングラスを掛けている人になるってコトではないか。それでもいいのかもしれないが。

2021/10/19

皮膚科行ったついでに、前に住んでいたアパート近くのピザ屋に寄った。半熟卵とハムのピザに、前菜のサラダとエスプレッソ。ここで出てくるサラダのドレッシングがほんとうに美味しい。どうも醤油ベースのドレッシングらしいことが分かったので、探してみようと思う。BGMではJBが「Try Me」を歌っており、かなり気分がいい。

外はあほみたいに寒い。

この一ヶ月ほどステロイド禁でねばってみたのだが、プロトピックだけではどうもかゆみが収まらないので、諦めてリドメックスをもらってきた。この、親の顔より見た赤地に白抜きのロゴだけで、肌ツヤがよくなるというものだ。私の身体は基本的にヒルドイドソフトとリドメックスとプロトピックで出来ているので、身体について語るなら彼らについて語らなければ嘘になる。私はよくパワポのスライドなどに黒字に白抜きの見出しを使うが、これはリドメックスにインスパイアされている。これは後付けで、たったいま思いついた。

2021/10/18

肉屋に弁当を買いに行ったら、備え付けのテレビでなんらかの洋画を流していた。午後のロードショーだろうか、ものすごい音量で、誰かが誰かを追いかけている(おじいちゃんおばあちゃんのやっている店は基本的にテレビのボリュームがでかい)。画面は見えなかったので詳細は分からないが、待っている間ずっとチェイスしており、私が帰るときも「待て!話を聞け!」的なことを叫んでいたので、結局追いついたのか巻かれたのかは知らない。

2021/10/17

オンラインゲームをやっていると、中国人はつねになにかにキレていて、ロシア人はつねになんだかわからない話を長々としている。前者は言っている内容も理解できるので「まーた怒ってらぁ」といった感覚なのだが、後者はとにかくわけの分からない事柄を、抑揚をつけたり途中で絶叫を挟んだりで、延々と垂れ流してくるので、迷惑といえば迷惑だ。それも、ゲームに関するやり取りだったり突発的な感情表現ということであれば分かるのだが、そんなに長々と話し続けることなんてないはずので、ゲームしながらドストエフスキーでも朗読しているのかという気になってくる。『動くな、死ね、甦れ!』を見たときにも思ったことだが、喋りまくってないと耐え難いほどに寒い場所に住んでいるのかもしれない。

2021/10/16

滑り込みでマーク・マンダースを見に東京都現代美術館までやってきた。木片が顔に刺さったり、顔が木片に刺さったりと、たいそう大味でこってりな味付けだ。絶妙なバランスで机に足をかけたり、椅子に上体をあずけた欠損身体もあれば、壁に貼り付けられたネズミの死体もいる。とりわけ、ビニール袋が異常に格好良かった。あのなんの変哲もない素材が異化されているのを見れただけでも儲け物だろう。それは一方で、(ローラ・パーマーのように)遺棄された死体を連想させ、他方で、展示外における作品の物質性を強調している。なるほど「展示と保存」という題目がにくい。作品が作品として生活している状態が展示なのであれば、保存とは作品が死んでいる状態なのか。であるとすれば、まさにその宙ぶらりんにおいて再展示されることになった、これらの作品は一体どういう状態なのか。

2021/10/15

めったにないことだが謎に8:00前に目覚めきったので、一時間ほど『ペドロ・パラモ』を読んだあとで散歩に出かけた。世田谷公園は朝からにぎやかで、噴水前のベンチには真っ赤になるまで日光浴をしているおっちゃんがいた。

2021/10/14

適当なタレとトッピングでささっとつくる油そばにハマっている。油そばはかなり好きな食べ物のひとつなのだが、蕎麦アレルギーなので、ネーミングのせいでいつもテンションが不必要に下がる。しかし、汁なしラーメンという否定的特徴づけではなおテンションが下がるだろう。

2021/10/13

論敵には悪いが、たけのこの里は明らかにきのこの山に勝っている。たけのこの里はチョコクッキーだが、きのこの山はチョコとクッキーである。前者は融合であるのに対し、後者はただの集合だ。たけのこの里を噛む経験は、統一された単一の存在であるチョコクッキーを噛む経験だが、きのこの山は、あのトュルトュルしたクッキーと、なんの変哲もない一口チョコをそれぞれ噛む経験である。口の中で食事を混ぜるな、という一般的な規範があるが、きのこの山が推奨しているのはまさにそのような食事なのだ。アルフォートというこれもたいそう美味しいチョコクッキーがあるが、その形状がたけのこの里をベースとしていることは言うまでもない。

あるいは、たけのこの里は没入型であり、それを食べる経験は受動的だが、きのこの山は参加型であり、それを食べる経験は能動的だと言うべきかもしれない。だとすれば、私はたいていなにかをしながらお菓子を食べるので、お菓子を食べる運動にまで認知のリソースを割くつもりはない、というより穏健な主張が得られる。

2021/10/12

小雨のなか自転車を漕いで出勤した。日記によれば、前回同じイベントに見舞われたのは2021/06/29らしい。ひさびさだし、霧雨ぐらいの感じだったのでもののうちに入らないのかもしれない。 査読対応をひとしきり片付けた。ということは、ぼちぼち別の話題について読んだり書いたりしてもいいということだ。次はディッキーの芸術制度理論、とりわけ1984年のバージョン(ディッキーズ・セカンド・チャレンジ)についてなにか書こうと思っている。

2021/10/11

俳優さんがテレビ番組で言及したかなにかで、イ・チャンドンの『オアシス』(2002)がFilmarksのトレンドに上がっていた。有名人の影響力はすげぇなと思うと同時に、こんな地上波向きではない作品を名指しで勧めるかたちになってすげぇなと思う。私ははじめて見たとき、この作品について語る言葉も見つからず、見たことも含めて自分ひとりの秘密にしたほうがいいのではないかと思ったぐらいだ。

『オアシス』は社会から疎まれている男(おそらくは知的なハンディキャップがある)と、社会からまったく無視されている女(重度の身体的なハンディキャップがある)の交流を描いた、配給会社曰くところの〈極限の純愛物語〉だ。しかし、共感性も法遵守意識も皆無の男が、便所にでも行くかのような気軽さで脳性麻痺の女を強姦しようとする「運命の出会い」からして、この関係性を純愛と呼ぶことの困難が待ち構えている。結局、後日になってから女の方が男へとアプローチし、その実質的な交友が開始されるのだが、それは言うまでもなく、こんな男であろうと女にとっては社会との唯一の接点だからだ。結果として、お互いWin-Winな関係を得るわけだが、このような形で得られた関係については、“純愛”なんかよりもっと別の言葉があってしかるべきだよなと思う。あるいはそれは、当事者ではない外野がなんらかのものとしてカテゴライズできるようなものではなく、もっと主観的な痛みを伴う関係性なのだと言うべきかもしれない。

『タイタンの妖女』におけるコンスタントとビアトリスの和解も、このような関係性のひとつだ。それはビアトリスが臨終において語ったように、当人たちが自由意志で選んだものではなく、社会ないし宇宙の摂理において強制されたものだが、孤独という大問題を癒やすなにかが、たしかな強度において伴うような関係性だ。そんな言葉をすり抜けるような結びつきを描いているのだから『タイタンの妖女』はすごいし、『オアシス』はすごいのだ。

2021/10/10

ここ数日の話で、またしてもちいかわがやらかしている。みんなで気持ちよく寝ていたところ、たまたま目を覚ましたちいかわのところにモンスターが出現する。ちいかわは「アッ!!」と驚き、寝ている二人に目を向けるが、 「ヨシッ」と決意し、武器に手にとり一人で戦おうとする。この意思決定は、公益から見て徹底的に間違っているのだが、当人としては「みんなを守らなきゃ……」みたいな使命感に酔っているのだから、救いがない。結局ちいかわは初手でモンスターに捕縛され、絶体絶命のピンチに陥って涙目になる。漫画としてはこのあとハチワレとうさぎが“偶然”目を覚まし、救助に駆けつけるわけだが、ふつうはちいかわが美味しく平らげられたあとで、寝込みを襲われて3人とも全滅だろう。それだけのリスクを取りつつ、仲間を起こしてチーム戦に持ち込むのでもなく、一人で戦おうとするのがこのちいかわというやつだ。

ちいかわの心理は分かりやすい。前述の通り、使命感に酔っているのはその一つだろう。とりわけ彼は討伐に関して踏んだり蹴ったりが続いており、かつ自己肯定感が低いくせに理想はそれなりに高いので、この機に活躍できればみんなに認められるだろうという風に考えた口だろう。

もうひとつの心理は、より救いがない。ちいかわとしては、ただただ「みんなを起こしては申し訳がない」という目先のやさしさに駆動されているのだ。その結果として自分が死のうと仲間が死のうと世界が滅ぼうと、気持ちよく寝ている人を起こすというムーブ自体がちいかわにはできないのだ。その1階のやさしさを、規範的に内面化しているため、帰結を踏まえて臨機応変に判断することができなくなっている。先輩に質問ばかりしちゃ申し訳ないな、というのでとんでもないミスを連発する新人のそれと同じだ。新人のうちは、うんざりされるとしてもホウレンソウを心がけるべきなのだ。

2021/10/09

一人暮らしもたいそう長くなってきたが、いまだにWi-Fiの勧誘と戦い続けている。彼らは「(なんらかのよくわからない)工事の関連で」いらして、「ご周知したいことがある」ので「玄関先でのご対応」を希望する。〈警察署の方から来ました(警察であるとは言っていない)〉というのと同様、彼らは後で問題となるような嘘はつかない。ミスリードなだけだ。それは、あたかも確認が必要な事柄であるかのように装っているが、とどのつまり乗り換えの勧誘なのだ。ふざけるのも大概にして欲しい。

そっちがその気ならこちらにも考えがある。私は、もっとも大胆であるときには、居留守をするか、開口一番「間に合ってます」でインターホンを切るのだが、これでは万が一確認の必要な事柄であった場合に困る(それも見越した上での文言なのだから、彼らの徳はなお低い)。なので、まず「それは確認が必要な事柄なのか?」と尋ねるのがよい。Wi-Fiの乗り換え勧誘などというのは、全宇宙においてとびっきり確認の必要がない事柄のひとつであり、彼らとてそのことを知らないほど純粋無垢ではない。それで逃げるやつはセールスマンだし、逃げないやつはよく訓練されたセールスマンだ。

今日の彼はよく訓練されたセールスマンなのか、あるいは「それは確認が必要な事柄なのか?」という質問が理解できないアホなのか、押しても引いても帰ってくれなかったので、一言言ってやろうとこちらから出迎えてやった(玄関先での対応なんて冗談じゃない。オートロックの内側に入ろうなんて思うな)。一体どこの会社がこんなやつ雇ってるんだ、と思って話を聞いていたらSONYだった。うちではSONYのWi-Fiを使っている。

2021/10/08

ミキサーもないのに調子に乗ってサグチキンカレーを作った。包丁で叩きまくって準ペースト状にしたのだが、これじゃないという感が否めない。色味要員として登用した野菜ジュースが、思いのほか甘いフルーツジュース系のもので、そちらも足を引っ張っている。あと、私はカレー粉の加減がいつも分からないので、全体としてぼんやりとした塩加減になってしまう。一晩寝かせて、もう少し煮詰めればマシになったりするのだろうか。

ついでに作ったサフランライスは、かなりうまく行った。そんなにサフラン好きではないが。

2021/10/07

でかめの地震で本棚がピンチ!と思ったのだが、今回もアイリスオーヤマの突っ張り棒に救われた。にしてもうちのBILLYは不当に酷使しすぎなので、地震で倒れるより先に崩落するのではないかと不安だ。『西瓜糖の日々』では、風がふいて小さなものがいくつか倒れた、という一文があったように記憶しているが、うちの場合は地震が起きて白酒のボトルだけが倒れた。

2021/10/06

マウントレーニアのエスプレッソが美味しいので、勝手に冷蔵庫に仕入れてくれるシステムをどうにかこうにか構築したい。

2021/10/05

座標上の二点が与えられているときに、y=ax+bのaが増加量/増加量でささっと求められることを、中学生に首尾よく教えることができた。その前は中受生に国語の文章を読ませることをことごとく失敗したので、なんだか国語より数学のほうが教えやすいし教えていて楽しいな、というのを改めて実感した。数学は解法さえ分かれば、あとは作業だ。そこには体系的な理解→演習のプロセスがある。国語は、①文章を読む気にさせ、②文章を理解させ、③問題文を理解させ、④記述する気にさせ、⑤正誤の理由を理解させるという、いずれも体系化されていないプロセスを踏む必要があるし、①と④でお互いにいらんエネルギーが消費される。あまりやる気のない子にも数学や英語は教えられるが、国語を教える方法はまだまだ模索中だ。

2021/10/04

一年ほど前までお弁当を買いによく通っていた精肉屋さん、コロナを受けてしばらく休業しているうちにずいぶん足が遠のいてしまったのだが、いつのまにか再開していることを知ったので、最近また通うようになった。私みたいな適当な暮らしをしている人間が15時に訪れても、揚げたてのカツ弁当を提供してくれるのでかなり助かる。

家の近くに植えられているキンモクセイが咲いている。9月にもうひとしきり終わったのかと思っていたが二度目の開花だ。植物については知らないことが多すぎるのだが、そういうものらしい。

2021/10/03

起きがけに散歩して家系ラーメンを食べに行った。こんなにしょっぱかったか、と思うほどしょっぱくて引いたが、おかげで元気が出た。今日も今日とて欲望のままにセブンのクッキーティラミスを食べた。

2021/10/02

エビやカニはうまいのだが、考えれば考えるほどシンプルにキモめの虫なので、頭空っぽの状態でないと食べられなくなる。それを言えば、魚含め海鮮はぜんぶ気色が悪い。

2021/10/01

TWICEの新曲「The Feels」がかなりいいぞ、という話を日記に書こうとしたが、やっぱりnoteに書いた。私の意見では芸術哲学の研究者はもっと好き嫌いを公言すべきなので、パブリックな場所に乗せておこうという寸法だ。

かわりに日記では日々について記そうと思う。リュウジの豚バラ大葉飯を作った。何度か作っているのだが、そろそろ夏が終わるのと、冷蔵庫の隅で死にかけの大葉があったので、ささっと作れるものを作ることにした。ほんとうはお昼に作ろうと思って米まで炊いたのだが、その間に作ったハムとチーズのてきとうサンドイッチで概ね満足してしまったので、豚バラ大葉飯は夜ご飯になった。ここ最近、CS: GOにハマって人間がおしまいになりかけていたが、これはゲームをアンインストールするという古典的なセルフコントロールによって、建て直されつつある。おかげで今日は査読対応にかなりの進捗を得られた。あとは、再インストールする面倒くささを、やりたいインセンティブが上回らないことを祈るばかりだ。

2021/09/30

Twitterで「#嫌いな映画10作あげると人柄がバレる」というハッシュタグを見かけた。人柄がバレるかどうかはともかく、人はもっと自分の嫌いな作品について語っていいよな、と思った。ルフィもどきの「何が嫌いかより何が好きかで自分を語れよ!!!」は時と場合によるとしか言えないし、適切な集合知とエコーチェンバー防止のためには、臆することなくサムズダウンできるような空気であっていてほしい。私はまだ臆するのでSNSではなく日記に書くが、私の嫌いな映画10作は以下だ。

嫌うほどではないが、きしょいなと思う作品はもっとたくさんある。

2021/09/29

そうしない理由がない限りソーセージをタコさんにしてしまう。明日は、蛇腹も試してみようと思う。

2021/09/28

Mag Uidhir (2010)による「failed-art」の話がピンとこなくて、ここ最近ずっと頭をひねっている。Mag Uidhirの主張は、「情報としてトリヴィアルでない意味で〈芸術ではない〉ものがある」だ。ふつう、〈芸術ではない〉はたいした情報ではない。私の炊飯器も目黒駅も太陽も、分類的な意味では芸術作品ではないからだ。Mag Uidhirによれば、しかし、非芸術のなかには「failed-art」というサブクラスがある。それはちょうど、弁護士を志して司法試験を受けつつ試験に落ちたせいで〈弁護士ではない〉ような人と類比的であり、芸術的な試みの産物でありつつ、その成功条件をクリアしていないような「芸術なりそこない」なのだ。

ここからMag Uidhirは、適切な芸術作品の理論は、「芸術作品である⇔成功した芸術的試みの産物である」、より具体的には「芸術作品である⇔(a)性質Fを持たせようという適切な芸術的試みの産物であり、(b)芸術であるための性質Fを持ち、(c)まぐれではなく意図された手段を通して、すなわち試みの結果としてFを持つ」というフォーマットを持つ必要があると語る。というのも、従来の意図主義のフォーマット「芸術作品である⇔性質Fを持つよう意図されている」では、意図さえすれば芸術作品になるので、試みの成功・失敗が説明できず、「failed-art」が存在しないことになってしまう。これは、「芸術作品である⇔(a)性質Fを持つよう意図されている、(b)性質Fを持つ」にしても解消されない。作品制作という意図的行為を、成功・失敗と結びついた試みとして理解してはじめて、「failed-art」をもカバーできる適切な芸術作品の理論が得られるのだ、という。

ピンとこないと言っている通り、私の整理が正確なのかどうかも自信がないのだが、ともあれピンとこない理由は、そもそも「failed-art」に関する明確な直観がないからだ。Mag Uidhirはとにかく「芸術作品を目指して作られたが、芸術作品にはならなかったものがある」という前提に基づいて話を進めるのだが、明確な具体例もなく、動機を共有することが難しい。そもそも「failed-art」にぴったりはまる訳語も思いつかない。弁護士的試みが失敗するケースは明白だが、これと芸術的試みが類比的に語れるとする根拠も特には思いつかない。当然ながら、そんな非芸術のサブクラスが実在しないのであれば、従来の意図主義的な定義で事足りるのだ。

規範的な話ということであればすとんと落ちる。試みの失敗したケースは、「価値の低い芸術」ですらなく「failed-art」という非芸術として扱うべきだ、というわけだ。しかし、従来の意図主義もまた規範的にとれば、「良い芸術か悪い芸術かは語れるが、芸術ではないとは言えない」と応えるのではないか。ここまでくれば、直観バトルのデッドロックということだろう。

2021/09/27

麻辣湯を食べに渋谷まで出かけた。麻辣湯は想像以上に美味しい食べ物だったが、渋谷はほんとうに人が多くてごっついダメージをくらった。人の多い場所に対する耐性がかつて以上に失われていることを実感する。

2021/09/26

今でも覚えているが、小学1年のときの担任で、教育委員会直行ものの暴力を日常的にかます定年間近のイカレ御婆がいた。忘れ物をした児童は教壇の前に立たされ、「○○と△△を忘れました」と自己批判をさせられ、忘れ物の数だけ御婆に脳天をひっぱたかれるという、文化大革命を地で行くスタイルが(誇張ではなく本当に)デフォルトだった。2002年、広島での話だ。私は忘れ物も好き嫌いも平均よりだいぶ多い子だったので、一日に二、三回は御婆と対決する日々だったのだが、両親はそれこそ文化大革命の国から来た連中なので、そういった教育方針を特に問題とも思っていない様子だった。給食の食べ残しは御婆が直々に口へとねじり込んでくれるのだが、今思えばそのうちのいくつかは好き嫌いというより私にとってはアレルギーなのだ。

結局、御婆は翌年には退職し、正門前のしけた坂道にてわれわれ教え子に見送られながら、アヴァロンへと小舟を出すアーサー王のごとく永遠に姿を消した。もう20年近くも前の話なので王はとっくに逝去されているのかもしれないが、それでも、われわれの思い出のなかで生き続けるのだ。

2021/09/25

ケチャプにはタバスコを数滴垂らすとなおよし。

2021/09/24

ITZYが初のフルアルバム『Crazy in Love』およびリードトラック「LOCO」を引っさげてカムバした。「Not Shy」と「Mafia」がしょうもなかっただけに、同グループとしてはひさびさにまともなカムバを得られて一安心だ。ITZYのカラーは、〈メンズライクだがしっかりキュートでポップ〉なところにあって、そういう意味ではあまり器用なグループではない。「WANNABE」までは得意なコンセプトが続いていて、流石に食傷気味にもなってきたところで「Not Shy」でテコ入れのつもりだったのかもしれないが、あの変にウェスタン風なコスプレがどの層を狙ったものなのか分かりかねるし、荒野でトラック相手にあおり運転したあげくトラックを強奪するだけのMVも最悪だった。テコ入れは続き、「Mafia」ではナムジャ用のステに全振りしたようだが、ガールクラッシュのダメなところを全部詰め込んだようなカムバだった。誰がどう見てもBLACKPINKの縮小再生産であって、CLCにすら並んでいない。

最近意識的になってきたが、KPOPに関する私の評価基準は、もっぱら次のようなものだ。〈メンバーのキャラクター(ないしペルソナ)に対して、楽曲・衣装・振り付け・MV・歌詞は適切かどうか〉〈適切である場合は、そのキャラクターを効果的にアピールするためにいかなる手段が選ばれているのか〉〈不適切である場合には、ギャップと呼べるだけのコントロールされた逸脱になっているのか〉。これは、KPOPがアイドルという「スター」を中心としたシステムである以上、ミニマルかつ妥当な評価基準だろう。端的に言えば、メンバーのキャラクターをちゃんと踏まえたカムバであることが、必要十分な要件になる。

ということで「LOCO」だが、ITZYとしては原点回帰的な、文字通りのカムバックになっている。カラフルな蛍光色に、やんちゃな衣装(ユナの穴だらけタイツ[1:40-]はなんなんだ)。ビートが印象的な楽曲は戦闘的だがキャッチーで、空間的な広がりを擁している。ちょっとデンジャラスな恋を歌ったらしい歌詞は、少なくとも「私はデンジャラスなので(マフィアなので)態度に気をつけろよ」みたいな恫喝を含む類のガールクラッシュよりだいぶ口当たりがいい。ダンスパート[2:12-]でリュジンが大いに魅せたかと思いきや、続くおかわりダンスパート[2:20-]がかなりよく、海外ウケも良さそうだ。猫に扮したイェジ[0:35-]なんかはキメッキメで、これはもうものすごい強度がある。「so so so dangerous……」[1:35-]のリアも、いい意味で高慢ちきなキャラクターが映えている。チェリョンは、相変わらずポジショニングが難しいのか、今回もそんなには前に出てこない。思うに、不思議ちゃんで(これも当然いい意味で)空気が読めなそうなのが彼女のカラーなので、それを踏まえたロールがあれば化けるはずだ(デビュー作の変色犬とのツーショットなんかはかなりよかったので、あれでよいのだが)。

2021/09/23

セブンのクッキーティラミスが美味しいので、欲望のままにしこたま食べている。最近、目に見えて腹が出てきたのでいよいよビールともお別れかと絶望していたのだが、この3日ぐらいで急速に縮小し、もとの体型に戻った。わけがわからない。そんな症例があるのか知らないが、ワクチンの副効果で腹部が腫れていたかなんかなのかもしれない可能性がないわけでもないのかなぁと思わんでもない。今日もクッキーティラミスを食べた。明日も食べるつもりだ。

2021/09/22

駒場の10号館では資料閲覧と称して映画鑑賞ができるのだが、前にリクエストして買ってもらったハル・ハートリー「ヘンリー・フール・トリロジー」のうち、最後の『ネッド・ライフル』だけ見れないまま、コロナ禍に突入した。もう『ヘンリー・フール』も『フェイ・グリム』も覚えていないので、見るとしたら見直さなければならない。

大学に行く予定はないし、10号館の閲覧室が再開する見込みも低そうだ。これもまた、災厄によって失われた営みのひとつである。

2021/09/21

21st night of Septemberなので、「September」をtalkboxで歌った。この曲は聞くたびに新しい発見がある。シャックスの現役でしこたま弾いてたころは、G/AのところをずっとただのGだと思いこんでいた。今日は、サビ入りのところで、G/AとBmに間にG#/A#があることを知った。ベースだけ半音で登るのかと思っていたが、ほかのバッキングも弾いているような気がする。あと、原曲のピッチがふつうのチューニングより35centぐらい高い(これはそんなに珍しいことではないけど)。

2021/09/20

セブンの、サンドイッチの隣とかにある薄めのナンっぽい生地に具を包んでるやつ、しょっちゅう食べているのだが、いっこうに名前を覚えられない。今この瞬間も忘れている。

2021/09/19

数年ぶりにFPSをやった。面白かったのかどうかもよく分からない。

2021/09/18

『ツイン・ピークス』をシーズン2の最後まで見た。最初はあんなに面白かったのに、回を追うごとに話が破綻していき、最後のほうは完全に消化試合だった。こないだ読んでいた村上春樹もそうだが、「ここまで読んだ/見たからには、最後まで読ま/見なきゃ」というゾーンに入ってくると、あまり健康的ではない。ちなみにシーズン2の最終話は文句なしによかった。劇場版だけ見て、リミテッドシリーズをどうするかは様子見としよう。

2021/09/17

ルーローハンを作った。6月以来らしい。チンゲンサイを茹でてトッピングしたのだが、そんなに好きな緑ではない。ほうれん草のほうがいい。

2021/09/16

Rotten Tomatoesに相当するサイトは日本にはないし、今後出てくる見込みもそんなにはない。それはゆるい感想文の集積などではなく、サムズアップかサムズダウンかの熾烈な争いの軌跡であり、映画だけでなく批評家まで「Top Critics」かどうかで評価される。ここまで体系立った価値付けの実践があるからこそ、キャロルは『批評について』でああいう定義をしたのだろう。

見えている景色からして違いそうだ。私の観測範囲にいるのは、あらゆる価値付けを拒絶するなんでもあり自由主義者か、さもなければ「批評とレビューは違う」みたいな意味不明なことを言って悦に浸っているスノッブが主だ。映画にどういう利点と欠点があり、どういう達成をしているのか、といったごくシンプルな問題をストレートに論じ合う文壇がないのは貧しさの現れだ。明らかに、これも「角が立たないように」という大和規範のひとつなのだろう。

2021/09/15

日持ち的にそろそろキビシイかといった感じのお好み焼きタネに、ふつうにアウトと思しき豚バラを載せてランチにした。23:00、いまのところ、とくに困っていない。この先困らないといいのだが。

2021/09/14

件のかじるバターアイスを入手してきた。最寄りのセブンイレブンではたくさん置いてあったので、そんなに希少でもないのだろう。味はといえば、ふつうに美味しいアイスだった。その名の通り、もっちり食感で、かじりごたえがある。

2021/09/13

問題はこうだ。ある行為(特定の作品を鑑賞する、など)には美的価値がある。しかし、それゆえに行為すべきだといえるためには、美的価値から行為への橋渡しとなる「理由」が必要である。例えば、しばしばたたき台となる快楽説によれば、①xには美的価値がある、②美的価値とは快楽を与える能力のことである、③xには快楽を与える能力がある(理由)。ここまで言えれば、快楽をなるべく回避すべきだと考える狂人以外は、④xすべきだ、という結論を承認できるだろう。快楽説は、②の説明がおそらくは狭すぎであり、美的価値が行為の理由となる仕方は必ずしも快楽だけではないだろう、という点に問題がある。

多元主義を取るのはわるくない選択肢のように思われる。すなわち、快楽、達成、欲求充足、愛など、さまざまな橋渡しによって、美的価値は行為を導く規範性を持つようになる。これでふと思い出したが、これらをひとまとめにしてゲーム理論で言うところの利得[payoff]と呼んでも差し支えないのではないか。美的価値のある行為を実行する理由は、行為が行為者になんらかの利得をもたらすからだ。これは言い方の問題かもしれないが、快楽説やネットワーク説を包括しつつ、一元主義を維持できているように思われる。

利得というのが広すぎて、包括的なカテゴリーとして有効でないというのならば、快楽説や達成説もまた、実のところ一元主義と称した多元主義である、と言うべきではないか。

2021/09/12

伊之助ボディになるまで毎日腹筋ローラー」はコメディとして徹底的に完成されている。まず、さっそくのように「32歳サラリーマン」が『鬼滅の刃』の伊之助の被り物をしているビジュアルがすでに面白く、腹筋バキバキのボディを目指して毎日淡々と、動画には音声も付けずに、腹筋ローラーをやろうというのだからたまらない。ひとつには、理想とする伊之助ボディと現在のたるんだお腹(とはいっても、すでにだいぶと引き締まっている)のギャップが効いており、もう一つにはおよそ大正時代の伊之助が選択しないであろう腹筋ローラーという手段のギャップが効いている。結果、「伊之助ボディになるまで毎日腹筋ローラー」という文面がかなりいい味出している(@InosukeWorkoutもよい)。被り物も、公式かどうか疑わしいほど歪んでおり、ぼさぼさの野生児丸出しだ。極めつけは、元気よく飛び込んでくる子犬のポメラニアン・エマちゃん。遊びたい盛りのようで、ご主人が変な格好で変なことをしているもんだから、猛烈に邪魔せずにはいられない。被り物をかじられて床に倒れたり、スライムのぬいぐるみを投げて時間を稼いだり、いつも企画倒れで犬と戯れるだけの動画になるあたりが、愛でずにはいられない。

2021/09/11

8割方回復したので、とんかつを食べに行った。「好きな食べ物は?」と聞かれてとっさに思いつくことは少ないが、とんかつはとりわけ好きな食べ物のひとつだ。寿司はとっさに思いつく。

2021/09/10

しばらくちんたらと読み進めていた『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』を読み終えた。

昔は夢中になって読んだものだが、二十歳こえて小知恵もついてくると、その衒学的な物言いが耐え難くなってくるのも事実だ。「ハードボイルド・ワンダーランド」の「私」は気の毒にも大きな力によってささやかな人生をスポイルされてしまうのだが、本人がトラブルを(それこそ)ハードボイルドに受け入れようとする限りで、こちらから差し向ける同情はとくにない。一方で、それをクールだと思うには、この人物はあまりに雄弁すぎる。彼にはたくさんのこだわりや主義やジンクスや価値観があり、その一つ一つを語らずにはいられないようだが、総じて知ったこっちゃないのだ。

その点、主人公が異邦人である分「世界の終り」はまだ謙虚さがあるのだが、私にとってのそれは『西瓜糖の日々』の縮小再生産でしかなく、とくに語るべきポイントもない。

2021/09/09

グロッキーとロキソニンを交互に繰り返している。激ウマの塩チーズケーキと恋人が作ってくれた豚汁を食べたので、どうにか人間の形を維持している。

たしかに、このしんどさの副効果で、効き目が数ヶ月だとか三回目四回目が必要だというのはきびしいものがある。普通に生きていて数年に一度あるかないかのレベルの発熱を、これからずっと数ヶ月おきに経験しなければならないのか。社会がそのようなコストをカバーできるようになればまだよいのだが、とてもそうなるとは思われない。

2021/09/08

モデルナ二回目をうった。さっそく39.0になりグロッキーだったが、ロキソニンでおおむね静まった。ロキソニンはすごい。

2021/09/07

日吉のころよく通ったラーメン屋を覚えている。石造りの、洞窟みたいな内装で、入って正面左に円形のカウンター席があり、右手に券売機と二人用のテーブル席が一つある。看板メニューはその名も岩石ラーメンだ。私はその内装をありありと覚えているのだが、問題は当のラーメン屋が存在しないことだ。ある日、夢で見たついでに、足繁く通っていた記憶まで私の頭にインプットされたらしい。そんなことあるのか、と思うのだがあるらしい。こうなってくると、私が幼少期の記憶だと思いこんでいるものの一部も、本や映画で見たエピソードを自分のものだと勘違いしているだけなのかもしれない。

2021/09/06

初心に帰るつもりでキャロルの書いた分析美学の教科書を読んでいるが、この本の構成はなかなかよい。最終章以外の各章は2パートに分けられていて、各パート1では伝統的に影響力の大きかった芸術の定義を扱っている。具体的には、representation、expression、form、aesthetic experienceの4つが取り上げられている。芸術の定義としてのそれらはいずれも失敗しており(広すぎるか、狭すぎるか、その両方)、最後の5章では芸術の定義不可能性に関する議論へと進むのだが、面白いのはパート2だ。キャロルは、それらが依然として芸術においては重要な概念であることを踏まえ、それぞれに特化した議論を展開していく。分析美学の歴史や方法をコンパクトに学べる一冊だ。英語も易しい。

難点を挙げるならば、『批評について』もそうだったが、やや議論が冗長な点だ。「xはこういう主張だ、それにはこういう反例がある、なのでxはだめだ」と論駁したあとで、「あと、こういう反論もできる、のでやっぱりxはだめだ」というのが続き、さらに「そうそう、こういう反例もある、のでxはぜんぜんだめだ」と続いていく。この冗長性は初学者には親切なものなのかもしれないが、飽きられてしまうところなのかもしれない。

調べてみたら、邦訳されているライカンの『言語哲学』と同じシリーズらしい。

2021/09/05

タオルで体を拭くとき、バスタオル→フェイスタオルの順で使うより、フェイスタオル→バスタオルの順で使ったほうが、能率的に水滴を落とせることが分かった。理由はわからないが、そもそも宇宙の一部というのはそのようにできている、というだけの話なのかもしれない。

2021/09/04

フェルメールの絵画を修復(第三者?によって塗りつぶされていた箇所を剥がす)したところ、でけぇキューピッドの画像内絵画が現れたという話。修復前と後でどっちが人好きするかは置いておくとして、表象内容や表出的質ががらりと変わるケースとしてかなり見どころがある。開いた窓のそばで手紙を読んでいる少女は固定だが、修復前は、孤独を強調するようなだだっ広い壁があり、なにか悲しい知らせを読んでいるような印象を与える。スローシネマみたいな構図だ。修復後はどかんとフルチンのキューピッドが据えられており、その雰囲気はまるで異なっている。悲壮感のような質は相対的に失われ、おそらくはラブレターを手にして浮足立つような、軽快で希望に満ちた質が得られている。手前の、皿から溢れた果物も、修復前はなにか悲惨な出来事があったことを暗示していたが、修復後は取るものもとりあえずラブレターを読みふける姿に見えてくる。もちろん、褪色した部分を塗り直したのもあり、画面全体が明るくなっている。

2021/09/03

The Journal of Aesthetic Educationに載っているビアズリーやキャロルを読んでいると、彼らがある種の美的規範の構築を目指していたことがよく分かる。すなわち、ある立場が理論的に正当化できるというだけでなく、批評なり鑑賞に関わる規範的基準として推奨し、具体的な教育に取り入れようとしているのだ。そうして、より“正しい”鑑賞や批評ができるようになれば、我々の暮らしはより豊かなものになるだろうと、ビアズリーは信じている(「美的福祉」というやつだ)。

規範の中身、たとえばキャロルの鑑賞ヒューリスティックがどこまで気が利いているかは別で評価すべきだと思うが、そのような規範を立てようという前提については、私はほとんど異論がない。が、この手のパターナリズムへの反感があるのも理解できないわけではない。「鑑賞も批評も自由なのだから、とやかく言うな」というわけだ。倫理学ではこういうことを言う人はほとんどいないのだが、美学ではこういうことを言う人がかなり多い。反パターナリズムへのコメントはいくつかある。

2021/09/02

私にはまったく不可解な理由によって、トークボックス界隈はどこかヤンキー的なものと結びついている。日本・海外を問わずトークボクサーは、ツーブロ、グラサン、キャップ、プリントTを着たガタイのいい男ばかりだ。女性が興味を示すことが相対的に少ない楽器であることは納得がいく(範例となるようなアーティストがいないのもある)が、どうしてこうNAMIMONOGATARI行ってそうな男性ばかりがトークボックスに惹かれるのかは謎だ。いや、ヒップホップ経由なのだから、当然といえば当然か。残念といえば残念だし、どうでもいいといえばどうでもいい。

2021/09/01

夢でワンピースの最終回を見た。ルフィがラスボス(知らないキャラクター。デカかったので巨人族か)との戦いで、もはや戻ってはこれない精神世界に飛ばされてしまうのだが、仲間の声援とかなんとかで結局戻ってこれてめでたし、という筋だった。ちなみに「ワンピース」の正体とは全海軍の統治権であり、霧の中から現れたルフィの背後に、膨大な数の海軍船が並んでいるシーンもあった。兵士たちはマインドコントロールされているのか、ルフィに従順だった。最終話は麦わら海賊団の同窓会という感じで、シャボンディ諸島での2年後みたいなノリだった。最後はルフィが「海賊王だ!!!おれは!!!!(ドン!!)」と叫んで終わったが、なんじゃこりゃぁと思ったところで、朝方の冷え込みに目を覚ました。

2021/08/31

「drop dead」という罵倒語がかなり好きだし、おそらくはこの訳語として考案されたであろう「おっ死ね」という日本語も好きだ。死という深淵の穴に落ちてしまえという崇高さもあるし、すっ転んで急死しろというコミカルなスピード感もある。なによりdで頭韻を踏んでおり、パーカッシブなのがよい。

2021/08/30

『ツイン・ピークス』のシーズン1まで見終わったが、この世において私が見たい物語・映像を煮詰めたような作品だった。私はオードリーが好きだ。

デイヴィッド・リンチという作家と結び付けられることの多い作品だが、Episode 3以降は直接は手掛けていない、というのは知らなかった。集団制作の美学的問題についてはもう少し掘っておいてもいいなと思う。

2021/08/29

ディッキーからウォルハイムへの応答論文(めっちゃ短い)を読んだ。ディッキーの芸術制度説に関して、ウォルハイムは「芸術かどうかを定める代表者なんて、どこにいるんだ」と反論する。ディッキーからの応答は二点。(1)「鑑賞の候補かどうか」を定める話はしたが、「芸術かどうか」を定める話はしていない。(2)アートワールドの構成員として身分付与を行う主体は、基本的に作品の作者で考えており、評議会みたいなところで有識者たちが決めてるなどとは考えていなかった。

ウォルハイムの"誤読"がディッキーの説明する通りであれば、私はディッキーの肩を持ちたいところだが、芸術制度説にはミスリーディングなところがたくさんある。実際、字面から想像されるシステムは、ディッキーの公式の説明より、ウォルハイムの"誤読"のほうが近いだろう。はたして、作者ひとりが鑑賞の候補として宣言しただけのものが芸術になる、というのでよいのだろうか。その身分が、より公的な認知を得てはじめてなにかは芸術になるのではないか。そういった問いの是非はともかく、ディッキーがしかじかの譲歩的な立場を制度説と呼ぶのは、自ら誤解されに行くようなものだろう。

ところで、ここで触れているのは、ディッキーの制度説の初期バージョンだ。五つの関連概念を相互定義した後期バージョンはより込み入っていて、同じぐらい評判の悪いが、少なくとも「制度説」と呼ぶのにより適切な理論だと思う。

2021/08/28

ジャーマンポテトを作った。うまい。最近は料理のお兄さんリュウジのレシピばかり作っている。

2021/08/27

ハンバーグ焼いた。たくさん用意したので、冷凍分も含めて焼きまくった。それはもう焼きに焼きまくった。

2021/08/26

コロナでできなくなったこと、やりづらくなったことはたくさんある。失われてしまったを取り戻そうと世界中が躍起になっているのはいまだかつてない事態であり、それに対してどういう態度をとるべきなのか、私にはまだ分からない。無様なマスクをつけ続け、遠出を控え、文化祭も修学旅行もサークル活動も会食も飲み会もなしというのが、一時的ではなく今後ずっとそうなのだと知らされれば、とてもやるせないだろう(もちろん、その中には失われてしかるべきものもあるのだが、それはまた別の話だ)。残念ながら、工夫によって生み出された娯楽(リモート飲み会、リモート修学旅行、etc.)はそんなに色気がなく、失われてしまったものの強度を再確認させただけだ。結局、人は抗うか割り切るかの二択を迫られ、割り切り派が抗い派を冷笑したり、抗い派が割り切り派を憐れんだりという、いつもの構図になってしまった。

2021/08/25

行こうとしたセレクトショップが定休日で、行こうとしたカレー屋が完売で、行こうとしたチーズケーキ屋も定休日だった。けど、急遽行ったジェラート屋が美味しかったのでよし(どうしてジェラートというのはピスタチオだけ追加料金なのだろう?)。

2021/08/24

行きつけの薬局でいつもトムとジェリーをやっているのだが、最近はクラシックなMGM期のトムジェリではなく、毒にも薬にもならないターナー/ワーナー・ブラザースのトムジェリを流している。悲しい。

2021/08/23

麻婆豆腐を作った。

2021/08/22

遅れてきた副効果なのか、あちこちの関節が痛む。左肩と右手首に始まり、右肩、左手首、両手の指、足の指ぐらいまで広がってきた。昨晩と今朝がピークで、ちょっと買い物してくるのにも一苦労だったが、夕方ぐらいからだいぶ収まってきた。動けないのをいいことに、立て続けに映画を見た。『暗殺のオペラ』と『トリコロール/青の愛』。Amazonプライムの「シネフィルWOWOWプラス」チャンネルを無料体験中なので、期間内に見まくろうという魂胆でいる。

2021/08/21

原作のある映画やリメイク映画は、あらかじめ原作なりリメイク元を見るべきなのか、永遠の悩みだ。一方を鑑賞することは、必然的に他方のネタバレになる。『悪童日記』や『スローターハウス5』を小説で読む前に映画版を見てしまうのは損してると思うが、『スカーフェイス』や『オールド・ボーイ』や『時計じかけのオレンジ』を見る前に、まずリメイク元なり原作漫画・小説をチェックすべきだとは一概には言えない気がしている(私はチェックしなくてよかったと思っている)。

結局、「原作/リメイク元」と「映像化作品/リメイク作品」を引き比べて、個人的により気に入るだろうほうを先に見て、そうでない方はネタバレを踏まえて妥協的に鑑賞するのが望ましい、という話だ。問題は、鑑賞に先立ってどちらをより気に入るかをどうやって知るかだ。そのためには、ある程度ネタバレ情報に触れるしかない。

濱口竜介の『ドライブ・マイ・カー』を見に行きたいが、あらかじめ村上春樹を読んでおくべきなのか、分からない。(忘れているだけで、もう読んでいる可能性もある。『女のいない男たち』はいつの間にか本棚にある。)

2021/08/20

美的なものに関するビアズリーの三位一体(unity, intensity, complexity)を、直観的な日本語に落とし込んだらなんだろうとしばらく考えているが、「カチッとした感じ」「ガツンとくる感じ」「奥深~い感じ」でよいのではないか。こうしてみると、どれも言ったもん勝ちな感じがして、海原雄山みがある。

2021/08/19

ここ数年、UKのギターロックが日の目を見ないなと思っていたが、単に私のアンテナが鈍っていることが判明して安堵した。ちゃんとdigる姿勢を持たないと、カルチャーはまったく不可視になってしまう、という不安も生じた。

2021/08/18

ここ数日、換気口のすぐ外で鳴いていたコオロギがいなくなった。コオロギの寿命を知らないので、死んだのかどうかは分からない。ヤク絡みでマフィアに前歯をへし折られ、もはやトランペットも吹けなくなったのかもしれない。そうではなく、単に移住したのだとすれば賢明な判断だろう。ヤブミョウガの根本でツウィツウィと鳴き続けることは、そんなに気持ちのいいことではないはずだ。

2021/08/17

昨日、Red Velvetがカムバした。「Psycho」が2019年の年末なので、ほぼ2年ぶりの活動再開だ。「Queendom」は贔屓目に見てもそんなにたいそうなトラックではないのだが、相変わらず振り付けが格好いい。1サビの後ろで、各々違う方をノックしながら向かって右にスライドする動きがあまり見たことない振り付けで面白い。合唱による個別性の融解とも一貫しており、Red Velvetらしさが垣間見えるのがよい。

2021/08/16

寿司を食べた。はまち、うなぎ、えんがわ、あぶりえんがわ(みそ)、あぶりえんがわ(塩レモン)、鰻天ぷらロール。寿司に行くと寿司に来たという感慨だけで少し腹が膨れてしまうところがあり、帰ってきてからあれもう一皿食べたかったなと思うことが多い。

武蔵小杉のグランツリーでゴジラのポップアップショップをやっていたので立ち寄った。とくにめぼしいものはなかったが、家に帰ってからちびゴジラのLINEスタンプを買った。東宝の説明によれば、ちびゴジラは「怪獣王」になることが夢なのだが、別の説明によればちびゴジラは「怪獣王」である。これは一体どういうことなのか。彼は怪獣王でありながら、そのことに気づかないまま目指しているということか。そもそも「怪獣王」とはなんなのか、彼はなんのために王を志しているのか。それは制度的な意味合いでの王なのか(つまり、領土・国民・主権を持ったシステムの長、という職種を指しているのか)、単に腕力や権力が著しい怪獣であることを指した比喩的な“王”なのか(海賊王もたぶんこちらだろう)。

2021/08/15

焼きカプレーゼなんていう洒落たものを作ろうとしたが、モッツァレラチーズが完全に液状化し、〈ズッキーニのトマトチーズ煮込み〉的ななにかになった。割とうまかった。

2021/08/14

村上春樹の『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』を読んでいる。中学のころによく読んだ小説だ。村上春樹についても語れることが増えてきたのだが、彼の小説は基本的に謎を中心に回っている。「ハードボイルド・ワンダーランド」には入り組んだ陰謀と得体の知れないテクノロジー(シャッフリング)があり、「世界の終り」にはその対応物(壁、夢読み)がある。中心人物となる男性は、始終「分からない」を繰り返す。彼らは、肝心なところはなにも分っていないのだが、その周囲に見えているものや、それに対する自分の評価を実に雄弁に語る。「分からない」状態でもってカッコつけてるのだ。これはよく考えれば奇妙なことだ。事態をガッチリと把握し、自らの手でぶん回しているほうがカッコいいはずなのだが、村上小説の男たちはそういうマッチョイズムとは別の場所でカッコつけている。自己憐憫と言ってしまえばそうなのかもしれないが、ことによると、これこそサブカル的な態度なのかもしれない。

「ハードボイルド・ワンダーランド」は動的で、サスペンスフルだ。それに対し「世界の終り」は抽象的で、ポエティックだ。前者における謎はまさにサスペンスのそれなのだが、後者における謎は気取っていて否定神学的なので、イラッとしないでもない。しかし、私の記憶が正しければ、この小説はサスペンスと否定神学がどちらかというと後者寄りのところで合流したところで終わってしまうのだ。

2021/08/13

しばらく米を切らしているのでヤクザなものばかり食べている。かつて一人暮らし先輩の友人に、「米さえ炊いておけば人間らしい暮らしができる」と教えてもらったことがあるが、わりとほんとうにそうらしい。

左腕の痛みはほとんどなくなった。ワクチンのせいなのか知らないが、平時より身体がかゆい。世の中には任意のXに関して思索を試みる輩がいるので、かゆみについて書いた思想家だって一人や二人はいるだろう。しかし、かゆみは私にとってシリアスなものであり(幸運なことに、そのシリアスさは二十歳をこえてから軽減されているが)、個人的な意味合いにおいて表象不可能であり、語り得ぬものだ。

2021/08/12

37.0の微熱。頭痛や寒気などはなく、左腕だけ使いにくい。洗濯物を干すのに苦労した。喉がイガイガするのと、風邪のときの目のつっぱりが少し感じられる。ソルティライチと白湯をぐびぐび飲む。

アートとグロテスクについて考えていた。私は真っ二つに分断された牛はそれなりに見たいが、皮膚に釣り針を刺されて浮かび上がる人体なんてぜんぜん見たくない。

2021/08/11

ワクチンを接種してきた。暑いなか本郷まで行くのがかなりしんどく、なぜか大迷子になり、キャンパスの内外を十数分歩く。高校のころ、模試かなんかで行った上智にぜんぜん入れず、迷いに迷ったことを思い出す。

書類もろもろをラリーし、サクッと刺されて15分休憩。アレルギー体質なので心配だったが、とくになんともなく帰宅。2時間たったぐらいから微妙に痛みはじめ、夕方ごろから肩がほとんど上がらない。その他の症状はなし。夜、結構痛むが、筋肉痛だと思えば並の痛みだ。風呂入って寝る。

換気口のすぐ外でよく鳴いている虫がいる。調べてみたら、どうもツヅレサセコオロギのそれらしい。私にはツウィツウィツウィツウィツウィツウィツウィツウィツウィと聞こえる。

2021/08/10

状況が状況なので、当面の間バイトをオンラインにしてもらった。始業時間まで家にいられるし、就業とともに家にいるので、移動とはなんだったのかという気持ちになる。が、しばらくやっていたら対面のほうが気軽に雑談とか出来て健康的だとか思いはじめるのだろう。

2021/08/09

機能美[functional beauty]についてのリサーチをはじめた。さしあたり、Parsons & Carlsonの有名な本はウォルトンのカテゴリー論を援用して機能美における「フィット」や「緊張」や「エレガンス」を説明したものらしい。最近、またしてもWalton (1970)が分からなくなって来たので、読み返さなければならない。なんだか、新しいテーマについて勉強しようとするたびに、ウォルトンにぶつかっている気がする。一回読めばすっきり理解できる書き方をしてくれないウォルトンがわるい。

2021/08/08

数年ぶりに『仮面/ペルソナ』を見た。格好いい映画だ。面白い映画、というわけではない。私における「格好いい」の条件はビアズリーの三位一体(統合性・強度・複雑性)からおおむね説明できそうだが、「面白い」の条件はもっと恣意的で非批評的だ。面白いものはだいたい格好いいが、格好いいものが面白いとは限らない。『叫びとささやき』は面白くて格好いい。

2021/08/07

クリームパスタレモンを食べ、お昼寝して、おいしいチーズケーキを食べた。ほぼちいかわだった。

2021/08/06

でかめのやらかしがあって反省した。

2021/08/05

オリジナルに比べて、コピーがある種の価値において劣っているのは言うまでもないが、別の種類の価値においてはコピーのほうが優れている、というのはずっと気になっている美学的話題のひとつだ。私はライブの生演奏にほとんど興味がなく、YouTubeで見るほうがよっぽど好きなのだが、佐々木健一『美学への招待』でも同じようなことが書かれていて腑に落ちた。

高校のころ、友人に誘われてエリック・クラプトン&誰かしらの来日公演を見に行った(どこだったかは忘れた)ことがあるが、はるか遠くに点のように見えるギタリストふたりのうち、どちらがクラプトンなのかすら分からずじまいだった。また、同じ頃のマウリッツハイス美術館展でフェルメール《真珠の耳飾りの少女》を見たが、大混雑のなか、案内に従って歩かされながら横目で見ることしかできなかった(せいぜい15秒しか見てなかっただろう)。そういった経験を真正なものとして特別視し、生で見たことを自慢し、YouTubeや画集で見るようでは見たうちに入らないとマウントするのは、どう考えてもアホらしいだろう。ゆえに、道はふたつしかない。王侯貴族ほどの権力を得て、クラプトンや《真珠の耳飾りの少女》にもっと近づくか、さもなければ、YouTubeや画集でなにがわるいと開き直ることだ。

とはいえ良かった経験もある。ベルリン国立美術館展の《真珠の首飾りの少女》は比較的ゆったりと見れて、美術に関心を持つきっかけになったし、数年前に神奈川県民ホールで見た山下達郎には胸を打たれた。問題は、そういった適切なサイズのライブをどう見つけ出すかだ。適切でないサイズのライブをしない山下達郎は、本当に尊敬すべきアーティストだと思う。

2021/08/04

放置していた親知らずのせいで奥歯が曲がってきている疑惑が浮上し、いやな気持ちになった。

2021/08/03

アイスコーヒーが美味しい季節なのでグビグビ飲んでいる。

2021/08/02

クーラーをつけると寒く、消すと暑い地獄では、設定温度が29度では暑く、28度では寒い。

2021/08/01

ランチで牛肉ステーキを食べた。それで妙に牛肉欲が刺激されてしまい、夕食はすき焼きにしたのだが、すき焼き用のロースを買う経済力がなく安い切り落としにしたせいで、なんだか気の毒な仕上がりになってしまった。ついでに作った山形だし(夏野菜を切り刻んで、醤油や納豆昆布でネバネバさせたソース)が白米のお供としてかなりよかった。単体でもよいし、納豆と混ぜてもおいしい。明日は鰹節と混ぜる予定だ。

2021/07/31

はじめて『シックス・センス』を見た。肝心などんでん返しについてはあらかじめネタバレをくらっていた(映画研究をしているとほとんど不可避だ)ため、これがかなりよい映画だということは分かったものの、なんらかの重要な要素を味わい損ねた感がある。一昨日の日記で情動的な鑑賞よりも理知的な鑑賞を擁護したいなどと書いていたが、あらためて前者も重要だなぁと思い知らされ、ちょっと反省した。大げさな話、私が『シックス・センス』をあと100回見たとして、もっと望ましい条件下で(ネタバレを食らうことなく)一度だけ見た人が味わうなにかは味わえないのではないか。この"味わい"は、解釈や評価とは別の話だ。適切な解釈や評価をする上で、あらかじめネタバレを受けていること(ないし、一定範囲内で倍速鑑賞すること)はさして問題ではない、という点に関しては譲るつもりはない。それでも、「ネタバレや倍速は、作品経験の重要な部分を損ねる」という主張については認めざるを得ないだろう。そこで言われている重要な経験こそ、味わいなのだろう。

2021/07/30

新選組の長はなぜ「組長」ではなく「局長」なんだろう。

2021/07/29

中学生に現国を教えていて、小林秀雄の文章を読んだ。美は頭で考えるのではなく、心で感じるのだ、というよくある話だ。美しい花も優れた芸術作品も、肝心なのは黙って目を向ける・耳を傾けることであり、言葉にしようとすることではない、という。そこに一抹の真理が含まれている(すなわち、ある種の概念的思考は情動的経験の妨げになる)ことはもっともであるが、なぜこれほどまでに多くの論者が多くの時代において似たりよったりなことを指摘してきたのかは分からない。『燃えよドラゴン』の「考えるな、感じろ!」もそうだし、サチモスの「頭だけ良いやつ もう Good night」もそうだ。いわゆる美的態度論・美的経験論はぜんぶこれだ。

実際のところ、私はそのような美意識にほとんど納得していない。私の美学的な野望のひとつは、理知的な/頭と言葉を使った/批評家気質な芸術経験を正当化することにある、といっても過言ではないだろう。「考えるな、感じろ!」のようなメッセージは密教的であり、反エリート主義の皮を被ったエリート主義の不誠実さがある。上から下に向けて「考えるな」というのは、つまるところ体制の保存・強化であって、ペテンでないにしても教師失格である。下から上に向けて「感じろ」というのも、考えることの苦しさを引き受けようとせず、惨めに目標を下方修正しているだけだ。つまるところ、「考える」に対置されるところの「感じる」という虚無を中心に、誰もどこにも行けない。

おそらく、これほど強く「感じる」ことの弊害を訴える必要もないのだろう。ディッキーが述べるように、ある種の「感じる」は「考える」と(実のところ)まったく両立可能であり、そもそも二項対立が不当なのである。また、ある種の「感じる」は「考える」と矛盾するように思えるが、(実のところ)実態のない神話ないし幻なのである。

考えることは重要だ。言葉は災いではなく、(融通が効かないにせよ)我々の友だ。そうでないのならば、私にはどうすればいいのか分からない。

2021/07/28

ひさしぶりに早起きし論文を読んだら、かなり自己肯定感が得られた。が、睡眠によって得られる満足感と天秤にかけたとき、どちらのほうが上なのかは分からない。

2021/07/27

何年も塾講師をやっていると、自分なりのオリジナルの教え方を編み出してくる。例えば、私は平叙文を疑問文にする(doを付けたり、be動詞や完了形のhaveを主語の前に持ってくること)を疑問文"処理"と呼んでいて、「疑問詞疑問文は疑問詞をつけるだけじゃダメで、疑問文の処理をする必要がある」「間接疑問文は実際のところ疑問文じゃなくて、疑問文風の名詞節を作ってるだけなので、疑問文処理はしない」みたいな教え方をする。実際のところ、"処理"という言い回しが学生にも分かりやすいのか、話をこじらせているだけなのか十分に反省できないところが、職業塾講師との違いなのだろう。私にとっての分かりやすさは、彼/彼女らにとっての分かりやすさとは限らない。一般論として、それはある程度仕方のないことだ。

2021/07/26

野村芳太郎の『鬼畜』と木下恵介の『楢山節考』を立て続けに見た。前者がかなりよかった。

2021/07/25

カレーしんどくなってきた。

2021/07/24

手厳しい批判の何割かは、「お前(ないしお前の属するカテゴリー)のことがふだんから気に入らんのだ」という以上のことをなにも言っていない。それはそれで正当なメッセージなのだが、本音を隠蔽し、あたかも目の前のテキストを検討しているようなポーズをとることはやはり不誠実だし、ろくでもないというやつだろう。

2021/07/23

またカレーをどっさり作ったので、夏野菜をトッピングしてもしゃもしゃ食べている。

2021/07/22

この前、中学生にelectronicという単語を教えていたら教え子から「エレクトロスウィングね」と言われ、(Tape FiveとかCaravan Palaceとか聴くんか。しぶいな)と思っていたが、音楽ジャンルのそれではなく、それをモチーフにしたFortniteのエモートであることにさっき思い至った。Electro Swingといえば私が高校生のころ、EDM全盛期に多少話題だったジャンルで、友人からコンピを貸してもらって聞いていたのを覚えている。その後はまったく追っていなかったのだが、調べてみると数年おきにプチ話題になっており、コンスタントにファンがいる模様だ。ジャズっぽい音を4つ打ちに乗せているだけの音楽なのだが、こういうシリアスでない音楽がじりじりと売れ続けることは、世界にとってよいことだと思う。フォートナイトにはダブステップのエモートもあるが、いまの中学生連中にはEDMがレトロに聞こえたりするのだろうか。

2021/07/21

『ルックバック』について研究室の先輩が書いた文章が話題になっていた。筆者の見解には乗れる部分もそうでない部分もあるのだが、〈『ルックバック』はセンシティブな作品であることを踏まえよう〉という大筋に関しては異論の余地がほとんどないだろう。それは現実世界における具体的な人殺しや被害者への参照を含み、かつそれを主な動力源とする作品なのだ。これは作品に付帯する歴史的事実であって、解釈以前の性質だ(それも解釈だ、と言いたい人はいるだろうが)。

にもかかわらず、はてブやTwitterでは「芸術鑑賞は自由!」といういつもの有象無象がこっぴどく怒っていて、相変わらずインターネットは救えないことを再確認した。6000字ちょっとの文章を「長い」「面倒くさい」という人がこれだけ多いのも含めて、ほんとうにゾッとする。

「何もかも単純化されてしまう状況を「そんなもんだよ」と受け入れることは馬鹿にだってできるし、馬鹿は勝手にしておけば良いが、一人でも馬鹿が減るのならそれはきっと良いことだ。」

馬鹿への怒りが書かせた文章が、馬鹿から馬鹿にされるのはほんとうにやり切れないし、馬鹿・ヘイト・スパイラルへと飲み込まれてしまいそうになるが、どうか気落ちしない方法を見つけてほしいし、私も見つけたい。

2021/07/20

きらいな言い回し、というのは物書きなら誰しもいくつかあるものだが、言い回しの好き嫌いはとどのつまり読んできたものを原因とする偶然的な嗜好(に面白くもなんともないマウント欲を振りかけたもの)でしかなく、それはそれでまぁよいのだが、〈よい文章〉という客観的な基準と結びつけようとした途端に徳が著しく落ちる。例えば、私は気取った体言止めがいやなのだが、体言止めはわるい文章の必要条件でも十分条件でもなければ、標準的特徴ですらないことを知っているので、日記でそっと触れるに留めることが有徳だと感じている。好き嫌いとはそういうものだ。好き嫌いの表明は、それを見聞きした誰かを不必要にエンカレッジしたりディスカレッジするおそれがある。インターネットにおける居心地のわるさのひとつは、そういう条件に無自覚であるか、意識的に無視するようなところにある。

2021/07/19

マーク・ウィンザーによれば、フィクションにおける「ホラー」は(キャロルが定義したように)不浄で危険なモンスターによって特徴づけられ、「不安な話[Tales of dread]」は現実把握を脅かすような不気味な出来事によって特徴づけられる。前者は身体的脅威であり、後者は心理的脅威である。ウィンザーによれば、後者にはポー、クローネンバーグ、リンチらの諸作品や、『トワイライトゾーン』シリーズのような作品が含まれる。『ストレンジャー・シングス』はホラーに入るが、『DARK』はToDに入るだろう(エピソードにもよるが)。

この区別は、いくつかの点でうまく行っていない。まず、キャロルがメアリー・ダグラスから引いてきた「不浄さ[impure]」概念は、ウィンザーの述べる「見たところの不可能性」とおおむね重なる概念である。どちらも、われわれが現実世界に関して持っている文化的フレームから逸脱するような事物であって、キモいしゾッとする。ゆえに、共通点があるせいで、ウィンザーがやりたがっているホラーとToDの区別ができていない。そもそも、当の区別は(ウィンザーに反し)直観的にもほとんど自明ではない。実際、ホラーのなかにいくつかポイントの異なるサブジャンルがあり、そのひとつが不気味さの喚起に特化したToDである、という整理でダメな理由が見当たらない。ToDをホラーと並置されるジャンルとして輪郭づけようとする動機をほとんど共有できないのだ。われわれはそれらをひっくるめて「ホラー」と呼んでおり、それでとくに問題もなく暮らしている。こういった状況もまた、ジャンル研究をする上で考えたい事柄のひとつだろう。

2021/07/18

三崎まで遠足に行った。油壺のマリンパークでイルカショーを見たが、あの流線型で無駄のない身体がビヨンビヨン飛び跳ね・バルンバルン回転し・ザッパンザッパン着水するさまを見ていると、こちら側に座っている人間的身体の愚鈍さがグロテスクなまでに引き立つ。おまけにイルカは頭までいい(『銀河ヒッチハイク・ガイド』によれば彼らは人間よりも賢い)。アシカもスマートで、機敏だった(人類はやがてヒレを持つ海獣へと進化する。このことは『ガラパゴスの方舟』に書いてある)。

コツメカワウソに至っては、それだけですべてが許容される可愛さを誇っていた。人間はぜんぜんダメだ。ちなみに、いま調べたらオオカワウソという、全長が人間超えのバケモンがいることを知った。

2021/07/17

JINSのオールチタンがけっこうよいので、調光レンズをつけてサブの眼鏡にした。

2021/07/16

JINSのオールチタンがけっこうよい。調光レンズとかつけてサブの眼鏡にしたい。

2021/07/15

毎日たのしくトークボックスを練習している。中学2年生のころから、私がバンドでやりたかったのはボーカルだった。しかし、喉が弱いのとシンプルにそこまで上手ではないという理由から、あまり多くの成功体験はない。歌うことは、私がやりたいのにできない数多くの事柄のうちのひとつだ。トークボックスは、そんなフラストレーションの代償としてかなりうまくいっている。少し前は、ギターにヴォコーダーを繋げて遊んでいたのだが、あれのダメなところは、つまるところ「ピッチの外れた歌声をしかるべき音程にモディファイする」というプロセスのインプットにおける自己嫌悪にある。トークボックスはこの不備を解消している。私は口を適切なかたちにするだけでいい。あとはキーボードとトークボックスとチューブがうまく取り計らってくれる。

2021/07/14

ある種の物語的破綻がなぜおもしろいのか、というのは気になっている。『田園に死す』で川上からひな壇が流れてくるシーンなどのことだ。『ポゼッション』のアパートを出たところで高笑いしているおばぁもそれだ。こういう綻びはファスビンダー映画にとっての原動力ですらある。それをユーモアとかナンセンスで説明してしまうには、なにか取りこぼされているような気がしてならない。また、その過剰さにはどこか演劇的な手触りがある。つまり、映画的な設えとしての計画的誇張ではなく、失敗と紙一重の"攻め"が感じられる。おそらく、このような手法は時間性と深く結びついたものであり、文学的な鑑賞経験にはあまりこの手のショックがないような気もしている。感覚的にもっとも近いのは、アドリブソロでスケールからアウトしたフレーズだろう。多くの点でそれらはノイズであり、unityの妨げなのだが、うまくキマったそれはほんとうに格好良く、おもしろい。

2021/07/13

駐輪場を電子マネーで支払おうとしたら端末が故障しており、現金もなかったので内線で問い合わせたところ、後日支払うという形で出してもらえた。しかしながら、後日、どういう仕方で支払うのか謎だ。たかが100円のために、取り立て屋がうちにくるというのか(取り立て屋の自給は?)。先方の立場で考えたときに、どのような手段で回収したとしても、100円を上回るコストがかかりそうな気がするのだが、一体どうするのだろうか。まさか銀行振り込みになるのか(手数料だけで2.2倍するのだが)。

2021/07/12

今年も生ハムとトマトの冷製パスタを解禁した。トマトをセミドライにしている分、昨年よりも丁寧な暮らし度が上がっている。今日は賞味期限の危うかった(というか数日切れた)クリームチーズでチーズケーキも作った。土台もなく、適当な分量でフライパン焼きしたのだが、試験的にとりいれたコーンスターチがかなりよい仕事をしており、もちもち食感で大満足だった。

2021/07/11

適当な一般化だが、ミヒャエル・ハネケはブラックホールのような不条理を中心に据えた理不尽によってわれわれをupsetにするのに対し、ラース・フォン・トリアーはどこまでもリアリスティックな露悪によってわれわれをupsetにしている。ハネケの人々は動機がどこまでも無限後退するのに対し、トリアーの人々は利己的で、さもなければ偽善的だ。なので、「いやな気持ちにさせることをひとつの達成目標とするジャンルとしては同じだが、いやな気持ちの内実に関しては結構違うのかもしれない。

2021/07/10

大根とツナの煮物を作ろうとしたが、醤油が大さじ1弱しか残っていなかった。仕方がないので、ポン酢を入れ、だしの素を入れ、ノリでじゃがいもも入れた結果、よく分からんがまぁ食える煮物になった。前にも書いたが、私の味覚は認知的侵入を強く受けるので、オーセンティックな名称がついている料理に比べ、"よく分からん"ものはそれだけでちょっと位が落ちる。

最近はプチトマトのセミドライをよく作る。前に中目黒で買ったプリンの瓶、ぎりぎりかと思ったら一箱分のセミドライトマトを入れるのにぴったりだった。

2021/07/09

昨日、バイトしている最中、近くにずっとカナブンが鎮座していて、死体かと思ったら最後の最後で活動を始めたので、四苦八苦しながら屋外に逃してやった。今日コンビニ行こうと家を出たら、玄関出てすぐのところにカナブンが鎮座しており、こんな恩返しはほんとうにやめてほしいなと思った。あと、まったく部外者であるところの蚊が一匹ぶんぶん飛び交っていた。二匹とも帰ってきたときもいたので、部屋に飛び込まないよう素早くドアを開け閉めした。まったくわけがわからないのだが、帰宅した直後にクモが目に入ってきたので、再び素早くドアを開け閉めし、屋外に追い出した。屋外ではカナブンと蚊とクモの三つ巴が成立したことになる。誰が喰い、喰われるかなんてほんとうにどうでもいいので、全員どっか行ってほしい。

2021/07/08

ズッキーニ、セミドライトマト、モッツァレラチーズ、生ハムのパニーニを作って食べた。うまいものしか入っていないのでうまかった。

2021/07/07

夜中、近所を散歩しにいったら、草むらにでかめのカエル見つけたのと、ヤモリが4匹はり付いている壁を見つけた。

2021/07/06

半年以上抱えていた論文を投稿した。今年は短めの文章をポンポン書く、という目標はなかなか達成できずにいる。

そういえば、今年も裏窓の外でヤブミョウガが咲いている(昨年、アプリを使って再認能力を手に入れた)。痛くも痒くもないので別によいのだけど、「報われない努力」とかいう呪いのような花言葉を付与された花が裏窓の外で咲いているのは、象徴的にあまり望ましいものではない。もし私の日常が映画だったら、インサートでヤブミョウガが映ったりしないだろうか。

2021/07/05

Pagesで書いた論文をWordのテンプレに落とし込むのに二、三時間かかった。なんかひと仕事した感じがするが、プラマイゼロなのを忘れてはならない。

2021/07/04

中高の頃はすごくロックにこだわっていたし、学部生のころはすごくファンクにこだわっていた。「芸術のカテゴリー」を読む以前から、私は作品をカテゴライズすることに特別な思い入れがあり、理由もなくレッテル貼りを嫌う人を嫌っていた。「偏見から自由であれ」「無垢な目と耳で鑑賞せよ」という規範はもちろん"いい話"なのだが、世界というのは多かれ少なかれ概念によって分節化しないことには相手取れないカオスである。重要なのは、作品を見るための色眼鏡をなるべくたくさん用意しておいたり、適時新しい色眼鏡を自作できるようにしておくことであり、近視のくせに眼鏡を外すことではない。

2021/07/03

①後期資本主義社会におけるモノの価値は実用性ではなく記号的差異であり、②差異競争は強制参加である、というボードリヤールのふたつのテーゼは、私がなにかを書くときのエピグラフとしてつねにある。資本主義がこんなにも雄弁なシステムでなければ、私が書きたいと思える事柄はずっと少なかっただろう。もちろん、これは私に限らず、現代社会の書き手のほとんどが少なからずそうだと思っている。ということで、これまた使い古された言い回しにはなるのだが、社会を書いているのではなく社会に書かされているわけだ。

2021/07/02

『百年の孤独』を読み終えた。今回はペタペタと付箋を貼りながら読んだのだが、マジカルなシーンが思っていたほど多くはない。美女が飛んでいったり、村全体が不眠症に包まれたり、愛人とセックスして家畜が大繁殖するなど、そういった超自然的な出来事も目を引くが、それを淡々と語る語り手がときおり前景化してくるという、小説の遠近感が印象的だった。とくに、この語り手は人物たちが孤独のなかで一生を終える場面で文体にフックを入れており、憐憫とも嘲りともつかない比喩のなかでその死を語っている。終盤は主要人物たちの死が重なるので、文体もその調子を強めていく。アウレリャノ・ブエンディア大佐の死はこうだ。

「栗の木のほうへ行くのをやめ、アウレリャノ・ブエンディア大佐も表へ出て、行列を見ている野次馬の群れに加わった。像の首にまたがった金色の衣装の女が目についた。悲しげな駱駝が見えた。オランダ娘のなりをして、スプーンで鍋をたたいて拍子を取っている熊も見た。行列のいちばん後ろで軽業をやっている道化が目にはいったが、何もかも通りすぎて、明るい日差しのなかの街路と、羽蟻だらけの空気と、崖下をのぞいているように心細げな野次馬の四、五人だけが残ったとき、大佐はふたたびおのれの惨めな孤独と顔をつき合わせることになった。サーカスのことを考えながら大佐は栗の木のところへ行った。そして小便をしながら、なおもサーカスのことを考えようとしたが、もはやその記憶の痕跡すらなかった。ひよこのように首をうなだれ、額を栗の木の幹にあずけて、大佐はぴくりともしなくなった。家族がそのことを知ったのは翌日だった。朝の十一時に、サンタ・ソフィア・デ・ラ・ピエダがごみ捨てに中庭へ出て、禿鷹がさかんに舞い下りてくるのに気づいたのだ。(312)

伝説的なアナーキストが小便の最中に息絶え、その死体を禿鷲に貪り食われる。死は凄惨だが滑稽だ。彼の死に際し、ほとんど唯一(間接的だが)関与したのがサンタ・ソフィア・デ・ラ・ピエダという、この物語でもひときわ地味な未亡人だというのも印象的だ。彼女の一言で、彼は表に出てサーカスを目にする。言うまでもなく、サーカスは波乱と虚飾に満ちた彼の一生のアナロジーであり、「何もかも通りすぎ」たあとの静けさのなかで、彼はその一生を終える。その遺体を発見するのもサンタ・ソフィア・デ・ラ・ピエダだ。他の誰であっても、その役割は務まらなかっただろう。まったくこの小説は、しかるべき場所にしかるべきものが配置されている。

2021/07/01

今日は中2の証明問題(偶数と偶数足したら偶数、みたいなやつ)をやたらとうまく解説できた気がする。気がするだけで、向こうがうまく理解できたかどうかは定かでない。

2021/06/30

BASEから新しく出たクッキーを食べている。アールグレイはいやなのでココア。パンは2袋で1食分の栄養素がとれるが、クッキーは4袋で1食分らしい。パンよりも1食分の単価が高いが、そもそもランチにクッキー4袋食べようという気にはならないので、1袋150円くらいの栄養価高いおやつと考えれば言うことなしだ。ヨーグルトに混ぜても美味しいことを知って得した。

2021/06/29

雨のなか自転車を漕いで帰宅した。日記によれば、前回同じイベントに見舞われたのは2021/05/13らしい。ここ数回の比にならないほどの大雨で、たいそう嫌な気持ちになった。職場の近くには、100円で借りられる屋根付き駐輪場と、50円で借りられる屋根なし駐輪場があるが、前者に停めた日に限って雨は降らず、後者に停めた日に限って雨が降る。おそらくはこういったディテールの積み重ねが、ペシミズムを作るのだろう。

2021/06/28

はじめてソルティライチを飲んだ。ジュースの類として認識していたが、どちらかというと経口補水液に近いコンテンツだと分かった。私はカテゴライズによって味覚がかなり認知的侵入を受けるため、ジュースとして飲むより経口補水液として飲んだほうがソルティライチを堪能できるようだ。それは、ジュースとして求められるなにかを満たしていないからだろうし、経口補水液としては予想外のポジティブななにかを含んでいるからだろう。

2021/06/27

ふらりと立ち寄った観葉植物のお店で、小さいパイナップルを買った。ミニパインと言うらしく、沖縄土産の定番らしい。名前はナポ男になった。

2021/06/26

学芸大にトムヤムクン食べに行ったら、立憲民主の枝野さんが演説をしていた。ものすごく大きな音量でものすごく怒っていて、遠くからでもなにかとんでもないことが起こっているんじゃないかと気が気でなかった。

2021/06/25

トークボックスをはじめた。RogerとかMrTalkboxとかなんであんなコミカルな顔するんやと思っていたが、人を小馬鹿にするときの喋り方で喉開くとうまく鳴りやすいことを知った。

2021/06/24

昨日、「哲学者は認知科学の論文を読むか?」という論考をブログに挙げた。哲学における自然主義についてはいろいろと思うところがあるのだが、私がいまだに自然主義に乗り切れないのは、どうしても「そこまで自然科学が肝心だと思うなら、なぜ哲学者はいまだにアームチェアに座っているのか」と思ってしまうからだ。「可能な限りで自然科学の成果を踏まえよう」と言いつつも、アームチェアから立ち上がって実験室に向かう哲学者、すなわち文字通り「理転」する哲学者はほとんどいない。これはブログにも書いた通り、制度的にほとんど不可能なのだ(「いまどき文理の区別を気にするなんて……」とマウントしてくる人はこういった制度的障壁に無自覚なだけ)。そうなってくると哲学者は、「自然科学ではこう言われていて……」という仕方で既存研究を紹介するだけの人たちになるのではないか。応用していると言えば聞こえはいいだろうが、基礎をやらないで応用だけやる半端者ということでいいのか。

こういった皮肉が皮肉として機能する必要はまったくないが、「哲学にはちゃんと哲学ならではの問いと方法があるのだ」というならそれはもっと先鋭化されるべきだろう。つまるところ、惨めったらしくない仕方で哲学の役割をマッピングするのは結構骨の折れるタスクだ。「自然科学は実験で、哲学は理論構築」というよく見る区別はかなり疑わしく、自然科学もふつうに理論を立てているし、それが哲学者よりも不得手であることはほとんどない。では、自然主義のもとでの哲学者はいったいなにを担当するのか。彼らは進路選択を間違え、もはや引き返せないところまで来てしまっただけではないか。これは分野の意義というよりも、例の実存に関わる問題だろう。

2021/06/23

「部分だけ取り出すな。わるさを見つけようとするな。よさに理由をつけるな。そもそも価値のジャッジを下すな。すべてをそのまま受け入れろ。etc.」という(批評的態度とは真反対の)態度に松永さんは「愛」という概念をあてがっているが、私はこの意味での愛をいかなる作品にも向けたことがないんじゃないかと思ってしまった。これまでの人生で一番コミットしたであろう作品や作家に対してひどく的外れな悪口を言われたとしても、上のような態度で返すことは考えにくい(批評として応戦する気にはなるかもしれないが)。クールを気取っているつもりではなく、機会と素質がなかったからだろう。これについては不幸とも幸運とも思わない。

思い返しても、人の好きなXに対してとやかく言ったせいでトラブルに発展したことは一度や二度ではない。たいてい私が悪い。当人にとってXは「好きな」どころではない「大切な」ものであり、例の実存に関わるものなわけだが、私にはトラブルに先立ってそれを察する能力があんまりない。ちょっと前にTwitterでK-POPファンの方から怒られが発生した。その際、「オタクとして~云々」という点を強調されていたが、おそらくこの場面で「オタク」を自称するのは、「私は批評じゃなくて愛でる派なんで」という表明なのだろう。きっと、愛で駆動するファンコミュニティに属したことがあるかどうかで、見える世界も変わってくるのだろう。オフラインでの友情関係ですら、この手のトラブルで壊れかけたことがある。友人愛よりも肝心な作品愛があることが私には信じがたいのだが、当のケースのポイントはそこではなく、「人の大切なものを平気で悪く言う神経」が友人愛自体を困難にしたのだろうから、その点で言えばやっぱり私が悪い。二十歳超えてからは意識できる範囲で気をつけているが、それでも分からない愛は分からない。

2021/06/22

数日連続でAmazonの宅配が午前中にあるせいで、健康的な時間に起床できている。

2021/06/21

夏が来たので野菜カレーを作った。豚ひき肉とたまねぎのキーマに、Turkで適当に炒めたナス、ししとう、オクラ、ズッキーニをトッピング。今年も夏代表の完全食になること必至。

2021/06/20

論文を書くときには、全画面表示にしたほうが捗る。

2021/06/19

鶏肉のトマト煮を作ろうとしたが、放り込む直前になって、取っておいたトマト缶がカビていることに気がついた。仕方がないので、ケチャップと中濃ソースとウスターソース、カレースパイス一式をぶち込んで、よく分からないべちゃべちゃの鶏肉料理にしたが、あとから考えればほぼほぼカレー・ハンバーグだった。味はまとまっていなかったが、舌がバカなので問題なし。鶏肉の硬さだけは完璧でふつうに美味しかった。

2021/06/18

前日にアウレリャノの宿命的破滅とか書いたが、直後の章を読んだら思いっきりプロットツイストがあって、踊りに踊らされた。たったの数年で、私は『百年の孤独』の中身をすっかり忘れている。小説にせよ映画にせよ、フィクションのストーリーを忘れることに関しては私は師範レベルだ。忘れるおかげで、またいちから楽しめる。

2021/06/17

数年ぶりに『百年の孤独』を紐解いているが、毎章ぶっ飛ぶほど面白くて恐れおののいている。エピソードとエピソードが適当に散らばっているように見えて、その配置はそれ以外考えられないような必然性でもって、強力なグルーヴを構成している。極端な話、1967年以前の文学論はまったく読む気にならないほど、この小説はとんでもない文学的達成をしている。

学部生のころには表面的にしか読めていなかったが、いまちょうどアウレリャノが左翼テロリストに転身する章を読んでいて、胸が引き裂かれている。引きこもりの科学オタクで、暴力を嫌う人道主義者である彼が、一連の不幸と理不尽を経験し、保守党との戦争に飛び込んでいく様はあまりにも悲しい。とりわけ、その宿命的破滅は小説の冒頭からしつこいほど予告されている。アウレリャノはただひたすらに優しい人物であり、優しいからこそテロリズム以外の選択肢を奪われ、優しいからこそ破滅に取り憑かれる。この転身劇を、まったく関係のなさそうなエピソードから、20ページそこらの一章分で(これ以上ないほど説得的なものとして)書き上げる手腕は人間業じゃない。

2021/06/16

ストレートな意味での小説家になりたいという気持ちを、それはそれはずっと昔から持っている。文学がどういうものであり、どういうものでないのかは、それなりによく分かっているつもりだからこそ、哲学としてものを書く上で文学的な要素を組み込むのは、私にとってみじめでしかない。それは悪あがき的妥協、あるいは妥協的悪あがきであって、なんら建設的なことではない。論文を書く上で気にしていることの大半は、いかにして文学から離れるかであり、おそらくもっとも傷つくであろうコメントは「文学的」だとか「カッコいい文章」ということになるのだろう(幸い、そんなことを言われたことはない)。私は小説家になりたかった。なれなかったからこそ、なるべく文学的ではない哲学をやっている。精神分析では、こういう振る舞いを反動形成と言う。

2021/06/15

またしてもちいかわがもじもじしてハチワレちゃんが気の毒な感じになっている。シャイで、なかなか自分から前に出ていかないのがもどかしいとか、そういうレベルの話ではない。高速ドライブ中にトイレ我慢していた回もそうだが、ちいかわのダメなところは、「人に迷惑をかけるぐらいなら我慢する」という自覚が独りよがり過ぎて、結局のところハチワレちゃんはじめ周囲に気遣わせてしまうという点にある。「人に迷惑を掛けない」というのは、適度な報連相と、閾値以下の迷惑掛け合いのもとで成り立つのであって、自分だけ黙って我慢すればいい、というのはとんでもない誤解だ。おまけに、ちいかわは萎えることがあると萎えた顔をするため、空気の読めるハチワレちゃんもそれを見て元気がなくなってしまう。私がハチワレちゃんだったら、遅かれ早かれ鬱になると思う。

2021/06/14

辛ラーメンを食べた。最近はよくこれを食べる。からくてつらいので、それなりに労力を使い、結果的にすごくしっかり食べたような気がする。

2021/06/13

実家で『悪魔のいけにえ』を見てきた。母はしょうもないコントだと思ったらしいが、妹はそれなりに見れる映画だと判断した模様。父と犬は関心を示さなかった。

2021/06/12

近所のスーパーでまたしても年確をうけ、学生証しかなかったので、「いちおう大学院の博士課程でして、博士課程って二十歳以上しか入れないんですけど……」という説明をした。そりゃあそうだが、ピンとこられてない様子だった。ふつうに学生証に生年月日書いてあった(知らなかった)ので事なきを得たし、ビールを得た。

2021/06/11

Grover Washington Jr.の人間離れしたソロを聞いてぶったまげた。こんなアナログな楽器一個で、人間がこんな音を出せるというのはとても信じがたいことだ。昔、サックスをやってるサークルの先輩に、ギターはエフェクター踏めばギュイーンと盛り上げられるからいいなぁ、と言われたことがあったが、実はぜんぜんそんなことなくて、〈エフェクター踏めばギュイーンとなる〉のはエレキギターの標準的特徴なので、ピロピロしたところで盛り上がりはそこそこなのだ。良いサックスソロは、良いギターソロとはぜんぜん違う。すごいサックスプレイヤーは、やはりどこかびっくり人間的なところがあり、身体的に圧倒される。指をすばやく動かせるびっくり人間は、とんでもない肺活量のびっくり人間にはなかなか勝てない。

2021/06/10

ファズしか持ってないバンドの「Pretender」という、見出しからして面白いコンテンツがしっかり面白かった。音割れポッターといい、デカイ音はシンプルに笑えるのだが、なぜ笑いとして成り立つのだろう。よく言われるように、「笑える」は「怖い」とどこか隣接しているように思われる。

2021/06/09

昼にとんかつ、夜に麻婆豆腐を食べた。肉そぼろを作り置きしたのと、ナスも買ってきたので、任意のタイミングで麻婆茄子も作れる。

2021/06/08

ビールにコカ・コーラを混ぜたカクテル「ディーゼル」を飲んだ。少しだけ苦味のあるコーラだった。

2021/06/07

「匿名の知らんやつ」という他者がたいそう嫌だ。私は実名でインターネットをやっているので、これはもうひどくリスクを抱えているわけだが、そこにある非対称性を考えもせず、好き勝手に物を言う輩はやはりどこか損なわれていると思う。ということで、「匿名の知らんやつ」はなるべく相手にしない、というのが最適解だ。それはアルゴリズムが吐き出す0と1の集積でしかなく、重要な意味でのコミュニケーションではない。アイデンティファイできる人からのコメントを気にしたほうが、よっぽど生産的だし健康的だ。

2021/06/06

ミヒャエル・ハネケの『ファニーゲーム』を見たが、レビューを見るほうが面白かった。「無意味である」「内容がない」というのが、本作に対する定番コメントらしいが、こういった言葉遣いを正すのが芸術哲学の意義なのだろうと思う。「無意味である」も「内容がない」も、その実質は「ある特定の観点から期待される価値を持っていない」に過ぎない。リテラルな意味において、『ファニーゲーム』がなんらかの意味や内容を持つのは、明らかすぎるほど明らかだからだ。

ともかく、『ファニーゲーム』に反感を抱くレビュアーにおいて「特定の観点」とは、一階の快楽主義なのだろうと思う。なにもしていない家族が一方的に蹂躙される物語は、ただちにはなんら快楽を与えない。嗜虐的な欲望を持つレビュアーを除けば、ここまでは誰だって認める。問題は、一階の快楽主義にとどまることが果たして批評なのか、という点にある。『ファニーゲーム』は、(1)快楽うんぬんとは独立したより重要な評価軸において、価値を持つかもしれないし、(2)なんらかの独立した価値を持つことが、高次の快楽をもたらすかもしれない。まとめると、『ファニーゲーム』に対する「無意味である」「内容がない」というレビューは、言葉遣いがずさんなのと、見方が浅い、というよくある話になる。

2021/06/05

ホラーについての研究をちゃんとやりたい、というのは長らく思っているのだが、自分なりの問いがまだ見つかっていない。分析美学だと、フィクションのパラドックス(現実じゃないのになぜ怖いのか)やホラーのパラドックス(怖いのになぜ見ようとするのか)なんかがホットトピックだが、直接的な興味はそんなにはわかない。つまるところ、そういったパラドックスをどう紐解くかは心理学的な課題であって、哲学ではないような気がしている。

ホラージャンルの特徴づけ、というのはそれなりに気になる話題だが、帰結のない特徴づけは体裁が悪い。既存の特徴づけも、基本的には上述のパラドックスを解くためになされる。自己目的化した定義でも、個人的には面白がれるのだが、将来性はそんなにないだろう。

見込みがあるとすれば、ホラーの詩学か。プロットや表現の類型、それがもたらすホラーとしての良し悪し、といった話題はかなり気になる。

2021/06/04

ルーロー飯を作った。相当手間がかかったが、前よりさらに美味しく仕上がった。台湾パイナップルも買ってきたので、しばらく台湾フェスが続くことになる。

2021/06/03

カレー屋でナンを食べた。14時まで腹をすかすかにすかせ、ナン2枚食べてやるぞと意気込んでいたが、そんなにだったので、ナンではなくライスをおかわりした。学振を書いていた週に比べると、エネルギー消費がそうでもないのが分かる。

2021/06/02

少なくとも、インプットされる情報の確定度合いに関しては、「百見は一聞にしかず」だ。最大限の懐疑主義を前提するならば、目の前にXがあるからと言って、それがXであるという保証はなにもない。もちろん、Xに見える画像が、Xの画像である保証もない。同様に、Xが性質Fであるように見えていたとしても、その場においてF性が伝達されている保証はない。目から入ってくるインプットは、総じてぜんぜんダメなのだ。一方、「X」という言語表現は適切な文脈においてXについてのものであるし、「XはFである」という文がなにを述べているかというと、これはもうXはFであるということに尽きる。ここに、コミットされている情報に関する不確かさはほとんどない。もちろん、多義的な表現や曖昧な表現はあるだろうが、視覚的情報のそれに比べたら、言語は伝える情報に関してかっちりしている。その理由は簡単で、隠れた前提において、われわれは視覚的情報を言語に翻訳しようとしているからだ。翻訳というフィルターが、視覚的情報を情報として不確かなものにしている。

2021/06/01

一般的に言って、詐称の技量は恥ずべきことではあっても称賛されるようなことではないのだが、人狼やAmong Usではこれが称賛されることになる。正体を隠し、議論をミスリードし、無実の人に罪をなすりつけるのはまったく褒められたことではないはずなのに、これを巧みに行うインポスターは、やはりなんらかの達成をしている。言うまでもなく、これは人狼に限られた事態ではなく、ある種の知的スポーツに一般的なパラドックスだ。だが、思うに話はさらに一般的なものであり、巧みな話術によって他人を丸め込むことのできる人物には、どこか否定しがたい魅力がある。これを“人間的”魅力と呼ぶことにはためらってしまうが、場合によってはそうすべきだろう。つまるところ、「うそはうそであると見抜ける人でないと難しい」という呪いはいまだ現役である。

2021/05/31

ルイスの『コンヴェンション』を読み始めた。はじめに解説だけ読んだが、なるほど、前半は哲学者には訳したくないし、後半は経済学者には訳したくないような内容らしい。最終的に経済学者が訳を手掛けたという事実は、大筋としてはやはり経済学上の意義が哲学上のそれにまさるような本だということなのか、あるいは、本邦の哲学者よりも経済学者のほうがフットワークが軽い、ということなのか。

2021/05/30

ケンタッキーが安かったので、いっぱい食べた。チキンもクリスピーもナゲットもポテトもうまかったのだが、ビスケットを買わなかったので、片手落ちという感は否めない。

2021/05/29

寿司を食べて、身も心も潤った。食べたものは、トロタクロール、はまち、名物ちゃんこ汁、あぶりえんがわ(塩れもん)、あぶりえんがわ(みそ)、カニ味噌軍艦、うなぎ。

2021/05/28

真正性に関する伊藤さんのアイデアがよく分かっていないので、ここで整理しておきたい。基本的には、「xは本物である」の内実と条件に関わる話だと思うが、さしあたり①実質的用法と②評価的用法は区別できるだろう。これは「xは芸術である」に関してディッキーが区別したそれに相当するはず。「xは芸術である」が、あるものの(なんらかの)価値が高いことしか伝えておらず、実質的な意味での「芸術」として分類されるかどうかには関わらないことがある。同様に、「xは本物である」という述定も、②純粋な価値づけとしてなされうる。

トリヴィアルな真正性と言われているのは、①実質的用法のほうの話だろう。これは二通り考えられている。形式化するとたぶん次のような感じ。「xは本物のyである」をAxyで表記するならば、

こういった意味における「xは本物である」はたしかにトリヴィアルであり、「ポチが現に犬であるならば、ポチは本物の犬である」し、「目の前の人物aが、友人であるbと時空間的に連続した人物であるならば、aは本物のbである(b本人である)」という、いわば当たり前のことしか述べていない。前者はタイプの例化、後者は時空間的連続として言い換えても差し支えないことになる。

コメントとして、上のミニマルな意味合いを、真の/プロパーな/本来の意味での「真正性」と呼ぶのは難しくないか、と思った。つまり、切り詰めているうちにauthenticではなく別の概念に関する話になってはいないか(genuineとかrealとか)。私も「depict」のコアを限度まで切り詰めようとしてきたのだが、とどのつまり、気にされているのはコアではなくて、日常的なレベルで見たときの現象や関係性であるかもしれない。同様に、authenticityの問題系は、そもそもコアの水準にはないのかもしれない。

2021/05/27

タイポグラフィの美学についてなにか書こうと思いつつ、長らく着手できずにいる。

私が注目したのは、第一に、字体や文字組みに対する美的判断が、語や文に対する美的判断として流入するという事態だ。これは、絵画やイラストのうちに見て取れる〈誇張されて描かれた人物A(分離した内容)〉に対する美的判断(かっこいい、みにくい)が、現実の〈人物A〉に対する美的判断として流入する、という事態と似ている。フォントや体裁を整えることで観者の印象を操作するのは、タイポグラフィの一般的な機能だろう。しかし、正しい美的判断が直接経験を必要条件とするならば、流入による美的判断は、擬似的な美的判断ということになるのだろうか。この辺を整理してみたい。

第二に、タイポグラフィにはさまざまな美的用語が適用される。そのなかには、「男性的(masculine)/女性的(feminine)」「大人っぽい(mature)/子供っぽい(childish)」「モダン(modern)/クラシック(classic)」「上品(elegant)/下品(dirty)」「力強い(sturdy)/繊細(delicate)」などが含まれる。これらが、一定の形状を持つアルファベットへと適用されるというのが、そもそもどういうことなのか気になる。これは、美的判断が語や文の表示する事物へと流入する以前の問題だ。ボールドだと男性的で、セリフ体だとクラシックなのはどういうことか。この辺りは、タイポグラフィの歴史や制作実践を見ていく必要がありそうだが、加えて、ある種の比喩的な側面もありそうだ。

2021/05/26

アンジェイ・ズラウスキーの『ポゼッション』というたいそうよく出来たホラー/サスペンス映画について書きたいことがあるのだが、私の話なんぞでネタバレを食らうぐらいならお願いだから映画を見てくれ、という思いが強いため、どこにも発表できそうにない。

2021/05/25

天気がいいので、ついに部屋干し生乾きの呪縛から解放された。学振も出せたので、ようやく読みたい本が読める。

2021/05/24

毎年この時期になると研究の目的・意義・計画を反省させられる、というと聞こえがわるいので、反省する機会を得る、ということにしておこう。分析哲学はゲームだとか、いやいやどんな哲学だろうと無意味だとか、そもそも人文系全体が税金の無駄遣いだ、といった声と戦い続けること自体が哲学なのだ、といった14点ぐらいの返しをしたくなるほどには、この類の声は止まず(あるいは幻聴に移行しているのかもしれない)、むかついてもしょうがないので年に一度ぐらいは相手にしようと思っている。

とはいえ、自分のやっていることの是非について外野からとやかく言われないで済む、というのは健康で文化的な生活の条件にしてもいいとは思う。私はいっそ料理人になりたかった。料理になんの意味があるのか、と訪ねてくる輩に、お前は頭がおかしいのかと言い返せるのは、さぞ痛快なことだろう。

『ジョーズ』で海洋学者をバカにしていたサメハンターは、ホオジロザメの朝食となってくたばった。海洋学者が持参してきた酸素ボンベは、邪魔なだけだと非難されていたが、ホオジロザメを木っ端微塵に吹き飛ばすのに一役買った。つまりは、そういうことだ。

2021/05/23

昼過ぎに起きて学振を書きまくり、16時過ぎぐらいにカレー屋でナンを食べまくった。ジャック・ダニエルを買って帰宅。フロムザバレルの価格高騰は終わる気配がない。

2021/05/22

発表してきた。今回も今回とて意図主義と戦うことになったわけだが、勝敗はともかく、ある種の戦い方が見えてきた点、今後読むべき本が分かった点で、個人的に有益な発表だった。どこかで、作品の身分や意味や価値を、意図の手前で担保する類の形式主義を目指していたが、おそらくより有望なのは、それらが意図の先ではじめて得られる、という類の反意図主義だ。きっと、ここ半年の間に読んだ三木那由多さんやCatharine Abellの本が少なからず影響している。それ以上の必然性においてこっちの路線に導いてくれた本があるとすれば、やはり『タイタンの妖女』だろう。

2021/05/21

明日は学会発表なのだが、舌の裏側に出来た腐れ口内炎が、一向に治る気配を見せない。

明日は学会発表なのだが、学振の〆切も迫っており、白湯を飲みながら夜ふかしをしている。

布団カバーを洗濯したところ、丸一日干しても乾かない。

2021/05/20

ヨーグルトにバナナとはちみつ漬けレモンを入れてたくさん食べた。

2021/05/19

パエリアを作った。その他を除けばおおむねうまくいったが、水の分量調整が難しい。なかなか米が理想的な硬さにならないため、何度も加水しては蒸らすのを繰り返す。おこげは調子に乗らないこと。10秒でいい。20秒ではダメだ。

2021/05/18

天気がわるい。

2021/05/17

起床とともに突然思い至ったので、週末にやる発表のフライヤーを作った。目標はヘルムート・シュミットの大塚製薬。あの絶妙な工業製品みはほとんど再現できなかったが、とはいえ発表のたびにフライヤーを用意するのはわるい考えではなさそうだ。学会発表は研究者にとってのライブにほかならないし、ライブにはフライヤーが必要だ(表象文化論学会は毎度おもしろいフライヤーを用意しているが、あれは一体だれが担当しているんだろう)。

2021/05/16

ちまたで噂の台湾パイナップルを食べた。ふだんそんなに果物を食べない私でも美味しいと感じられる食物だった。ヨーグルトに入れるとなおよしな気がする。

2021/05/15

お好み焼きを作ったが、小麦粉の分量をミスったためほぼパンだった。

2021/05/14

タコライスを作った。おいしい上に完全食なので、たくさん食べた。

2021/05/13

嫌な感じの雨のなか自転車で出勤するという、たいそう嫌なイベントがあった。日記を見ると、前に雨のなか自転車を漕ぐはめになったのは2021/04/14らしい。きっと私は雨に見舞われるたびにそのことを日記に書くので、自分がいつ雨に見舞われたのかいつでも確認できるようになったということだ。日記は、今後もこの書き連ねていく形式を続けようと思う。「毎日が新しい一日なのだ」と言ったのはヘミングウェイらしいが、日々積み上がっていく文字列のほうが、私には好ましい時間モデルなように思われる。

2021/05/12

連日、自分で作ったスライドをカットし続けている。書き足すことが聴衆に対する不信なのであれば、省略することは聴衆への信頼ということになるのだろうか。

2021/05/11

James Brownはライブ盤ばかり聞いてきたが、改めてスタジオ録音のアルバムもかなりいい。最近は69年の『The Popcorn』をよく聞いている。インストナンバーだけで構成された珍しいアルバムなのだが、60sJBの精鋭揃いなので悪いわけがない。個人的には「Why Am I Treated So Bad」など、Jimmy Nolenのソロがたくさん聞けるのが推しポイント。リズムギタリストとしてのユニークさは言うまでもないが、ソロをとらせても完成度がすさまじい。後続のジャズ・ファンク・ギタリストたちは、相当Jimmy Nolenを研究したんだろうな。

2021/05/10

作品やテキストを褒めたり貶したりする際に使われる、運動と静止のメタファーには注意が必要だ。それは生と死のメタファーに直結していて、多かれ少なかれ「生は望ましく、死は望ましくない」という人間的な直観にフリーライドしている。絶えず流動し、動き回り、定まった形を持たないものをありがたがるのは、生きている感じがして好ましいというだけかもしれない。言うまでもなく、動いているが死んでいるものもあり、止まっているが生きているものもある。積分によって見えることもあれば、微分によって見えることもある。

これは動いている、あれは止まっている、という判断自体がしばしばいい加減であることは言うまでもない。

2021/05/09

昼お好み焼き、夜焼きそばのというメニューを3日ほど続けている。どちらも完全食だし、食材の共通集合が大きいため、一度の買い物で何食も解決できる。Turkのフライパンでキャベツとバラ肉を炒めると、肉の油と野菜がうまい具合に絡み合い、お店のような仕上がりになる。これを書いていて思い出したが、なお共通部分であるところの紅しょうがを買い忘れていた。紅しょうががあるかどうかで、お好み焼きと焼きそばのとくこうとくぼうは1.5倍ぐらい違う。こころのしずくだ。

2021/05/08

応用哲学会での発表を練った。今までの傾向上明らかなのだが、2万字ぐらいの内容にしようと心がけると、ラスト3000字ぐらいで面白いアイデアが閃き、そこから1万2万と書き連ねることになりがちなため、最初の段階で1万字ぐらいを心がけたほうがいい。2021年は短めの文章をたくさん書こうと意気込んでいたが、例年通り長めの文章をポツポツ書く感じになりそうな気がしてきた。

2021/05/07

駒場の表象文化論研究室において、近代性は評判がわるい。理性偏重だ、人間中心的だ、啓蒙主義的だ、というのは輪読コメントの定番であり、これらに無自覚であることは恥ずべきことだとされる。私もポストモダンの洗礼を少なくとも4年は浴びたので、約束された発展の裏に西洋中心主義、男性中心主義、植民地主義があるという見込み自体は念頭に置くべきものだと考えている。これらの暴露は、近代性を疑ったことによる成果である。問題は、これらを乗り越えるために必要な理性(メタ理性?)までが、理性だからとにかくダメだと退けられるときに生じる。一方で、表象文化論研究室はリベラリズムに献身的であるため、ここにジレンマが発生する。しかし、私にはこれがマッチポンプにしか思えない。

「既存の理性主義的オプションがどれも魅力的ではない」と「いずれにしても理性主義に根ざしたオプションではうまく行かない」の間には大きなギャップがある。不十分で失敗した啓蒙や、啓蒙を装う搾取はたくさんあるが、だからといって啓蒙自体をやめようという話にはならない。「理性や啓蒙に関しては慎重になるべきだ」という程度のことであれば誰だって同意するだろう。そうではなく、近代性一般に対するアレルギー反応を養っているのだとすれば、これはあまりよろしい教育ではないに違いない。

2021/05/06

数日前にキャラメリゼしたミックスナッツがだいぶと美味しい。スーパーのミックスナッツはどこかしっとりしていてイマイチなことが多いのだが、加熱したことで水分が飛んだのか、かなり口当たりがよい。ちょっと前に専門店で買ったハニーローストが割高だったので自分で作ろうと思い立ったわけだが、これはかなり気の利いたアイデアだったようだ。バターを混ぜるのがポイント。

2021/05/05

インドカレーを食べた。バターチキンとマトンとほうれん草。ナンを二枚弱、ごまドレッシングのサラダ、ジャスミン米、ピクルスを食べ、ラッシーを飲んだ。

2021/05/04

「(1)xはFならばGである、(2)aはFである、(3)aはGである」の三段論法を意識する限りで、いい加減なことを述べている文章のいい加減さは特定できる。例はこうだ。「(1)哲学は論争ファーストのスポーツであるならばダメだ、(2)分析哲学は論争ファーストのスポーツである、(3)分析哲学はダメだ」。分析哲学の擁護者はただちに「(¬2)分析哲学は論争ファーストのスポーツではない」と述べるか、あるいは「(4)分析哲学には論争ファーストのスポーツとしてのダメさがあるが、別の魅力Xもある」と言いだしがちだ。(¬2)はまったくもっともであり、その立証は分析哲学史に詳しい人に任せればいい。(4)は実質的な応答にはならない(別の魅力があろうがダメなものはその点に限って言えばダメだ)が、批判者の良心にはある程度訴えられるかもしれない。そうでないにせよ、たいていの事柄には魅力と悪癖が混在している、これは端的な事実だ。

しかし、私にとって一番腑に落ちないのは「(1)哲学は論争ファーストのスポーツであるならばダメだ」という前提だ。もし批判者が〈論争ファーストな態度を持つ〉ことを貶しているのだとすれば、これは厳しすぎる。議論のための議論が価値ある事柄を明らかにすることは決してない、と考えるべき理由はなにひとつない。価値ある事柄が明らかになるかどうかは、態度とはほとんど関係がない。もし批判者が〈論争ファーストな態度しか持たない〉ことを貶しているのだとすれば、「(2)分析哲学は論争ファーストのスポーツでしかない」というのは一層疑わしい。だが、よしんば論争ファーストのスポーツでしかないとして、それでも「ならばダメだ」とはならない。

話はもっと単純だ。スポーツはやるのも見るのも楽しい。スポーツは制度化されることで、職業選手が生活の心配をする必要がなくなり、ファンが多くの好ましいプレイを楽しむことができ、経済と文化が発展する。スポーツは健康にもよいので、教育にも適度に取り入れるべきだ。私はスポーツ選手になりたい。「しかしあなたの営みは哲学じゃないのだ」と批判者が言うのであれば、私はこの営みに別の名前を付けて、哲学者の看板をおろすまでだ。

2021/05/03

批評はたいていいつも嫌われている。作品に点数を付けたり、他作品と比較して優劣を語るといった営みに我慢がならない人たちがいるのだろう。一方で、批評はときとしてたいそう神聖化されている。作品に点数を付けたり、他作品と比較して優劣を語るといった営みを批評とみなすことに我慢がならない人たちも一定数いる。

批評家アンドリュー・サリスによる『The American Cinema: Directors and Directions, 1929-1968』は、アメリカの映画監督・約150人を「殿堂入り」「一発屋」などでランク付けした本だが、本書が邦訳されることはきっとないだろう。これは残念なことだ。

2021/05/02

論文に100点のエピグラフを付けたので、今日はいい仕事をした。

2021/05/01

学部三回生のときに、自分にとって肝心な芸術形式を肝心な順番に並べてみたことがあり、たしか「文学>映画=音楽>>>美術>舞台」とした記憶がある。文学は中学のときから好きで、日吉にいたころはカート・ヴォネガットやらチャールズ・ブコウスキーやらリチャード・ブローティガンやらにどっぷり入れ込んでいたので首位にある。中国文学の卒論を書いた。映画と出会ったのはもっと遅く、大学に入ってから毎年100本を目標に見始めたのだが、今日に至るまで私の生活の数パーセントを占めている。音楽は物心がついた頃から聞いていたし、バンドもやっていたのでかなりコミットしていた分野だが、バンドもやっていたからこそいい思い出ばかりではなく、音楽には対しては愛憎の両方がある。ポピュラー音楽の卒論も書いた。大文字のアートや芸術史については大学院に入ってから気にするようになった(気にするよう強いられた)のだが、いまだにそんなには気にしていない。写真の修論を書いた。

哲学者が芸術について語るとき、無意識に念頭に置く芸術形式や個別作品があると思う。もちろん、慎重な哲学者は自説を他形式で検証することも怠らないだろうが、それはともかく、当人がどの芸術形式やどの個別作品を肝心なものだと考えているのかは、興味深い事柄だ。これは哲学のなかでも、芸術哲学を特異なものにしている一因だと思う。私が反意図主義を支持するのは、部分的にはロマン主義文学よりもポストモダン文学のほうが好きだからだ。理屈ではなく好き嫌いによって動機づけられることは、一般的に言えば哲学的悪徳だろうが、芸術哲学は多かれ少なかれ好き嫌いによって駆動する。しかも、その好き嫌いは、政治哲学者にとっての政治的立場よりも、一層バリエーション豊かで複雑なものだろう。特定の形式や作品を愛でたり呪ったりするユニークなアスペクトを持つことなく、芸術哲学をやることが動機づけられるというのは、私にはたいへん疑わしい。理屈の裏に好き嫌いが見え隠れする文章は、議論としてはともかく文章として面白いものだ。芸術哲学者にはもっと、「あなたはどれが好きなんですか」という問いに答えてほしい、という話である。

2021/04/30

講義でツィオルコフスキーの「宇宙の一元論」を担当し、ちゃん読でビアズリーの「美的観点」を担当したので、よく喋る一日だった。ツィオルコフスキーは死ぬのが相当いやだったらしいし、ビアズリーは海原雄山らしい。

2021/04/29

28時まで寝付けなかった。

2021/04/28

苦節一年、ついに光回線を手に入れた。爆速インターネットだ。昼間、講義があるかと思って大学に行ったら休講で、移動時間を無駄にしたが、すぐに元が取れそうなほどネットが速いのでまったく気にならなかった。ネットが速いと気持ちに余裕が出てくる。

2021/04/27

なんとなく買いに出かけるのが面倒で、ずっと切らしていたビールを買い込んだ。ビールは買うだけでも美味い。

2021/04/26

お昼過ぎに公園を散歩していたら、ターザンロープに興味津々のブルドッグがいた。目の前ですべってみせたら、「すげぇじゃん!」と言わんばかりに目を輝かせて駆け寄ってきた。なんだか本当にすごいことを成し遂げたかのような気がしてまんざらでもなかった。

2021/04/25

サムギョプサルを焼きながら、YouTubeでKinKi Kidsと山下達郎の「硝子の少年」を立て続けに聞いた。スマホが油でギトギトになった。

2021/04/24

フリッツ・ラングの『M』を見た。思えば、あれはなんだか悪夢のような話だった。私はたまに、なにかをやらかす夢を見る。犯罪だったり事故だったりと内容さまざまであり、ときには具体的な内容を持たず、抽象的な仕方で不可逆ななにかをやらかす夢も、見る。なにかがすっかり損なわれてしまった焦りと後悔だけを覚えるような、いやな夢だ。『M』のシリアルキラーは、内なる衝動を抑えきれず、犯行に及んだことを告白する。その理屈は支離滅裂で、話しぶりは狂気そのものなのだが、面白いのはそれを聴く人々の反応だ。一人目の白髪の老人は、謎めいた表情で何度もうなずく。二人目の帽子をかぶった男も頷いているが、口元には嘲りの表情を浮かべているようにも見える。若い娘はその母親と思われる女性の腕にすがり、恐怖の表情を浮かべている。母親は落ち着かない様子で、手元の布切れを弄んでいる。帽子をかぶった男、母と娘の反応はごく自然なものであるのに対し、白髪の老人はなにを考えているのか分からなくて気味が悪い。そうか、と思い至るのは、ここでシリアルキラーを裁こうとしている群衆自体が犯罪者の集まりだということだ。ここにも、悪夢のごとき対称性がある。夢において、罪と罰の主体はいずれも私なのだ。衝動に対して理解を示すのも、これを嘲るのも、これに怯えるのも、私の諸部分なのだ。やがて警察隊によって私刑が阻止される場面が続くが、警察隊の乱入は画面外において示唆されるだけで、その姿を見ることはできない。唐突な救済は、まるで朝日のようだが、その先にはまた別の罰が待っている。

2021/04/23

倍速鑑賞では飽き足らず、10分で見れるYouTubeのあらすじ動画をよく見ている、などと言ったらまたマウントかまされそうだが、私はよく見ている。ただし、一度見たことのある映画限定だ。たいていの人とおなじく、見た映画ぜんぶ覚えていられるほどの記憶力はないので、論文などで参照したいときにサクッとおさらいするにはかなり便利なコンテンツである(法的にグレーというのはともかく)。

ところで、ネタバレ否定派はしばしば、初回鑑賞時の貴重ななにかをネタバレ接触が損なうとするが、これは二度目以降の鑑賞についても言えるのだろうか。サスペンスの筋を忘れている限りで、二度目に見ても(肯定的な経験として)衝撃を受けるのだとすれば、それは美的に保護すべき貴重ななにかのように思われるし、あらすじのおさらいはまさにこれを損ねているように思われる。「初回鑑賞は特別だから」というのはまったく分かるのだが、「二度目以降は別にいい」というのではネタバレ否定派としてあまり一貫していない気もする。二度目以降もフラットに見るため、初回鑑賞後も情報に接触してはならない、というのでは当然厳しすぎるだろう。

2021/04/22

昨日、鶏むねとハーブ類(パクチー、大葉、三つ葉、万能ねぎ)をナンプラーとレモンで和えたサラダを作ったが、どうも気に食わず冷蔵庫に寝かせておいたものを、今日の夜食にサッポロ一番みそラーメンを食べようとしたときなにを思ったのかまるごと入れてしまおうと思い立ち、実際にそうしたのだが、それがあまり気の利いたアイデアではないことはすぐに分かった。

2021/04/21

いま「美的態度の神話」を訳しているのもあり、最近はジョージ・ディッキーのことを考えている。有名なのは芸術作品の制度説だが、その手前の仕事としてストルニッツやビアズリーに対する批判も重要であり、この辺をもっと勉強・紹介したいと思っている。ディッキーは一貫して、美的態度や美的経験といったものに懐疑的であり、それなしでやっていこうとする。無関心性のような古典的な論点に関しても、「そんな経験をしたことは一度もない」とあけすけに述べるさまは痛快だ。どんな話題にもひとりはこういう論者がいて欲しい。ノエル・キャロルがディッキーの生徒だったことも、さっきWikipediaで知った。

2021/04/20

言葉が足りないことはしょっちゅうだが、言葉では足りないことは決してない。まったくぜんぜんない。

2021/04/19

ひさびさに唐揚げに挑戦したが、なんともいえない仕上がりだった。基本的には、油を犠牲にするか味を犠牲にするかの二択らしい。場数を踏まなければどうしようもないんだろうが、上も下も油でギトギトになるような場はそんなにしょっちゅうは踏みたくない。キッチンペーパーが枯渇してしまったので、私はキッチンペーパーを買わなければならない。

2021/04/18

ロシア宇宙主義の講義で担当になったので、ツィオルコフスキー「宇宙の一元論」のレジュメを切った。ざっくりまとめると、

といったことを熱弁している。当然ところどころ胡散臭いながらも、自己啓発として読む分には個人的に結構ぐっとくる文章だった(なんにせよ分析哲学の読み方を仕掛ければいいものではないことを再確認)。とくに、楽観的だろうが理性に全ベットする姿勢はシンパシーを感じるところだ。悲観的すぎるあまり野性しか勝たんと言い出す類よりよっぽど健康的だろう。

2021/04/17

台湾料理屋でジーパイ(高い)を食べ、ジェラート屋でピスタチオアイスクリーム(高い)を食べ、家で『マグノリア』(長い)を見た。たいそう充実した土曜日だった。

2021/04/16

26歳になった。13歳の二倍だ。恋人からTurkのクラシックフライパンを頂いたので、さっそくシーズニングし、鶏もものハニーレモン焼きを作った。まだ勝手が分からないので結構こびりついたが、お湯で簡単にこそぎ落とせるのは新感覚で面白い。鶏もものハニーレモン焼きもしっかり美味しかった。レモンピールでライスをかきこむことに伴うドーパミンはたいしたものだ。13歳のときには、そんなこと知らなかった。13歳のときに知らなかったことはたくさんある。52歳には、26歳のときにはなにも知らなかった、ということになればいいと思う。

2021/04/15

今年もドクダミと戦う季節がやってきた。熱湯をかければそれなりに駆逐できる、という近年まれなライフハックをインターネットから得たので、さっそくかけ回している。効果があるとよいのだが。

2021/04/14

雨のなか自転車をこぐ、という結構いやなタスクを久々にやった。梅雨が思いやられる。

2021/04/13

一般的に言って、ある望ましくない事柄とそれに対する私の見方(「これは望ましくないぞ」)があるとき、事柄のほうに働きかけて変革を目指すか、見方のほうを変えてしまうか、という選択を迫られることがある。愚かしいと分かっている事物ならもう取り払ってしまおうというのが前者、なにがわるいもんか愚かしくなどないと考え直すのが後者である。世界をfixするのが前者で、自らをfixするのが後者である。

事柄にもよるが、多くの場合に私が嫌う「割り切る」というムーブは後者だ。なので、私は望ましくない事柄に際しては前者を推奨したいのだが、「文句があるならどうにかしてみせろ」という規範もまた、不当なものに思われてしかたがない。健康的にも制度的にも、どうにかできるケースばかりではないからだ。一般的に言って二者択一はたいてい不当なのだが、そこから逃れる術を見つけるのはたいへんだ。

2021/04/12

最近気づいたことだが、缶ビールはかたいもので横からつつかれると結構かんたんに破裂する。先日は冷蔵庫から持ってくるときに、キッチンの角にぶつけて破裂させた。今日はコンビニで買い物をしていたら、会計のときに店員の方がレジの角に半ダースパックをぶつけ、結構かわいそうなことになった。ついでに気づいたことだが、私はビールがたいそう好きなので、盛大にはねたビールが服にかかってもそこまで嫌な気持ちにはならない。もちろん、服による。

2021/04/11

4月だからか、無性にセッションがしたくなった。お金払って借りたスタジオでのセッションもいいが、私がいま思い出しているのは塾生会館の地下でやっていた新歓セッションだ。おどおどした新入生がいたかと思えばハナからイキってる感じの新入生もいて、なんとなく先輩ヅラしたくて同期と身内感のあるやり取りをしては、いつもより大げさに笑う。あの新入生は上手いねぇとか、どこの楽器使ってるのみたいな会話をして。ひとしきりSoul PowerとかSeptemberとかやって、飽きたら部室に戻って64のスマブラをやる(楽器のうまさとスマブラの強さにはそれなりに相関関係があった)。

2021/04/10

実家で愛犬と遊んだ。一休みしてふと庭を見ると、でかめのねずみが白昼堂々なにかを齧っている。最近よく出没するらしい。ねずみはたいへんリラックスしており、まさしくfeel at homeなご様子。昼間ですらこんなにふんぞり返っているのなら、夜中は友達を集めてカクテルパーティーといったところか。母はそんなに意に介していない様子だったが、父は嫌そうだった。父はこういうのをとても嫌がる。

2021/04/09

久々に自転車で大学まで行ったら、道中二回も転びかけた。一度目は、散歩中のテリア。もふもふでかわいいな、と思いながら接近したら、振り向きざまに殺意丸出しで吠えられた。びっくりした。二度目は、蚊柱。私が知る限り、大橋の業務スーパー前は年がら年中ユスリカどもがたむろしているのだが、一体どういう了見で野放しにされているのかはなはだ疑問だ。うんざりした。

駒場ではボードウェル&トンプソンの『フィルム・アート』を買った。まさか『論理学をつくる』よりもでかいとは思わなかった。今年度もやることはたくさんあるだろうが、合間合間に映画理論の勉強もできたらと思っている。

帰って『或る夜の出来事』を見た。まぁ、それなりだった。

2021/04/08

今日は映画を見なかった。見ようと思えば見れた、見たい作品のなかには、『海よりまだ深く』『戦場のメリークリスマス』『わたしはダニエルブレイク』『ゲームの規則』『或る夜の出来事』などが含まれる。明日はどれかを見る。

2021/04/07

『ビューティフル・マインド』で知ったが、ジョン・ナッシュは二十歳そこらでナッシュ均衡を思いついたらしい。恐れ入った。

2021/04/06

深夜にコーラ買いに出かけたら、たぬきがいた。アライグマかもしれない。

2021/04/05

寿司を食べた。そういうことだ。

2021/04/04

BASE BREADのカレーパンを食べた。なんか小さいくてゴロッと重いやつだった。ちいゴロ。

2021/04/03

近所の喫茶店でダーティチャイなるものを飲んだ。チャイラテにエスプレッソを混ぜた代物らしい。美味いものと美味いものを混ぜて美味いものになる、という申し分のないドリンクだった。安かったし、また行こう。

2021/04/02

フランク・シブリーの「Aesthetic and Non-aesthetic」について勉強していた。シブリーは趣味や感性の行使を条件とする美的知覚込みの美的判断にこだわる。一方で、美的知覚なしに「優美である」とか「けばけばしい」といった用語を適用できるだけでは、プロパーな美的判断ではない、とする。

この狭い意味での「美的判断」はヒューマニスティックなものだ。シブリーは論理的な推論によって導かれる性質帰属を美的判断から(それこそ、繰り返し)排除しようとしており、人間的なセンスを介した直接知覚を重んじる。この点で、シブリーもまた伝統的な美学=感性学の系譜に連なっているわけだが、これは美学という学問全体のミニマムベットなのかもしれない。

2021/04/01

海南鶏飯を作った。ベチャベチャになって萎えた。

2021/03/31

ファミリーマートのクリスピーチキンを探すもハントならず。ファミチキで我慢するが、ファミチキはふつうに美味いのでそれなりの満足感を得る。

2021/03/30

映画を倍速で見ることのなにがわるいのか」についたコメントを読みながら、おもいやりインターネットについて考えるなどした。

昼食に食べたとんかつがだいぶと美味かった。とんかつはやっぱり塩である。

2021/03/29

グリーンカレーを食べた。辛かったが、美味しかった。

2021/03/28

私の修士論文は、写真に関する本質主義的のいちバリエーションとして、「二面性説」という立場を擁護するものだった。それは、「写真は本質的に客観的である」というリアリズムと「写真は本質的に意図の産物である」という反リアリズムをともに退け、「ある面では客観的であり、ある面では意図の産物である。そのような二面性を本質的に持つ」という立場であった。従来、写真に関するリアリストとしてくくられてきたケンダル・ウォルトンからこのような二面性説を取り出す、というのが第三章の作業である。二面性説において写真を理解することは穏当だと今でも考えているが、とある箇所に関して完全に間違っていた。それは、二面性と写真の芸術性を結びつけようとする箇所である。

私はシンディ・シャーマンウィリアム・エグルストンという一見正反対なスタイルを持つ写真家を取り上げ、かの女らがともに「二面性をリソースとした操作」によって写真ならではの芸術性を達成していると肯定的に評価した。しかし今では、「性質Fが写真の本質であるならば、Fを活用した写真こそが良い写真である」という前提が危ういだろうと考えている。バザンやグリーンバーグが同様の手順で長回しや平面性を擁護していたことから、こういった主張は自然と可能だと思っていたのだが、少なくとももっと慎重になるべきだということをノエル・キャロルが気づかせてくれた。ということで、あそこの主張は撤回したい。こういった撤回は、思いつく限り今後もたくさんしていこうと考えている。

2021/03/27

冷蔵庫にレバパテがあったので昼食に食べようと思っていたのだが、どう食べればいいのか分からなくなった。分かっていたからこそ買ったはずなのだが、冷蔵庫から取り出してみると実家のわんこが普段食べている缶詰にしか見えず、テンションが上がらない。買う前に、その類似性を誰かに指摘してもらうべきだった。

逆転ホームランなアイデアは思い浮かばなかったので、家にあったもので即席のサンドイッチを作った。ベーコン、目玉焼き、炒めたオニオンと一緒にトーストではさみ、ナンプラーをたらす。味は及第点といったところ。レバパテの使い道を考える、というのをToDoリストに加えた。

2021/03/26

シン・エヴァンゲリオンを見てきた。こんな時勢に渋谷TOHOにすし詰めとはさぞ嫌な気持ちになるだろうなと思いつつ出かけたが、幸運にも左右空き席で、途中トイレに行きたくなることもなく、劇場を出たらぽかぽかと暖かい春の陽気だった。こう身体的に気持ちのいい鑑賞経験は肯定的な作品評価にも間違いなく入り込んでいるだろう。

2021/03/25

先日見つけたお店でソーセージを買って帰り、『よつばと!』のとーちゃんのソーセージ丼を作って食べたが、その過程でなにを考えていたのかまったく思い出せない。ダミーシステムみたいに、身体がオートモードでやるべきことをやってくれるときがたまにある。明日はシン・エヴァンゲリオンを見に行く。

2021/03/24

『死霊の盆踊り』からの『ライムライト』を見た。当たり前だが、差がえぐかった。

2021/03/23

中目黒のプリン屋さんに立ち寄ったついでに洋服店に入ったら、面白いアニマル靴下が売られていた。コビトカバ、クアッカワラビー、マヌルネコ、ハシビロコウ、ミナミコアリクイ(欲しい)といった個性豊かな面々のなかでもとりわけ異色を放っていたのはヘビクイワシの靴下。知らない生き物だったが、家に帰って調べたところ、長いまつげと両脚を持ち、ヘビなどを蹴り倒して食べる鳥らしい。サンジじゃん。

2021/03/22

ふと思い立ってミクロ経済学の勉強を始めた。価格理論の冒頭から知らないことずくめで、私も私だが、私に学士(経済学)を与えた大学も大学だな、と思った。

それはそうと、経済学といえば、理論化やモデル化は哲学の比じゃないぐらい定石の分野だが、同程度に反理論家からの攻撃を受けているようで苦労が伺える。逆に言えば、理論の意義についての説明/弁明がかなりちゃんとしていて、今回はそれを学ぶ目的で勉強しなおしている。現実を抽象化し、そこから重要な構造的性質を取り出すという作業の意義は言わずとも明白だと思うのだが、そうでないと考える人はなにを考えているんだろう、とよく考える。

2021/03/21

夜食買いにコンビニ言ったら、ベロンベロンに酔った兄ちゃんと、ブチブチにキレてる店員と、手がビショビショの店員がいた。ブチギレ店員の矛先は、ベロン兄ぃではなくビショ濡れ店員だった。レジはビショ濡れ店員が対応してくれたので、私の夜食は一通り濡れた。

雨上がりと同時にいつもより不都合な世界に迷い込んでしまったのか。ちょっといやな気持ちになりながら帰った。

2021/03/20

その日に聞いたアルバムを日記に記録しておくのも悪くないな、と思い、記しておく。朝、洗い物をしながらGeorge Benson『Give Me The Night』(1980)、出かけるときにJames Brown『Hell』(1974)と『Hot Pants』(1971)、帰りにTuxedo『Tuxedo Ⅲ』(2019)とTWICE『Feel Special』(2019)。

JBの「Hell」を聞いていたら、ちょっとしたことに気づいた。イントロ終わりにJBがシャウトして「It's Hell」でテーマに入る直前、ジジッと着火したような音が聞こえる。レコードノイズかと思ったが、タイミング的にも主題的にもたいへん好ましい効果音になっているのが面白い。

Hellといえば、相席食堂で流れて千鳥の二人がツボっていたBGMでもあるのだが、JBが娘と一緒に出てるSoul Trainはもっとツボるかもしれない。髭を伸ばしていた頃のJBはいろいろとダメだったが、髭をそった後はなおさらダメだったので、私はそれなりに髭JB期が好きだ。

2021/03/19

ブランダムの推論主義に関する論文を読んで、かなり勉強になった。意味論における推論主義や、コミットメントベースの語用論など、ブランダムの基本的なアイデアがおさらいできるだけでなく、推論主義をとる上での理由/動機が探られており、学びが多い。曰く、推論主義をとるべき積極的な理由は与えられておらず、そこにあるのはむしろ理論的な興味・野心らしい。一昨日書いたように、私が反意図主義について持っているのもまさにこのような関心だ。

つまるところ、ブランダムの立場選択は合理的人間観に対する実存的な“賭け”として読めるんじゃないか。私はこの手の精神分析をほんとうに不健康だと思っているので、言うのも言われるのも回避していきたいと考えている。言うまでもなく、ゲームは楽しいが、喧嘩はみっともない。

2021/03/18

塾で現代文を教えていて、次のような文章を読んだ。曰く、近代におけるブルジョワ的レトロ趣味、モダンデザイン、ナショナリズムは、いずれもある種のアイデンティティ不安に起因する。それらは宗教的・家族的な結びつきに対する補完の試みなのだが、いずれも十全には達成されておらず、自己の不確かさはつねにつきまとうのだ、と。

アリ・アスターしかり、奇妙な道筋を経て自己を実現し、新たな“家族”を得る類のホラーをよく見かける気がする(アリ・アスターしかり、『サスペリア』しかり)。今日見たアニャ・テイラー=ジョイ主演の『ウィッチ』も、共同体的・家庭的に疎外された少女が“本当の自分”を見つける物語だった。もっとも私としては、単線的な自己実現とは異なる別様の解決を見てみたい気持ちがなくもない。

2021/03/17

ノエル・キャロルの『批評について』を読み返している。キャロルはかなり現実意図主義寄りの論者なのだが、おそらくはかなり反意図主義寄りであっただろう私(2018)の辛辣な書き込みが散見される。この前、「反意図主義に寄っていく人はなにゆえに寄っていくのか」というメタ問いについて考えていたのだが、思うに以下のコンビネーションだろう:(1)偉そうな「作者」がうざい、(2)バルトやらフーコーを鵜呑みにしている、(3)読者優位の批評を正当化したい、(4)反意図主義であることを一種のリベラルな表明だと考えている。

血の通った他人がリソースを割いて生み出した人工物である、という不可避の条件を踏まえると、芸術作品に対して反意図主義的な立場をとることはさしあたり失礼なことだ。思いっきり矮小化するならば、この失礼さをどうにか許容する理屈を探すのが反意図主義というプロジェクトになるわけだが、最終的に失礼さを補うだけの利点が見つかるとしても、失礼であることに変わりはない。私(2021)はこの見方に同意している。私はそれでも反意図主義に立つつもりなのだが、その動機は純粋にゲーム的なものにシフトしつつある。この話はまた今度書くことにしよう。

2021/03/16

ハムやソーセージをリーズナブルに手に入れられる直売店を発見。QOLが上がった。

2021/03/15

久々にポケットモンスターエメラルドをやった。うちのBFパーティは以下。

ニーチェ育成にかかった時間で論文1本ぐらいかけたかもしれないが、それはそれ、これはこれだ。

2021/03/14

スキレットが欲しくて渋谷の東急ハンズに行ったが、なんだかそんなに欲しいわけでもない気がしてきて、買わずに帰ってきた。

いま欲しいキッチン用品は、Turkのクラシックフライパン(かっこいい)、厚手のマグカップ(くびれたやつ)、ホットサンドメーカー(トーストをよく食べるので)、フードプロセッサー(玉ねぎのみじん切りはもういやだ)。

2021/03/13

お昼に定食を作った。献立は、生姜焼き、なめこの味噌汁、ほうれん草のおひたし、白米。作り置きのチーズケーキも食べたので、お腹いっぱいになった。

2021/03/12

注にあれこれいっぱい書いちゃう人のことを「注に病」と呼ぶのを思いついたが、Twitter検索したらすでに思いついている人がいて悔しい思いをした。

説明不足のせいで誤解されるのはむかつくので、私もやたらと注を散りばめてしまう。他人もそういうつもりで書いているのだろうと思うと、注というのがなんとも殺伐で鬱屈とした空間に見えてくる。

こんなこと、わざわざ説明してやる義理もないな、という思いで注を[Delete]するときの手触りは嫌いじゃない。後からこれをやるために、ドラフトにはなるべく多くの注を付けている、みたいなところもある。

2021/03/11

隣駅からさらに少し歩いたところに、いい中華料理屋を見つけた。町中華のカウンターで食べる丼ものやラーメンもいいが、テーブル席で小皿大皿たくさん広げて食べる中華が好きだ。なんとなく、自分はハンバーガーやピザみたいな、それさえ食べればいい実直なメニューが好きだと思いこんできたが、ぜんぜんそんなことないのかもしれない。

2021/03/10

大和田俊之『アメリカ音楽史』を読み終えた。学部時代に大和田先生が断片的にお話されていたことがちらほら出てきて、自分のなかでの整理に役立った。

繰り返し強調されるのは音楽ジャンルと人種の結びつきに関する、一見したところ以上の複雑さである。社会的・技術的背景、産業的な対立、他者への〈偽装〉欲、といった微妙な力関係からジャンルの歴史を捉え直す作業はとてもスリリングで読み応えがある。

首を傾げてしまう箇所もある。とりわけ、ヒップホップのサンプリング文化を考える箇所で、いわゆるポストモダン思想との接続をされていたが、改めてこのようなムーブのうれしさについては考えてしまう。ある作品のある性質が「{任意の思想}的」であるという指摘は、いったいどういう美的判断なのか。ちゃんと評価の理由付けになっているのか。私の卒論はこういう記述ばっかりだったが、今ではこういう記述への文句ばっかりだ。

2021/03/09

一週間ぐらいブラックコーヒーのかわりにカフェオレを飲んできたが、なんとなく身体が重く、しゃきっとしないので、明日からブラックコーヒーに戻すことにする。

2021/03/08

愛用している16cmのフライパン、ずっと蓋がなかったんだけど、土鍋の蓋で代用できることに気づいてちょっと得した。

2021/03/07

今年も学振の季節が近づいてきた。「研究者」「哲学者」「美学者」としての自己認識について考えているが、総じて三文字の「○○者」には可愛げがなく(cf. 犯罪者、偽善者、感染者)、あんまり積極的に使おうとは思えない。また、「○○者」を自称するのはやっぱりどこか奇妙であり、それらはどうしても他人から他人へのラベルでしかないんじゃないか、とすら思っている。

自己紹介が苦手だ。他人にどう思われても構わないが、私は他人にはこう思われたいんですよ、ということを他人に知られるのは気まずい。

2021/03/06

バインミーにありついた。値段を考えると、可もなく不可もないバインミーだった。

2021/03/05

雨のなか夕飯を買いに出かけたら、ご自分はカッパを身にまとい、柴犬のために傘をさして歩いているおばあさんがいた。すごく歩きづらそうだったが、犬を濡らしたくないのだろう。犬は、別にどっちでもよさそうだった。

2021/03/04

二日連続でお腹をすかせている。 なぜこんなことになってしまうのだろうかと自分なりに反省した結果、①家に食べものを常備していない、②買いに出かけるのが億劫、③そもそもなにを食べようか考えるのが億劫、④食事よりもやりたいことがある、⑤食事よりもやらなければならないことがある、という感じで「そんなあなたに完全食!」の“そんなあなた”に成り果てたため、BASE BREADをポチった。これで暮らしぶりがどう変化するのかいまから楽しみだ。

日記を見返してみると、食べ物の話ばかりしている。私の一日はおおむね、なにを食べたか、なにを食べなかったかに尽きるようだ。このような要約は不適切ではないし、まんざらでもない。

2021/03/03

早稲田松竹で『ヴィタリナ』と『イサドラの子どもたち』の二本立てを見た。たいそう気に入ったというほどではないが、どちらも押し付けがましくなく感じの良い作品だった。ペドロ・コスタははじめて見たので、ほかの代表作もチェックしたい。

早稲田周辺はいくたびどぎまぎするが(日吉と三田に通っていたから、というのは自意識過剰だろうが)、今回は西早稲田から松竹へ直行したおかげで、嫌な感じはしなかった。感じが悪いのは高田馬場だ。高田馬場には知らない人たちの青春がこびりついていて、息苦しい。

2021/03/02

仕事帰りに自由が丘で電車を待っていたら、薄暗い車両がやってきた。いつのまにか窓ガラスに知らない技術でも導入されたのだろうか、と思ったら停電だった。すぐ近くで線路沿いの足場が崩れ、電線がやられたらしい。なんだかわからないがとりあえず乗り込むと、節電のためということでドアが閉められ、我々は薄暗い車両の中になかば閉じ込められるかたちになった。高所に比べたら閉所はそうでもないが、あまりいい気持ちはしなかった。

結局、10分ほど経っても出発の目処は立たず、先頭車両と最後尾のドアだけ開かれることになり、数人に続いて私も下車した。仕方がないので徒歩で帰宅する。暗くて寒くて風も強かったので、総じて嫌な気持ちになったが、少なくとも日記の話題にはなったのでよかった。

2021/03/01

風呂上がりにPatrice Rushen「Number One」を流してノリノリになるなどした。結局、パリッとシンコペーションしたディスコが一番なのだ。The Whispers 「Imagination」しかり、EWF「Jupiter」しかり。

2021/02/28

昨日からまぶたがピクピク痙攣している。今日の夕方ぐらいまでは左目だけだったが、いつのまにか両目になった。非対称でピクピクされるよりはマシなので、それはいいのだが。

目を休めようと思い、小一時間ほどギターを弾いていたが、よくよく考えても私の生活上、目を使わない活動はギターの練習ぐらいしかない。生まれ変わるなら一度ぐらい深海魚の暮らしをしてみたいが、ほかにも生まれ変わってみたいものがいくつもあるなかで、深海魚の優先順位はそんなに高くない。

2021/02/27

今日はバインミーを食べそこねた。朝から作業をしていて、気づいたらラストオーダーの時間を過ぎていた。

かわりに、マクドナルドに行ってテリヤキバーガーのセットを買う。マックはもう久しく行っていなかった。少なく見積もっても二年ぶりだろうか。ポテトをコーラで流し込むと、なんだか急に中学生のころを思い出した。中学の近くにあったマックは、デュエリストとモンスターハンターのたまり場と化して、まもなくつぶれた。

想像以上でも以下でもないテリヤキをかじりながら、食べそこねたバインミーについて、考える。

2021/02/26

アリ・アスター監督『ヘレディタリー/継承』を見た。『ミッドサマー』がだいぶとしょうもない作品だったので、そんなに期待せず見始めたが、しっかり怖かった。オカルトのホラーでもあり、家族崩壊のホラーでもあり、正統派でもありオルタナティヴでもある。いい映画を見た日は、いい日だ。

二年前ぐらいから熱心にホラー映画を見ている。怖いのは嫌で、嫌なことはなるべく避けて生きるつもりなのだが、ホラーは例外のひとつだ。「怖いのになぜ見ようとするのか」問題は分析美学でも定番トピックのひとつで、前に発表の関連で勉強もしていたのだが、いまだ自分のなかでしっくりくる説明は見つけられていない。ある意味では、分からないからこそホラーを見たがるのだろう。しっくりくる説明を見つけたとして、それでも私はホラーを見続けるだろうか。

2021/02/25

論文の手直しをした。「画像と言語のアナロジーはどこまで/どれだけ有効なのか」と題した描写の哲学論文で、昨年12月のはじめにドラフトをブログにあげてから、かれこれ3ヶ月ぐらいいじくり回していることになる。

自分の書いたものを手直しすることは楽しい。目障りな一文を取り除いたときにはすかっとするし、然るべき場所に然るべき句読点を置いたときには、実に正しいことをした気持ちになる。レイモンド・カーヴァーもエッセイでそんなことを書いていた気がする。

2021/02/24

朝食にバタースコッチのパンをみっつ食べた。バタースコッチといえば、私はテレキャスターの定番色バタースコッチブロンドとして知っていたが、パンははじめて食べた。オーブンで焼いたらほどよいさっくり食感で、甘すぎず、コーヒーとの相性も良かった。

そういえば、BSBのストラトキャスターは見たことがないな、と思い画像検索したら一応あった。が、違和感がだいぶ強い。誰がどういうつもりで選ぶんだろうか。

2021/02/23

いつものように自転車でアルバイトに向かったら、道中の信号すべてに引っかかった。それも、接近中に青から赤に変わりフル尺で待たされるというのが計8回ほど続いた。

日記にはなるべくこういう出来事を書こう、と思った。

2021/02/22

夕飯にキムチ鍋を食べた。日中に食べたものと言えばバリューブランドのやくざな炒飯と残り物のみそしる(白菜しか入っていない)、あとは温めたカントリーマアム五つだけだったので、少しは身体をいたわるものを食べようと思ったわけだ。キムチ鍋を毎晩食べる人のブログポストを見てから、このメニューには(栄養面に関して)相当の信頼を寄せている。しかし、一時期、完全食だからと連日食べ続けた(一人暮らしだとよくあることだ)末に、そんなに好きではなくなったメニューのひとつでもある。同じ運命をたどったメニューとして、お好み焼き。しこたま食べているけど、いまだ飽きのこないメニューは、カレーと、生ハムの冷製パスタ。今年の夏もパスタばかり食べるつもりだ。

久々に食べたキムチ鍋はなかなか美味しかったが、明日も食べなければならないというのが問題だ。

2021/02/21

頭がきりきりと痛くて、ずっとこめかみをこねている。こねることによって悪化しているのか改善しているのか分からないところがなんとも悩ましい。私の生活は、基本的にPC作業(夏場はデスク、冬場はこたつ)に尽きるため、頭痛のひとつやふたつは日常茶飯事だ。こめかみこねこねの是非に比べたら、頭痛自体はたいした問題ではない。

なんとなく作業用BGMとしてHenry Flyntの『You Are My Everlovin / Celestial Power』を流していたが、これはだいぶと頭の痛い音楽なのではないかと思われてきた。圧迫感のあるドローンが低音で鳴り続け、その上を予測不可能なストリングスがキュイキュイとねじ巻く。一周まわって頭痛のきりきりと相殺するのではないか、という考えすら浮かんできた。そんなはずはなさそうだが、そうとも言い切れない。身体について知らないことはたくさんある。

2021/02/20

『ストレンジャー・シングス』のシーズン2を観終わった。終盤、いまどき珍しいぐらい露骨な死亡フラグをぶっ立てて、フルスピードで昇天した人物がいた。

あんまりだと思った。死んでしまったことも、死に方がクリシェだったことも。

クリシェと言えば『ストレンジャー・シングス』自体、80年代レトロによって駆動する諸コンテンツの仲間であり、そびえ立つクリシェだ。なんだか、Get LuckyからDynamiteまで時間が止まってしまったみたいだ。

「クリシェを擁護する」というのが私の支持する美学的立場だが、最近はクリシェに対する愛憎のうち、憎部分にも気がついてきた。それしかないならそれでどうにかやっていくしかない。問題は、ほんとうにそれしかないのか、だ。

2021/02/19

一度冷凍した米が嫌いだ。嫌い過ぎてそのまま食べるのは不都合なため、ラードと卵で炒飯にした(ネギも肉も入っていない炒飯が炒飯と呼べるかはともかく)。ごく控えめに言っても仕上がりは悲惨だった。美味しい納豆を載せてもダメだった。わるあがきしたって、冷凍した米は冷凍した米だ。

私の記憶において、母はいつも冷凍した米を食べていた。かの女はそれを好都合とも不都合とも考えていない様子だった。平気な顔で冷凍した米を食べられることは、私が母を尊敬する理由のひとつだ。